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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

622 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW.net]
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC.net]
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3.net]
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

625 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf.net]
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673〜83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)

626 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa.net]
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

627 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 10:04:22.29 ID:L7mnKgnz.net]
加藤家断絶前兆の事

蒲生秀行に仕えて一万石を領した神田清左衛門という武士は、後に加藤肥後守忠広に仕え五千石を領し、
肥後加藤家断絶の後は阿州松平安房守家(蜂須賀家)に抱えられ、三千石を賜い、その子孫は今も
かの家に仕えている。

この清左衛門の物語によると、肥後加藤家において寛永8年に不思議な事があったという。

熊本城内の桐の木に、冬瓜のようは果物が数多生えた。人々見て、
「これは珍しき事である、末はどのようになるのだろう。そのまま置いて、熟するのを見よう」
そう言って待っていた所、ようやく熟する頃に至って、その果物の中よりネズミが実を食い破って
出てきた。人々更に怪しみ、この果物を尽く取って切り割ってみると、全ての実の中にネズミがあった。
そのネズミは尽く打ち殺し捨てたが、その実のなかに一つだけ、鉈があった。
人々は「不思議、奇怪」と言うばかりであった。

然るにその翌寛永9年6月、肥後守忠広および嫡子豊後守光正父子は配流となり、領国を改易された。
「さては、あれはこの前兆であったか。」人々はそう囁きあった。

そのときに見つかった鉈は、仔細あって某氏の子孫が今も所持しているという。
これは清左衛門が物語したことを、阿州家中の士が語ったものである。

(翁草)

628 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 12:24:35.35 ID:GR/xBTE0.net]
>>627
既出。しかもソースもいっしょ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7747.html

629 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 13:58:25.95 ID:IhN9hwwZ.net]
阿波の安房守か

630 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 23:11:11.96 ID:kLBlArxO.net]
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)



631 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 23:29:52.99 ID:ahPZfOIy.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6056.html
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな

632 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/02(木) 20:54:21.55 ID:gsMc9xf7.net]
西国の、大村五島の類の外様大名について、彼らは元来国人にて、鯨突きの類であった。
戦国の頃、恣に近隣を略奪、横領し、後治世となって公儀より御改の節には、よき程に
石高を書いて提出し、その後検地の御沙汰も無く、その提出した石高の通りに、格式軍役を
仰せ付けられている。これを「差出高の衆」と言う。辺境の国にこの類は多い。
東国では津軽氏なども同じような存在である。表向きの差出高に対し、実高はその10倍であるとか。

(翁草)

肥前五島藩の五島家(宇久氏)のことか。

633 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 09:52:22.65 ID:2e2kntZ0.net]
南部さんとか、島津さんとか

634 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 11:26:44.27 ID:zUVujDMJ.net]
島津は表高を上げ過ぎて四苦八苦してるけどね。
津軽も江戸時代の高直しで苦境に陥ったし

635 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 14:18:07.22 ID:41HyJ93c.net]
対馬の宗氏と蝦夷の松前氏は1万石扱いなんだっけかそんなにないのに

636 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 14:26:17.89 ID:9X2ZeKxt.net]
一万ねえと大名じゃねえ

637 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 22:12:12.36 ID:JhVX3B9d.net]
ろくに米とれない所は海産物やら木材なんかを石高換算するんだっけ?

1万石で大名ってのはいつからそう決まったの?

638 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 22:51:18.23 ID:H7v176AZ.net]
江戸時代から。
米が単価ベースだったから米が基準、で海産物なんかは別換算だったはず。南部家は米が少ないから広い割に30万石くらいだったけど実際は海産物含めてもっとあったような文献を読んだ。

639 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx.net]
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞、榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。

640 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w.net]
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか



641 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p.net]
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話

642 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb.net]
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』

643 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz.net]
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g.net]
ザルすぎる防衛網

645 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr.net]
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)

646 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp.net]
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)

647 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV.net]
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

648 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/09(木) 03:40:45.70 ID:3YZkEmVw.net]
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと〔『校合雑記』〕付異聞

