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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

717 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:15:15.42 ID:xFKpY4zL.net]
毛利家臣の井上元兼と志道広良と親が勤めてる会社に少なからず関係があったことを知った
某財閥系なのだけど創業者の井上馨は井上元兼の子孫で志道家の養子という
これからは広島に足を向けて寝られないな

718 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 22:43:15.71 ID:AcoNEl8P.net]
>>717
感謝する意味が分からん
そもそも関係ないやろ

719 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa.net]
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ

720 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 00:00:53.97 ID:3cglSWb1.net]
 紹巴の所へ、九州から連歌に執心の人が上洛した。
ある時紹巴へ

「国元への外聞もありますので、三条西殿へ御礼申し上げたいです。」

と言った。紹巴はお易い事だ、とすぐ彼に同道して行かれた。
その道中で紹巴は九州の者に忠告した。

「御公家衆は物事に御念が入り、根問いをなされるものだ。
貴所の宿は三条にあるので、左様の気遣いが肝要ですぞ。」

「まことに御心づけかたじけない。その事はまかせてください。」

さて二人は三条西殿と御対面した。
三条西殿は御杯を下されるたり、

「今後、上洛の折節には待っております。」

等と仰せられたりなどして、九州の者に様々に御懇ろにされた。

 さて、案の如く「ここでの宿は」と御尋ねられた。
かの人は何と心得たのか、

「二条のしも」

と申した。

「二条の下、とは」

と仰せられると、また

「四条のかみ」

と申す。

「四条のかみ、とは」

と仰せられると、その時かの人はうろたえて、

「三条の西のつらの、きたない家におりまする」

と申し上げてしまった。帰る途中で紹巴に叱られて、

「無用な御心づけであったな」

とかえって恨む結果となってしまった。

(昨日は今日の物語)

721 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 01:35:46.26 ID:uQG10uOK.net]
九州の御方とは何方の事で?

722 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/03(月) 07:42:49.52 ID:McgHQoUK.net]
島津家久だろうな

723 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/04(火) 22:17:41.10 ID:DywoHspw.net]
 駿河で火事の時に、権現様の御秘蔵の御長刀を御茶坊主が持参して火災から逃げたが、
その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。


『武士としては』

724 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/04(火) 23:21:28.77 ID:M6hVStVZ.net]
>>723
>その働きは職分には含まれていないというので、御褒美は無かったとか。

「無用な御心づけであったな」

725 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/09(日) 12:08:11.60 ID:oswMbq6q.net]
駿府城が火事のとき幼少の徳川頼房を救出して
水戸藩附家老になった中山信吉とはえらい待遇の違いだ



726 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/09(日) 18:48:26.76 ID:0lWxjBf4.net]
>>718
あなたも月曜会の末席に連なるようになればわかるよ

727 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/10(月) 10:23:47.05 ID:kag9365o.net]
羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)

728 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM.net]
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz.net]
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。

730 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/11(火) 23:10:28.81 ID:7d1UNgCd.net]
宗祇が東国へ修行していた道中、ある人が謎かけをしてきた。
「『ちゃんきのもんき』、とは何だ?」
祇公は、
「富士の雪」
と言った。
その心は、『どうやってもとけない』ということである。

その謎かけをしてきた人は、
見る見るうちに消えて跡形もなくなった。

(醒睡笑)

何者だったのだろうか

731 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 22:27:39.28 ID:jGX4w086.net]
>>730
>何者だったのだろうか

    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

732 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 22:50:47.55 ID:7Xqwitvs.net]
大須賀五カ左衛門康高の甥の弥吉が御軍令にそむき、(高天神城の)勝頼の旗本へ討ち行って高名をなしたところ
(家康は)もってのほかお怒りになった。
弥吉は恐れて本多平八カ忠勝の家に逃げて赦免をお願いしたが、お許しなくついに切腹をおおせつけられた。
(家康は)何事も寛容な方であったが、軍令違反者にはこのように御宥恕がなかった。

「柏崎物語」

733 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/12(水) 23:51:14.81 ID:Wv5bFBU9.net]
これで武田の軍門に降る道が断たれたわけですな

734 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/14(金) 21:38:46.57 ID:6vo126Lp.net]
木村常陸介(重茲)の家臣に、岡田藤十郎という者があった。

16歳の時、秀吉の小田原役における八王子城攻めにおいて、頸取源八という者が頸を引き下げて
出てきて、「一番首なり!」と高らかに宣言した。
ここに岡田が来て
「源八ははや頸を得たのか。さては面白くもないことだが。」
そう言いながら城の方へ行き、そこで朱具足の者と突き合い、難なく突き倒して頸を取ろうとした、
が、考えを変えそのまま先に行き、また他の敵と突き合ってその頸を得て帰った。

「初めの頸を何故棄てたのか?」そう問われると岡田は
「兜の下を見ると法師武者であった。だから棄てたのだ。」と言った。(高齢の武者だったから、
という意味であろう。)
常識はずれの勇士である。

