[表示 : 全て 最新50 1-99 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 2ch.scのread.cgiへ]
Update time : 12/08 00:43 / Filesize : 265 KB / Number-of Response : 997
[このスレッドの書き込みを削除する]
[+板 最近立ったスレ&熱いスレ一覧 : +板 最近立ったスレ/記者別一覧] [類似スレッド一覧]


↑キャッシュ検索、類似スレ動作を修正しました、ご迷惑をお掛けしました

【歴史】鎌倉幕府は、なぜ滅亡したのか?〜「引き金」となった後醍醐天皇の常識外れ ★2 [首都圏の虎★]



1 名前:首都圏の虎 ★ mailto:age [2020/05/23(土) 15:57:00 ID:cj9ciSJh9.net]
本日5月22日は旧暦で鎌倉幕府が滅亡した日。そこで、同書の一部を抜粋編集し、なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのかを紹介する。

北条氏得宗の専制政治
山川出版社の高校教科書『詳説日本史』で鎌倉幕府が倒れた原因としてあげられているのは、次の三点です。

1)蒙古襲来で、御家人たちは多大な犠牲を払って奮闘したにもかかわらず、十分な恩賞を与えられず、幕府への信頼を失った。
2)御家人たちは、分割相続の繰り返しで所領が細分化し、貨幣経済の発展に巻き込まれて、窮乏していった。
3)畿内やその周辺で、「悪党」と呼ばれる新興武士が、荘園領主に抵抗するようになった。このような動揺を鎮めるため、北条氏得宗家の専制政治が強化されたが、それがますます御家人の不満をつのらせ

この中でもっとも重視されているのが、「得宗専制」と呼ばれる当時の政治状況でしょう。最後の執権となる北条高時の時代、得宗の家人の第一人者である「内管領」長崎高資が権勢を振るいます。これが御家人の反発を生み、倒幕運動が起こったということになります。

鎌倉幕府が倒れた背景には、ここであげたような歴史状況があったことは確かです。しかし、実際に倒幕の核となる存在が現れないと、なかなか倒幕などできることではありません。そこで登場したのが、後醍醐天皇です。

後醍醐天皇の権力掌握の野望
当時、天皇家では、後嵯峨天皇の子の代に、またしても皇位継承の争いが起こっていました。詳しい説明は省きますが、後嵯峨の死後、後深草上皇の皇統と、亀山天皇の皇統が並立し、幕府の調停でそれぞれの皇統が交代で皇位に就く両統迭立という方式がとられていました。

後深草の皇統は、院御所の持明院殿に住んだので持明院統と呼ばれ、亀山の皇統は、後宇多法皇が大覚寺に住んだので大覚寺統と呼ばれます。

両統迭立は、スムーズに実現していたわけではなく、両統が幕府に積極的に働きかけ、できるだけ自分に都合のよい結果を得ようとしていました。

亀山の後、同じ大覚寺統の後宇多が天皇になり、その後、伏見、後伏見という持明院統の天皇が続きます。後伏見の後は、大覚寺統の後二条が天皇となり、次は持明院統の花園が天皇となります。そして、その次の天皇が大覚寺統の後醍醐です。

しかし、大覚寺統では後二条が直系と見なされており、後醍醐は中継ぎの天皇にすぎません。そのため、皇太子には後二条の皇子である邦良親王が立てられ、後醍醐は、退位した後は後宇多から譲られた所領をすべて邦良に譲り、後醍醐の子どもたちも邦良に仕えることにされていました。

大覚寺統で皇統が続くわけですから、当然、持明院統は抵抗しました。しかし、邦良の後は持明院統の後伏見の皇子、量仁親王が立つということで、妥協したのです。 

ところが、後宇多法皇が没すると、風向きが変わってきます。祖父後宇多の後ろ盾を失った邦良側は、後醍醐に早く譲位してもらって皇位を確保したいと考え、持明院統も、邦良が即位すれば量仁が皇太子になるので後醍醐の譲位を望みます。後醍醐は、大覚寺統からも持明院統からも攻撃される立場になりました。

もし後醍醐が直系の天皇であれば、譲位して院政を敷くこともできます。しかし、後醍醐にその選択肢はなく、自らの皇統を続けていこうとすれば、あくまで皇位にとどまるしかありません。その最大の障壁が、両統迭立を支持する幕府だったのです。

そこで、後醍醐は、腹心の公家、日野資朝・俊基らに各地の武士を勧誘させます。しかし、これは京都の幕府の出先機関である六波羅探題に察知され、資朝らはとらえられます。これが正中の変です。

