- 1 名前:日本@名無史さん mailto:sageteoff [2015/09/06(日) 07:51:20.60 .net]
- 日本書紀編纂時の原理は紀元前660年です
これが当時の編纂者の認識です 前スレ yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1416634759/
- 201 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/06/29(水) 16:02:30.61 .net]
- >>199
神武天皇が建てた国も邪馬台国も日本列島に割拠していた 国々の一つで両国が同時代に並立していたという見方も可能じゃん。 神武天皇は3世紀末とか4世紀初めの人物と言う人がいるけど それだと神武天皇から倭の五王に比定(あくまで比定だが)される 大王たちの時代まで在位期間の異常に短い天皇がすし詰め状態になる。
- 202 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/06/29(水) 19:04:20.95 .net]
- 1代あたり平均が20年を越えることはないだろ、近現代じゃないんだから。
- 203 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/06/29(水) 22:27:03.85 .net]
- 在位年数10年未満の天皇だらけというのも
にわかに信じがたい。
- 204 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/06/30(木) 18:50:30.35 .net]
- 仁徳以後武烈までの頃みたいな、成人してから人脈を駆使して武力抗争して即位、みたいな事情で在位期間が長くない(記紀の記述としては長いけど)上体がそれ以前にも布衍できるなら平均十年は有り得る範囲。
30〜40代の頃に即位して十年ちょっとの治世で寿命を迎えるとかでな。 ただ、その場合は父子相続は珍しかったことになってしまうんだけどな。
- 205 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/05(火) 00:02:41.13 .net]
- 天皇家は北魏の皇室神格化の歴史をパクリまくってるから、三国志の鮮卑の檀石槐や倭の卑弥呼の正確な歴史と矛盾するんだよ!
- 206 名前:日本@名無史さん [2016/07/10(日) 20:03:45.43 .net]
- 神武否定説なんて今では当たり前のようになっているが、
それは戦後主流になった風潮というだけで根拠はない。 戦前の津田説を踏襲しているだけのもの。 日本書記の紀年法はすでに明治初期の研究によって、 推古朝から1260年遡らせたということも常識。 問題はでは実際神武のヤマト建国、といっても、 ただヤマト盆地の南東部の一画にを支配した族長という規模のものだったが、 それがいつかというが、なかなかはっきりしないこと。 紀元前ということはほぼないが、 それ以後いつだったか、おぞらく100年〜200年くらいの間だったのではないか。 崇神の崩年干支から考えると、そこら辺りがだと妥当だろう。 、
- 207 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/10(日) 20:20:49.87 .net]
- >神武否定説なんて今では当たり前のようになっているが
研究の基本としては、証明されていないものを論拠にしてはイカンってのがあるからな。 実在を証明できないものは、幽霊やUFOと同列の扱いしか受けられないんだよ。 まあ、「今では」じゃなくて「戦後史学では」だがな。 >日本書記の紀年法はすでに明治初期の研究によって 書紀の暦日を信用しうる上限は雄略期、それ以前の暦日は後世の造作。 といっても、暦日が正しいからといって記事も正しいとは限らんけどな。 >崇神の崩年干支から考えると 崇神の時期の暦日は信用の余地がない。
- 208 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/10(日) 22:12:38.89 .net]
- 実在の証明出来ないのに馬鹿なの?
倭の五王以前は実在が証明出来ないから全てノーカン
- 209 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 00:18:33.82 .net]
- これは私見だが
崇神や仲哀の崩年干支は古事記著者が後代の天皇の 年代と調和させるために憶測で決めたんだろう。 実際の年代とは十数年〜二十年ぐらいのずれはあるかも しれないがいい目安になる。 あと5世紀の大王、仁徳・履中・反正・允恭・安康 の実年齢は古事記の年齢から30歳ほど差し引いて 丁度いい。
- 210 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 00:39:49.09 .net]
- 物部氏の系図だと、垂仁朝の廷臣の物部十千根がウマシマジから
7世代目、武烈・継体朝の廷臣の物部麁鹿火が14世代目で、 武烈が平郡鮪と麁鹿火の娘影媛を取り合った話がある。 しかし古事記では平郡鮪と揉めたのは顕宗になっている。 武烈の場合だと父仁賢が亡くなったとき10歳ほどだから 影姫に求婚したのは顕宗だと思う。神武の年齢はニギハヤヒ よりウマシマジに近いとして、神武から垂仁まで7世代、 顕宗・仁賢まで15世代ぐらいとみて間違いないのでは?