 世に『校合雑記』と題す書がある。実録と見える。
その書には、大坂信貴野での上杉景勝の兵である坂田五郎左衛門と穴沢左近〔世にいう薙刀の名人である〕の勝負が書かれてある。

 穴沢は隠れもない薙刀の上手であった。
坂田と槍を合わせると互角であり、
穴沢が手元まで入って来ると坂田は槍を捨てて穴沢を押し付けて引き組んだ。
穴沢は大力であったので、手もなく小高い所に坂田を組み敷いた。
しかし坂田は老武者で武功があったので、騒がず九寸五分を抜いて、
【根付の所より繰(クリ)かへし】〔根付以下十字はまだその事が分からない。よって原本に従った〕穴沢の首を取った。

「総じて自分の器量より他人をみくびりおごっている者は仕損じがあるものだ。
穴沢は器量を自慢していたと見えて、長刀ゆえに自分が生き残ると思っていた。」

と坂田が話していたと、上杉衆の話を書き付けてある。
〔長刀ゆえの言葉は、穴沢が長刀の能を誇っていたからかえって坂田は勝つことが出来て生存し、今日に至るとの事であった。〕

 ある夜話のとき、剣の師がいつもの稽古の話として言い伝わっているものを話してくれた。
穴沢のこの最後のとき相手は素槍であった。
しかし槍を合わせると穴沢はすぐに入ってきたので、相手は槍を投げ刀で袈裟に斬った。穴沢はここで負けたという。
師曰く、

「このようなので、太刀槍薙刀、その勝負の場は剣刃上である。」
(剣刃上※剣の刃の上を歩くように、自由自在なこと。)

『雑記』の文と異なっている。しかし両者とも心得るべきことだ。

(甲子夜話三篇)

649 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/09(木) 23:55:41.28 ID:RVhtdrtc.net]
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)

650 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:18:49.42 ID:CuKbDLlq.net]
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様



651 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq.net]
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった

652 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:57:59.00 ID:B06BHJSI.net]
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)

653 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 11:40:36.45 ID:gLZd/NjL.net]
メチャクチャですがな w

654 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 13:55:56.55 ID:c5Zdyy3A.net]
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」

655 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf.net]
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。

656 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN.net]
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf.net]
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf.net]
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf.net]
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO.net]
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな



661 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG.net]
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴

662 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx.net]
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

663 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/12(日) 03:54:09.75 ID:Ea6rH+3d.net]
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)

664 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/12(日) 14:38:42.96 ID:lFS0FxH5.net]
日本人は本当食い物を粗末にするよな

665 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH.net]
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)

666 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy.net]
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

667 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO.net]
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正純も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)

668 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx.net]
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd.net]
正純の父が正純

670 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj.net]
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー



671 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9.net]
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)

672 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL.net]
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

673 名前:人間七七四年 [2017/03/16(木) 21:35:54.42 ID:+0jck8rG.net]
おんな城主田鶴
井伊直虎の最大ライバルなのになぜ出て来ないの?
武田信玄に上杉謙信
武蔵に小次郎
みたいな存在なのに
そもそも田鶴が直虎の曽祖父を毒殺して
直虎がおんな城主になったのに

674 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/17(金) 01:49:54.67 ID:3F32zGZe.net]
 太閤秀吉公が名護屋に御在陣の時加部島で鹿狩りを催し、
狩った鹿を田島大明神の社壇の前に集められた。
多くの臣下が神明の咎が蒙るかもしれずいかがなものかと思い、外へ持ち出すべきだと言ったが、
秀吉公は少しも恐れられず、