この岡田藤十郎、朝鮮征伐の年、18歳にて高麗に渡り、優れた働き多かった。
しかし木村常陸介の定めた軍法を破って先に出ること度重なったため、常陸介は大いに怒り
「重ねて左様なことあらば、具足を剥いで陣を払え!」と言い付けた。

岡田はこの事を本意無く思い、その翌日、白き羽織をこしらえ、墨にて紋を書き出し、
唐人の陣の方へ一番に進んだ。

この節、長谷川藤五郎(秀一)などが、敵陣への大物見に出ていたのだが、その先の松の木の
ある所に白羽織の者が見えた。敵か味方かと観察したが解らない。しかし日本軍の方に向くこと無く
敵方へ一文字に進む。

この松のある所は、敵陣に近すぎてなかなか近寄ることも出来ない場所であったが、彼は松の木の
脇まで行き、そこで敵の猛攻撃を請けて速やかに討ち死にした。

「あれは何者か?」
長谷川が尋ねると、「木村常陸介内、岡田藤十郎である」と解った。
彼の死を惜しまない者は居なかった。

岡田は書き置きをしていた。しかし前夜はその素振りも見せず、朋輩たちと語り合い、そして翌日討ち死にした。
その書き置きにはこう書かれていた

『常陸介殿は、具足を剥いで陣を払えと言われた。人の国に参り、この陣を払われては、
私は一体どこで戦場を務められるだろうか。これ故に先立って戦死を遂げる。』

そう残した筆のすさみに、人々は惜しみあった。
この藤十郎、16,7の頃より勇士の兆し現れ、只人ではないと世間で言われていた。

(士談)

735 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/15(土) 20:11:15.64 ID:5urH6aPk.net]
ウィリアム・J・ブースマ「ギヨーム・ポステル 異貌のルネサンス人の生涯と思想」より、ギヨーム・ポステルについて

西欧の言語はもちろん、ヘブライ語、アラビア語など様々な言語を習得し、
すべての言語はヘブライ語に由来するといった本を記述し、比較言語学の創設者の一人とされ、
フランス王フランソワ1世に数学や言語学を教授し、
イエズス会に入り、自分が翻訳した聖書で世界中をカトリックに改宗させようとし、
カバラ思想によってプロテスタント的な千年王国思想を広めようとし、
ある女性を「新しいエバ」、彼女によって生まれ変わった自分を「第二のカイン」、とみなし、
なんだかんだで異端審問にかけられ、「狂気」の判決を受ける、
という波乱万丈の人生を送ったギョーム・ポステルであったが、その日本観。

日本は自然理性の一種のユートピアであり、
・日本人は3つの偶像を崇めているが、それは三位一体を認めたためである。
・神の前でとりなしてくれる処女なる母(脇から出産した摩耶夫人?)を崇拝し、彼女の息子釈迦の伝説を守り伝えている。
・日本人は一神教徒でもあり、賞罰を伴う死後の生を信じている。
・共同生活に基づいた一種の修道院制度を実践し、断食、祈祷、説教をする。
・長子相続制と君主による宗教的共同体の統率の有効性を堅く信じている。
そのため、日本人が現に行っていることをイエスの名においてなしさえすれば、彼らは「世界でもっとも完全な人間」となる。
こうして神は東方を善行のうちにとどめ、東方以上に完全な生き方はない。
かたやキリスト教という至高の教義が今に至るまで支配してきた西方には、キリスト教徒としての完全さや純粋さはほとんどど残っていない。

 西欧批判のためにユートピアとして持ち上げられているとはいえ、日本仏教とキリスト教の類似点の指摘や
 長子相続制と君主の権威主義という、エマニュエル・トッドがドイツと日本の共通点として挙げている指摘が見えて面白い
 ツッコミどころ満載なので悪いスレに投稿



736 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/18(火) 23:08:52.37 ID:BkmBFatb.net]
昔近衛殿(近衛信尹)が何の理由のよるものか、
秀吉公の御時に薩摩の坊津へ御流しになられた。
配所の鹿児島へ移られときに

大臣の車にはあらであはれにも 乗するかご(駕籠)しま担うぼう(棒)のつ

(昨日は今日の物語)

737 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 01:51:53.36 ID:70+44rP6.net]
備後守殿信秀は古渡の城を破却して、末森というところに山城を築き移り居なさった。

信長公を名古野に置きなさり、また守山というところに要害を構えて、舎弟・孫三郎
(信光)を差し置きなさった。

天文18年1月17日、上の郡犬山、楽田より人数が出されて、春日井原を駆け通し、
龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々を放火して煙を上げた。