- 211 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 01:01:10.88 .net]
- その他、孝昭の皇子、天足彦国押人命を祖とする
和珥氏では、開化天皇の妃姥津媛が孝昭から4世代目、 崇神・垂仁朝の廷臣の彦国葺が5世代目、神功皇后の とき、押熊皇子の討伐に遣わされた武振熊が7世代目になる。 よく知られているように武内宿禰は孝元から4世代目、 仁徳天皇の皇后磐之媛は武内宿禰の子、葛城襲津彦の娘なので、 履中・反正・允恭の三天皇は孝元から7世代目と言える。 景行の皇后でヤマトタケルの母とされる播磨稲日大郎姫は 孝霊の孫とされていて景行より四世代前になるが、孝霊〜景行 までどこか同世代の天皇が親子扱いされてるか、孝霊の孫を 孝霊のひ孫が玄孫ぐらいに改めないと無理ありそう。
- 212 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 01:46:44.76 .net]
- 神武天皇が即位したという辛酉の年とは西暦181年だとする
八木荘司の説が意外に正しいかもしれん。本当に神武天皇 が辛酉の年に即位したのかは分からないが、日本書紀では 神武天皇は52歳で即位したことになっているので、西暦181年 当時、神武が52歳だとすると西暦130年生まれということになる。 >>210のように顕宗・仁賢まで15世代だとすると、武烈・継体まで 16世代、安閑・宣化・欽明まで17世代。一見正確そうな5〜6世紀 初頭の天皇の誕生年や在位期間でさえ訂正する必要がありそうだが、 継体が485〜490年頃生まれ、武烈・安閑・宣化が505〜510年頃 生まれ、欽明とその皇后石姫が520年代生まれで大体辻褄が合うのでは? 中世の天皇同様、17世代370〜400年ぐらいじゅうぶんありうる。
- 213 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 07:38:45.25 .net]
- >>189
WiLL 5月26日(木) 神武東征の地政学 zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160526-00010000-will-pol
- 214 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/11(月) 17:22:00.19 .net]
- >>212(続き)
当時50歳を超えて生きるのは長生きなほうで 神武の二男の神八井耳命と三男の綏靖が、神武が52歳 以降の子どもなのか疑問ではある。綏靖が皇太子にな った年齢は14歳なので神武の在位年数は76-60=16年はあった と思われるが、当時の平均寿命を考慮して、神武が即位した 年は181年より十数年繰り上げるほうが妥当かもしれない。
- 215 名前:日本@名無史さん [2016/07/21(木) 14:07:42.35 .net]
- 男王が王位に着いたが相争うこと暦年。
神武? 金印:57年にもらったころは、100国か30国。 それから150年後だ。
- 216 名前:日本@名無史さん [2016/07/21(木) 14:10:31.74 .net]
- >>188
天足彦国押人命 が怪しいよね。 東大寺山古墳出土の象嵌鉄剣をあまり指摘されないのは何故だろうな。
- 217 名前:日本@名無史さん [2016/07/21(木) 14:22:12.55 .net]
- 金象嵌の中平年銘鉄刀
中平(後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年) 後漢が成立してすぐに使いを送っているらしい。 魏が成立したときもすぐに送っている。
- 218 名前:longinus_bouz mailto:カヲル@最後の方のシ者 [2016/07/21(木) 15:08:41.71 .net]
- >神武天皇即位年について その3
>>1 > 日本書紀編纂時の原理は紀元前660年です// ■■は日本が一番ニダ、という事なんだと思います。 >>(2スレの)255 yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1416634759/255 > 那珂通世(1851〜1908)曰く 三善清行の革命勘文に引用された緯書により知られる辛酉革命の思想では// 革命勘文というシロモノは、エキセントリックなだけで支離滅裂だと思います、全然計算合わないし。 辛酉である901年に、どうしても改元したいんだ(昌泰 >> 延喜)、なんて飼い主にゴルァされて、 我田引水に及んだだけでしょう。神武即位年なんかどうでもよく、清行が何らかの見識があった訳ではない。 何やら美化される向きもある三善清行ですが、単なる御用学者としか思えません。 >>121 > 紀元前666年が正解// チャンスタイム中に引き戻す事は滅多にありません。
- 219 名前:longinus_bouz mailto:カヲル@最後の方のシ者 [2016/07/21(木) 18:57:29.87 .net]
- >>43
> 邪馬台国の四等官は卑弥呼の時代と思われますが、その首席伊支馬は卑弥呼没後に即位した男王で// であるならば、魏志倭人伝にその様に記載されると思います。卑弥呼トヨたん間の男王は、彼女たちの親戚だと思う。 あるいは、トヨたんの実父が卑弥呼没後の男王なのかも知れません。 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 このクダリは、卑弥呼の養女だったトヨたんを王とした、と解するのが一般的ですが、どうでしょうかねえ。 宗女というのは宗家の娘、とでも解する方がよいのでは。とすれば、父ないしは祖父は一族の長、という事になります。 卑弥呼一族の長が王に立ったが國中不服だった。以降の男系継承が予定されてしまうからだと思います。 卑弥呼というのは単なる呼称で、また、卑弥呼だけでは王とは限らない、と考えてみればどうでしょうか。 卑弥呼一族での卑弥呼というのは、斎宮的な位置にあり、別段、王ではなかったが、 桓霊の間の紛争を経て、斎宮的な卑弥呼が女王として共立された。 トヨたんもまた、魏に遣使した卑弥呼の死を受けて、斎宮的な卑弥呼の立場は引き継いだが、 王には卑弥呼一族の長が立ち、トヨたんは斎宮的な立場のままだった。 しかし男王では復た、國中不服だった。よって、復た斎宮的な卑弥呼を王とした。 宗家の娘で年十三のトヨたんを卑彌呼に立て、復た王に成したら、國中遂定まった。 立と成の二つの動詞があるので、目的語も二つ、斎宮的な卑弥呼と王、という事です。 以降の男系継承予定は取敢えず留保される結果となって妥結したのだと思う。 (続く)
