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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

801 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE.net]
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話

802 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c.net]
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m.net]
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN.net]
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

805 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT.net]
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久・長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT.net]
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。

807 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES.net]
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」
>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
→伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが

808 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf.net]
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』

809 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9.net]
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。



810 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q.net]
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr.net]
史料の性格が知りたいところだ

812 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 20:24:36.85 ID:Kx/wuCSQ.net]
秀忠公が禁中を御作事された時に、
国々の人夫共が築地廻りの植木の枝に面桶をびっしりとかけおいてあるのを、
柳原殿は御覧になられ

見わたせは柳さくらにこきかけて 都ははるのこしきなりけり
「見渡せば柳さくらをこきまぜて みやこぞ春の錦なりけり」(古今和歌集)の本歌取り

(※面桶は人夫の弁当箱。後に乞食の持つもののことも指し、御器ともいった)

(昨日は今日の物語)

813 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK.net]
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』

814 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl.net]
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1.net]
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ

816 名前:人間七七四年 [2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W.net]
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i.net]
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな

818 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 21:44:12.63 ID:aKCPlR46.net]
>>815
どちらかというと徳川八万騎+親藩+徳川寄り諸藩連合に勝てるかって話じゃね?

819 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 23:06:55.47 ID:geu/lSHb.net]
>>818
長州藩「旗本八万騎www」



820 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/03(土) 01:49:54.44 ID:10fH6c15.net]
偽官軍だってw

821 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/03(土) 11:25:08.35 ID:4Ghf+TWg.net]
奥州十万騎

822 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 11:47:12.07 ID:vFpFRXFg.net]
海外でサムライ人気にあやかったグッズの六文銭のチョイスがひどかったw

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823 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 11:58:56.67 ID:aWWA1lM5.net]
清朝銭やん

824 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 14:15:33.36 ID:dMP9v6Pk.net]
あれってなんかモデルとかあんのか

825 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 14:35:34.05 ID:a94OQdhh.net]
起源は中国にあるのを主張したいんだろうな
そのうち韓国が一世紀遅れで便乗しそうだ

826 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 14:45:31.08 ID:jewCaLSf.net]
信長の旗の永楽通宝は中国起源!
って言っても問題ない気がするが

827 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 19:00:02.77 ID:+DlYUPcQ.net]

永楽通宝は中国の貨幣だろ?

828 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 19:45:01.14 ID:VLkuu2EI.net]
真田の旗ができた頃の一文銭なんてどうせ中国由来なんだから
中国の貨幣使うのは別にいいだろ、てこと
突っ込むのは
「中国の貨幣じゃないか」てとこではなく、
「なんで明銭じゃないんだ」てとこだろう

829 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 23:16:00.21 ID:eKJ7GpH5.net]
当時の銭は明銭(宋銭も実績豊富なので長いこと使ってたらしいが)だし「明銭の何がいけないの」とは思う



830 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 23:56:40.17 ID:aWWA1lM5.net]
むしろ私鋳銭より品質が安定してる明銭の方が価値が高い

831 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/04(日) 23:59:21.86 ID:yEv7OG8E.net]
>>829
これはマジもんのアスペ

832 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/05(月) 01:20:22.37 ID:wjxtjziB.net]
丹羽五郎左衛門殿(長秀)には常々強い痞えがあった。にわかに胸先に
込み上げる折には、五郎左衛門殿は事の外難儀致された。

ある時、急に差し痞え、何ともしのぎ難いために五郎左衛門殿は脇差で
胸を突いて、すぐに卒去された。

その後、火葬に致したところ、病が火の中より真っ黒になって這い出た。
その病には首・足・耳などがあり、亀子(亀の甲)に似ていた。

家来の者どもは主人の仇であるので、近寄ってそれを打ち殺した。
稀有のことに付き、太閤秀吉公にそれを御覧に入れたところ、

「今後は、医者の考えにもなるであろう」との由にて、竹田法印の先祖に
与えられ、今もこれを所持しているとのことである。

いかにも常に痞える折には、胸の内を噛むように“めりめり”と歯の音が
聞こえたとの旨、己丑6月14日の夜に(松雲公前田綱紀より)拝聴仕る。

――『松雲公御夜話』

833 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/06(火) 06:17:02.79 ID:+AAANm8Z.net]
関ヶ原の時、西軍の船手・村上彦右衛門(通清)、菅右衛門(達長)は、9月12日の晩に桑名浦に乗り付け、
13日の早天に両人関ヶ原に出て毛利陣に入った。この時安国寺恵瓊と対面したが、村上は言った

「御陣所の体、味方の様子、見及んだ所、私としては大変心もとないものと言わざるを得ません。」

これに安国寺
「私もそう思っているが、東軍一人に上方勢十人のつもりであり、4,5日も持ちこたえれば
必ず味方の勝ちと成るだろう。」

村上重ねて
「味方の山取りの体、山高く取り上がり、しかもまばらで密度が薄く、これでは戦の仕様がありません。
あのように高く取り上がって居ては、敵に即座に応戦することは不可能です。東軍は少勢でも、
戦に熟練している故、軍勢も厚く見えます。その上東軍は、一両日のうちには戦いを仕掛けてくる様子と
見及びました。どうか油断ありませんように。」