即時に備後守は軍兵を率いて末森より駆け付けなさり、一戦に及び切り崩し、数十人
を討ち取りなさった。犬山楽田の衆は春日井原を逃げ崩れて、ことごとく敗軍した。

その時に落首があった。

「鑓縄を 引き摺りながら 広き野を 遠吠えしてぞ 返る犬山」

――『織田軍記(総見記)』

738 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 19:47:40.19 ID:UFErlbpi.net]
>>735のポステルの詳しい内容が彌永信美「幻想の東洋」オリエンタリズムの系譜、にあった
・東方の三人の王はユダヤ人よりも前に主イエスの誕生をお知りになった。けだし西方のことどもは優れたる東方のまぼろしにすぎない。
(この後>>735の日本人が現に行っていることを〜、という文章が来る)
・ザビエルの弟子のヤジロウの報告書によれば、日本人はすべて唯一の神を知り、それを彼らの言語で「ダイニチ」と呼び、
一身にして三頭を具えた形で描く。ただこの三頭について彼らはいかなる説明もできない。われわれには三位一体由来なのは明らかである。
日本人は頭や腕が多いほど大いなる利益の力を持つと信じ、ついには百の腕を具えた像まで作ったのである。
これは高僧らの無知と過誤に由来することで、彼らは民衆がキリスト教の正しい教理から偶像崇拝に立ち戻ることを許してしまった。
もともと東方の三人の王が日本人を改宗させ、聖トマス(インドで布教したと伝えられる)によって教えが確認されたにも関わらず、
彼らは徐々にイエスについての真実を次に語られるシャカの物語に改変してしまった。
シャカの父親は浄飯大王(Iambondaino)、母親を摩耶夫人(Magabonin)というが、これがヨセフ(Iosef)とマリア(Marie)をもとにしたことは
最初の文字が「I」「M」であることから明らかである。
この王は夢で子供のかたちをしたものから「我、汝の妻より生まれ出ずることを欲す」と言われたとされるが、これは天使による受胎告知である。
王は后に触れぬことに決め、后は処女のまま身ごもった、とされる。このようにイエス誕生の物語が改変されて伝わっている。
后は産後死に、后の妹がシャカを養育したが、二匹の蛇が近づいてきて、彼に大いに水を灌ぎかけた(灌仏会では九匹の竜)。
これは洗礼についての記録であり、日本人はすべて洗礼を受ける。また蛇はサタンの記憶の混同である。
シャカは三ヶ月目には真っすぐ立って「我は天と地における唯一の帝王なり」と述べた。
これは「我は天にても地にても一切の権を与えられたり」との主イエスの言葉そのままである。
彼は19歳の時、人の世の悲惨を感じて山に出向いたが、これは山上の垂訓にみるとおり主イエスのことである。
こうして八千人の弟子を集めたシャカは隣接する人々を改宗させ、偶像を破壊し、崇められていた寺院や聖地を躊躇なく壊したのである。
シャカの弟子達は日本にも到来し、そこでも偶像を破壊した。それゆえ今日でも日本では偶像の破片などが見られることがある。
このシャカはすべてのものを想像した唯一の神の存在を教え、その姿を一身三頭に描かせた。
彼はまた人々に5つの掟を与えた。「他人を殺すなかれ(いわんや自分自身を)」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「思い悩むことなかれ」「罪人を許すべし」
これらの掟を与えられるのは主イエスをおいてほかにないのだから、シャカが主イエスを元にしたのは明らかである。

ヤジロウの仏教観はおそらく戦国日本一般の仏教観とほぼ同じと思われるが、
イエズス会が当初、仏教の用語を利用して日本人を改宗していたのって、親近感を得るために仏教の仮面をあえてかぶったんじゃなくて
本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか

739 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/20(木) 23:43:28.11 ID:MLRX6GjQ.net]
>本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか

2008年ノーベル物理学賞の
南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3人が
東方の三博士になぞらえられていたのを思い出した

740 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:14:41.31 ID:TiEVwH//.net]
教科書的には日本にキリスト教が伝わったのは1549年という事になってるけど、景教として遣隋使か遣唐使が持ち込んでるんだっけ

741 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:37:40.76 ID:t9KytjzS.net]
イスラムは入ってこなかったんかねえ
宋か明くらいには入ってきてるはずだけど日本には来なかったんだろうか

742 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 00:50:33.39 ID:uFvNYzkl.net]
>>741
室町時代の商人・楠葉西忍(幼名ムスル)の父である「天竺人ヒジリ」がイスラム教徒だったという説が在る

743 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 01:33:19.92 ID:pNPhOchv.net]
朝松健の一休伝奇ものに西忍が出ていたのを思い出す
後は「聚楽第 太閤の錬金窟」でギヨーム・ポステルが日本に来たことにしている
宇月原 晴明の「黎明に叛くもの」て小説でも大乗院寺社奇事記のムスルの話を引用してた。
(果心(カシム)居士や松永久秀や斎藤道三がアサシン教団員だったという話)

744 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 02:10:55.19 ID:pNPhOchv.net]
訂正
史実の西忍についての話が載ってるのは「大乗院寺社雑事記」で
上の小説で引用していた「大乗院寺社奇事記」はそれをもとにしたフィクションだった。

本当の「大乗院寺社雑事記」の西忍記事は文明18年2月15日の死亡についての記事が一番まとまってるので
国立国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249
の217コマ目を参照してほしい。
(93歳で死んだとか、父親が天竺人だとか、幼名がムスルとか書かれている)