「どうしてそのような事が起ころうか」

と悠然とおられた所に、たちまち風波起こって集まっていた鹿を残らず吹き飛ばし穢土を清めた。
秀吉公はすぐに宮司に仰せられて、神鎮めの神楽を奏上された。
 その後祈祷祈念を怠られず、奉納寄付等があった。
既に朝鮮渡海の先鋒小西摂津守・加藤主計頭の軍勢が出船していたので、敵国調伏の祈祷をさせられた。
 御社の後ろの森の中に大石がある。この前に壇を築き注連縄を引いて、宮司は丹誠を尽くして祈る。
数百騎の精兵は弓矢を帯びて朝鮮の方に向かって矢を放ち鯨波を揚げると、大石が中から縦に割れた。
その石は割れたままで今も宮殿の後ろにある。
秀吉公は御感ひととおりでなく神明を仰がれられて、軍勢海陸無難、敵国調伏の祈願をこめられた。
 その後一艘の船を献じ朝鮮の梅と奈良の八重桜の苗を社内に植えさせられた。今もその樹が残っている。

 松浦郡の神社は皆田島大明神の末社であったという。
境内の末社に佐用姫の神社がある。縁起にもあることである。
秀吉公は、往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例により、田島大明神を尊崇された。
また大伴狭手彦の因縁があるので、朝鮮征伐の時から、百石高、山林で相違ないと御朱印を与えられた。
今なお御代々の将軍から賜っており、宮司は従五位下を任官し昇殿を許されている。

『松浦古事記 寛政元年(1789年)成立 著者不詳』

・「往昔に神功皇后が御祈願をこめられた例」というのは、多分「神集島」のことで「加部島」ではない
・秀吉が佐用姫神社に百石寄進した朱印状は実存し名護屋城博物館に収蔵されているらしい
・佐用姫と大伴狭手彦というのはさよ姫伝説の事

「宣化天皇の頃、任那を新羅から救済する為大伴狭手彦が唐津に駐屯した。
そこで狭手彦は現地の豪族の娘の佐用姫と夫婦になるも、
狭手彦は朝鮮への出征により佐用姫を置いていくことにする。
佐用姫は夫を慕い、乗っている船を追いかけて加部島までたどり着くも、
結局夫と離れ離れになってしまう。
嘆き悲しんだ末、佐用姫は石になってしまった。」

というもの。(諸説ある)
元ネタは『肥前国風土記』の弟日姫子と大伴狭手彦だが、
出征して離れ離れになるとこまでは同じだが、加部島には行かないし石にもならない。

675 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/17(金) 18:45:26.29 ID:MF2YxTVe.net]
万葉集で大伴旅人に歌われるような伝説にたいして風土記が元ネタというのは違和感が

676 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 15:20:21.58 ID:L6OBA41M.net]
>>675
正確には、奈良時代には広まっていた肥前国であったとされた伝説が元ネタですね。
万葉集では別れを惜しんで山に登って領巾を振る光景を主に詠っていますね。
どちらでも、佐用姫は加部島に行かないし石にもならない。

ついでに、佐用姫と秀吉の逸話をもう一つ投下


豊太閤が名護屋の御城におられた時、加部島を逍遥された。
浜辺に一つの石があったので、しばし休もうと腰をかけられると、
この石が温かくなってむくむくと動いた。
太閤は驚き、

「これは怪しい石である。きっと由縁があるに違いない。」

と古老を呼んで尋ねられた。

「あれは佐用姫の御形石です」

との答えがあったが、太閤は

「どうしてそのようなことがあろうか」

と尿をかけられるた。
すると沖の方からにわかに大波が来てこの石を洗い流した。
さすがの太閤も大変感じ入り、自らの無礼を詫びられて、
古人平野某を召して神司とし、
その場で百石の証文を授けて佐用姫の霊に仕えさせるよう
大谷吉隆(吉継)に仰せられた。

今もその例により、徳川家から代々百石の朱印を授けられている。

『松浦の家つと 安政六年(1859年)序 明治三十一年(1898年)刊  著者 岡 吉胤』

677 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 15:59:59.61 ID:TyxkKzHL.net]
>>676
なんなの秀吉のテンプレでもあるのw
秀吉がおごり高ぶったことをする(しかも下品なこと)
→自然現象が起こる
→神意をみた秀吉が反省して色々奉ってみたりする

678 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 16:13:56.51 ID:lNAyAxB5.net]
あるいは太閤の小便には超自然現象を起こす能力があるのやも知れん

679 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/18(土) 22:54:13.84 ID:/FtvZE1I.net]
>>677
あるんだろうね
秀吉が家臣の妻に手を出そうとしてしっぺ返しをくらう、みたいに

680 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG.net]
(今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』



681 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 03:51:10.05 ID:gSypgfin.net]
なんとなく秀吉=将軍さま 自然現象=一休さんの構図が見えた

682 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P.net]
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。

683 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi.net]
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

684 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp.net]
家光が最後に上洛した時の事かな
i.imgur.com/8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw

685 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4.net]
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy.net]
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね

687 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq.net]
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である

688 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw.net]
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA.net]
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj.net]
守護大名がか?