そう言って帰った。
果たして、西軍は間もなく敗北した。村上は津まで直に出て関ヶ原の様子を聴き。九鬼大隅守(嘉隆)の
所に行って詳細に次第を語り、上方へと撤退した。

(士談)

834 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/06(火) 06:58:09.40 ID:hEgxlXVG.net]
水軍なのに陸の戦争をよく知ってるな

835 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/06(火) 07:00:36.03 ID:gFGqNdAf.net]
水軍も陸戦はするからな

836 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 11:11:11.05 ID:xmUg3Ve1.net]
「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで

頃は人王百七代正親町天皇の御宇。
織田信長は尾張より発起し斎藤を討って美濃を奪い佐々木を追って近江を取り
将軍義昭を保護して上洛、徳川と合縦し北越の朝倉、江北の浅井を滅ぼし
武威中国を呑まんとし高名西国に轟く。
この時九州肥前の領主竜造寺高重の領分長崎に南蛮船一艘着岸せり。
この船に異相の者一人来る。その人身長九尺余、面赤く眼丸く鼻高く肩広し。
歯は馬のごとく雪よりも白し。爪は熊の手足に似たり髪は鼠色で年齢五十ばかり。
名はウルカン破天連といい、南蛮切支丹国の者で天帝の宗門弘法のために渡来せり。
日々に長崎の霊社仏閣に徘徊するに其の異相を見る人群衆をなせり。
或いはその異相を絵に写し書に記して中国に伝え京師に入る。
信長江州安土に在りて是を伝え聞きし召して見んと欲すると言えども
領主龍造寺の押留せしものなれば思慮して謀を廻らし将軍家の従臣フカヤ源内に
義昭公が異国人を召すとのご教書偽造し、源内を西国に下し龍造寺に渡す。
この異国人京着は九月三日なりし。
その前八月二十四日摂州住吉の社鳴動して松樹六十六転倒すると奏聞あり。
朝廷僉議あって松樹の木数六十六本と限ること日本の国数にて凶事とすべしとて
寺社に仰せて祈祷ありける。これ異人渡来して邪法を弘め人民の害を成すべき前兆なるべし。

異国人安土の城に到着しければ妙法寺に入りて三日休息し九月三日城中へ召し信長謁見せられける
ウルカン破天連身にハァイトというものを着す。毛氈の様なる類なり。
裾短く袖長し左前に合わせその体相甚だ卑しく声は鳩の鳴くがごとく言舌わからず
蝙蝠の羽を広げたる如く最も見苦し。各香を懐中して御殿に薫り渡る。
ウルカン、信長に対して礼する法、両臑指先を揃え向こうへ差し出し両手を組みて
胸に当て頭を仰ぐ誠に不思議の礼式なり。
献する所の物七種、七十五里を一目に見る遠眼鏡、芥子を卵の如くに見る近眼鏡
猛虎の皮五十枚、毛氈五丁、鉄炮、伽羅百斤、八畳釣りの蚊帳、一寸八分の香箱に入る
コンタツという数珠、紫金にてこれを造る四十二粒あり
(切支丹国四十二国あり、これに擬す)
信長、ヴルカン何のために日本に来ると尋問せらる。ウルカン答えて曰く
この度渡来すること唯仏法を弘めたき願望のためのほか更になしと。
信長、謁見畢(おわ)りて妙法寺に入れ置き、ウルカンの弘法のこと安土において
評議あり、信長菅谷九衛門に命じて京都四条坊門に四町四方の地を寄付し石垣を築き
一寺を建てて永禄寺と号す。
これにより叡山の衆徒憤り、延暦寺の外、年号を以て寺号とすること不可なりとて
座主要圓僧正へ訴えければ僧正の曰く「其の儀、故ありと言えども今朝廷衰え王位も軽く
仏法の威力もまた薄し。信長権勢に募りて我が意を働くと言えども之に敵して却って
叡山の街ある時は王威を以て制しがたし。穏便の沙汰あるべし」と制せられけれども
衆徒朝廷へ強訴の奏上を認め、朝廷僉議あって強訴沙汰延引せば、また神輿など
捧げきたらんは京都の騒動なるべし、早く信長へ命ぜらるべしとて、
花山院中納言廣政を以て山門奏状の趣信長へ命ぜらる。
信長不快なりと雖も勅命に従い永禄寺を改めて南蛮寺と号す。

延暦寺衆徒の教会建設反対理由が「年号を寺の名前に使うな!」だったという話

837 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 14:36:04.02 ID:tlQMINJk.net]
延暦って暦じゃ…

838 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 17:20:58.58 ID:xmUg3Ve1.net]
だから
「延暦寺」のほかの寺が、年号を寺号にするのは許せん!てこと

839 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 17:37:51.95 ID:FhLlsoTq.net]
ギリギリまで堪忍する信長の姿がこんなところにも