正中3年(1326)、邦良が没すると、後醍醐は皇子の世良親王を皇太子にしようとしますが、持明院統の巻き返しによって量仁が皇太子になります。

後醍醐は、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)を天台座主(天台宗の総本山・比叡山延暦寺の住職)とし、僧兵勢力を頼ろうとします。こうした動きに危機感を持った大覚寺統側の腹心、吉田定房は、後醍醐の動きを幕府に密告します。これは理解できるところです。後醍醐が無謀な挙兵をすれば、大覚寺統そのものが倒れてしまうことにもなりかねないからです。定房は、それに恐怖感を持ったのでしょう。

全文はソース元で
5/22(金) 12:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/f045c07d0de5b94e29c6839e77aa557fa22f5e50
https://amd.c.yimg.jp/amd/20200522-00010000-php_r-000-1-view.jpg

★1 2020/05/23(土) 01:16:02.50
前スレ
asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1590164162/

401 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 12:43:04.97 ID:GjXJ2KSP0.net]
讃えなくてよいw

402 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 12:46:07.77 ID:HJTbenkG0.net]
秋山の雛鶴峠

403 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 12:56:00 ID:sqTOxBSb0.net]
いっやいや
徳川を称えるなら家康だろw
秀忠は関ヶ原に遅れるし家光は3代目うましうましなだけだし

404 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 13:08:03 ID:jHjLtqya0.net]
政治的な実権が無かったから天皇家は続いてきたって
よく分かる事例が後醍醐。

大政に介入しようとすると後醍醐みたいに天皇でも討伐の対象となり
後鳥羽上皇みたいに島流しまでもされる

405 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 13:26:49 ID:u9F+teTs0.net]
北条泰時が武蔵野を開墾してたな

406 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 13:29:49 ID:foyYxNgl0.net]
>>390
高氏は破天荒ではない完全なリアリスト
流されやすい優柔不断型の研究もあれば
目的を持って御家人の立場と武家の立場で
やるべきことをやった様にも見える

後醍醐はどの研究でもどうかしている
天皇は神だと本気で思っている様で
やってることはすごくせこいし
超がつくほどの俗人にも見える

407 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 13:31:44 ID:IpzylfBX0.net]
>>397
まさにね、北一輝が喝破しているように
ジャップ国の歴史って乱臣賊子の歴史なんだよwww
およそ日本史の英雄で赤心をもって皇室の安寧のため
活動した"英雄""豪傑"の類がおるかね。
ウリは親韓左派だからあんまりネトウヨみたいなことは言いたくないがw

北条氏が承久の乱で後鳥羽上皇をアレしたように、
足利幕府は後醍醐帝をアレしたし、
織豊、徳川はどうだった? 明治維新政府は? 軍閥は?
戦後のジャップ政府は今に至るまでどうだったか? 
誰も

408 名前:ガチでは尊崇などしてやいないんだよ。口先はともかく。

そんなの時間を遡ってもじゃあ平家は? 源氏は?
その前の藤原氏は? と数え上げても忠臣なんざいないねwww
[]
[ここ壊れてます]

409 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 13:43:26 ID:w+yEnq5a0.net]
>>396
秀忠は自身の戦争下手を認識してたからこそ、
軍事力一辺倒の家康とは違って、軍事力だけに
頼らない統治方法を考えたと言えるだろう。
江戸幕府の重要な法律はほとんどが秀忠治世下で制定されてるし。



410 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 13:51:41 ID:u9F+teTs0.net]
日本は鎌倉時代から大陸や半島と違う道を歩み始めた
とは言われるが日本人がそれを求めていたからだな
後鳥羽を島流した北条義時は公家からも僧侶からも称賛されるし
後醍醐が新政始めたらダメだコリャ言われて追い出されるし

411 名前:不要不急の名無しさん mailto:age [2020/05/24(日) 14:20:30 ID:+LBa2TX00.net]
>>400
お前が算術が苦手なだけだな。何かことが起きた時に記録される。大半はことを起こさない忠臣によって時は進む。

412 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:22:08 ID:DMCdIlDe0.net]
>>1
後醍醐天皇だけでは無いが
天皇家には鎌倉時代以降の統治能力は
全く失われてしまった

413 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:25:56 ID:DMCdIlDe0.net]
>>400
天皇家には鎌倉時代以降
統治能力は無かったからね?
貴殿は親韓左派なのだろうが
戦前の日本だけが特殊なだけでは無く
全体的に日本では統治能力があった為政者は少なく
部下の中堅官僚などがうまく事を動かしていたのでは無いか?