745 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 07:15:42.95 ID:5HHheB3O.net]
パルクールを駆使して稲葉山城に潜入する道三なんて想像してオラわくわくすっぞ



746 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 17:19:32.99 ID:dooTgSY+.net]
こんなの見つけた

京都の西本願寺といえば、親鸞<1172〜1262>が開いた浄土真宗の本山です。
その宝物中には親鸞もよんでいたという<世尊布施論>があります。
これはじつは仏教の経典ではありません。
中国で7世紀に景教徒によって漢語に訳された景教の経典なのです。
それが日本にも持ち込まれていたのです。
この<世尊>は釈迦ではなく、イエスなのです。
内容も、イエスの<山の上の垂訓>(マタイの福音書5〜7章)に始まり、
イエスの生涯、教え、基督教の救いなどについて述べています。

www.asobine.com/article_blog.php?shopid=409&blogmode=new&story=BL0000003355

747 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/21(金) 19:26:09.88 ID:T+yycnAH.net]
空海は新訳聖書を、最澄は旧訳聖書を持ち帰っているとどっかに書いてあったなあ
眉唾なのだと聖徳太子の傍には景教徒がいたってのもある

ここでも馴染みのある松浦静山は群馬の多胡碑にJNRIと刻まれた石槨と十字架が見つかったと甲子夜話に記しているらしいね

748 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/22(土) 16:59:17.93 ID:hu64FrmF.net]
会津の蘆名盛隆に、三左衛門(大庭三左衛門)という小姓があった。
彼は18歳までに3度、敵と鑓を合わせたことから、三左衛門と号した。

はじめは二本松家に仕えていたが、蘆名盛隆が気に入り、これを所望した。
二本松側は「心を見届けて居ない者であり、如何かとも思いましたが、たっての御所望ですので
遣わします。」と、会津に彼を遣わした。

会津において彼は盛隆に寵愛された。しかし、後になるとその寵愛も衰えた。

蘆名盛隆の悪い癖で、彼は初めに寵愛した小姓も、成長のあとは必ず悪く云い、噂も色々と言い立て、
嘲弄することを好んだ。
三左衛門もこの仕打ちを受け、深く憤った。

ある朝、盛隆が鷹を手に据えて居た所に出てきた三左衛門に対し、彼を侮り嘲った。
三左衛門、一刀にて主人を殺し、逃走を図った。

蘆名家の家老たちはその座に居ながら、呆然として三左衛門を仕留めることはできなかった。
その次の間まで切って出たときも、ここに居た24,5人の番人たちは仕留められず、彼は
そこから駆け出た。しかし蘆名家の者たちも追々集まり、遂に打ち留めたという。

(士談)

749 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M.net]
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』

750 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt.net]
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt.net]
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか

752 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/24(月) 09:01:54.06 ID:l5bkCo34.net]
大阪冬の陣、塙団右衛門直之の夜討ちの時、大阪方にて勇猛の働きあったのは木村喜左衛門であった。
木村は誰よりも先に出て、蜂須賀の陣より出て来る者たちを叩き伏せた。
しかし股を突き抜かれたが、その攻撃をした相手も突き殺した。
これは蜂須賀家の中村右近であったと言われる。
木村はその負傷が元で、城中に帰った後死した。

また冬の陣の今福の戦いで見事な振る舞いがあって負傷したのは大井可右衛門であった。
彼も、誰も続くものがないほど先駆けし、その戦闘の負傷により城に帰って死した。

冬の陣の大阪方では、この両人を以て優れた勇者とされる、

大井可右衛門は牢人にて京にあったのを、冬の陣前に池田家に招かれたのだが、大野修理が
秀頼の命であると行って、入城させたという。

(士談)

753 名前:人間七七四年 [2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A.net]
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)と島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。

754 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4.net]
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ.net]
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか



756 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH.net]
灰寺城

757 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet.net]
i.imgur.com/lkzhYhv.jpg

758 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/04/29(土) 21:30:59.16 ID:D4Uk5VwP.net]
上杉謙信が小姓より引き立てた侍の内、河田豊前守長親という人物は、元近江国守山の、地侍の子であった。
永禄四年三月、謙信は上洛し将軍足利義輝に謁見したが、この時清水において、この河田が、当時14歳であったが
これを召し連れ越後に帰国し、後には四十万石の知行を与えた。
これは男色の寵が類無かった故である。

ある時、謙信は河田を叱責し、刀を抜いて今にも成敗せんとしたが、河田はその場を退かなかった。
謙信は刀をおさめて言った

「私が河田をこれ程秘蔵に思っているのに、これを成敗すると言い出せば、『私が身代わりに成ります!』と
言って出て来る者があるべきなのに、誠の忠臣と言うものは居ないものだ。」

そこに一人出て「某を誅されよ!」と、頸を差し出して出た。謙信はこれを赦免したという。

(士談)

759 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/01(月) 10:30:34.60 ID:baWek3vu.net]
実際にはどれ位の知行だったんだろ河田?