840 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 23:09:04.55 ID:wSC6ug/z.net]
藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条で、よくわからないものをまとめてみた

十、合戦道具で柿色はよくない。紺色が良い。色々あるが書付にするほどのことでもない。

七十六、不用心な道中を通る時は錐を拵え持っておくと良い。色々徳がある。
     錐の拵え方に心持ちがある。

七十八、刀の下緒は長いのをつけよう。仮初にも短くてはいけない。

百五十七、仮初に刀を持って出るときでも、左手で持つよりも、右手で持ったほうが徳が多いと口伝されている。

百五十八、少し歪んだ刀は、手洗いに綺麗な水を入れ、刀の柄に縄をつけ、切っ先を下にして逆さまに釣り、
      水鏡に映せば必ず治るものである。

百八十三、鮫鞘を好んではならない。

百五十九、追撃している者を馬上から斬りつける時、あぶみの踏み方がある。

(藤堂高虎遺訓ニ百ヶ条)

同時代だと理解できたんだろうか

841 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 23:42:29.02 ID:mTM/64Wp.net]
近所の爺さん婆さんから聞いた話です。

むかしむかし、筑後のある山で、男が草を刈っていた。
彼は恐ろしく切れ味のいい鎌を持っており仕事はどんどん捗ったので、木陰で休憩することにした。
そのままウトウトしていると、なにやら妙な気配がする。
目を覚ますと、目前に巨大な大蛇が大きな口を開け、男を丸呑みにしようとしている。
男がなんとか逃げ出そうともがくと、腰に差した鎌がひとりでに抜けて大蛇と戦い始め、大蛇をバラバラに切り刻んだ。
そこに、少し離れた所から一部始終を眺めていた武士が話しかけた(助ける気は無かったらしい)。
「なんともよく切れる鎌じゃな。しかも、不思議な破邪の力がある。わしに譲ってくれまいか。」

続く

842 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/07(水) 23:44:15.33 ID:mTM/64Wp.net]
交渉の結果、武士は男に山のような米俵を対価として約束し、鎌を手に入れた。
これにより、この辺りは「米の山」と呼ばれることになる。
鎌を手に入れた武士は、刀の目利きが得意な商人に見せてみた。
商人「これは・・・間違いなく、三池典太光世作の鎌でございます。」
武士「なるほど!それで、破邪の力があるのも頷ける!」
武士はその鎌を家宝とし、生涯大事にしたそうです。
ちなみに米の山という地名は現在も福岡県大牟田市に現存し、そこにはごく最近まで光世の炉の跡と伝わる場所があり絶対に霜が降りないとか、夜中にトッテンカーンと槌音がするとか・・・。
近所には光世の墓石と伝わるものがあって、それに不用意に触ると熱病にかかるとも言われている。
鎌ですら大蛇を退治するくらいなので、前田家の大典太や権現様のソハヤノツルキウツスナリに、不思議な破邪の力があるのも当然・・・と思わせる、(気味の)悪い話。

843 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 00:16:11.10 ID:RT7mDd+1.net]
>>841-842
首切り茂吉の佩鎌だったに違いない

844 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 02:01:42.02 ID:9FNpujTF.net]
>840

戦場での視認性の問題かな。柿色や茶色系統では目立たないとか。
七十六
刀以外の、気楽に使える何かしらの得物をもって用心しろという事かな。
杖や棒でも良いような気がする中、何故錐をお薦めされているのは分りませんが。
七十八
何かを結んだり縛ったりする紐としても使えるようにという事かと。
「こんなこともあろうかと」の精神ですね。
百五十七
とっさの際には左手にある刀を抜くより右手の刀を鞘ごと振り回したほうが色々早い、という事かも。
高虎公の膂力があっての事かもしれませんが。
百五十八
刀を吊るす事で自重によって歪みが矯正される、とか?
良くはわからないですが、ともかく道具の手入れは欠かすなよという注意かと。
百八十三
鞘を飾る余裕があるなら別の事に使え、という贅沢嗜好への戒めかと。
百五十九
鐙できちんと体を支えてないと勢い余って落馬する事もありそう。

845 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 02:59:47.96 ID:6Vf15pDY.net]
>>840
高虎の遺訓は1664年に大神朝臣惟直って
大友家から藤堂家臣になった佐伯(大神)惟定の血筋の人物が
書き残してるんだよな

846 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 06:13:57.05 ID:q5O1cTh1.net]
遺訓の数にワラタ

847 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 07:45:06.60 ID:BB46T000.net]
いい話スレが落ちていたので、新スレ立てました。NGワード規制などが出たので勝手ながらテンプレも整理しました…。

戦国ちょっといい話45
matsuri.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1496875371/

848 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 09:18:53.21 ID:nYIjRBij.net]
>>840
10当時、柿渋染めは怪我をした時に血が止まりにくいという説があった。
一方紺染めには虫よけの効果がある。