- 220 名前:longinus_bouz mailto:カヲル@最後の方のシ者 [2016/07/21(木) 18:58:46.42 .net]
- >>219の続き
>>43 > 卑弥呼没後に即位した男王で、開化天皇の可能性があるのでは?// いわゆる欠史8代というのは、卑弥呼らを輩出した一族を充てる事が予定されてた様にも思えますが、 結局、前王朝の記録はシカトしちゃってるので、あんまり拘る必要はないと思います。 > 邪馬台国の四等官・・・次席の弥馬升と三席の弥馬獲支はミマの地の名を持つミマキヒメの父大彦命と ワケを名に持つタケヌナカワワケの可能性があるのでは?// 次官の弥馬升は、ずばりミマキイリヒコ・崇神ではないでしょうか(四字名の弥馬獲支はシックリこない)。 卑弥呼トヨたんの次代の王朝が大和朝廷だとすれば、前王朝についての記載に名前があっても不思議ではない。 というか、新王朝の主がいきなり登場するという方が不自然です。名前の類似も必然だった、という事になります。 本能寺の変の二年ほど前に、織田政権の最高幹部だった佐久間信盛が失脚しています。 その際に折檻状が発給されているのですが、その第3と第4条は、以下の様になります。 https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B%E6%8A%98%E6%AA%BB%E7%8A%B6 > 一、丹波国、日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に、羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし。然うして、池田勝三郎・・・ 一、柴田修理亮、右の働き聞き及び・・・// 二番目の者がその後の政権を得た事は周知かと存じます。 お猿さんは突然涌いて政権を襲った訳ではなく、実績があったがゆえです。 弥馬升(ミマキ・崇神か)の実績は不明ですが、次官という立場から考えて、何かはあったのでしょうね。 魏志倭人伝は正始八年(247)の、トヨたん即位と張政の洛陽送還を以て筆を措いていますので、 その後の王朝交代経緯は分かりませんが、二代続けての入婿といった手続きを経たのではないでしょうか。 > 弥馬升(大彦命)の子トヨ(ミマキヒメ)を共立し// トヨたん = ミマキヒメ に異存はありませんが、ミマキ入彦、ではないでしょうか。 記紀に矢鱈と登場するトヨなんとかというキャラは、全てがカモフラージュなのだと思います。
- 221 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/22(金) 00:28:32.02 .net]
- ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは 中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。 ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。 しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。 というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。 それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に 伝わってしまっている。 しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も 最古水田にはさっぱり伝わっていない。 日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。
- 222 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/22(金) 13:38:45.83 .net]
- 神武が3世紀としても、それは畿内での話。
卑弥呼は九州だから、直接は記録に残さなくてもよかった。 むしろ、記紀は畿内が長らく政権の中心であったことを捏造するため、卑弥呼を意図的に無視した。
- 223 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/22(金) 18:55:49.82 .net]
- その時代をきちっと研究してる学者(非アマチュア)の大半がすでに邪馬台国九州説を支持しなくなり、
卑弥呼が九州にいたとは考えないようになったんだがな。
- 224 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/22(金) 21:30:31.38 .net]
- 卑弥呼をアマテラスと見なしてその子孫が3世紀末
〜4世紀初めに東征したとなると、神武以降十数人の 天皇がすし詰め状態になる。その場合、欠史八代の天皇は ほぼ全く実在することが無理で、神武と崇神を同時代の 人物と見なしたほうが自然である。記紀は神武と崇神を 業績も家族構成も異なる別の人物と書いている。 神武と崇神が別人なら女王卑弥呼の国が発展して大和政 権になったという仮定を見直さなければならない。
- 225 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/07/22(金) 21:46:05.95 .net]
- 崇神の崩御年が258年と318年のどちらに
近いのかという問題が存在するが、 どちらにせよ崇神と神武が別人なら、 神武を卑弥呼と同じ時代かそれより いくらか前の時代に設定せざるを得ない。 卑弥呼の国は神武の国と無関係か敵対関係かにある 別の国か、もしくは神武が作った王朝の一時期で、 卑弥呼は天皇家の皇女か皇后と見なすかの どちらかしかない。
- 226 名前:日本@名無史さん [2016/09/19(月) 19:13:41.84 .net]
- 神武天皇はたしかに存在した ―神話と伝承を訪ねて
産経新聞取材班 (著) \1,512 https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4819112899/dfgrwe-22/ref=nosim/
- 227 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/19(月) 19:28:42.58 .net]
