- 56 名前:743 mailto:sage [2015/09/26(土) 02:12:42.79 .net]
- 先に述べたように、陵墓の位置から崇神天皇から暫くは崇神天皇〜景行天皇の王統と、
佐紀の王家に入婿で入った垂仁天皇〜成務天皇の王統の2系に分かれたのではと述べました。 倭人伝に現れる邪馬台国の四等官はすべて王族ではないかと考えています。 倭人伝の時点でも、他の東夷伝に現れる諸国と異なり、倭国には中央集権と官僚機構の要素が見て取れます。 ただ、専制ではなく天皇・皇后・王族の合議ではないかと。 オオヤマト古墳群への大古墳の集中がこれを裏付けると考えます。 また、これだけ膨大な倭人の記録を残しながら、魏朝による冊封は卑弥呼一代で終了しており、冊封体制から離脱しています。 ここに倭国独自の天下観の誕生が見てとれるのでは? 2度にわたる勅使の派遣は卑弥呼の時代に限られており、(2度目は卑弥呼死亡後の到着でしたが) 送使は西晋建国の慶賀使を兼ねたようですが、以後、勅・表を伴う正使の往来は絶えています。 倭人伝にも記されているように、帯方郡との伊都国との郡使の往来は続いたようですが(鉄資源の入手が必要ですし)、冊封体制からは離脱したと考えていいのでは? また、東夷諸国は邑長程度の印綬をもらった小国ではないかと。 郡と北九州との交流は銀印と魏の官位を持つ北九州の豪族に任されていたのでは? 漢書にも記されているように歳時つまり毎年、通交があったのでは?
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