691 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi.net]
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX.net]
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG.net]
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI.net]
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

695 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7.net]
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。

696 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM.net]
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。

697 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1.net]
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな

698 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw.net]
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防。
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』

699 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd.net]
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w

700 名前:1/2 mailto:sage [2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11.net]
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。



701 名前:2/2 mailto:sage [2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11.net]
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。

702 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS.net]
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

703 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/27(月) 13:50:11.67 ID:uFMed9Vq.net]
夫死して妻を取り殺す事

 摂州榎並村友淵村の善兵衛の嫁は中村の源兵衛の娘であった。
善兵衛は三十三歳で死にその時に嫁は十六歳であった。
夫が死んだ後、女は親の源兵衛の所へ呼び返された。
 さる程に夫の精魂が火と成って、
蹴鞠の如く地面から一尺程高く上がって毎夜来て村際で消えた。
源兵衛の家は家中騒がしくなり、娘が目に見えて恐ろしいものが来たと髪を抜くこと折々である。
娘は父母に向かって、恐ろしいものが来たと言って恐れ伏した。
遂には髪の毛は皆抜き尽くしてしまい、三十日中に取り殺してしまった。
寛永十年の事である。

(片仮名本・因果物語)

704 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl.net]
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』

705 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B.net]
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』

706 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 19:05:48.04 ID:hBCsFRe+.net]
慶長18年(1613〉、伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

『広大な世界における御親、五番目のパパ・パウロ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形・伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国において、サン・フランシスコの門派もバテレン、フライ、ルイス、ソテロらが
デウスの御法を広めに来られた時、私の所にも御見舞に来られた。その口より、キリシタンの様子、
また何れからもデウスの御法の事を承った。
それについて思案するほど、殊勝なる内容であり、まことの御定の道であると存じ奉り候。

それに従って、キリシタンに成りたいと存じながら、今のうちはは難しく、差し控えたい仔細があり、
未だその儀に至らず。さりながら私の分国中、おしなべて下々まで、キリシタンに罷り成り申すよう
勧めたいために、サン・フランシスコの御門派のうち、オブセレバンシャ(サン・フランシスコ派の一派)の
バテレン衆が渡来下さる事が、何にも増して殊勝大切に存じ候。

渡来される事成れば、そのバテレン衆に万事に付き宗教上の特権を許すだろう。そのバテレン衆に、私の方より
寺を建て、萬に付き御馳走申す。
我が国の内において、貴きデウスの御法を広めるために、然るべきと思う程の事は、みな定めたいと
考えている。そのため、別して大いなる司(大司教)をお一人定め、下してほしい。そうすれば皆々
必ずキリシタンに成ると存じ奉り候。

我々はどのようなことでも承るので、御合力については少しも気遣いはいらない。
これについて私が心中考えているほどのことは、このフライ、ルイス、ソテロが存じている。
貴老様御前にて申すことが叶うよう頼み入り、我々の使者と相定め派遣した。
その口上を聞いて頂きたい。

このフライ、ソテロに差し添えて、我等の家の侍一人、支倉六右衛門尉と申すものを、同じく使者として
派遣した。私の名代として、御従いの印、御足を吸い奉るために、ローマまで進上致す。

私の国とノヒスパーニャ(メキシコ)の間は近国であるので、今後イスパニヤの大皇帝ドン・フェリペ様とも
申し談じたい。その実現の調整のため下す。バテレン衆にはこの渡海が成功するためにも、頼み奉り候。
私は、貴きデウス天道の御前において、御内証に叶うよう頼み奉り候。
なお、この国において、いかようにも御用を申し付けていただきたい。随分に御奉公申し上げる。
また、これしきの事なれども、日本の物品を、恐れながら進上仕る。

