- 698 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw.net]
- 春日周防の徒党の磔
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html ↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。 天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防。 (参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html) 慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので (葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。 そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので 徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。 ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ 御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと 下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。 そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと 日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。 米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが 少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら 自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。 海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。 そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや 大身の槍を持って片っ端から突いて通った。 そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。 百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家 だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。 そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。 後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが 元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。 百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり 寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは 天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。 ――『森家伝記』
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