414 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:26:58 ID:u9F+teTs0.net]
一応鎌倉時代は二元政治で西国や公家たちの領地は
朝廷が治める手筈になってた

ところが承久の乱で幕府が上に立つとどんどん朝廷側が権力差し出してくるんだよ
しまいには皇位も幕府に決めてもらおうとあれこれ動き始める
後醍醐は傍流だから幕府潰しに行ったがw

415 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:28:05 ID:DMCdIlDe0.net]
>>397
政治的実権があって
統治能力があり過ぎだったら
家が続いていかなかったかもしれませんね?

416 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:32:10 ID:Z+49+y4S0.net]
>>406
後醍醐の場合傍流という血統の背景より密教にハマったりとんでもなパーソナリティの方がその人生を大きく左右したように感じるけどな

417 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:32:13 ID:DMCdIlDe0.net]
>>406
皇位も鎌倉幕府や北条得宗家が決めて
武家と同じ様に
養子の様な猶子が設定されて
猶子が天皇さんに成れる事になった
皇室にも皇位継承出来る男子が少なくなったからでしょう

418 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:34:37 ID:IpzylfBX0.net]
あとねえ、スレでは鎌倉幕府や北条氏が民政に力を入れたって話があって
これはまあそうなんだよ。なんでかっていうと鎌倉幕府って革命政権だから。

もともと平安時代以前だって関東に民百姓はいて在地の支配者はいたんだよ。
のちに武士として頭角を現す地頭とか地侍といかいったもんだけどさ。
で、何をしてたっていうと遠い京都の貴族様に
税として租庸調その他をかっぱらわれるだけの存在な。
その貴族様は遥任とかなんとかいって任地にすら来ないわけだけど。

支配者が京都の平安貴族から京都の平氏一門にかわったってフレームは同じで
そりゃ頭くるよねw 自分の土地からの収益は自分たちで分け合いたいじゃん。

その平氏政権と戦って敗れた国家公認の逆賊謀反人である源頼朝が
千葉の南端、安房に少数で流れ着いたとき、千葉県民が襲撃も捕縛もせず
諸侯が続々やってきて頼朝公の臣下として頭下げまくって源氏擁立、
関東独立の夢を見たのはこれは

419 名前:然じゃないんだよ。
そして源平争乱という史上初の関東自治権獲得革命戦争に"勝った"わけでね。

そりゃまあ内政なんかに力を入れるよね。
一所懸命とか本領安堵とかそういうノリで領国経営にあたるんだから。
そういうのはさ、任地にさえ来ないような平安貴族みたいな一方的搾取者とは、違うよ。
[]
[ここ壊れてます]



420 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:35:37.65 ID:jzAf/RLs0.net]
1333年になってしまったからや

421 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:38:54 ID:u9F+teTs0.net]
鎌倉幕府は訴訟扱うが道理に照らして判断していくのを宣言してて
必ずしも御家人に有利にしなかった
だから公家や寺社も幕府に訴訟もってくるわけだが
武家がオレらの味方しろと文句言わないのも凄い
個別のケースでは判決にぶーたれるが

422 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:39:27 ID:NGdnF68f0.net]
>>343
後醍醐天皇の祖父の亀山院も中々ですよ
異母妹に子供を産ませるし、出家後も好色と記録されるくらい
息子・後宇多天皇の妻(遊戯門院)に手を出したという誤解までされたけれども
実際は別の嫁(後醍醐天皇の生母)に手を出していた

同時代に生きた後深草院二条に「とはずがたり」で亀山天皇の好色について書かれる始末

423 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:40:58 ID:/GrIie3Q0.net]
旧暦の話を今の暦でやるのはバカだと思う
旧暦のその日にやればいいのに
忠臣蔵もそう

424 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:41:28 ID:jShmuebU0.net]
鎌倉幕府の仕事は、ほとんど相続を巡る裁判だからな

425 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:41:56 ID:pMRLtb+w0.net]
>>220
こうしてみると鎌倉幕府って結構長く続いたんだな。北条偉い!
そこへいくとどうして細川、斯波、畠山は北条みたいになれなかった、ならなかったんだ?