なおバテレンのフライ、ルイス、ソテロと六右衛門尉が、口上にて申し上げるため、
その口上次第に成るだろう。早々恐れ入り候

恐誠謹啓曰
                伊達陸奥守(花押)

  慶長18年9月4日           政宗(印)』

(異国叢書)

707 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 20:44:20.54 ID:oD8J3lSn.net]
「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental worldより
同シリーズは「1古代編」「2中世編」「3近世編」「4ナポレオンの時代編」「5東洋編」で構成されていて
戦国時代関連の記述見るといろいろおもしろい、以下内容を抜粋。
(原著の論旨を損なわない範囲で訳者が補訂しているため極端におかしな箇所はない)
・大名の家臣たちが提供すべき兵士の人数や装備は、田畑の生産高で評価される財産額に応じて決められていた。
単位は一人の人間が一年間に消費する米の量「石」である。
・日本では20種類以上の陣形(中国の陣形を取り入れたものもある)があり、代表的なものとしては
「鋒矢」「方円」「鶴翼」「雁行」「魚鱗」「衡軛」などがある。
・日本の軍隊には太鼓所役という専任の鼓手がいて、仲間が背負った太鼓を所定のリズムで叩いて戦闘を指示した。
・1561年の川中島の戦いでは武田軍は啄木鳥戦法を用いて挟み撃ちにしようとしたが(ry(出典:甲陽軍鑑)
・「雑兵物語」という兵学書によれば接近戦での刀の扱い方を説いた記述があり「兜を狙うがいい、ただお貸し刀がなまくらなら手足をねらえ」とある
・「箕輪軍記」という日本の軍記物語には100人の鉄砲足軽が一度の戦いで600〜700人もの敵兵を倒したと記されている。
・信玄の騎馬隊は伝説として語り継がれた。16世紀中頃は騎兵が主流を占めたが武田軍の戦いの多くでは残存兵を一周するため下馬を余儀なくされ、
徒歩の従者が同行していたため進軍速度も上がらなかった。また、当時の日本の馬は、体高も体重も現代の馬の半分しかなかった。
・長篠の戦いで武田勝頼は3万3千の兵のうち2万7千以上は騎馬武者とその従者であったが、馬防柵と3000丁の火縄銃の集団斉射により敗れてしまった。
(この戦いでは小火器の役割が誇張されがち、とも書かれている)こうして日本では騎兵時代はほとんど始まりもしないうちに、終わってしまった。
・三成は小早川が裏切ることを懸念してか戦況に影響がないように自軍の右翼に据えた。これは実戦経験の少ない武将の誤算であった。
・三成は地の利を活かし、盆地を見下ろす高台に軍を配し、三方から敵を攻撃できるようにした。
・家康は17歳の小早川秀秋が寝返らないためしびれをきらし、火縄銃兵隊(マッチロック式マスケット銃で武装)に、斉射させた。小早川軍は大谷軍に襲いかかった。
・島津義弘は関ヶ原で行動しなかったが、これは夜襲の提案を一蹴されたからである。
・島津義弘の甥は義弘と兜を交換し、獲物をあさる赤鬼(井伊直政)に立ち向かい、追撃を十分に遅らせるが、討ち取られ、他の多くの首級とともに晒された。
・忍者の軍事行動に関しては伝説化され誇張された物が多いが、たとえば1600年の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の忍者は死体に扮した狙撃者を残し、
本隊が退却した後に起き上がり標的を向かって狙撃した。高名な井伊直政もこの時銃撃を受けて重傷を負ったという。
・李舜臣は優れた指揮能力により朝鮮を救ったが、その後日本軍への攻撃命令を拒んだことから国王の不興を買う。
李舜臣は攻撃命令が、日本側の密偵からの偽情報に基づくものだとわかっていたのだ。
・大坂の陣において、秀頼は真田幸村という強力な味方を得た。彼は城を守る名人であり、彼にちなんだ真田丸に、徳川軍をおびき寄せて一斉射撃で撃退した。
などなど、「東洋編」にしては図説のある20の戦争中8つが日本関係で(川中島、長篠、文永の役、弘安の役、閑山島海戦、関ヶ原、大坂の陣、晋州)