760 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/03(水) 23:16:46.81 ID:lqY/8zPQ.net]
関が原の合戦で敗れた石田治部少輔三成が、家人をも召し釣れず、落ち行く勢の内に紛れていたのを、
田中兵部(吉政)の家人、田中伝左衛門が発見した

「治部殿こそおはしけれ!今は御運の尽きんとする時と覚えて候、留まり給え!」
そう言って走りかかり押しとどめた。しかし三成は否定した

「いやいや、名もなき下人なり、治部にはあらず。人違いし給うな。」

「見忘れさせ給うにや、田中伝左衛門にて候。関白殿(秀次)の所で、幾度か見参らせて候ものを!」
そういって押し捕えた。

その場所は近江の古橋という所で、先ずはその身柄を近くの寺に伴い、やがて陣所に引いて行、田中吉政へ
注進した。三成はその時一尺二、三寸の、放し目貫の脇差しを佩き、柿色の帷子一つを着て、袋に入れた
米五合ほどを腰に付けていた。

この脇差しの目貫は黄金の駒であったが、その裏には目貫が無く、伝左衛門が
「これはいかにさせたまいしか」
そう尋ねると、
「家臣が一人、付きまとっていたためこれを抜いて取らせ、これを印としてはや大阪城へ赴くようにと言って
落としたのだ。」
と答えた。そして三成は伝左衛門の方に向かい尋ねた

「父である石田木工、その他の人々はいかになりしや、知っているのなら知らせ給え。」

「木工殿は、妻子を刺殺し、その身は潔く御自害遊ばして候へ。その他の御方々も同じ道にこそ。」

これを聞くと三成は、快くうち笑って「ざっと済んだ」と言ったという。

まや伝左衛門が問うた
「大事の合戦に敗れし上は、何とて御自害候はで、かく捕われとなり給えるぞ」

すると
「潔く自殺などするはおと等の事よ。我等は左様なことはすまじきぞ。」
そうあざ笑っていたという。

(話園)

761 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/04(木) 14:57:43.86 ID:4lFFQZWH.net]
>>760
>柿色の帷子一つを着て
柿でも食べて汁がかかったのかな?

762 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/04(木) 16:32:09.19 ID:KY2NjA1G.net]
>>761
柿は痰の毒だから

763 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/05(金) 08:40:12.58 ID:vJCIQxW/.net]
霊陽院(足利)義昭は、贔屓の強いのは頼もしきことであり、武士の本意であるとして、上手を憎み
下手を崇敬し、いつも自分が気に入ったものを良しと定めた。

彼は乱舞を好んだが、観世彦右衛門という小鼓の上手を憎み、また当時の大鼓の上手をも憎み、
下手であっても奈良の者を贔屓した。これは、義昭が初め、奈良一乗院に居たためであったという。

親しいか疎遠かで差別するのは古からの道であり、慣れ親しむ由緒ある輩に対して、これに親しむのは
理である。しかしそのために、理を非にいたし、上手を下手に取りなすことは、すべて物事の理を
理解していない故である。

贔屓が強い、ということは善きことに似ているが、その成り行きを見ると、依怙というものに成ってしまうのである。

(士談)

764 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 09:36:42.93 ID:x+e6fndU.net]
>>761
柿渋で染めた地味な色のことだゾ

765 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 15:17:48.18 ID:VE6BqW0b.net]
天下の兵乱は天地の運に拠ると云えども、まさしく政道の正邪に帰する。
天地開闢以来、洛中での闘争で応仁の乱ほどのものはなかった。これはすべて、将軍・足利義政の心より
起こったのだ。

義政は公儀を知らず、知識昏く、勇武の道更に無く、悉く佞奸邪知の輩に偽られて、一事と雖も
道に当たる事無し。これによって天下は皆、将軍を尊重せず、一心に利益を得ることを専らとし、
欲を盛んにし、父子兄弟君臣の礼は乱れ、互いに奪い合って利を逞しくした。
これは上を下が学んだ故である。

要らぬ風流を好み、器物古書に心を尽くして、これら東山殿好みという物は後世まで規範となったが、
どうしてこれが真の道と言えるだろうか。

子息義尚も文を好み歌を詠んだが、これもまた将軍の器ではなかった。江州の陣中において
孝経を聴き、左氏伝の講義をさせていた。これもまた、書を学ぶべき時を知らぬ故である。

(武家事紀)

江戸期における足利義政についての評価である。



766 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 20:49:40.77 ID:R7OKl++z.net]
吉川元春「陣中で太平記を全巻書写してみた」

767 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/08(月) 20:57:16.77 ID:qo04Eyf+.net]
吉川が書いたのが私本太平記か

768 名前:人間七七四年 [2017/05/10(水) 14:50:03.20 ID:JI8gJ8Gs.net]
>>758
謙信が女犯を退けて男色を愛したのは、全き美談なれど、
後から忠信面をして頸を差し出す家来の話は嫌らしいな。
よって、ここに入れられたのか。
して『士談』の何巻に此の話は入っているのぢやろう?
包まづ教えて下さらぬかのう。