426 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:44:15 ID:vJu9sZzn0.net]
建仁寺の勅使門は六波羅探題の北門を移築したものだって
https://goo.gl/maps/x2KnyYEGPnGQ6dbC7

427 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:47:33 ID:It+naK7e0.net]
元寇で活躍した少弐氏が知られてないし
何やった一族?って扱いだろ
それが答えだよ

428 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:47:59 ID:eTOB3mwN0.net]
>>410
アメリカの独立戦争みたいなものだな。
で、せっかく独立したのに、革命政府に不満を持つ一部人民が
イギリス王室に寝返って革命政府を潰した結果、もとの奴隷に
戻されてイギリス王室と貴族に文句をたれる結果になったのが建武の親政。
足利尊氏とかいう畜生は、世話になった大統領とイギリス王室の両方を裏切って
自分が大統領の座についた屑中の屑。
で、その結果、内乱だらけの国になった。

429 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:49:08 ID:u9F+teTs0.net]
だから日本は鎌倉時代から法治主義に行って
情実やカネコネを排除してくんだが
後醍醐は幕府潰した時にその原理も壊してしまった
そんでこの頃都にハヤルモノとか言われてやっぱ武家政治がいいなーとなって
足利幕府が建武式目でオレら鎌倉幕府手本にするから言って

その後明治維新までずっと武家政権が続くことに



430 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:49:33 ID:iYX7pT2b0.net]
よくわかんないけど、ゲンジバンザイ

431 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:51:49 ID:NGdnF68f0.net]
>>409
承久の乱以後は西園寺家や洞院家の女性が生んだ皇子が中心に即位していく
けれど、両統迭立によって皇位継承の度に幕府が仲裁に入っても収拾がつかなくなるほど
大覚寺統側が分裂したという側面もあったので
人数が少なかったというよりは、候補者が多すぎての混乱だと思う

持明院統側も分裂の危機はあったけれども大覚寺統側に比べたら混乱は少なかったかと

432 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:52:04 ID:eTOB3mwN0.net]
>>375
それまで強大な力を誇っていた鎌倉幕府と同じように、
あっという間の滅亡だったな。

433 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:53:00 ID:PZF2tI3q0.net]
三方を山に囲まれてたって
時間かければそりゃ責められますって
でも市民として鎌倉という地が残ってて良かったわ。

434 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:55:25 ID:jShmuebU0.net]
北条も、有力氏族を滅ぼしたりして外道なんだけど、反感をもたれないように
空気を読んで御家人本位の政治をしたというのがある

没収した所領は、相続できない次男・三男坊や、敗訴した側への保証に当てたから御家人の忠誠心の獲得に成功してる

435 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:57:18 ID:NGdnF68f0.net]
>>418
北九州で勢力を持ち実際国防に関わった一族でしょう?
詳細は知らないけれども鎌倉時代の後半に鎮西探題を設置される前から活躍していた

幕府滅亡後、最後の執権の弟がそこで戦死していたと記憶

436 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:57:21 ID:q370RuCT0.net]
ゴー デー ゴー

437 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 14:57:43 ID:zkpGshF20.net]
源氏系の足利尊氏が開いたのに

そのあとはずっと平氏系の北条氏が実権を握る謎の時代というイメージ

438 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 14:59:35 ID:q370RuCT0.net]
新田義貞や 楠木正成 だって被害者

439 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:00:40 ID:q370RuCT0.net]
なんか鎌倉幕府と室町幕府が



440 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:00:41 ID:iZFhRIwJ0.net]
>>408
真言立川流だね

441 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:00:57 ID:u9F+teTs0.net]
御家人本位だが庶民のことも配慮してた北条氏
泰時なんか街道に木を植えさせただけで感謝されてる
旅人を思ってくれてのことだーとかさw
時頼は撫民を打ち出して過度な労働の軽減も

吾妻鏡だと民庶の憂いとか言ってて庶民の逆になってるのが面白い

442 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:05:06 ID:DDU5/DHV0.net]
>>1
下手くそな文章だな
どこが常識外れだったのか最初に書けよ

443 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:06:21 ID:jHjLtqya0.net]
日本はヨーロッパ型に似てて封建制あって地方分権型。
下克上で地方の統治者だったはずの連中が権力が強化されたり、
地場勢力に突き上げられたりで独立化していく過程。

だから中国に忠実だった半島と違って、中国が作ろうとした東アジア秩序に
日本は従わずに対立したり時には逆に攻め込んだり。
世界が欧米白人に支配されつつあった中で日本は対抗して
欧米支配を破壊して日本がパイオニアとなって初めて経済的にも欧米をも支配した。