158刀は多少曲がっても、復元力が残っていると真っすぐに戻る場合があるので
ダメ元でも釣るしておくのは理に適ってる。水鏡に映すのは迷信の一種。

183鮫鞘は高いし、湿気の多い時期になるときつく締まるので、とっさに抜きにくいという欠点がある。

849 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 09:29:38.28 ID:qsXeTEam.net]
著名な刀鍛冶が打った農具ってあったのかな?
正宗作のクワとか、郷義弘作のカマとか、吉光作のノミやカンナとか。
ま、仮にあったとしても、銘は入れないだろうから残るわけないか。



850 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 12:23:37.17 ID:R5hVJ1jy.net]
>>843
それ2ちゃん発信じゃねえかw

851 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 13:11:42.08 ID:dyN/USPU.net]
正宗の包丁なかったかな?
刀鍛冶が嫌になったころに作ったやつ
昔話か何かにあったような

852 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/08(木) 14:16:02.57 ID:qsXeTEam.net]
>>851
包丁正宗じゃなくて、ほんとに正宗作の包丁ってことかい?

853 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/09(金) 10:42:45.49 ID:McYISloz.net]
日本昔話に村正のナタって話があったな

854 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/09(金) 12:15:26.84 ID:eAHh5iIP.net]
政宗なら正宗の刀でも包丁にしそう

855 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/09(金) 13:24:50.81 ID:sVQGeu1h.net]
>>854
包丁で指切ったら包丁を手打ちにしそう

856 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/09(金) 19:55:42.49 ID:WLD6xBxc.net]
たまたま近くにいただけの小姓を包丁もって追い回すんじゃないかな

857 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/09(金) 22:44:26.17 ID:Oz51GCCN.net]
市松なら、その小姓の嫁さんに怒鳴られて包丁を下賜するハメになるところが目に浮かぶ。

858 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A.net]
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』

859 名前:「南蛮寺興廃記」3 mailto:sage [2017/06/12(月) 20:13:59.55 ID:NCJxUsnF.net]
「南蛮寺興廃記」より、キリスト教布教の様子

是を伝聞して五畿内は勿論、四国・中国・京近国来集すること夥し。
南蛮寺は日々群衆を成すと雖も宗に帰伏せざる者には本尊を拝することなし
南蛮寺には此の群衆の人にはいささかも構わず洛中洛外へ人を出し或いは
山野の辻堂橋の下などに至るまで非人・乞食等の大病難病等の者を尋ね捜し
召し連れ来たらしめ風呂に入れて五体を清め、衣服を与えて之を暖め、
療養しける程に昨日の乞食、今日は唐織の衣服を身に纏い病も自らこころよく
快復せるたぐい多し。なかんずく癩・瘡等の難病、南蛮流の外療を受け
数月をへずして全快し誠の仏菩薩今世に出現し救世済度したまうなりと
近国貧賤にて我が力に叶わざる者、或いは諸医の療養に治すこと能わざる者
貴賤ともに南蛮寺に群衆すること斜めならざりけり。
両イルマン悉く是を南蛮寺に留めて良薬を施し医療半ばに快復する病人共を率い
是等に説いて曰く、「そもそも我が本国は四十二箇国といえども此の国の類に非ず。大国なり。
然れども天に帝釈を敬うが故に貧賤の者なく難病に侵さるる者なし。
我が国王仁慈にて国民を憐れみ恵む。其れ世界の諸国此の天帝を崇敬して貧苦病難の
患を逃れ現安後楽の宗法を知らず。今生の苦患のみならず未来永劫の罪に陥ることを
憐れみて今我等の如き者を世界に渡して此の天帝の法を弘通せしたまう所なり。
此の日本等の如きは天帝を敬うことを知らざるが故に貧賤なる者多し。
是より起きて邪欲深く盗賊悪党をなし、或いは難病等の患いに沈みて未来善所の願も
叶わざれば、貧なる時は邪起こる。邪起こる故に難病又身を責む。
されば今生の病は我等の療養を以て治するも未来の難病は治する能わず。
身の不浄は洗えども心の不浄は大海の潮にもさらし尽きず。
然るに今世に邪なる事をなさずと雖も悪病貧苦に責めらるる者は前生の悪業のしからしむる所なり。
しかれば其の前生を果たさずるは永劫の罪遁るること能わず、各々心を清浄にしめ
未来の悪縁遁るるや遁れざるや此の鏡を拝せらるべし」とて三世鏡と号する宝鏡を恭しく
掛けて拝せしむ。此の者共心に信心を起こし未来の仏を見ること誠に有り難きことなり。



860 名前:「南蛮寺興廃記」3 mailto:sage [2017/06/12(月) 20:16:10.07 ID:NCJxUsnF.net]
是を拝みけるに或いは牛馬鳥獣の形、或いは醜偏形の類、鏡に映りて顕れければ
此の者も驚き怖れ泣き悲しみ天帝の大慈悲を垂れて未来の罪を助けさせたまえと両イルマンに
嘆きければ両イルマン曰く「各々嘆き悲しむ所、最もなり。天帝を崇敬する所の真言を授け
与うべし。心を清浄にしめ他念なく此の数珠を以て真言を一遍唱えて一粒ごとに繰るべし」と云い
四十二粒ある数珠を与う。陀羅尼文