- 邪馬台国がどこかなんて、気にしてるやつのほうがおかしい
- 228 名前:日本@名無史さん [2016/09/19(月) 19:46:28.39 .net]
- 古代史好きなら気にするのは普通だと思うぞ
ここしかないと思い込む奴らがおかしいだけだ
- 229 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/19(月) 20:04:13.13 .net]
- ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
- 230 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/19(月) 22:03:58.84 .net]
- >>224
逆に、欠史八代を無視すれば、神武が3世紀に、おそらくは卑弥呼の没後の内乱の際に畿内へ逃走したと考えられます。 欠史八代ば他の王朝の伝記をつないだという意見が根強くあります。
- 231 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/19(月) 23:10:14.10 .net]
- 記紀にとって、中国に朝貢してた邪馬台国の時代は消したい歴史だからねぇ
神武と欠史八代を無視すべきで、崇神が畿内に逃げてったんだと思うけど 神武なんて天皇家に捨てられてた天皇だしな
- 232 名前:日本@名無史さん [2016/09/20(火) 18:02:12.67 .net]
- 紀元前660年とか神武年代は北イスラエル王国崩壊後の継承だろ
それを考えると日本は大陸の王族末裔たちの集合体じゃないかと思う
- 233 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/20(火) 18:38:15.94 .net]
- 紀元前660年は、今の歴史学では周の恵王の17年に当たります。
ところが平安時代の三善清行は「革命勘文」で、神武天皇元年は周の僖王の3年に当たり、斉の桓公が初めて覇者になった年だと述べています。 これは紀元前679年で、今の歴史学とは19年もずれています。 斉の桓公は紀元前685年に即位したので、神武東征が7年かかったことと関連があるかもしれません。 桓公の生年は不明ですが、父の僖公は紀元前730年に即位したので、東征開始時に45歳だったこととの関連も考えられます。 享年の127歳は古事記の137歳と同様、古来からの言い伝えだったと思われます。
- 234 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/20(火) 20:02:25.97 .net]
- 神武天皇即位後の記事では、31年の「国見」の記事も斉の桓公を思わせるところがあります。
桓公も即位から35年目、覇者になってから29年目の紀元前651年、葵丘の会盟で得意の絶頂に立ち、泰山で封禅の儀式をしたいと言い出します。 封禅は歴代でも傑出した聖王だけが行える儀式で、さすがに宰相の管仲は猛反対し、桓公はついに諦めました。 このあと神武紀は42年に太子を決めた記事と76年の崩御記事だけですが、42年はほぼ桓公の在位期間に等しく、死後の状況も似たところがあります。 もちろん神武天皇の全てが桓公のコピーではなく、遥か後世に実在した人物の記憶だろうと思いますが・・ ちなみに桓公の名が「小白」というのも、太伯伝説を思い出させて面白いです(^^)
- 235 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/20(火) 21:42:57.31 .net]
- 即位以後の具体的な治績がないから漢籍からいろんな記事を寄せ集めて継ぎはぎしただけだろ
- 236 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/20(火) 22:34:31.69 .net]
- 封禅について調べてみましたが、始皇帝・武帝・光武帝はいずれも即位からおよそ三十年で封禅の儀式をしています。始皇帝は秦王時代から数えますが。
始皇帝以前に最後に封禅を行なったのは周の成王ですが、斉の桓公を諫める管仲の発言に出てくるだけで、始皇帝の時代には昔の知識は失われていたようです。
- 237 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/20(火) 23:58:56.36 .net]
- 斉の桓公と神武天皇の類似点?
桓公の父、僖公は前730年に斉の君主に即位しているので 桓公は前685年に即位したとき45歳の可能性がある? (87歳も生きたとなるとかなり長生きだ。) 斉の桓公が諸侯たちと会盟した年が紀元前667年で これが日本書紀だと神武が東征を開始した年になる。 桓公は42年在位し晩年に公子昭(孝公)を次の斉君にすると決めた。 神武も在位42年目に神渟名川耳命(綏靖天皇)を後継者に決めた。 神武にも斉の桓公と同様に後継者問題があり、家臣の全員が全員、 神渟名川耳命を支持したとは思われない。吾田から一緒に来た家臣 たちの多くは手研耳命を支持したのではなかろうか? なお 宰相管仲の死(前645年)から無詭暗殺・孝公即位、 桓公の葬儀(前642年)までの期間に60年を足すと 神武天皇崩御(前585年)から手研耳命暗殺(前582年)までの期間になる。
- 238 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/21(水) 00:21:59.67 .net]
- 中国の史書の「論衡」に
「周の時、天下太平、倭人来たりて暢草を献ず」 とあるので、日本書紀編纂者は日本の歴史を倭の歴史 と見なし、はじめ神武天皇即位を周代の成王の時代の 出来事にしようと考えた。が、やっぱり無理と思ったんだろうか、 紀元前660年の即位に変更した。前660年は周の成王より四百年 は後の楚の成王の時代である。
- 239 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/21(水) 08:42:43.63 .net]
- 三善清行の革命勘文は西暦901年に書かれたが、それより90年古い811年の「歴運記」でも神武天皇元年=周の僖王三年としていて、清行だけの間違いでは無いようだ。
