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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

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戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

668 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx.net]
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd.net]
正純の父が正純

670 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj.net]
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

671 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9.net]
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)

672 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL.net]
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

673 名前:人間七七四年 [2017/03/16(木) 21:35:54.42 ID:+0jck8rG.net]
おんな城主田鶴
井伊直虎の最大ライバルなのになぜ出て来ないの?
武田信玄に上杉謙信
武蔵に小次郎
みたいな存在なのに
そもそも田鶴が直虎の曽祖父を毒殺して
直虎がおんな城主になったのに

674 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe.net]
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。

675 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe.net]
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が

676 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M.net]
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』



677 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL.net]
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5.net]
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I.net]
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

680 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG.net]
(今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』

681 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin.net]
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

682 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P.net]
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。

683 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi.net]
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

684 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp.net]
家光が最後に上洛した時の事かな
i.imgur.com/8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw

685 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4.net]
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy.net]
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね



687 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq.net]
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である

688 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw.net]
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA.net]
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj.net]
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi.net]
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX.net]
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG.net]
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI.net]
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

695 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7.net]
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。

696 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM.net]
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。



697 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1.net]
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな

698 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw.net]
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防。
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』

699 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd.net]
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w

700 名前:1/2 mailto:sage [2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11.net]
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。

701 名前:2/2 mailto:sage [2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11.net]
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。

702 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS.net]
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

703 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/27(月) 13:50:11.67 ID:uFMed9Vq.net]
夫死して妻を取り殺す事

 摂州榎並村友淵村の善兵衛の嫁は中村の源兵衛の娘であった。
善兵衛は三十三歳で死にその時に嫁は十六歳であった。
夫が死んだ後、女は親の源兵衛の所へ呼び返された。
 さる程に夫の精魂が火と成って、
蹴鞠の如く地面から一尺程高く上がって毎夜来て村際で消えた。
源兵衛の家は家中騒がしくなり、娘が目に見えて恐ろしいものが来たと髪を抜くこと折々である。
娘は父母に向かって、恐ろしいものが来たと言って恐れ伏した。
遂には髪の毛は皆抜き尽くしてしまい、三十日中に取り殺してしまった。
寛永十年の事である。

(片仮名本・因果物語)

704 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl.net]
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』

705 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B.net]
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』

706 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 19:05:48.04 ID:hBCsFRe+.net]
慶長18年(1613〉、伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

『広大な世界における御親、五番目のパパ・パウロ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形・伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国において、サン・フランシスコの門派もバテレン、フライ、ルイス、ソテロらが
デウスの御法を広めに来られた時、私の所にも御見舞に来られた。その口より、キリシタンの様子、
また何れからもデウスの御法の事を承った。
それについて思案するほど、殊勝なる内容であり、まことの御定の道であると存じ奉り候。

それに従って、キリシタンに成りたいと存じながら、今のうちはは難しく、差し控えたい仔細があり、
未だその儀に至らず。さりながら私の分国中、おしなべて下々まで、キリシタンに罷り成り申すよう
勧めたいために、サン・フランシスコの御門派のうち、オブセレバンシャ(サン・フランシスコ派の一派)の
バテレン衆が渡来下さる事が、何にも増して殊勝大切に存じ候。

渡来される事成れば、そのバテレン衆に万事に付き宗教上の特権を許すだろう。そのバテレン衆に、私の方より
寺を建て、萬に付き御馳走申す。
我が国の内において、貴きデウスの御法を広めるために、然るべきと思う程の事は、みな定めたいと
考えている。そのため、別して大いなる司(大司教)をお一人定め、下してほしい。そうすれば皆々
必ずキリシタンに成ると存じ奉り候。

我々はどのようなことでも承るので、御合力については少しも気遣いはいらない。
これについて私が心中考えているほどのことは、このフライ、ルイス、ソテロが存じている。
貴老様御前にて申すことが叶うよう頼み入り、我々の使者と相定め派遣した。
その口上を聞いて頂きたい。

このフライ、ソテロに差し添えて、我等の家の侍一人、支倉六右衛門尉と申すものを、同じく使者として
派遣した。私の名代として、御従いの印、御足を吸い奉るために、ローマまで進上致す。

私の国とノヒスパーニャ(メキシコ)の間は近国であるので、今後イスパニヤの大皇帝ドン・フェリペ様とも
申し談じたい。その実現の調整のため下す。バテレン衆にはこの渡海が成功するためにも、頼み奉り候。
私は、貴きデウス天道の御前において、御内証に叶うよう頼み奉り候。
なお、この国において、いかようにも御用を申し付けていただきたい。随分に御奉公申し上げる。
また、これしきの事なれども、日本の物品を、恐れながら進上仕る。

なおバテレンのフライ、ルイス、ソテロと六右衛門尉が、口上にて申し上げるため、
その口上次第に成るだろう。早々恐れ入り候

恐誠謹啓曰
                伊達陸奥守(花押)