配後生天破羅韋 増有前生摩呂

七日の間、昼夜悪念を生ぜず此の真言を唱えて両破天連へ拝謁し天帝の宗経を戴き
天帝の御影を拝せば今日の鏡にうつる所の未来の罪業消滅しめ天帝の大慈悲を蒙るべし、と
教化しければ皆同音に真言を唱えて七日信心を凝し昼夜に真言を唱う。
両破天連両イルマン愚蒙を誑かして邪法に陥るること是等の方便なり。
(此の後寛永十五年天草原城攻めの時既に城中同音に唱えたる真言あり)
サンタマリヤ、サンタマリヤ、斯くて七日勤行をいたせば、両イルマン此の者共を
率いて仏殿に至るに美麗荘厳金銀をちりばめ金襴錦の幡翻り。各香薫し渡り光り輝き
真に極楽の七宝荘厳もかくやあらんと思うところに、両破天連、金襴の衣を纏い
仏殿に出、又真言を授けて天帝の宗法を説き畢りて両破天連を拝せしむ。
両イルマン又其の者共を率いて三世の宝鏡を拝せしむるに前度の像に引き換えて
天子の容貌四十二相を具え我が身知らず天土に至る心地にて愚蒙の者共声を放ちて
悦び泣き、両破天連曰く「汝ら七日真言を唱えると雖も心既に改めて天帝を尊敬するが
故に今世にて天上に通達しめ天帝の恵みを得たり。面々決して天帝の尊恩を忘れ奉らず。
たとい今世は火・水・磔・牛裂き・車裂きの苦しみを受けるも其れを以て未来永劫の苦に
替え、今拝し奉る所の天上に至らんと思うべし。
しからば天帝本尊を拝せしめん。
クルスという物を取り出す。此のクルスという者は黄金を以て先二寸四分程にして針を植えたる如く
にして(今の山葵卸という物の如く)二尺計りの柄を付けたる物。
彼の者共の肌を脱がせ彼のクルスを以て脊を抓むしる。骨痛み血流れ出る所の血を以て
左右の手に塗りて両手を合わせて帝釈天の画像を拝せしむ。
(此の南蛮の礼を行うがゆえに日本にて仏を拝する礼と異なりと云えり。生涯の悪を悦ぶ
と云わば未来永劫の苦にかわると云う心なるべし)。
金襴の戸帳を巻き揚げれば容顔美麗なる女体の尊容、懐中に小児を抱き乳を含めたる本尊なり。
玉の冠を戴き、身に七宝の衣を穿きたり。両破天連示して曰く「此の帝釈天は智慧を世界に
降し汝らの悲苦を以て母の子を懐に抱入れ、乳を飲する如く憐れみ恵み給う。
必ず今世を顧みることなかれ、未来永劫をたのみ奉るべしといいければ
多くの者共血まみれの手を合わせて拝して退去す。
また追々集まる所の病人快復を得、難治の者共死する(死せざる?)も数多なり。
大難病にて諸医の力に及ばざる者快復を得たるも三十人に及べる。斯くの如くの方便を
以て追々此の門徒に起伏する者夥し。

新興宗教セミナーのような書かれ方(セミナリオだと学校だ)
※国会図書館デジタルコレクションからの転載なのでコピペではありません。

861 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/12(月) 23:53:28.88 ID:HBYm4LkC.net]
寺沢志摩守(広高)曰く
「武士たらん者は一戦の時に、人より勝れた稼ぎをするのは珍しくない事だ。
平常に畳の上の忠功をしようと思ったら各々の『好き』を止めよ。
物に『好き』が過ぎると必ず奉公も疎くなる。
私は秀頼公の御時まで、茶の湯を好いていたが、考えてこれを止めてしまった。
このように言うと武士は武道の方を止めよと聞こえるかもしれないが、そうではない。
常に武を好いていなかったら、戦国ではあまり役に立てない。
ただ自分の業より他の道を求めてすごしてはならないという事だ。」
とのことである。
乱舞・囲碁・双六・俳諧・茶の湯の類を知り過ぎて、
上手になって何の益があろうか。

『武士としては』


賛否両論ありそうな、御説ですがとりあえずこっちに投下

862 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 00:52:33.15 ID:96j7pvDR.net]
おまえが言うな、とまず思うわな

863 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 02:35:53.01 ID:hBpLduh/.net]
好きと数奇

864 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 14:48:57.43 ID:Ii2xjhyZ.net]
キリシタン話の後に寺沢ネタ
因縁深いような

865 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 22:36:25.38 ID:VBnBI38R.net]
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 22:55:11.09 ID:1fDn7Mkq.net]
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/13(火) 23:38:39.48 ID:fVSM+6Nu.net]
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 00:15:38.16 ID:7NaUQXst.net]
>>865
秀吉乙

869 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 04:41:13.13 ID:X0DuNaUp.net]
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ



870 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 10:32:33.42 ID:jpDlM1/L.net]
ちょっと何言ってるか分からない

871 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 10:48:29.56 ID:wXic2RaU.net]
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v.net]
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