宋史日本伝に引かれる「王年代紀」(984年に宋に渡った日本僧が太宗に献上)では神武天皇即位は甲寅で周の僖王の時代とする。 そもそも前漢の武帝以前は干支で日を表しても年を表すことはなく、ナントカ王の何年としか書いてないので間違いやすい。 鎌倉時代の「愚管抄」では神武天皇元年について僖王三年説と恵王十七年説を併記。 「神皇正統記」でようやく恵王十七年に確定した。 日本書紀の編者も正しく対照できていなかったかもしれない。
- 240 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/22(木) 12:55:41.20 .net]
- >>237
>87歳まで生きたとなるとかなり長生きだ そうですね。日本書紀は神武天皇が15歳で立太子したと書いていますが、これに従って紀元前715年ごろに生まれたとするほうが合理的です。 神武天皇42年に神渟名河耳命を太子とした記事の「42年」が桓公の在位年数に近いことから見て、日本書紀の編者は「太子から太子まで」を桓公の生涯に相当する期間とし、これを前後にふくらませて「127歳」という伝承に合わせたのではないでしょうか。
- 241 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/22(木) 13:34:41.71 .net]
- >>237
>>238 日本書紀の編者が日本の天皇と中国の王の年代を正しく比べていたと考えておられますが、どうでしょうか。正しい知識が平安時代の初期には失われ、鎌倉時代に復活したということでしょうか。 私は一度疑ってみる必要があると思います。
- 242 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/23(金) 13:33:59.86 .net]
- 神武天皇4年の鳥見山の祭祀と、31年の腋上丘の国見の記事は封禅の儀式が意識されていると思われる。
鳥見山は泰山の封(天)国見山は梁父山の禅(地)に当たる。 ただ、封と禅が27年も離れているのは謎。
- 243 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/09/25(日) 18:53:01.96 .net]
- 封と禅の差27年は、即位3年後と30年後ではなかろうか。
- 244 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/12(水) 09:29:50.69 .net]
- 神武=カムヤマトイハレビコ
綏靖=カムヌナカハミミ この二人は諡号が「神」から始まるので追尊だと思われる。 司馬炎が晋王朝を建てたとき、父の司馬昭と祖父の司馬懿も皇帝にされたようなこと。 実質的な初代は安寧天皇で1世紀の後半。 二代目の懿徳天皇=倭国王帥升。
- 245 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/12(水) 11:44:49.35 .net]
- 綏靖がシキ県主の妹と結婚して、安寧の名がシキツヒコということから
天皇氏がシキ氏から国を引き継いだ(奪った?)のが真相のように思える。
- 246 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/12(水) 18:34:08.91 .net]
- オレ的予想では、当時の奈良盆地周辺で最大級の勢力があった二大巨頭の根拠地たるオオヤマトとイワレをはじめて統合して奈良盆地を制圧したのが神武だと思う
名前にヤマトとイワレがはいっている理由がそれ、という妄想だ。 つまり日向の地とは無関係だったって想定。
- 247 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/13(木) 07:36:51.27 .net]
- 「カムヤマトイハレビコ」と「カムヌナカハミミ」の「カム」は、元は「カモ」だったんじゃないの?
神武と綏靖は鴨王への入り婿、安寧は磯城県主への入り婿とか。 神武は名前にも物語にも複数の要素が入り込んでいる気がする。
- 248 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/13(木) 09:42:01.33 .net]
- 日本書紀には、懿徳天皇の母はヌナソコナカツヒメと言い、鴨王の娘だと書いてあるので
「カモ」と「ヌナ」は関係ありそうだ。まさか新潟のヌナ川じゃないよね(^^) 磯城(石の城)と磐余(石寸)は同意という話もある。 神武の和名は綏靖、安寧、懿徳の名を組み合わせたようにも見える。
- 249 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/13(木) 10:39:25.48 .net]
- 綏靖=カモのヌナカハミミと安寧=シキのヒコタマテミの婿入りが、神武伝承に取り入れられた?
日本書紀はカモの事代主、古事記はシキの大物主の話になっている。
- 250 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/13(木) 16:25:28.07 .net]
- 日本史板きってのトンデモスレ。
- 251 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/13(木) 20:57:15.71 .net]
- 安寧のシキは大和でなく河内っぽい。
神武の和名は「カムヤマト」を削って「イハレのヒコホホデミ」が本来の形と思われる。
- 252 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 07:43:11.27 .net]
- 日本書紀第二巻の末尾、一書第二と第三には「神日本磐余彦火火出見尊」
第四には「磐余彦火火出見尊」とある。 「神日本」は後世に付加されたと思われる。
- 253 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 08:06:18.41 .net]
- 一方、懿徳天皇の名「オホヤマトヒコスキトモ」には余分な部分がなく、ここで初めてヤマトを名乗ったようだ。
倭面土国王帥升かもしれない。
- 254 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 13:01:22.97 .net]
- ホホデミは称号。
本名はイワレビコ。
- 255 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 13:43:26.01 .net]
- 磐余彥、本名じゃないような、坂東太郎みたいなのでしょう?