対して半島や大陸は中央集権。
毛沢東の奴隷みたいになったり北朝鮮みたいなのが
本来の中韓の姿で強者のポチになるタイプでだからずっと植民地のままだった

444 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:07:09 ID:eTOB3mwN0.net]
>>432
北条家の統治を勉強すれば、いかに善政を敷いていたか分かるよ。
家康も吾妻鑑を愛読していたから、参考にした事例が多かったのだろう。
その影響もあり、江戸時代は太平の世が長く続くことになった。

足利?裏切りもの。屑中の屑。ごみ。

445 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:14:53 ID:3G08O9+m0.net]
訳の分からん組織に権力移動してしまうとなあ
天皇将軍執権内管領連署寄合衆
あとはやはり近畿の方が国力がある

446 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:16:16.51 ID:NGdnF68f0.net]
>>435
泰時は苦労人だからその視点は御成敗式目に反映されているかもと思う

鎌倉の北条氏は有力御家人を結果的に殲滅し続けて最後

447 名前:斃されてしまい
室町の足利氏は幕府成立時から平和になるまで60年近くかかり
その後も権力基盤が脆弱で有力家臣を力で押さえつけられずに衰退
彼らを反面教師にして徳川幕府は基盤を構築したのでしょう

鎌倉幕府の凄いところは前例ないところからあそこまで形を作れたことと
後鳥羽上皇を配流したことだと思うw
[]
[ここ壊れてます]

448 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:17:52.19 ID:u9F+teTs0.net]
勝海舟は北条時代の御成敗式目を江戸幕府もそのまま用いた
庶民に深く浸透してたからそれで上手くいった言ってたな

あの御成敗式目も法律が庶民や学のないものに理解されないと
官僚のいいように判決が出てしまうというので
誰にでもわかりやすいように書いて全国の地頭に配って
みんなに法の中身を伝えるようにってやった
庶民に深く浸透するのももっとも

449 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:23:01 ID:IpzylfBX0.net]
>>419
そう、独立戦争の比喩は面白くて
まさに「代表なくして課税なし」なんだよw
この場合は京都くんだりの朝廷に代表なんていらないから
(最近毎日いってるが北条得宗家でさえ官位が低いってそういうこと)
自治権寄越せとこういう話なわけでね。

だからまあその折角手に入れた鎌倉幕府の東国自治権に
アンシャンレジームの後鳥羽上皇が手を突っ込もうとすれば
関東武士団続々集まって都まで攻め上って官軍破っちゃうわけw
まあこれもよく考えればすごい話なんだがwww

>>425
>>432
撫民に気を配ったのはある意味当然でまあ兵農未分離の時代だしねw
一所懸命や本領安堵なんていうくらいだからそこは本気で領国経営やったでしょ。
逆に言えば水争論やら山争論で揉めると怖いぞ、ともいえるわけだけど。

それに源平争乱や承久の乱に元寇なんかもそうだけど
兵站とか随分整ってた感もあるよな。あれはどういうことなのか。

ともあれそういう内政に心を配ったからこそ200年後に当地関東一円を支配した
もともと北条でも何でもない伊勢新九郎を嚆矢とする後北条氏は
その名を名乗ったわけだし、この後北条氏もまた戦国大名の中では
内政撫民に特に力を入れた領国経営で知られておりますな。



450 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:24:51 ID:6D15rphe0.net]
だから明治になって天皇が大元帥になって軍事権も統帥する
天皇が征夷大将軍も兼ねる形にしたんだな

451 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:25:32 ID:QcAI5s9P0.net]
トラストミー

452 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:33:52 ID:XFIEm/di0.net]
>>439
今の日本政府はいつになったら内政撫民に力を入れて、四公六民にしてくれますか?

453 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:35:51 ID:u9F+teTs0.net]
兵站は自腹だろう
いざ鎌倉で各自が備えておく
義時なんかはあんま大掛かりな事業はしてない印象ある
京と緊張関係にあったから財政的に余裕持たせたい思惑ありそうな
承久の乱終わって幕府が安定したら泰時が港作ったり
街道整備したり武蔵野開墾したりと事業やり始めた

454 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:37:01 ID:oi4pt6Zy0.net]
ざっと読んて明治維新=クーデターとか言ってる馬鹿がいるんだな(笑)
鳥羽伏見の戦より先に大政奉還あったのを都合よく見えないフリして。
その時点で徳川幕府は存在してないし、征夷大将軍の職もない。
(強いて言えば鳥羽伏見の戦2日目で、仁和寺の宮様が征討大将軍となり錦旗を授かった)