873 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 20:14:58.28 ID:Tf2AVY7x.net]
カッペだった若き信長は畿内の三好家や堺の豪商たちがはまってる
茶の湯に憧れてたのかな

東山御物を収集して自らが将軍義政公と同レベルにある事を
宣伝したいだけだった気もするが

874 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/14(水) 20:51:40.30 ID:QZEctICq.net]
茶の湯は親父の影響じゃないのかな

875 名前:「南蛮寺興廃記」4 mailto:sage [2017/06/15(木) 18:31:46.74 ID:vOUcUOZp.net]
「南蛮寺興廃記」より、日本人キリシタンのハビアン、コスモ、ジュモンについて

智慧才覚あって破天連の門弟子と成り愚蒙の者を教化する者三人あり。
一人は生国加賀国の者にして禅家の僧、名を慧春と号す。
此の僧、癩瘡を病み身体破れ膿血溢腫、僧家の交わり叶わず。
其の親、貧賤にして保養することも叶わざりければ乞食となり京都に至り
真葛ヶ原の辺に倒れ臥して在りしを南蛮寺より引取り両イルマン施薬して
数月を歴ける所に癩病漸くに平癒して、遂に全体快復することを得たり。
此の僧大きに悦び誠に不思議の因縁を以て天帝広大の恩恵を蒙り難病忽ちに
全快を得て再び人界の生をまぬがる、此の高恩を報ぜんには縦い粉骨砕身すも
宗門の為にせんこと本望たるべしとて、信心に帰伏す。
(この後に、もともと富豪であったが没落し梅毒にかかった呉服屋安右衛門、
口唇裂のあった百姓善五郎の話があって、同様に信心を起こしている)
両破天連(計理故離(ケリコリ)=グレゴリオ・デ・セスペデスと弥理居須(ヤリイス)=ルイス・フロイス?)、
是等三人が智慧さとく、ことさら博識にして教えに通達せるを大きに悦び、
慧春を梅庵(ハビアン)と号し安右衛門を告須蒙(コスモ)と名付け、善五郎を寿問(ジュモン)と
号して天帝の宗意を伝え追々帰伏の人をして此の三人を以て説法教化して説得せしむるに
和語を以て教諭する故、弁理能通して大いに利益ありければ南蛮寺の法器を得たり。
破天連イルマン悦びあえり。両伴天連、感悦の余り密かに内殿にて奇術を教えるに
此の三人、流水に棹をさすが如くに砲術を伝授して、手拭いを以て馬と見せ、
塵を虚空に投げて鳥となし、枯れ木に花を咲かせ、塊を宝珠とし、虚空に坐し、地に隠れ、
俄に黒雲を出し、雨雪を降す等の術、得ずということなし。
(此の後、南蛮寺で治療してもらった人々が報恩のため全国に布教を進めたことが書かれている)

※ハビアンは不干斎ハビアンで、当初はキリスト教の優秀さを仏教・儒教と比較して書いた「妙貞問答」を著述したが
後に修道女と駆け落ちし破門されたため、反キリスト教の「破提宇子(破・デウス)」を著述。
コスモとジュモンの話の話は過去に果心居士めいた話が出ていた。
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4612.html

876 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/15(木) 22:09:35.65 ID:FnLuyGVB.net]
バテレンは奇術師だったのか!

877 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/16(金) 01:10:33.75 ID:OT8kP4lS.net]
当時ですら魔法使いだの人肉を喰らうだの噂が立ってたくらいだから
江戸時代になればまあこんなもんだろう

878 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/16(金) 14:50:47.22 ID:f8eZnz2g.net]
梅毒を持ち込んだ奴等がそれを治療して信心を起こさせる…うーん

879 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/17(土) 01:13:46.04 ID:Utr99RBV.net]
伴天連が梅毒を持ち込んだわけじゃない



880 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/17(土) 10:20:45.13 ID:egWO6U9Y.net]
>>873
足利義政は意識していたと思う。
蘭奢待も義政が切り取った隣を同じ大きさで切り取ってたし

881 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/17(土) 20:23:17.59 ID:5HyAQoSz.net]
中山勘解由が

「後藤又兵衛が”大軍”で籠城しています」

と申し上げると、権現様は

「”大軍”と言うことはふさわしくない。
城中が残らず出てきてもおよそ七万ほどであろう。
そのような考えでは将軍の使番はつとまらん。」

と言われたという。

 味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。
つまるところ、武士は詞が大事である。


『武士としては』

882 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/17(土) 22:30:12.13 ID:egWO6U9Y.net]
北条遺臣の中山兄弟の兄
鬼勘解由の祖父

883 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 02:55:43.38 ID:FU0BLAHt.net]
>>881
家康も家康で面倒くせーな
事務的な報告なんだから素直に聞いとけ