  慶長18年9月4日           政宗(印)』

(異国叢書)



707 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 20:44:20.54 ID:oD8J3lSn.net]
「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental worldより
同シリーズは「1古代編」「2中世編」「3近世編」「4ナポレオンの時代編」「5東洋編」で構成されていて
戦国時代関連の記述見るといろいろおもしろい、以下内容を抜粋。
(原著の論旨を損なわない範囲で訳者が補訂しているため極端におかしな箇所はない)
・大名の家臣たちが提供すべき兵士の人数や装備は、田畑の生産高で評価される財産額に応じて決められていた。
単位は一人の人間が一年間に消費する米の量「石」である。
・日本では20種類以上の陣形(中国の陣形を取り入れたものもある)があり、代表的なものとしては
「鋒矢」「方円」「鶴翼」「雁行」「魚鱗」「衡軛」などがある。
・日本の軍隊には太鼓所役という専任の鼓手がいて、仲間が背負った太鼓を所定のリズムで叩いて戦闘を指示した。
・1561年の川中島の戦いでは武田軍は啄木鳥戦法を用いて挟み撃ちにしようとしたが(ry(出典:甲陽軍鑑)
・「雑兵物語」という兵学書によれば接近戦での刀の扱い方を説いた記述があり「兜を狙うがいい、ただお貸し刀がなまくらなら手足をねらえ」とある
・「箕輪軍記」という日本の軍記物語には100人の鉄砲足軽が一度の戦いで600〜700人もの敵兵を倒したと記されている。
・信玄の騎馬隊は伝説として語り継がれた。16世紀中頃は騎兵が主流を占めたが武田軍の戦いの多くでは残存兵を一周するため下馬を余儀なくされ、
徒歩の従者が同行していたため進軍速度も上がらなかった。また、当時の日本の馬は、体高も体重も現代の馬の半分しかなかった。
・長篠の戦いで武田勝頼は3万3千の兵のうち2万7千以上は騎馬武者とその従者であったが、馬防柵と3000丁の火縄銃の集団斉射により敗れてしまった。
(この戦いでは小火器の役割が誇張されがち、とも書かれている)こうして日本では騎兵時代はほとんど始まりもしないうちに、終わってしまった。
・三成は小早川が裏切ることを懸念してか戦況に影響がないように自軍の右翼に据えた。これは実戦経験の少ない武将の誤算であった。
・三成は地の利を活かし、盆地を見下ろす高台に軍を配し、三方から敵を攻撃できるようにした。
・家康は17歳の小早川秀秋が寝返らないためしびれをきらし、火縄銃兵隊(マッチロック式マスケット銃で武装)に、斉射させた。小早川軍は大谷軍に襲いかかった。
・島津義弘は関ヶ原で行動しなかったが、これは夜襲の提案を一蹴されたからである。
・島津義弘の甥は義弘と兜を交換し、獲物をあさる赤鬼(井伊直政)に立ち向かい、追撃を十分に遅らせるが、討ち取られ、他の多くの首級とともに晒された。
・忍者の軍事行動に関しては伝説化され誇張された物が多いが、たとえば1600年の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の忍者は死体に扮した狙撃者を残し、
本隊が退却した後に起き上がり標的を向かって狙撃した。高名な井伊直政もこの時銃撃を受けて重傷を負ったという。
・李舜臣は優れた指揮能力により朝鮮を救ったが、その後日本軍への攻撃命令を拒んだことから国王の不興を買う。
李舜臣は攻撃命令が、日本側の密偵からの偽情報に基づくものだとわかっていたのだ。
・大坂の陣において、秀頼は真田幸村という強力な味方を得た。彼は城を守る名人であり、彼にちなんだ真田丸に、徳川軍をおびき寄せて一斉射撃で撃退した。
などなど、「東洋編」にしては図説のある20の戦争中8つが日本関係で(川中島、長篠、文永の役、弘安の役、閑山島海戦、関ヶ原、大坂の陣、晋州)

708 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP.net]
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房は
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。

709 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 23:36:12.16 ID:ruAHZZqv.net]
馬の速度は時速15kmらしい
それに対して人のは12kmだそうだ

710 名前:人間七七四年 [2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL.net]
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

711 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/31(金) 17:32:24.73 ID:GXvuqNGc.net]
戦国時代の北伊勢の国人衆、「HKS48」こと、北勢四十八家はご存知でしょうか?
このHKS48、実際には五十三家の国人がいたそうで、そこから選抜された国人だけが四十八家を名乗れたという。