- 256 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 14:22:14.57 .net]
- 日本書紀 巻第三冒頭「神日本磐余彦天皇 諱彦火火出見」
本名はヒコホホデミ。
- 257 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 14:55:57.65 .net]
- 綏靖天皇の名前の「ヌナ」は沼より海の意味かもしれない。
崇神天皇の妃「尾張大海媛」がヌナキイリヒメを産んでいたり 天武天皇「大海人」の和風諡号にヌナが入っていたりする。 大海原、海坂など海をウナと読む例もある。 大阪湾は古くはチヌ(血沼、茅渟)の海と呼ばれた。
- 258 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 19:57:49.16 .net]
- 神渟名川耳=漢倭奴国王だった(^^)
- 259 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 21:35:30.40 .net]
- 綏靖天皇は南北朝時代の書物で「人を食っていた」と書かれたり、不可解な天皇ではある。
名前も初期の天皇の中では変わっている。「彦」を含まない天皇は応神までいない。 奴国王はさすがに無いと思う。
- 260 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 22:04:14.47 .net]
- 当時はヒコという語が王に相当する倭語だったと思うんだ
ヒコを名前に含まないということは、王と認めてもらえてなかったって意味だろう
- 261 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 22:25:02.89 .net]
- 「ヒコ」が王を意味するか。
そういえば、第四代懿徳天皇の兄もオキソミミでヒコが付かないね。 なぜ彼は天皇になれなかったのか?父安寧天皇より先に早死にしたので、 弟が彼の娘アマトヨツヒメを引き取った? 日本書紀の天皇の在位年数を見ると綏靖天皇は孫息子が、 安寧天皇は孫娘が生れるまで生きていたことになるので、 古事記が四十歳代と記してるのは合ってるんだろうな。
- 262 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 22:42:25.14 .net]
- カムヌナカワミミってカムは父親の神武から取ったんだろうけど
ミミはタギシミミやカムヤイミミと同じ兄弟ということ。 これは安康天皇の「穴穂」や継体天皇の「男大迹」、崇峻天皇の 「泊瀬部」と同じで諱をそのまま天皇の和風諡号にしてしまった ってことだよな?
- 263 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/14(金) 22:50:58.12 .net]
- >>261
年齢は全員が「上げ底」だろ 最低でも半分以下に減らさないと、 あり得ないレベルの不自然な長寿が多数を占めてしまう
- 264 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 00:40:41.82 .net]
- >>263
綏靖・安寧・懿徳の三代の天皇は、日本書紀なら 84歳、67歳、77歳だからちょっと長生きかな と思う年齢設定だけど、古事記ならそれぞれ 45歳、49歳、45歳だから異常とは思えないよ。 全員が百歳以上の長寿じゃないのになぜかスルーする奴らがいるんだ。 日本書紀では懿徳は綏靖29年の誕生(祖父綏靖80歳のとき)、 天豊津媛が孝昭を生むのは懿徳5年(祖父安寧の死後5年目) だから、孫が生まれるまで生きた天皇がいたってことだね。 当時の結婚年齢なら35〜38歳ぐらいで嫡孫が生れたことだろう。
- 265 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 01:20:46.51 .net]
- 史実かどうかはともかく日本書紀の立場としては
神武・綏靖・安寧・懿徳の四代は事代主神系の妻を娶り、 その血を引く男子を跡継ぎにしたということにしなけ れば困るんだろう。
- 266 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 19:01:19.59 .net]
- 漢倭奴国王はともかく、なぜ神渟名川耳の名前に越のヌナ川が入っているのか分からん。
大彦命の子の武渟川別は越に行ったかもしれないが、神渟名川耳とは何の関係も無さそうだが。
- 267 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 20:09:49.95 .net]
- 古事記では神八井耳の兄で日子八井耳という人物がいるが、何の行動もしていない。
神八井耳の別名のように思われる。
- 268 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 20:42:30.61 .net]
- >>266
たとえばさ、ヤマトと無関係の、ヌナ川周辺の地方豪族の祖先を、 なんらかの経緯でヤマト朝廷関係者に組み入れる必要が出て、 系図を差し替えたとかな
- 269 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 22:42:51.67 .net]
- >>268
なるほど。河内も治水は大変だから、「川耳」はそのままかもしれんな。 仁徳天皇(讃)が思い出される。
- 270 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/15(土) 23:36:45.21 .net]
- ヌナ川って新潟県の糸魚川のこと?
古事記でオオクニヌシが越の国の ヌナカワヒメを娶った話と何か関係あるのか? 古事記で安寧天皇の妃の名前がイトイヒメというのも それと関係がある??出雲神話のオオクニヌシには越をも 大和をも支配できるだけの権力があったということか。
- 271 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/16(日) 07:52:24.73 .net]
- >>270
糸魚川は市名で、川の名は今は「姫川」。氾濫が多い川なので「厭い川」が別名になった。 古代からヒスイの産地でヌナ川は「宝石の川」の意味。 古事記で安寧の后はアクトヒメ。イトイヒメは日本書紀の一書。
- 272 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/17(月) 07:22:24.25 .net]
- 綏靖=神渟名川耳=漢倭奴国王は有り得る。
懿徳=オホヤマトヒコスキトモ=倭面土国王帥升(等) 孝昭、孝安でオホヤマト中断=桓帝、霊帝の倭国大乱 孝霊、孝元でオホヤマト復活=邪馬台国女王卑弥呼 開化=ワカヤマト=邪馬台国女王台与 こんな感じ。
- 273 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/17(月) 08:48:10.93 .net]
- 越の国といっても広くって、後の越前から越後まで、福井県から新潟県までの範囲ですよ。
- 274 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/17(月) 11:44:36.99 .net]
- 神武〜今上まで72世代の天皇系図に一番合いそうな
「辛酉」の年は61年で、綏靖が即位した「庚辰」の 年は80年になる。二十数年ほどのズレを考慮して 綏靖=漢倭奴国王はありえるかもしれない。 しかし建国を紀元1世紀として他の豪族たちの系図 と矛盾が出てこないかな?俺は神武〜応神まで 何人か同世代の天皇がいて、建国は紀元2世紀半ば だと思う。
- 275 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/17(月) 12:41:42.76 .net]
- 稲荷山鉄剣の「辛亥年」が471年として、那珂通世の一世28年を用いて七世前のオホヒコの年代を推定すると275年。
これが崇神天皇の時代とすると、まあ穏当な数字といえる。 三世前の孝霊天皇は191年で、倭国大乱が終わったころ。 六世前の懿徳天皇は107年、綏靖天皇は51年となる。 他の豪族の問題はあるが、天皇の世代は記と紀で一致していて難しいところ。
- 276 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/18(火) 10:53:10.94 .net]
- 物部氏をはじめ諸豪族の系譜から見ると、神武から崇神までは6〜7世代になるようだ。
やはり神武は2世紀で、委奴国と帥升は九州と見るのが妥当かもしれない。
- 277 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/18(火) 13:26:52.59 .net]
- むしろ、神武と帥升が同時代じゃないのか。
同一人かどうかは分からないが。
- 278 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/18(火) 16:35:52.35 .net]
- 神武の「神日本(カムヤマト)」は「漢委面土」だった?