708 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP.net]
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房は
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。

709 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/30(木) 23:36:12.16 ID:ruAHZZqv.net]
馬の速度は時速15kmらしい
それに対して人のは12kmだそうだ

710 名前:人間七七四年 [2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL.net]
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。



711 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/31(金) 17:32:24.73 ID:GXvuqNGc.net]
戦国時代の北伊勢の国人衆、「HKS48」こと、北勢四十八家はご存知でしょうか?
このHKS48、実際には五十三家の国人がいたそうで、そこから選抜された国人だけが四十八家を名乗れたという。

という戯言はさておき、北伊勢のネタ?が少ないようなので、ちょっと発掘してみました。

近江六角勢による北伊勢侵攻「神戸城攻防戦」

弘治三年(1557)、近江の佐々木六角承禎(義賢)は、小倉三河守実隆(蒲生定秀三男)に命じ、伊勢国三重郡にある柿城(現朝日町)を攻略させた。
柿城主・沢木(佐脇)宗喜は神戸(かんべ)氏に救援を求め、当主下総守利盛は自ら一千余騎を率いて出陣した。
ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である、岸岡城主・佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、本拠、神戸城を略奪、利盛の妻子を追い出すや、近江勢、小倉実隆を城に引き入れたのである。
急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣、古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。
当時、神戸氏は宗家たる関氏と険悪な関係であったため、これを頼ることが出来ず、利盛は母方の長野輝伯(藤定)を頼ることとなった。
長野氏は同心し岸岡城に援軍を出すと、神戸・長野連合軍はただちに神戸城へと押し寄せた。
小倉実隆も防戦するが、地の利を知る神戸勢は勇戦、城を包囲するや諸方より攻め立てる。
やがて小倉勢は破れて千種城に引いた。利盛はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。
主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は城を逃れて十宮村に引潜んだが、利盛はこれを許すといって招いた。
佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。
昔、佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。
「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。
そのあと2,3回これをけった。
するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

(勢州軍記)

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家のお話。

712 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/01(土) 10:12:09.50 ID:+GLeDb+v.net]
支倉常長、スペイン国王宛書簡

『昨年私の主君である奥州の王に宛てた、陛下の答書を与えられることを願いましたが、艦隊の出港までに
これに接することが出来なかった故に、随員は同艦隊にて帰国の途につきましたが、私はこれに乗り込むこと
出来ませんでした。

その後、去る5月到着の報知船によって、日本よりの報告および書簡を得ましたが、これに寄れば国王(政宗)は
キリスト教を保護し、その領内の会堂及びキリシタンを支持したるのみならず、諸人に対し恐れること無く
信仰を継続すべきことを諭し、その領内に逃れ来たりし者は皆、これを保護しました。
日本国中においてこれ程の事を成し得た王は、我が君及び、皇帝(徳川家康)が戦を行いたる国君(豊臣秀頼)の
他、一人もありません、

皇帝は偽神の助けにより、戦争に勝利を得ようと欲してキリスト教への迫害を成しましたが、その目的を
達すること能わざりき。よって我が君並びにかの君国はいよいよキリスト教を喜び、これを保護するに至りました。

我が君、並びに日本のキリシタン全体は、本使節が使命を全うして、宣教師、及び司教を伴い帰る日を
待ちて、その善き計画を実行せんとしています。これ故に、私は昨年乗船すること無く、既に決定している
通り、宣教師を派遣することを陛下が命じ、また司教については法王の定めたことを実行されることを
請願するのは、神の摂理による物であると信じます。

また日本の皇帝が、マニラその他の地方に放逐した宣教師等が、服装を変じて密かに、前に居た地に
帰っているという話が伝えられましたが、奥州は日本の極端ですから、特にその地に向けて派遣された者の他は
その地に到着することは出来ないでしょう。