という戯言はさておき、北伊勢のネタ?が少ないようなので、ちょっと発掘してみました。

近江六角勢による北伊勢侵攻「神戸城攻防戦」

弘治三年(1557)、近江の佐々木六角承禎(義賢)は、小倉三河守実隆(蒲生定秀三男)に命じ、伊勢国三重郡にある柿城(現朝日町)を攻略させた。
柿城主・沢木(佐脇)宗喜は神戸(かんべ)氏に救援を求め、当主下総守利盛は自ら一千余騎を率いて出陣した。
ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である、岸岡城主・佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、本拠、神戸城を略奪、利盛の妻子を追い出すや、近江勢、小倉実隆を城に引き入れたのである。
急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣、古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。
当時、神戸氏は宗家たる関氏と険悪な関係であったため、これを頼ることが出来ず、利盛は母方の長野輝伯(藤定)を頼ることとなった。
長野氏は同心し岸岡城に援軍を出すと、神戸・長野連合軍はただちに神戸城へと押し寄せた。
小倉実隆も防戦するが、地の利を知る神戸勢は勇戦、城を包囲するや諸方より攻め立てる。
やがて小倉勢は破れて千種城に引いた。利盛はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。
主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は城を逃れて十宮村に引潜んだが、利盛はこれを許すといって招いた。
佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。
昔、佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。
「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。
そのあと2,3回これをけった。
するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

(勢州軍記)

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家のお話。

712 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/01(土) 10:12:09.50 ID:+GLeDb+v.net]
支倉常長、スペイン国王宛書簡

『昨年私の主君である奥州の王に宛てた、陛下の答書を与えられることを願いましたが、艦隊の出港までに
これに接することが出来なかった故に、随員は同艦隊にて帰国の途につきましたが、私はこれに乗り込むこと
出来ませんでした。

その後、去る5月到着の報知船によって、日本よりの報告および書簡を得ましたが、これに寄れば国王(政宗)は
キリスト教を保護し、その領内の会堂及びキリシタンを支持したるのみならず、諸人に対し恐れること無く
信仰を継続すべきことを諭し、その領内に逃れ来たりし者は皆、これを保護しました。
日本国中においてこれ程の事を成し得た王は、我が君及び、皇帝(徳川家康)が戦を行いたる国君(豊臣秀頼)の
他、一人もありません、

皇帝は偽神の助けにより、戦争に勝利を得ようと欲してキリスト教への迫害を成しましたが、その目的を
達すること能わざりき。よって我が君並びにかの君国はいよいよキリスト教を喜び、これを保護するに至りました。

我が君、並びに日本のキリシタン全体は、本使節が使命を全うして、宣教師、及び司教を伴い帰る日を
待ちて、その善き計画を実行せんとしています。これ故に、私は昨年乗船すること無く、既に決定している
通り、宣教師を派遣することを陛下が命じ、また司教については法王の定めたことを実行されることを
請願するのは、神の摂理による物であると信じます。

また日本の皇帝が、マニラその他の地方に放逐した宣教師等が、服装を変じて密かに、前に居た地に
帰っているという話が伝えられましたが、奥州は日本の極端ですから、特にその地に向けて派遣された者の他は
その地に到着することは出来ないでしょう。

陛下の希望は正統なるキリスト教の隆盛に他ならず、そして彼の国においては先に述べたように希望と意向とを
有するが故に、これを述べることは、我が君なる王ならびに彼の国その他キリシタンのため、私が為した
請願が入れられた事で、最も有効なる動機となるでしょう。
また私に対しては、速やかにこの旅行を終え、彼の地に帰りて陛下より受けた恩寵を語るという栄光を
得せしめられる事を信じます。

もし新イスパニア(メキシコ)と日本との通商が許されないのであれば、イスパニヤとの直接の通商の許可が
あらんことを請う。
またフィリピン諸島の長官には、我が君なる王と特別の親交通信を命ぜられることを請う。

我が君が、陛下のためいかなる事をも辞さない事は、前に陳述しましたが、再びこれを陳じます。
神が陛下を護り、多年の間栄せしめ給わることを祈る。

1617年4月24日
           セビーリャに於いて

 陛下の僕 ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ
       とん、ひりへえ、ふらいせすこ(日本語)
         支倉六右衛門長経(常長) (花押)』

(異国叢書)

秀頼のことを書いていますが、この日付だと2年前にすでに豊臣家は滅びていますね。
支倉はそのことを知らされていたのかどうなのか…。

713 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:12:46.49 ID:FFz+Fxy5.net]
加藤肥後守(清正)は物見に出る時も、自身で出て行った。

また、小屋などを掛ける時も自身で奉行を仕りなさった。
その小屋割までも申し付けなさった。万事この如くであった。

このせいだろうか、家来に優れた功者は左程出来なかったという。

――『武功雑記』

714 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:32:31.32 ID:I/jla4Bs.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10561.html
同じように部下がやるようやことも率先してやるのに
三成はdisられるという

715 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:50:32.00 ID:n5dsJeVM.net]
部下がやるような仕事を大名がやるのは低能の証拠