455 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:38:19 ID:9FDoEalo0.net]
今、4割税金払ってる人なんて、相当な金持ちしか居ないだろうに
バカは何処までいってもバカなんだな

456 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:41:03 ID:fyU0eyf ]
[ここ壊れてます]

457 名前:A0.net mailto: >>412
その裁判に時間はかかるし判決が出ても結局当事者同士での解決方法しかないから不平不満がたまり倒れた
[]
[ここ壊れてます]

458 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:41:37 ID:AjBOvcnW0.net]
明治維新の実態は、江戸の三河武士から、長州の三河武士への国譲りだ

徳川と幕臣は公武合体させ、家格を上げてな  

長州の萩が三河の萩に由来している事でいい加減分かれ


家康が生まれた岡崎の平安時代の領主、高階惟長の嫁は大江広元の娘だ


実は明治政府というは三河国宝飯郡萩に隠れ住んだ南朝落人の政権で、同じく南朝系を称した徳川政権から禅譲されただけ
譲られただけだからこそ江戸城は無血開城され、今までどおり東京が首都になった
事実上、徳川幕府は崩壊していない


books.google.co.jp/books?id=RVXyIQq5VMYC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&source=bl&ots
=tYDHrH7uuT&sig=fBVt13JJ3pGPoJN1o7c5a6G4XE8&hl=ja&sa=X&ei=bHggU5HHKImgkgWuoYD4Bg&ved=0CDkQ6AEwAw#v=onepage&q=%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E3%80%80%E3%80%80%E8%90%A9&f=false
>三河の萩の南朝の末裔が、大江氏に連れられ長州に移り住み、三河の萩を忘れない為に萩と名づけた


三河国宝飯郡萩と大江広元(毛利氏の祖)

大江忠成(海東忠成)
・鎌倉幕府評定衆
・大江広元の五男
・三河の藤姓熱田大宮司家に養子入り
・熱田大宮司

藤原実範(三河守)→季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→範忠→忠季→忠兼→海東忠成(養子入り)→萩忠茂(三河国宝飯郡萩、萩大宮司))

459 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:43:05 ID:NGdnF68f0.net]
>>445
所得税などで直接収入の4割を納税する人は金持ちだろうけれども
更に消費税・酒税・固定資産税・自動車税などを換算するともう少し庶民寄りになりそう



460 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:46:13 ID:9FDoEalo0.net]
それでも4割なんて払ってねーよ
生命保険等、酒税ひとそれぞれのもん加えてんじゃねーよ
あと、固定資産税なんて、よっぽどの大邸宅にでもすんでなきゃ、月当たりたいした額じゃねーよ
まずはその底辺過ぎる知能どうにかしろよ

461 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:47:04 ID:XFIEm/di0.net]
>>445
逆だよ
年収一億超えてる方が税負担率低い
かつて17段階で所得税とってたのが安倍内閣から超高所得者ほど税率下がる仕組みになってる。

462 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:48:51 ID:9FDoEalo0.net]
サヨクってやっぱり知能ないんだ
日本語も満足に語れない

463 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:49:30 ID:NGdnF68f0.net]
>>449
例えば、親世代が住まう家の固定資産税を子供が払うとかもあるけどね?
家族の単位が単身か、核家族か、例えば三世代家族かによって
その割合は変わるんじゃないかなと煽り抜きで思ったよ

464 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:51:35 ID:foyYxNgl0.net]
>>452
ないです

465 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:52:04 ID:u9F+teTs0.net]
時頼の廻国説話も善政の証みたいに言われるな
水戸黄門は時頼に著作権料払っていいぞw

466 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:52:34.96 ID:jShmuebU0.net]
>>446
御成敗式目中にすでに簡易裁判が規定されてる
書面で是非が明らかな場合は、即決

467 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:52:38.65 ID:Gws2dgg00.net]
>>452
お前は何を言っているんだ

468 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 15:52:50.84 ID:AjBOvcnW0.net]
>>435
吾妻鑑を愛読していてのは、自分がよく知る三河がよく出てくるからだぞ


祐範
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E7%AF%84


例えば、頼朝のかーちゃんの葬式は三河の母方の菩提寺でやったんだが
この祐範が、伊豆に流される頼朝につけてやった侍従は、安達盛長ではないかと言われている


そしてこの母方の菩提寺には、頼朝の歯とあごひげが埋め込まれた観音像がある


滝山寺
takisanji.net/jihou_hou_seikanx.html

469 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:53:35.60 ID:foyYxNgl0.net]
>>455
それが問題で戦争が起こったわけだが