884 名前:人間七七四年 [2017/06/18(日) 10:39:22.75 ID:tmlaj5Mn.net]
 [上杉]景勝なる者がいる。今は、越後[中]納言と称している。代々、越前・[越]中・[越]後の三州の地に居[城]した。
賊魁(秀吉)が信長に代わるに及び、景勝は、戦いに敗れ、服従を請うた。
秀吉は、出羽、佐渡に景勝を移して[その地を]授け、越後の地を奪って掘里久太郎(堀久太郎)に与えた。
景勝の心は平らかではあり得ず、越後の民もやはり景勝が主であることを望んだ。
 家康が秀吉に代わるに及んで、肥前守(前田利長)と家康が不仲になった。
景勝は、勝手に自分の領地に帰り、肥前守と兵を連ね越後の地を攻奪しようとした。
久太郎は大いに懼れ、数(しばしば)家康に報告した。
家康も根本[の関東]を景勝が襲うかと気にし、数手紙を送って京にもどるように勧めたが、景勝は従わなかった。

<倭人は、みなこう言ったという。
「景勝が、本当に肥前守と兵を連ねて、直ちに家康の根本を擣くとしよう。
家康が戻って[根本である関東を]救援しようとすれば、多分、清正等がいっせいに立ち上がるであろうから、
西京(である大坂)は、自分の所有では無くなるであろう。帰って救わなければ根本がまず敗れ、腹背に敵を受けることになろう。
景勝らが動けば成功しないはずはないが、惜しいかな、景勝らは[愚]鈍・懦[劣]である。必ずや、自ら奮発しようとしないであろう」>
(看羊録)

姜(カンハン、きょうこう)の上杉景勝評

885 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 12:46:08.13 ID:chYKDCHe.net]
イギリスの歴史研究家ジョン・セルデン(国際法の父グロティウスの「自由海論」に対して
「閉鎖海論」を著し、両者の論争が海洋法誕生のきっかけを作った)所蔵の17世紀前半?に作成された中国地図
seldenmap.bodleian.ox.ac.uk/
南シナ海を中心に書かれているが日本の地名の漢字表記がいろいろツッコミどころあり
(地図をクリックすると拡大した地図が読める)
以下、ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より適宜抜粋
・兵庫:神戸を表しているのだろう
※本州と九州がつながっている
・亜里馬王:有馬氏の治める肥前
・殺身湾子:「殺」が「穀」の誤字と考えれば「鹿児島湾」だろう
・殺子馬:薩摩の音写だろう
・籠仔沙机:長崎→ランガサク(ポルトガル語)の音写だろう
・魚鱗島:平戸の音写?

本に載っていない地名で解読を試みると
対馬:水剰馬?
沙階王:堺?
管東:関東?
大王城:京都?
闇夸勝:尼子?
温子米:出雲?和泉?
後は伊勢、越、上野、下野などはちゃんと漢字表記されている。その他興味があれば各自で解読試みて欲しい

しかし島津=鬼石曼子の出典は怪しいそうだけど、薩摩=殺子馬、鹿児島=殺身と、物騒な表記はされてたようだ

886 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 13:13:12.86 ID:REd6DLSF.net]
>味方より多勢であることを指して、”大軍”と言うべきとのことだ。

三方ヶ原では2万の大軍にウンコ漏らしてたのに偉くなったよな

887 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 13:43:07.08 ID:d2goG1rz.net]
うんこも本当ではないそうだ

888 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 17:08:59.08 ID:B08xYYKR.net]
偉そうにイキってて笑えるよな
ただのクソ漏らしなのに

889 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 17:10:17.73 ID:chYKDCHe.net]
ついでに此の頃の中国の日本に関する地理誌
福建省出身の張燮によって書かれた万暦45年(1617年)発刊の「東西洋考」によれば
https://zh.wikisource.org/wiki/東西洋考/卷六
邪馬台国、日本への国号改、倭寇、懐良親王(良懐)、足利将軍の勘合貿易、王直についての記事の後

倭は平清盛が政権を取って以来、国が乱れ、万暦14年に平信長が関白となり、その義子の平秀吉というものは、
母親が婢ではあったが妊娠中、異徴があった。幼いときから下賤で魚を売っていたが酔って木下に眠っていた。
その時猟に出ていた信長に出会い、驚き寝覚めて衝突。
(以下「明史日本伝」と同じため略)
万暦39年、倭は琉球を破り、中山王を捕虜とし、二年倭に留め置いた後帰還させた。琉球は明に倭に入貢したことを謝罪し
明への入貢を申し出たが、すでに倭に入貢した以上、スパイの疑いがあるため入貢させなかった。
万暦44年夏、倭が東番(台湾)に侵略しようとしたため、董伯起が倭を偵察に行ったが、倭の村山等安に捕らえられ、小舟で返された。

倭は東海中にあり五畿、七道、三島、又附庸国百余ありその首魁と称している。唐宋の世は中華を慕い、外国を侵略しようとせず、
宋の時代に来朝した滕木吉に矢を射させても遠く飛ばず、理由を聴けば「国内で戦がないためです」と答えたほどのものだった。
ところが元に入り驕慢の心が出てきて、殺気立ち、華人が諭しても「盗みを喜び、生を軽んず。殺を好むのが天性だ」と答えるまでになった。