716 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 14:39:24.29 ID:kVLlzw6p.net]
部下がやるような仕事まで清正がやってしまうためなのか
家臣がそれほど育たなかったといわれてるんだから清正も褒められてないだろ



717 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:15:15.42 ID:xFKpY4zL.net]
毛利家臣の井上元兼と志道広良と親が勤めてる会社に少なからず関係があったことを知った
某財閥系なのだけど創業者の井上馨は井上元兼の子孫で志道家の養子という
これからは広島に足を向けて寝られないな

718 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:43:15.71 ID:AcoNEl8P.net]
>>717
感謝する意味が分からん
そもそも関係ないやろ

719 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa.net]
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ

720 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 00:00:53.97 ID:3cglSWb1.net]
 紹巴の所へ、九州から連歌に執心の人が上洛した。
ある時紹巴へ

「国元への外聞もありますので、三条西殿へ御礼申し上げたいです。」

と言った。紹巴はお易い事だ、とすぐ彼に同道して行かれた。
その道中で紹巴は九州の者に忠告した。

「御公家衆は物事に御念が入り、根問いをなされるものだ。
貴所の宿は三条にあるので、左様の気遣いが肝要ですぞ。」

「まことに御心づけかたじけない。その事はまかせてください。」

さて二人は三条西殿と御対面した。
三条西殿は御杯を下されるたり、

「今後、上洛の折節には待っております。」

等と仰せられたりなどして、九州の者に様々に御懇ろにされた。

 さて、案の如く「ここでの宿は」と御尋ねられた。
かの人は何と心得たのか、

「二条のしも」

と申した。

「二条の下、とは」

と仰せられると、また

「四条のかみ」

と申す。

「四条のかみ、とは」

と仰せられると、その時かの人はうろたえて、

「三条の西のつらの、きたない家におりまする」

と申し上げてしまった。帰る途中で紹巴に叱られて、

「無用な御心づけであったな」

とかえって恨む結果となってしまった。

(昨日は今日の物語)

721 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 01:35:46.26 ID:uQG10uOK.net]
九州の御方とは何方の事で?

722 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 07:42:49.52 ID:McgHQoUK.net]
島津家久だろうな

723 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/04(火) 22:17:41.10 ID:DywoHspw.net]
 駿河で火事の時に、権現様の御秘蔵の御長刀を御茶坊主が持参して火災から逃げたが、
その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。


『武士としては』

724 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/04(火) 23:21:28.77 ID:M6hVStVZ.net]
>>723
>その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。

「無用な御心づけであったな」

725 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/09(日) 12:08:11.60 ID:oswMbq6q.net]
駿府城が火事のとき幼少の徳川頼房を救出して
水戸藩附家老になった中山信吉とはえらい待遇の違いだ

726 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/09(日) 18:48:26.76 ID:0lWxjBf4.net]
>>718
あなたも月曜会の末席に連なるようになればわかるよ



727 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/10(月) 10:23:47.05 ID:kag9365o.net]
羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)

728 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM.net]
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz.net]
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。

730 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/11(火) 23:10:28.81 ID:7d1UNgCd.net]
宗祇が東国へ修行していた道中、ある人が謎かけをしてきた。
「『ちゃんきのもんき』、とは何だ?」
祇公は、
「富士の雪」
と言った。
その心は、『どうやってもとけない』ということである。

その謎かけをしてきた人は、
見る見るうちに消えて跡形もなくなった。

(醒睡笑)

何者だったのだろうか

731 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 22:27:39.28 ID:jGX4w086.net]
>>730
>何者だったのだろうか

    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

732 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 22:50:47.55 ID:7Xqwitvs.net]
大須賀五カ左衛門康高の甥の弥吉が御軍令にそむき、(高天神城の)勝頼の旗本へ討ち行って高名をなしたところ
(家康は)もってのほかお怒りになった。
弥吉は恐れて本多平八カ忠勝の家に逃げて赦免をお願いしたが、お許しなくついに切腹をおおせつけられた。
(家康は)何事も寛容な方であったが、軍令違反者にはこのように御宥恕がなかった。

「柏崎物語」

733 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 23:51:14.81 ID:Wv5bFBU9.net]
これで武田の軍門に降る道が断たれたわけですな

734 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/14(金) 21:38:46.57 ID:6vo126Lp.net]
木村常陸介(重茲)の家臣に、岡田藤十郎という者があった。

16歳の時、秀吉の小田原役における八王子城攻めにおいて、頸取源八という者が頸を引き下げて
出てきて、「一番首なり!」と高らかに宣言した。
ここに岡田が来て
「源八ははや頸を得たのか。さては面白くもないことだが。」
そう言いながら城の方へ行き、そこで朱具足の者と突き合い、難なく突き倒して頸を取ろうとした、
が、考えを変えそのまま先に行き、また他の敵と突き合ってその頸を得て帰った。