- 279 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/18(火) 22:14:44.80 .net]
- 結局、神武は筑紫にいられなくなった半端者。
- 280 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/19(水) 08:27:30.79 .net]
- 神武=帥升(等)の場合、磐余彦と同意の磯城彦を名乗ったと思われ。
あるいは磯城人、磯城友かもしれない。
- 281 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/19(水) 15:14:11.68 .net]
- 綏靖の名「神渟名川耳」は本来、神武の父か兄か、東征前の神武の名ではなかったか。
日向の美々津(耳川の河口)付近に漢委奴国があったのかもしれない。 なぜ神武の子の名前になったのかは分からない。 畿内にも川があり、委面土が委奴から続く国だという意味かもしれない。
- 282 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/20(木) 03:32:18.93 .net]
- いまひとつ考えられるのは、「神渟名川耳」は「手研耳」の本来の名前だったということである。
熊襲がヤマトタケルに討たれる前に名前をたてまつったという伝説も思い出される。 実際、古事記では神沼河耳はタギシミミを討ったから「建沼河耳」ともいうと書かれている。 タギシミミなら耳川に因む名前を持っていてもおかしくない。
- 283 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/20(木) 11:17:27.10 .net]
- 南九州(倭国の極南界)にあった倭奴国の東遷が神武東遷ではないか。
金印の委奴国は重なるかもしれないが、一応別と考える。 金印が志賀島で出土したため、倭奴国は滅びたという印象が定着してしまったが、 後代の中国史書では「日本は倭奴国から始まった」という認識が普通であった。
- 284 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/21(金) 09:26:03.59 .net]
- 「帥升」は正しくは「師升」で、神武が名乗った中国名と思われる。
「師」は磯城(師木)のシ、「升」は容量の単位だが上昇や豊作も意味する。 仁徳天皇が「倭讃」と名乗ったのに似ている。
- 285 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/21(金) 12:02:15.26 .net]
- 「倭面土国」については、古事記の国生みの記事が連想される。
九州と四国は身は一つで面が四つあるという、面白い記事である。 古代日本では島を人体にたとえる思想があり、「倭面土国」にもその思想が反映されている? とすれば「倭面土国」は倭人の誇り高い自称であったことになる。 しかし、この文字を見た中国人は倭人の入れ墨の風習と結びつけて軽蔑したかもしれない。
- 286 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/21(金) 12:16:17.35 .net]
- 全くの想像であるが、「漢委奴国王」の金印を志賀島に投げ捨てたのは神武=師升だったかもしれない。
「奴」の意味を彼は知っていたからである。
- 287 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2016/10/21(金) 12:57:29.17 .net]
- 投げ捨ててなどいない。
大石の下から出土した。 帥升の帥は筑紫の支配者の意味がある。 太宰の帥としても知られる。 帥の制度は明治初期まで続く。
- 288 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2017/04/23(日) 18:17:16.15 .net]
- >>257
>綏靖天皇の名前の「ヌナ」は沼より海の意味かも・・・・・・・・・・・ 苦しいな。定説通り「沼河」=瓊玉の採れる河=とすると、「ヌナカワ」の 人名を持つ古史書に記された人物は、以下の3名。 沼河比売(ヌナカワヒメ)---------------------------------越頸城地方の女酋 神渟名川耳>>266神沼河耳(カムヌナカワミミ)--------------綏靖天皇(母伊須気余理比売) 武渟川別>>266建沼河別(タケヌナカワワケ)----------------越遠征四道将軍大彦子息 兄弟の名である日子八井・神八井耳・手研耳と比べても地名と思え、 伊須気余理比売の在地(神沼河耳生育地)の大和南部にも、当時は玉の採れる 河が在ったのか?