769 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/10(水) 15:13:07.23 ID:Cwe02d0j.net]
貞観政要 巻五 誠信第十七
貞観の初め、太宗(李世民)にある者が「佞臣を見分ける方法をお教えします」と上申してきた。
太宗「朕が任命しているものは皆賢臣と思い任じているのだが、お前は誰が佞臣かわかるのか?」
ある者「陛下がわざとお怒りになった時、あえて直言・諫言してくるものがあればそれは賢臣で、
阿諛追従するものがあれば佞人です」
太宗は側近に「君主が自ら偽れば臣下もそのようにするだろう、源泉が濁れば下流の水も濁る、道理に合わない。
朕はかねてから魏武(曹操)を詭弁の多い者だと嫌っている」と話し、
「朕は天下に信頼が行き渡ることを望み詭弁は行わない、お前の言葉は善といえども実行することはできぬ」と書いて送った。

謙信も李世民を見習うべき

770 名前:人間七七四年 [2017/05/10(水) 15:26:15.88 ID:JI8gJ8Gs.net]
謙信は敢えて作り怒りを演じたのでは無かろうて。

疎漏なる言は相成らぬぞよ。

よいな。

771 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/10(水) 20:40:25.76 ID:7zTviz8S.net]
キャラ作るならコテ名乗ってくれや

772 名前:769 mailto:sage [2017/05/10(水) 20:42:07.63 ID:Cwe02d0j.net]
余計な心配かもしれないけど
自分>>769>>771じゃないからね

773 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/11(木) 18:43:49.93 ID:iiWa4uof.net]
>>768
士談 七、
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949306/234
ここですね

774 名前:人間七七四年 [2017/05/12(金) 11:12:05.65 ID:7yzJ8/h9.net]
>>773
寔に以て忝い。
御礼を申す。
して、山鹿素行の『士談・七』なるは大略
何年頃の著述でありませうや?
御教示たまわり度うござる。
よしなに頼み入り申し上げる。

775 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 02:09:12.49 ID:+pXIAOKs.net]
祖母が高祖父から聞いた幕末の薩摩のひえもんとりの話しです。
戦国の話ではありませんが、出回っている話しと幾分か違ったので書かせたいただきます。

幕末の頃、寺町の関所横(割と城下町の真ん中)に処刑場があり、毎年年末の29日にまとめて処刑を行っていた。
その日になると吉野方面(鹿児島市北部の山間地帯)の農家の人はふんどし一丁に
小刀をさしただけの姿になり待機をする。
処刑が始まると大太鼓がどーんどーんどーんと三回鳴らされ、その音は静かな時代、遠く吉野のほうまで鳴り響き
それを合図に皆、処刑場まで走り出す。
互いを傷つけたりしてはいけず、いくつかある死体の肝臓に一番早く触った人がその肝臓全部の権利を得ることが出来た
との事でした。手に入れた肝臓は漢方の材料として売って収入源に、残った遺体は遺族へ渡されるか無縁仏として葬られたそうです。
なお、ルールとして肝臓以外に手を出してはいけなかったとの事です。

祖母の家は上士の家系だったのですが高祖父曰く、士分のものや町民は一切参加しなかったとの事です。
(吉野方面の農家って郷士だったんじゃとも思うのですが…)
その日は婦女子は出来るだけ出歩かないよう、又 餅もついてはならないと教わったそうです。



776 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 02:22:52.30 ID:+pXIAOKs.net]
派手に話されている ひえもんとりの話しも実際はもっとマイルドな話しだったんじゃないかなと
話しを聞いてみたのですが、マイルド?な話しを聞くことが出来ました。
祖母が聞いた話では死刑囚の肝臓が無くなるのは当たり前のことで他の藩でも普通だったとの事です。
山田浅右衛門の人胆丸みたいに役得となるかイベントとなっているかの違いだけ?じゃなかったのではないかと話していました。

777 名前:人間七七四年 [2017/05/14(日) 02:43:27.25 ID:+pXIAOKs.net]
書き忘れですが、処刑自体は処刑人が行い、死体を噛み千切るとかそんな事はしなかったそうです。
疑問点としては街中の関所横に処刑場というのは他の藩でも普通だったのでしょうか?

778 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 06:03:16.94 ID:P6hbbHdU.net]
>>775
興味深く拝見しました。
刃物を持っている人同士で、怪我しないように競って罪人の腹を割くとか、どんな光景なんでしょうね。

779 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 07:50:55.97 ID:yFll/uYs.net]
>>777
うちの宿場(下総船橋)は入り口に処刑場があったと言われてる
いまじゃ街の中心部だけど

780 名前:人間七七四年 mailto:age [2017/05/14(日) 09:48:01.08 ID:5jSUW0GA.net]
>>775
江戸時代 全国的に民度が上がったから ひえもんとりも嫌がる人がほとんどだったのかな
戦乱が続いてたら やる人が多かったのか
戦国時代の人々からしたら ひえもんとりって魚さばくのみたいなもんだったのか