「初めの頸を何故棄てたのか?」そう問われると岡田は
「兜の下を見ると法師武者であった。だから棄てたのだ。」と言った。(高齢の武者だったから、
という意味であろう。)
常識はずれの勇士である。

この岡田藤十郎、朝鮮征伐の年、18歳にて高麗に渡り、優れた働き多かった。
しかし木村常陸介の定めた軍法を破って先に出ること度重なったため、常陸介は大いに怒り
「重ねて左様なことあらば、具足を剥いで陣を払え!」と言い付けた。

岡田はこの事を本意無く思い、その翌日、白き羽織をこしらえ、墨にて紋を書き出し、
唐人の陣の方へ一番に進んだ。

この節、長谷川藤五郎(秀一)などが、敵陣への大物見に出ていたのだが、その先の松の木の
ある所に白羽織の者が見えた。敵か味方かと観察したが解らない。しかし日本軍の方に向くこと無く
敵方へ一文字に進む。

この松のある所は、敵陣に近すぎてなかなか近寄ることも出来ない場所であったが、彼は松の木の
脇まで行き、そこで敵の猛攻撃を請けて速やかに討ち死にした。

「あれは何者か?」
長谷川が尋ねると、「木村常陸介内、岡田藤十郎である」と解った。
彼の死を惜しまない者は居なかった。

岡田は書き置きをしていた。しかし前夜はその素振りも見せず、朋輩たちと語り合い、そして翌日討ち死にした。
その書き置きにはこう書かれていた

『常陸介殿は、具足を剥いで陣を払えと言われた。人の国に参り、この陣を払われては、
私は一体どこで戦場を務められるだろうか。これ故に先立って戦死を遂げる。』

そう残した筆のすさみに、人々は惜しみあった。
この藤十郎、16,7の頃より勇士の兆し現れ、只人ではないと世間で言われていた。

(士談)

735 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/15(土) 20:11:15.64 ID:5urH6aPk.net]
ウィリアム・J・ブースマ「ギヨーム・ポステル 異貌のルネサンス人の生涯と思想」より、ギヨーム・ポステルについて

西欧の言語はもちろん、ヘブライ語、アラビア語など様々な言語を習得し、
すべての言語はヘブライ語に由来するといった本を記述し、比較言語学の創設者の一人とされ、
フランス王フランソワ1世に数学や言語学を教授し、
イエズス会に入り、自分が翻訳した聖書で世界中をカトリックに改宗させようとし、
カバラ思想によってプロテスタント的な千年王国思想を広めようとし、
ある女性を「新しいエバ」、彼女によって生まれ変わった自分を「第二のカイン」、とみなし、
なんだかんだで異端審問にかけられ、「狂気」の判決を受ける、
という波乱万丈の人生を送ったギョーム・ポステルであったが、その日本観。

日本は自然理性の一種のユートピアであり、
・日本人は3つの偶像を崇めているが、それは三位一体を認めたためである。
・神の前でとりなしてくれる処女なる母(脇から出産した摩耶夫人?)を崇拝し、彼女の息子釈迦の伝説を守り伝えている。
・日本人は一神教徒でもあり、賞罰を伴う死後の生を信じている。
・共同生活に基づいた一種の修道院制度を実践し、断食、祈祷、説教をする。
・長子相続制と君主による宗教的共同体の統率の有効性を堅く信じている。
そのため、日本人が現に行っていることをイエスの名においてなしさえすれば、彼らは「世界でもっとも完全な人間」となる。
こうして神は東方を善行のうちにとどめ、東方以上に完全な生き方はない。
かたやキリスト教という至高の教義が今に至るまで支配してきた西方には、キリスト教徒としての完全さや純粋さはほとんどど残っていない。

 西欧批判のためにユートピアとして持ち上げられているとはいえ、日本仏教とキリスト教の類似点の指摘や
 長子相続制と君主の権威主義という、エマニュエル・トッドがドイツと日本の共通点として挙げている指摘が見えて面白い
 ツッコミどころ満載なので悪いスレに投稿

736 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/18(火) 23:08:52.37 ID:BkmBFatb.net]
昔近衛殿(近衛信尹)が何の理由のよるものか、
秀吉公の御時に薩摩の坊津へ御流しになられた。
配所の鹿児島へ移られときに

大臣の車にはあらであはれにも 乗するかご(駕籠)しま担うぼう(棒)のつ

(昨日は今日の物語)



737 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 01:51:53.36 ID:70+44rP6.net]
備後守殿信秀は古渡の城を破却して、末森というところに山城を築き移り居なさった。

信長公を名古野に置きなさり、また守山というところに要害を構えて、舎弟・孫三郎
(信光)を差し置きなさった。

天文18年1月17日、上の郡犬山、楽田より人数が出されて、春日井原を駆け通し、
龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々を放火して煙を上げた。