470 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:54:19.01 ID:4d+tMoL00.net]
九条頼経

471 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:54:30.50 ID:9FDoEalo0.net]
>>452
そんなケース毎の話されても
あと親の固定資産税払うって、単純に考えれば年数経ってるから家屋税はたいしたことないでしょ
それに、相続税発生は全体の8%位じゃね?
一般人からしたら、相続税が発生する程度に親から貰えるなら、ちゃんと払えやとしかいえん
その辺知らない人達を枡添みたいな金に汚いヤツが扇動してるだけ
稼いでるのだからちゃんと払えや
元々自分で稼いだ金でもあるまいと

472 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:55:15.33 ID:Gws2dgg00.net]
書類の有無と
早いもの勝を混同したクソ裁判システム

473 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 15:59:27.99 ID:hayqzKVI0.net]
所詮嫡流源氏と平氏の下部分家の北条とじゃ威厳も格も違ったからな
御家人の信頼も得られん

474 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 16:03:24 ID:NGdnF68f0.net]
>>438
当時の庶民にも周知させていき、そのまま江戸末期まで伝えられていた点が
泰時が非凡な政治家と思えるんだよね

475 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:03:47 ID:AjBOvcnW0.net]
実朝の正室に、足利義兼の娘が推薦されたように、政子ちゃんは足利氏のポジションがよく分かっていた

頼朝が所有していた源氏の宝刀(源氏の宝刀はいくつかあったらしい)は、政子ちゃんから足利義氏に譲られている

北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)であり
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事だ

頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった


金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)

・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める


・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝

葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)

・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護)

476 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:06:40 ID:B2E3IAMV0.net]
足利尊氏・直義兄弟が貞氏を父に上杉頼重娘の清子を母として生まれたのは
鎌倉大倉邸(ないし近くの上杉邸)であろう。

足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢(吉川弘文館/峰岸純夫著)

477 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:08:28 ID:B2E3IAMV0.net]
公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に くすの木の ねはかまくらに成ものを 枝をきりにと 何の出るらん という落首が記録されている
この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる

478 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:12:17.49 ID:AjBOvcnW0.net]
源義家
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→義家→公暁

正室(辻殿)
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁


源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→実朝

正室(足利義兼の女)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→女



こうなっていたら、歴史は変わっていた

479 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 16:19:21 ID:fyU0eyfA0.net]
尊氏と直義なんて兄弟仲が良くて手を取り合って討幕、建武の新政、北朝設立とやってきたのに最後は全国を巻き込んで戦争してるよな
源氏は呪われてる



480 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:21:50 ID:AjBOvcnW0.net]
>>465
上杉清子のとーちゃんは、1310年には三河在国なのが分かっている
恐らく、貞氏が出家した1301年?に、同じように出家して、三河に戻ったと考えられる
尊氏が生まれた1305年、清子にとって実家とは三河の実家なんだよ


■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。

481 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 16:23:13 ID:ci6A4Ljz0.net]
>>413
好き放題できる貴族はただの糞だということを教えてくれる天皇家
結論として天皇なんてただの人で糞野郎の人格倫理破綻者が大半で最近の天皇が割りと奇跡だと教えてくれる

482 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 16:33:25 ID:UcMOPz8J0.net]
長崎一族ごときが実権握るとか変すぐるw

483 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:36:50 ID:6D15rphe0.net]
戦後の天皇は海外からの視線を気にせざるを得ないから

484 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:40:51 ID:IhJl9iyU0.net]
>>457
家康が吾妻鑑を愛読していた理由がそうだどしても、
吾妻鑑から多くの影響を受け、善政をしいたという事実は変わるまい。
つまり、北条家が善政をしいたということは揺るがない。

485 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:45:18 ID:U3X6XRKO0.net]
殴り合う貴族たち
という平安期の貴族の行状を見ると
高貴な人も含め暴力的すぎて面白いね
花山天皇は上皇になって親子丼して両方に子供を生ませたり
花山院の屋敷の前を通る貴族の牛車の行列に下人に命じて石礫を
投げつけさせる
貴族同士の同性愛も多い

486 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:48:41 ID:CHimzf3X0.net]
このあたり詳しくないんだよねー

487 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 16:56:39 ID:U3X6XRKO0.net]
東ローマ帝国の皇帝の半数以上が暗殺、戦死、不審死でろくな死に方をしてないのに比べると
天皇や将軍ってほとんど自然死だから平和だなあ