781 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 09:50:00.10 ID:5jSUW0GA.net]
>>775
あと死んですぐの肝臓じゃないと漢方薬にならない気がするが

782 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 09:54:52.69 ID:5jSUW0GA.net]
>>781胆汁酸とかビタミンBとか

783 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 09:55:59.69 ID:gXRMVWjO.net]
現代なら有害物質の塊だろうな

784 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 10:08:37.30 ID:yFll/uYs.net]
ふっと思い出した
最近、南アフリカ近海のシャチがホホジロザメの肝臓だけを食いちぎる事件が相次いでいるとか

785 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 10:24:51.33 ID:5jXpkcOs.net]
幕末になってもひえもんとりやってたんだ

そんな最近までやってたなら鹿児島伝統のエクストリームスポーツとして
現代風にアレンジしてレクリエーションに取り入れられないかな



786 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 10:40:10.00 ID:dzos3kiU.net]
>>775
面白い!幕末にもなるとひえもんとりも落ち着いて?そうなるのだろうか…。

787 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 12:36:49.85 ID:rtum+u/v.net]
>>785
海音寺潮五郎によれば
西南戦争で鹿児島にやってきた政府のスパイにもやってたとか
毅然として死んだんで海音寺潮五郎の祖父の知り合いが死骸が置かれてるところに行って懐を探ったが
すでに誰かにとられてたとか書いてた

788 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 12:48:46.31 ID:+pXIAOKs.net]
「人胆丸」は結核に効くと信じられていましたし需要は大きかったんじゃないでしょうか。
明治3年に公的に販売が禁止されたそうなので闇市場では需要・価格共に上がっていたんでしょうね。

789 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/14(日) 23:00:17.73 ID:E6ADoo4Z.net]
>>779
東京の板橋宿では近藤勇が処刑されてたり

790 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/15(月) 12:31:29.36 ID:vqZfD9Hw.net]
https://twitter.com/hanasakimasanao/status/863733933665509376
↑毛利輝元の何がダメだったのですか?

791 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/16(火) 05:33:47.03 ID:9bONDsWt.net]
清正の片鎌の槍は、木山弾正(正親)を槍付けなさった時に十文字の一方
が折れて片鎌になったという説があるが、そうではない。元来片鎌である。

――『武功雑記』

792 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH.net]
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』

793 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/24(水) 02:47:35.45 ID:/PRBbIyV.net]
幽斎は細川への養子で、本名は三淵である。幽斎の兄を三淵大和(藤英)
という。光源院殿(足利義輝)の弟(義昭)は幽斎を頼みにして信長に頼った。

(信長と義昭の間には)20ヶ条の掟があったが、(義昭は)後にこの掟を
用いずして槇島に籠城した。信長は(義昭を)熊野に追い込みなさった。

光源院殿の御宮妾が懐妊3ヶ月の時に、幽斎は御宮妾を与えられたので、
三斎は実は光源院殿の子である。三斎は光源院殿に顔が似ていた。

本願寺東泰院の父(教如)も光源院殿の落胤という。稲葉能登守(信通)は
三斎の孫である。

(光源院殿妾御宮。懐妊三月に幽斎は被下候ゆへ。三斎は実は光源院殿子
也。光源殿に顔似たり。本願寺東泰院父も。光源院落胤と云。稲葉能登守は
三斎の孫。)

――『武功雑記』

794 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/24(水) 05:41:48.90 ID:J/sTXCdb.net]
幽斎が足利義晴の落胤という説は知ってたけど
三斎まで将軍御落胤?

795 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/24(水) 07:54:51.54 ID:58t39DrC.net]
伝承が1代ズレて伝わるのはまあ、ありがちな事ではあるな。
叔父と甥なら多少似てても不思議じゃ無いし三斎は幽斎にも似てたようだし、その辺りの噂話に尾鰭が付いて時代が下がって更に変化したんじゃないだろうか



796 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/24(水) 08:24:38.87 ID:G5s3fo2x.net]
最初に行為に及んだ男の染色体はずっと女性の体の中に残るって話もあるし剣豪将軍に似ていても不思議ではない

797 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/24(水) 08:34:54.73 ID:eqwNrngC.net]
剣豪って鬼畜のイメージしかない

798 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/25(木) 19:49:49.60 ID:JlazAfFn.net]
黒田長政の配下に、谷太郎左衛門という、度々武功を上げた者があった。
長政は彼を援助し、牢人分として養い置いた。

そんな太郎左衛門が語ったことに、

「近江においての有る合戦で、城に乗り込むという時、鉄砲によって至近距離から肩を撃ち抜かれた。
しかしそれにも構わず、その鉄砲の筒口を掴んで屏の上に乗り上げたが、城中は屏の内に
杭を打って、むしろ、こもなどを引きはり置いていたので、中に未だ兵が居ると思って引き返した。
後で城方の捕虜がいたので城内の様子を尋ねたところ、『そのあたりに人は一人もいなかったが、
ただ手立ちにああ致していた。』と語った。