即時に備後守は軍兵を率いて末森より駆け付けなさり、一戦に及び切り崩し、数十人
を討ち取りなさった。犬山楽田の衆は春日井原を逃げ崩れて、ことごとく敗軍した。

その時に落首があった。

「鑓縄を 引き摺りながら 広き野を 遠吠えしてぞ 返る犬山」

――『織田軍記(総見記)』

738 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 19:47:40.19 ID:UFErlbpi.net]
>>735のポステルの詳しい内容が彌永信美「幻想の東洋」オリエンタリズムの系譜、にあった
・東方の三人の王はユダヤ人よりも前に主イエスの誕生をお知りになった。けだし西方のことどもは優れたる東方のまぼろしにすぎない。
(この後>>735の日本人が現に行っていることを〜、という文章が来る)
・ザビエルの弟子のヤジロウの報告書によれば、日本人はすべて唯一の神を知り、それを彼らの言語で「ダイニチ」と呼び、
一身にして三頭を具えた形で描く。ただこの三頭について彼らはいかなる説明もできない。われわれには三位一体由来なのは明らかである。
日本人は頭や腕が多いほど大いなる利益の力を持つと信じ、ついには百の腕を具えた像まで作ったのである。
これは高僧らの無知と過誤に由来することで、彼らは民衆がキリスト教の正しい教理から偶像崇拝に立ち戻ることを許してしまった。
もともと東方の三人の王が日本人を改宗させ、聖トマス(インドで布教したと伝えられる)によって教えが確認されたにも関わらず、
彼らは徐々にイエスについての真実を次に語られるシャカの物語に改変してしまった。
シャカの父親は浄飯大王(Iambondaino)、母親を摩耶夫人(Magabonin)というが、これがヨセフ(Iosef)とマリア(Marie)をもとにしたことは
最初の文字が「I」「M」であることから明らかである。
この王は夢で子供のかたちをしたものから「我、汝の妻より生まれ出ずることを欲す」と言われたとされるが、これは天使による受胎告知である。
王は后に触れぬことに決め、后は処女のまま身ごもった、とされる。このようにイエス誕生の物語が改変されて伝わっている。
后は産後死に、后の妹がシャカを養育したが、二匹の蛇が近づいてきて、彼に大いに水を灌ぎかけた(灌仏会では九匹の竜)。
これは洗礼についての記録であり、日本人はすべて洗礼を受ける。また蛇はサタンの記憶の混同である。
シャカは三ヶ月目には真っすぐ立って「我は天と地における唯一の帝王なり」と述べた。
これは「我は天にても地にても一切の権を与えられたり」との主イエスの言葉そのままである。
彼は19歳の時、人の世の悲惨を感じて山に出向いたが、これは山上の垂訓にみるとおり主イエスのことである。
こうして八千人の弟子を集めたシャカは隣接する人々を改宗させ、偶像を破壊し、崇められていた寺院や聖地を躊躇なく壊したのである。
シャカの弟子達は日本にも到来し、そこでも偶像を破壊した。それゆえ今日でも日本では偶像の破片などが見られることがある。
このシャカはすべてのものを想像した唯一の神の存在を教え、その姿を一身三頭に描かせた。
彼はまた人々に5つの掟を与えた。「他人を殺すなかれ(いわんや自分自身を)」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「思い悩むことなかれ」「罪人を許すべし」
これらの掟を与えられるのは主イエスをおいてほかにないのだから、シャカが主イエスを元にしたのは明らかである。

ヤジロウの仏教観はおそらく戦国日本一般の仏教観とほぼ同じと思われるが、
イエズス会が当初、仏教の用語を利用して日本人を改宗していたのって、親近感を得るために仏教の仮面をあえてかぶったんじゃなくて
本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか

739 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 23:43:28.11 ID:MLRX6GjQ.net]
>本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか

2008年ノーベル物理学賞の
南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3人が
東方の三博士になぞらえられていたのを思い出した

740 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:14:41.31 ID:TiEVwH//.net]
教科書的には日本にキリスト教が伝わったのは1549年という事になってるけど、景教として遣隋使か遣唐使が持ち込んでるんだっけ

741 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:37:40.76 ID:t9KytjzS.net]
イスラムは入ってこなかったんかねえ
宋か明くらいには入ってきてるはずだけど日本には来なかったんだろうか

742 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:50:33.39 ID:uFvNYzkl.net]
>>741
室町時代の商人・楠葉西忍(幼名ムスル)の父である「天竺人ヒジリ」がイスラム教徒だったという説が在る

743 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 01:33:19.92 ID:pNPhOchv.net]
朝松健の一休伝奇ものに西忍が出ていたのを思い出す
後は「聚楽第 太閤の錬金窟」でギヨーム・ポステルが日本に来たことにしている
宇月原 晴明の「黎明に叛くもの」て小説でも大乗院寺社奇事記のムスルの話を引用してた。
(果心(カシム)居士や松永久秀や斎藤道三がアサシン教団員だったという話)