倭の地は北は朝鮮を海で隔て、南は閩、浙と隔てている。朝鮮へは対馬から大洋に出て二晩で着く。
閩、浙へは順風で旬月かかる。

其の主は山城にいるため山城君と呼ばれる。山城の南は和泉、その南は沙界(堺)。沙界の盗難は紀伊、紀伊の西は伊勢。
山城の西は丹波、左に摂津、左の西は播磨、右は但馬、右の西は因幡、丹波の西は美作、左は備前、左の西は備中、右は因幡、右の西は伯耆。
美作の西は安芸。出雲の西は石見、安芸、石見の西は山口で古の周防州である。山口の西は長門、ここで海を渡る。
渡って西は豊前、南は豊後、其の南は日向、豊前の西は築前、西南は後築。後築の南は大隅、大隅の西は薩摩。
豊後から東南に渡ると、土佐、伊予、阿波があり、阿波は海を隔てて淡路と近い。土佐、豊後の間は佐加関。薩摩の北は肥後、
又其の北は肥前。肥前から西に渡ると平戸、平戸の西は五島、北は多褻島、伊岐、一番北は対馬、それぞれの島は酋長あり。

山城君は弱く、名前のみ。倭はその号令を聞かず、互いに争い、強ければ従わせる。
豊後国が最大で、博多経由で五島を歴てやってきて、帰りは長門を通って帰る。
毎年清明後から五月まで、重陽後から10月まで常に東北風が吹くため倭寇に有利となる。
そのため海防のときは三四五月を大汛、九十月を小汛として警戒せねばならない。
倭寇が多いのは薩摩、肥後、長門の三州で、次に大隅、築前、築後、博多、日向、豊前・豊後、和泉となる。
男子の首領は頭を剃り、黥面文身。婦人は髪を結っている。皆素足で、時々履をはく。勇猛で死を恐れず、戦う時は赤裸で三尺の刀を舞わせる。

名跡形勝としては、「邪摩堆」「阿蘇山」「東奥州(黄金の産地)」「五龍山」「平戸島」「一岐島」「八角島(蒙古、高麗を日本が滅ぼした所)」
「聚快楽院」「相坂関」「赤門関」「千丈渓」
物産としては、金、銀、如意珠、青玉、瑪瑙、琥珀、水晶、水銀、螺鈿、石硫黄、銅、鉄、錦、細絹、花布、刀、屏風、扇、硯、漆、
犀象、黒雉、山鼠(牛のようなけもので、大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまう)



890 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 17:17:53.08 ID:chYKDCHe.net]
この張燮、「なぜ日本人やオランダ人(日本の記事の後に紅毛蕃(オランダ人)がある)を美化するんだ?」
と言われた時、「事実を書いたまでだ」と答えたそうだが、
美化したような記述あるかな

891 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 17:22:56.47 ID:5kXMhSIL.net]
>>890
当時の日本の評判がもっとショボかったのでは

892 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 18:29:14.95 ID:lzSjY9GA.net]
野蛮人の土地に名勝や希少な鉱石物産などあるはずがないのである
と思っていたりして

893 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/18(日) 21:59:33.09 ID:I1Yy+r3R.net]
薩摩人が鬼畜ってことは外国人も分かってたんだな

894 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/19(月) 18:32:41.24 ID:uEDirrNW.net]
地理の記述で西の左のってのは違和感あるな統一しろよと

895 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/19(月) 19:29:35.39 ID:gTXWMnPN.net]
「左」遷ていうくらいだからこの時代の士大夫にとっては基礎教養なのでは

896 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ.net]
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則が池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』

897 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W.net]
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4.net]
イライラ清正

899 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/20(火) 19:41:24.04 ID:D+B63afb.net]
大阪夏の陣、5月7日に、大野修理は茶臼山の近くまで進出していたが、秀頼の出馬あるよう申し上げるとして
城中に引き返したが、その時大纏を持たせて城中に急ぎ退くのを、他の味方から見ると敗北して城に
逃げ帰るように見え、七手組の人数その他城外に出て戦っていた秀頼方は、悉く気後れし敗北の機が出来、
共に城に入る者も多かった。
寄せ手はこれに気を得て、いよいよ勢い強くなり、これによって豊臣勢は総敗軍となりたちまちに城中周章し、
程なく落城に及んだ。そう語る人がいる。

しかし、大阪の落城の原因はこれではない。ただ秀頼の謀の不足、群臣の異議不全によるものである。
さらに推して言えば、太閤秀吉は一旦の勢いに乗じて天下を従え、道の道たる理由を知らず、
己の私智に任せた事の余映に寄ることである。
また、この時についても、大野が不功者にて事理を糾明し得なかったため、こういうことも起きたのである。

その日、速やかに破れたのはその日の謀により、終始の勝敗はまた、終始の政によるべき事である。

(士談)

大河の真田丸なんかでも豊臣敗北の原因とされた大野の行動ですが、それは真の敗因じゃないよと
山鹿素行がすでに批判していたというお話。



900 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/20(火) 21:16:56.75 ID:i1njUqXZ.net]
夏の陣は仕方ない






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