陛下の希望は正統なるキリスト教の隆盛に他ならず、そして彼の国においては先に述べたように希望と意向とを
有するが故に、これを述べることは、我が君なる王ならびに彼の国その他キリシタンのため、私が為した
請願が入れられた事で、最も有効なる動機となるでしょう。
また私に対しては、速やかにこの旅行を終え、彼の地に帰りて陛下より受けた恩寵を語るという栄光を
得せしめられる事を信じます。

もし新イスパニア(メキシコ)と日本との通商が許されないのであれば、イスパニヤとの直接の通商の許可が
あらんことを請う。
またフィリピン諸島の長官には、我が君なる王と特別の親交通信を命ぜられることを請う。

我が君が、陛下のためいかなる事をも辞さない事は、前に陳述しましたが、再びこれを陳じます。
神が陛下を護り、多年の間栄せしめ給わることを祈る。

1617年4月24日
           セビーリャに於いて

 陛下の僕 ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ
       とん、ひりへえ、ふらいせすこ(日本語)
         支倉六右衛門長経(常長) (花押)』

(異国叢書)

秀頼のことを書いていますが、この日付だと2年前にすでに豊臣家は滅びていますね。
支倉はそのことを知らされていたのかどうなのか…。

713 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:12:46.49 ID:FFz+Fxy5.net]
加藤肥後守(清正)は物見に出る時も、自身で出て行った。

また、小屋などを掛ける時も自身で奉行を仕りなさった。
その小屋割までも申し付けなさった。万事この如くであった。

このせいだろうか、家来に優れた功者は左程出来なかったという。

――『武功雑記』

714 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:32:31.32 ID:I/jla4Bs.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10561.html
同じように部下がやるようやことも率先してやるのに
三成はdisられるという

715 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 13:50:32.00 ID:n5dsJeVM.net]
部下がやるような仕事を大名がやるのは低能の証拠

716 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 14:39:24.29 ID:kVLlzw6p.net]
部下がやるような仕事まで清正がやってしまうためなのか
家臣がそれほど育たなかったといわれてるんだから清正も褒められてないだろ

717 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:15:15.42 ID:xFKpY4zL.net]
毛利家臣の井上元兼と志道広良と親が勤めてる会社に少なからず関係があったことを知った
某財閥系なのだけど創業者の井上馨は井上元兼の子孫で志道家の養子という
これからは広島に足を向けて寝られないな

718 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:43:15.71 ID:AcoNEl8P.net]
>>717
感謝する意味が分からん
そもそも関係ないやろ

719 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa.net]
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ

720 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 00:00:53.97 ID:3cglSWb1.net]
 紹巴の所へ、九州から連歌に執心の人が上洛した。
ある時紹巴へ

「国元への外聞もありますので、三条西殿へ御礼申し上げたいです。」

と言った。紹巴はお易い事だ、とすぐ彼に同道して行かれた。
その道中で紹巴は九州の者に忠告した。

「御公家衆は物事に御念が入り、根問いをなされるものだ。
貴所の宿は三条にあるので、左様の気遣いが肝要ですぞ。」

「まことに御心づけかたじけない。その事はまかせてください。」

さて二人は三条西殿と御対面した。
三条西殿は御杯を下されるたり、

「今後、上洛の折節には待っております。」

等と仰せられたりなどして、九州の者に様々に御懇ろにされた。

 さて、案の如く「ここでの宿は」と御尋ねられた。
かの人は何と心得たのか、

「二条のしも」

と申した。

「二条の下、とは」

と仰せられると、また

「四条のかみ」

と申す。

「四条のかみ、とは」

と仰せられると、その時かの人はうろたえて、

「三条の西のつらの、きたない家におりまする」

と申し上げてしまった。帰る途中で紹巴に叱られて、

「無用な御心づけであったな」

とかえって恨む結果となってしまった。

(昨日は今日の物語)



721 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 01:35:46.26 ID:uQG10uOK.net]
九州の御方とは何方の事で?

722 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 07:42:49.52 ID:McgHQoUK.net]
島津家久だろうな






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