- 799 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/05/28(日) 19:30:37.93 ID:/C3l8YdE.net]
- もうすぐセンゴクで仙石が失敗しそうなのでそのあたりの話を
中務(島津家久)は、日向から三千の兵と、薩摩から五百名、および叛乱軍を率いて、すでに豊後領の宇目に入り、 嫡子(大友義統)の数名の家臣に属する小さな三つの城を無抵抗裡に占領した。 それからさらに進撃し、幾人かの身分ある人たちと老臼杵殿(臼杵鎮尚)がいる別の城の所在地であるミエ(三重)に向かった。 これらの者はただちに降伏して豊後の敵にまわった。 中務はそこに留まることとし、(家臣に)ごくわずかの兵を伴わせ、叛乱者たちに道案内をさせて送りこんだ。 豊後勢の恐怖と怯懦は驚くばかりで、〔とりわけそれがデウスの鞭であってみれば〕 彼らは薩摩軍の名が口にのぼるのを聞くだけで、屈強かつ勇猛で戦闘に練磨された者までが、 立ちどころに震え出し歯をがたつかせ、まるで軟弱な戦の未経験者のように降伏して、敵の言いなりになるのであった。 薩摩軍は、万事が思惑通りに運ぶのを見て、通過するナングン(南郡)の地、その他のところを焼き払い、 打ち壊し蹂躙し始めた。 彼らが通過した後には、何一つ満足なものは残っておらず、少しでも逆らう者は殺害された。 またそれに劣らず嘆かわしく、いなむしろ最大に嘆かわしく思われたことは、(薩摩勢)がおびただしい数の人質、 とりわけ婦人、少年、少女たちを拉致するのが目撃されたことである。 これらの人質に対して、彼らは異常はばかりの残虐行為をした。 彼らのうちには大勢のキリシタンも混じっていた。 (フロイス日本史)
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