- 498 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/08/15(木) 04:03:05.10 .net]
- 神武天皇が「即位した」ことが事実とは思えない、
実際に王を名乗ったのは4世紀初めの崇神天皇からだろうが、 崇神の先祖の神武が大和に定住したのは2世紀末〜3世紀初め で、女王卑弥呼の時代と少し被ると考えられる。原初の大和政 権が邪馬台国と同一であるかどうかは即座に判断できないが、 開祖から男王の男系継承が順調に続いてるという日本の主張と、 中国にとっては魏志倭人伝の女王の存在の大きさがぶつかるわけで、 そこで日本側は4世紀終わり頃、幼い応神天皇の摂政をしていた 神功皇后を百四十〜二百年ほど昔の卑弥呼・台与と同じく見せる 工作をしたから、神功皇后に後続する応神・仁徳・允恭らの天皇の 在位年数が異常に伸びた。そこだけ天皇たちの在位年数が長いのは どう見ても不自然と思われるから、神功皇后より前の天皇の在位年数も 全て水増しして異常な長寿にせざるを得なかったと考えられる。 欠史八代とされる天皇たちは、卑弥呼・台与の時代の人物なので、 実際には8世代もないが、天皇の在位年数を水増ししたために同世代の 人物も父・子・孫の関係になるかのように記録したのだろう。 淡海三船は、正直に欠史八代は8世代、神武から崇神まで10世代 (崇神を3世紀半ばの人物と考えた?)、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼に 当たると考え、後漢の光武帝の武を初代の神武に、安帝の安を三代目の 安寧、小帝懿の懿を四代目の懿徳に、霊帝の霊を七代目の孝霊に対応させ、 神武天皇即位は後漢の光武帝の時代であると結論づけたようだ。しかし、 後代の貴族たちが百歳を超える天皇の寿命をその通り史実だと考え疑わな かったことは、中世のあらゆる歴史書から明白である。いや、疑ったかも しれないが、「大昔の帝はそんなに長生きしていないだろう」と書くことは 大逆罪に相当したのだろう。
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