744 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 02:10:55.19 ID:pNPhOchv.net]
訂正
史実の西忍についての話が載ってるのは「大乗院寺社雑事記」で
上の小説で引用していた「大乗院寺社奇事記」はそれをもとにしたフィクションだった。

本当の「大乗院寺社雑事記」の西忍記事は文明18年2月15日の死亡についての記事が一番まとまってるので
国立国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249
の217コマ目を参照してほしい。
(93歳で死んだとか、父親が天竺人だとか、幼名がムスルとか書かれている)

745 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 07:15:42.95 ID:5HHheB3O.net]
パルクールを駆使して稲葉山城に潜入する道三なんて想像してオラわくわくすっぞ

746 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 17:19:32.99 ID:dooTgSY+.net]
こんなの見つけた

京都の西本願寺といえば、親鸞<1172〜1262>が開いた浄土真宗の本山です。
その宝物中には親鸞もよんでいたという<世尊布施論>があります。
これはじつは仏教の経典ではありません。
中国で7世紀に景教徒によって漢語に訳された景教の経典なのです。
それが日本にも持ち込まれていたのです。
この<世尊>は釈迦ではなく、イエスなのです。
内容も、イエスの<山の上の垂訓>(マタイの福音書5〜7章)に始まり、
イエスの生涯、教え、基督教の救いなどについて述べています。

www.asobine.com/article_blog.php?shopid=409&blogmode=new&story=BL0000003355



747 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 19:26:09.88 ID:T+yycnAH.net]
空海は新訳聖書を、最澄は旧訳聖書を持ち帰っているとどっかに書いてあったなあ
眉唾なのだと聖徳太子の傍には景教徒がいたってのもある

ここでも馴染みのある松浦静山は群馬の多胡碑にJNRIと刻まれた石槨と十字架が見つかったと甲子夜話に記しているらしいね

748 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/22(土) 16:59:17.93 ID:hu64FrmF.net]
会津の蘆名盛隆に、三左衛門(大庭三左衛門)という小姓があった。
彼は18歳までに3度、敵と鑓を合わせたことから、三左衛門と号した。

はじめは二本松家に仕えていたが、蘆名盛隆が気に入り、これを所望した。
二本松側は「心を見届けて居ない者であり、如何かとも思いましたが、たっての御所望ですので
遣わします。」と、会津に彼を遣わした。

会津において彼は盛隆に寵愛された。しかし、後になるとその寵愛も衰えた。

蘆名盛隆の悪い癖で、彼は初めに寵愛した小姓も、成長のあとは必ず悪く云い、噂も色々と言い立て、
嘲弄することを好んだ。
三左衛門もこの仕打ちを受け、深く憤った。

ある朝、盛隆が鷹を手に据えて居た所に出てきた三左衛門に対し、彼を侮り嘲った。
三左衛門、一刀にて主人を殺し、逃走を図った。

蘆名家の家老たちはその座に居ながら、呆然として三左衛門を仕留めることはできなかった。
その次の間まで切って出たときも、ここに居た24,5人の番人たちは仕留められず、彼は
そこから駆け出た。しかし蘆名家の者たちも追々集まり、遂に打ち留めたという。

(士談)

749 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M.net]
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』

750 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt.net]
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt.net]
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか

752 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/24(月) 09:01:54.06 ID:l5bkCo34.net]
大阪冬の陣、塙団右衛門直之の夜討ちの時、大阪方にて勇猛の働きあったのは木村喜左衛門であった。
木村は誰よりも先に出て、蜂須賀の陣より出て来る者たちを叩き伏せた。
しかし股を突き抜かれたが、その攻撃をした相手も突き殺した。
これは蜂須賀家の中村右近であったと言われる。
木村はその負傷が元で、城中に帰った後死した。

また冬の陣の今福の戦いで見事な振る舞いがあって負傷したのは大井可右衛門であった。
彼も、誰も続くものがないほど先駆けし、その戦闘の負傷により城に帰って死した。

冬の陣の大阪方では、この両人を以て優れた勇者とされる、

大井可右衛門は牢人にて京にあったのを、冬の陣前に池田家に招かれたのだが、大野修理が
秀頼の命であると行って、入城させたという。

(士談)

753 名前:人間七七四年 [2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A.net]
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)と島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。

754 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4.net]
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ.net]
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか

756 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH.net]
灰寺城



757 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet.net]
i.imgur.com/lkzhYhv.jpg

758 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/29(土) 21:30:59.16 ID:D4Uk5VwP.net]
上杉謙信が小姓より引き立てた侍の内、河田豊前守長親という人物は、元近江国守山の、地侍の子であった。
永禄四年三月、謙信は上洛し将軍足利義輝に謁見したが、この時清水において、この河田が、当時14歳であったが
これを召し連れ越後に帰国し、後には四十万石の知行を与えた。
これは男色の寵が類無かった故である。

ある時、謙信は河田を叱責し、刀を抜いて今にも成敗せんとしたが、河田はその場を退かなかった。
謙信は刀をおさめて言った

「私が河田をこれ程秘蔵に思っているのに、これを成敗すると言い出せば、『私が身代わりに成ります!』と
言って出て来る者があるべきなのに、誠の忠臣と言うものは居ないものだ。」

そこに一人出て「某を誅されよ!」と、頸を差し出して出た。謙信はこれを赦免したという。

(士談)

759 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/01(月) 10:30:34.60 ID:baWek3vu.net]
実際にはどれ位の知行だったんだろ河田?