- 289 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2017/07/10(月) 03:51:26.82 .net]
- これは楽しみだ。
神谷さん頑張って。 神武天皇の年齢研究‐出版予告 www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage996.htm
- 290 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2017/07/26(水) 08:52:27.10 .net]
- ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆
- 291 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2017/07/26(水) 08:54:07.07 .net]
- 物部・中臣・鴨・三上祝など各系図との比較で
神武天皇から崇神天皇まで6世代と推定される。 妃が複数人いる孝霊天皇が初代の大王だとすると 孝霊は3世紀後期の人物なんだろうから、本田利明が 1798年頃に日本は建国から1500年しか経っていないと 指摘したのは正しい。ただ神武天皇即位から〜とい うのはどうだろうか。390年頃即位の応神天皇まで100年 間に15人の大王が短期に交替するというのは不自然。 神武の頃の天皇家の主は九州から大和に移住したというだけで まだ大王の地位になかったのだろう。孝霊から見て高祖父の世代 の神武は西暦200年頃の人物。辛酉の年に即位した(即位自体が 嘘の可能性が高いが)とすれば西暦181年が一番近い。 第2代綏靖天皇は大和で生まれたのならこの辺りの誕生になる。 神武も綏靖も西暦1世紀の人物とは思えない。
- 292 名前:日本@名無史さん [2017/09/15(金) 20:42:44.05 .net]
- ヌナカワミミ⇒ナカトミだよ
- 293 名前:日本@名無史さん [2017/09/15(金) 22:32:23.62 .net]
- >>291
神武天皇は複数の方の投影。 皇統譜のいわゆる神武から始まる欠史8代は実際には概ね大倭国初代大王の天村雲命/建位起命に始まる大王家(海部氏)の系譜。 その御輿を(仕方なく)担いだのが、葛城の出雲族(出雲帝国の分家。高鴨家、登美家。併せて鴨(神/カモ)族と呼ばれた)ら。 途中、ニギハヤヒを形代にした九州物部王家の一派が大倭国(畿内)に侵攻して、 葛城の出雲族(鴨族)の内応(裏切り)を得て天村雲命流の王家を放遂。 いわゆる第8代孝霊天皇が大倭国を維持出来ずに逐われて吉備国を建てた云々。 葛城の鴨族が新たな御輿に大王家が物部氏(ウマシマジ〜)を担ぎ、代を重ねて飼い慣らしに成功しつつ有ったも束の間 今度は、本家本命の九州物部王家が畿内を窺い、侵攻を開始。 いわゆる崇神はその準備中に宮崎の都万で死去。 遺児の三兄弟が実際には出師。 瀬戸内海は敵の勢力圏内の為、豊予海峡〜日向灘を南下して土佐沖合いを迂回して紀ノ川(吉野川)河口から侵攻開始、、、待ち構えていた大倭国勢に迎撃されて 兄の1人が負傷〜死亡。押し返され紀伊半島を南下迂回して熊野に上陸、侵攻開始、、、すぐに高倉下命の子孫らに迎撃され、執拗なゲリラ戦を仕掛けられてまさに進退窮まる。 その際にもう1人の兄も死去。(彼を祀ったのが熊野本宮(砂州に鎮座(元地))の始まり)
- 294 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2017/09/19(火) 02:42:09.74 .net]
- >>279
三輪神社山頂近くの高宮神社 日向御子が祭神 あの神社はいつからあそこにあるんだろうね
- 295 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/01/02(火) 22:46:45.62 .net]
- >>251
片塩浮孔宮(現.奈良県橿原市四条町)に宮処を置いたとされる 第3代安寧天皇(磯城津彦玉手看)の和名シキは、 通説の大和国磯城郡でなく 志紀県主神社の坐す河内国志紀郡(現大阪府藤井寺市.)とされる 理由は、何なのですか?
- 296 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/01/03(水) 00:45:46.75 .net]
- >>279
神武東遷時の河内上陸戦での五瀬命負傷の地碑が、 近鉄石切駅から1Kmほど北へいったところ、日下の集落からの 「日下直越の道」の路傍にあるらしいね。 ログ 1999/10/14 ttp://kamnavi.jp/log/yumvttm.htm
- 297 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/01/03(水) 17:41:18.54 .net]
- 明治や大正あたりのヒトが想像で場所を決めて建てただけの信憑性のない石碑だろうがな
- 298 名前:日本@名無史さん [2018/01/21(日) 11:10:11.54 .net]
- 綏靖、安寧、懿徳は後漢の皇帝たちに因む名前らしい。
「綏」は105年から121年まで摂政だったトウ太后・綏 「安」は121年から125年まで親政をした安帝 「懿」は125年に数ヵ月だけ在位した少帝・懿 孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇も音読すると 孝順・孝桓・孝霊・孝献皇帝にそっくり。
- 299 名前:日本@名無史さん [2018/01/21(日) 11:18:18.26 .net]
- >>298
たしかに、そう思いました
- 300 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/01/21(日) 12:18:09.88 .net]
- >>298
それ、名前の付け方が諡号の基礎ルールのままだった時代の命名だからでしょ 業績によって先代を評価して命名するのが隋代まで当時の諡号。まあ漢字一文字だけだけど。 で、尊称として(?)上にもう一文字、「孝」をつける。 それだけじゃん 問題は。そのルールにおいて、あまり良くない評価で用いられる文字まで混じってることだよな。 業績の記録がないのに評価が悪いって、何か原因があったのかな?
|
|