このように、物事を雑に決めつけては落ち度の有るもので、詳細に考えなければいけないものだ。」

またこの人は

「合戦の時、敵よりも味方に目をつけるべきだ。
例えば一人が先に出て敵と戦い踏みこたえている所に、後より二人三人と向かっているようなら、
それは初めの者が強いのだと知るべきで、その所へ行くべきではない。別の所へ一人で出て、
そこで自分も敵と戦い踏みこたえているべきだ。少しばかり耐えていれば、すぐにそこへ人が
集まるものだ。

また、日頃より主人のお気に入りや家中で出頭している人物にも、戦場で側に寄るべきではない。
一人で手柄を立てる了見が有るべきだ。何故なら手柄が調査される時、側に居た場合は、出頭人の手柄と
されがちだからである。」

とも語った。
もう一つこの人の語ったことに

「全ての侍にとって、弓鉄砲の上手と言われるのは悪しきことだ。
そのような評判を持つと。敵城へ火矢を打ち込んで敵を城から引き出したいというような時、足軽などは
射程まで進もうとしないから、人から名指しされてその役目をやらされることが有る。

しかし、射込むことに失敗すれば不快になるし、射込んでも当然のこととされ人から賞賛もされず、
またそういう場所では敵も堅く警戒しているので、全く意味のない討ち死にをすることも有る。
その上最近は、侍の手柄は鑓によるものより上は無い。故に要らぬことを上手になっても益がないのだ。

(士談)

かなり現実的な武功ノウハウのお話

799 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE.net]
もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を


中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、
嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。
それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。
これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。
中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。
豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕
彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、
立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。

薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、
打ち壊し蹂躙し始めた。
彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。
またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、
とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。
これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。
彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。

(フロイス日本史)

800 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 19:44:17.08 ID:12qJD4CN.net]
>>799
キリスト教が嫌いな佐伯さんが勝ってるのは無視される

801 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE.net]
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話

802 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:42:25.07 ID:AP3CGx9c.net]
豊後の連中から奴隷を買ってたのはどこのどいつなんすかねえ

803 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:49:22.72 ID:DLlKPT0m.net]
まっことでごわす

804 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 21:59:22.09 ID:12qJD4CN.net]
>>802
豊後国で海外に奴隷売買したって記録はみつかってないな
肥前国ならあるけど

805 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT.net]
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久・長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。



806 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT.net]
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。

807 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES.net]
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」
>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
→伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが

808 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf.net]
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』

809 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9.net]
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。

810 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q.net]
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr.net]
史料の性格が知りたいところだ

812 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/01(木) 20:24:36.85 ID:Kx/wuCSQ.net]
秀忠公が禁中を御作事された時に、
国々の人夫共が築地廻りの植木の枝に面桶をびっしりとかけおいてあるのを、
柳原殿は御覧になられ

見わたせは柳さくらにこきかけて 都ははるのこしきなりけり
「見渡せば柳さくらをこきまぜて みやこぞ春の錦なりけり」(古今和歌集)の本歌取り

(※面桶は人夫の弁当箱。後に乞食の持つもののことも指し、御器ともいった)

(昨日は今日の物語)

813 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 05:27:47.46 ID:lIWQQcsK.net]
直江兼続が伏見城御普請の頭取だった時、杉原親憲と事を論じたが合わず、
兼続は拳で親憲を打った。親憲は大いに怒ったが、国の患いを起こすのを

恐れて我慢して帰った。しかし、不平の勢いは一向に収まらず、「明日赴いて
共に死んでやろう!」と決心し、まず本庄繁長を訪問して別れを告げた。

すると繁長は親憲を諭し、共に兼続のもとに参った。 兼続が迎えて申すには、
「私めは早く行って多罪を謝罪する心得であったが、折りしも繁務のために

出ることができず、再び貴殿に罪を犯した。私めが先に思ったのは、重任は
威が無ければなしえないということだ。威がなければ事は行われず、

事が行われなければ国家の利にあらず。貴殿は天下に聞こえる豪傑の士だ。
貴殿さえ怒ることができないならば、誰か号令に背く者がいようか。

罪を犯したのはこのためである。貴殿が幸いにも私めの多罪を許しなさって、
貴殿の足を我が頭に加えなされば、少しばかりは多罪をあがなえよう」

とのことだったので親憲はさしもの怒りも解け、十分に楽しんで宿所に帰った
のだという。

――『直江兼続伝(鶴城叢談)』

814 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 08:10:41.27 ID:OX53w4Zl.net]
「徳のある政治は恐怖がないと無力である」
とフランス革命の指導者の1人も言ってたな

815 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 18:36:43.58 ID:dMULztp1.net]
水戸黄門も格さんと助さんがぶん殴って黙らせてから印籠持ち出すわけだ



816 名前:人間七七四年 [2017/06/02(金) 19:01:41.01 ID:pPSEnR4W.net]
Shock and Aweですねわかります

817 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/06/02(金) 20:18:31.72 ID:/I3q2Y2i.net]
北斗神拳もモヒカンがいないと無意味なわけだな






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