剣豪将軍と頼家、実朝や古代の崇峻天皇ぐらいしか暗殺の例がない

488 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:05:39 ID:B2E3IAMV0.net]
京都貴族「鎌倉の御殿は帝釈天の宮殿かいな・・・東夷の田舎者のくせにナマイキやなあ・・・我々は衣装も体躯も貧弱や(とはずがたり他)・・・悔しいニダ」

489 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:07:09 ID:B2E3IAMV0.net]
人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之候。
実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌詠みの公卿たちととても同日には論じがたく、
人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。
(歌よみに与ふる書・正岡子規)



490 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:07:51 ID:PFgbNcIA0.net]
鎌倉の滅亡は蜀の滅亡みたいなものでしょ。
いきなり本拠地を攻略されたため滅んだみたいな。

491 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:09:18 ID:u9F+teTs0.net]
>>437
あそこまで形を作って行った泰時と
後鳥羽を配流した義時が
やっぱ武家政治のお手本とされるのも当然てことだな

492 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 17:10:54 ID:NGdnF68f0.net]
>>476
東ローマ帝国は平和な時代は世襲制だけど一度荒れると皇帝を武力で
引き摺り下ろす人が多くて独特すぎる

クジ引き将軍・義教さんも追加で

493 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 17:12:09 ID:es6UAnPd0.net]
楠木正成の粘りはけっこうデカいよな。西に幕府の兵力を長期間釘付けにしたからな

494 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:15:52 ID:AjBOvcnW0.net]
関東関西、どちらに拠点を置くにしろ、本拠地を東西の交差点である三河に据えな長続きしない
北条の限界だったな

足利にしろ徳川にしろ、実は本拠地は三河



■関が原の戦い以後に生まれた三河譜代藩主の老中

【三河県幸田町】三河深溝藩    
・板倉重矩(1665年 - 1668年、1670年 - 1673年)

【三河県田原市】三河田原藩     
・戸田忠昌(1681年 - 1699年)

【三河県豊橋市・豊川市】三河吉田藩     
・小笠原長重(1697年 - 1705年、1709年 - 1710年)
・久世重之(1713年 - 1720年)
・松平信祝(1730年 - 1744年)
・松平信明(1788年 - 1803年、1806年 - 1817年)
・松平信順(1837年)

【三河県岡崎市】岡崎藩     
・水野忠之(1717年 - 1730年)
・松平康福(1762年 - 1788年)
・本多忠民(1860年 - 1862年、1864年 - 1865年)

【三河県刈谷市】三河刈谷藩      
・本多忠良(1734年 - 1746年)
【三河県碧南市】三河大浜藩      
・水野忠友(1781年 - 1788年、1796年 - 1802年)

【三河県西尾市・豊田市】三河西尾藩      
・松平乗完(1789年 - 1793年)
・松平乗寛(1822年 - 1839年)
・松平乗全(1845年 - 1855年、1858年 - 1860年)

495 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:17:02 ID:B3YLonyC0.net]
軍勢が出払ってて手薄になった京や鎌倉を攻められたのが痛かった。

496 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 17:18:42.34 ID:4d+tMoL00.net]
>>474
藤原隆家は刀夷の侵略を退けてる剛の者だな

497 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:20:05.13 ID:AjBOvcnW0.net]
霜月騒動のあと、三河に進出しようとしだが、足利に危険視された


・霜月騒動の黒幕とも言われる大仏宣時が三河国重原荘の地頭職を獲得した

・六波羅探題北方に出仕して北条仲時の家人が三河守に任官された


コレが足利を怒らせた、北条の問題行動だ

498 名前:不要不急の名無しさん [2020/05/24(日) 17:20:33 ID:dvhmiMRD0.net]
今の日本みたいに賄賂が横行してたからやろ。

499 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 17:23:31 ID:lxJUbFNU0.net]
こういうDQNは止めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱〜」
とか言って聞き入れなかったわ

俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。



500 名前:不要不急の名無しさん mailto:sage [2020/05/24(日) 17:24:50 ID:4d+tMoL00.net]
大河ドラマの太平記では近藤正臣の北畠親房と藤木孝の坊門清忠が良かったな






[ 続きを読む ] / [ 携帯版 ]

前100 次100 最新50 [ このスレをブックマーク! 携帯に送る ] 2chのread.cgiへ
[+板 最近立ったスレ&熱いスレ一覧 : +板 最近立ったスレ/記者別一覧]( ´∀`)<265KB

read.cgi ver5.27 [feat.BBS2 +1.6] / e.0.2 (02/09/03) / eucaly.net products.
担当:undef