760 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/03(水) 23:16:46.81 ID:lqY/8zPQ.net]
関が原の合戦で敗れた石田治部少輔三成が、家人をも召し釣れず、落ち行く勢の内に紛れていたのを、
田中兵部(吉政)の家人、田中伝左衛門が発見した

「治部殿こそおはしけれ!今は御運の尽きんとする時と覚えて候、留まり給え!」
そう言って走りかかり押しとどめた。しかし三成は否定した

「いやいや、名もなき下人なり、治部にはあらず。人違いし給うな。」

「見忘れさせ給うにや、田中伝左衛門にて候。関白殿(秀次)の所で、幾度か見参らせて候ものを!」
そういって押し捕えた。

その場所は近江の古橋という所で、先ずはその身柄を近くの寺に伴い、やがて陣所に引いて行、田中吉政へ
注進した。三成はその時一尺二、三寸の、放し目貫の脇差しを佩き、柿色の帷子一つを着て、袋に入れた
米五合ほどを腰に付けていた。

この脇差しの目貫は黄金の駒であったが、その裏には目貫が無く、伝左衛門が
「これはいかにさせたまいしか」
そう尋ねると、
「家臣が一人、付きまとっていたためこれを抜いて取らせ、これを印としてはや大阪城へ赴くようにと言って
落としたのだ。」
と答えた。そして三成は伝左衛門の方に向かい尋ねた

「父である石田木工、その他の人々はいかになりしや、知っているのなら知らせ給え。」

「木工殿は、妻子を刺殺し、その身は潔く御自害遊ばして候へ。その他の御方々も同じ道にこそ。」

これを聞くと三成は、快くうち笑って「ざっと済んだ」と言ったという。

まや伝左衛門が問うた
「大事の合戦に敗れし上は、何とて御自害候はで、かく捕われとなり給えるぞ」

すると
「潔く自殺などするはおと等の事よ。我等は左様なことはすまじきぞ。」
そうあざ笑っていたという。

(話園)

761 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/04(木) 14:57:43.86 ID:4lFFQZWH.net]
>>760
>柿色の帷子一つを着て
柿でも食べて汁がかかったのかな?

762 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/04(木) 16:32:09.19 ID:KY2NjA1G.net]
>>761
柿は痰の毒だから

763 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/.net]
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)

764 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 09:36:42.93 ID:x+e6fndU.net]
>>761
柿渋で染めた地味な色のことだゾ

765 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 15:17:48.18 ID:VE6BqW0b.net]
天下の兵乱は天地の運に拠ると云えども、まさしく政道の正邪に帰する。
天地開闢以来、洛中での闘争で応仁の乱ほどのものはなかった。これはすべて、将軍・足利義政の心より
起こったのだ。

義政は公儀を知らず、知識昏く、勇武の道更に無く、悉く佞奸邪知の輩に偽られて、一事と雖も
道に当たる事無し。これによって天下は皆、将軍を尊重せず、一心に利益を得ることを専らとし、
欲を盛んにし、父子兄弟君臣の礼は乱れ、互いに奪い合って利を逞しくした。
これは上を下が学んだ故である。

要らぬ風流を好み、器物古書に心を尽くして、これら東山殿好みという物は後世まで規範となったが、
どうしてこれが真の道と言えるだろうか。

子息義尚も文を好み歌を詠んだが、これもまた将軍の器ではなかった。江州の陣中において
孝経を聴き、左氏伝の講義をさせていた。これもまた、書を学ぶべき時を知らぬ故である。

(武家事紀)

江戸期における足利義政についての評価である。

766 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 20:49:40.77 ID:R7OKl++z.net]
吉川元春「陣中で太平記を全巻書写してみた」



767 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 20:57:16.77 ID:qo04Eyf+.net]
吉川が書いたのが私本太平記か

768 名前:人間七七四年 [2017/05/10(水) 14:50:03.20 ID:JI8gJ8Gs.net]
>>758
謙信が女犯を退けて男色を愛したのは、全き美談なれど、
後から忠信面をして頸を差し出す家来の話は嫌らしいな。
よって、ここに入れられたのか。
して『士談』の何巻に此の話は入っているのぢやろう?
包まづ教えて下さらぬかのう。






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