- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2005/06/03(金) 00:23:54 ID:0o/sM63K]
- YAP+遺伝子をもっているのは東アジアでは日本人とチベット人だけ
GM血液型遺伝子もそっくり YAP recon.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/img-box/img20040907115249.jpg GM www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
- 663 名前:月光仮面 [2007/08/06(月) 08:33:19 ID:38oxKsTr]
- >>661
>「漢委奴国王」の印から、倭は漢に隷属し、同時代の雲南のチベット・ >ビルマ系の?(テン)国の「?王之印」に漢の字が付いてないんと >違います。産業も乏しく、独立心もない、漢に生口を献上する他ない >漢から見たら奴隷民でしょう。 渡来人であり、漢と通交していた。海岸から取り付き、鹿狩り乃至は鹿の 牧畜を専らとし、石段建設が得意であった。参考ですが、豊前求菩提山↓ www.city.buzen.fukuoka.jp/minwa/minwa-2/oninoabumi.htm 男鹿半島五社堂には彼らが石段を築いた記録 ↓ www.oganavi.com/data/037.htm 「昔、この島にはたくさん鹿がいて、鹿の角1万本を納めた鹿角堂(しかつ のどう)があります。」↓ www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/jhsika/gosinkosai.htm >神話でも海姫のトヨタマ姫が、山幸彦の子を海中で産まず、夫の陸上で >産んでおるのも、北方民族の習慣ですよ。 その通りでしょう。が、これは渡来倭人は縄文人ではなかったということを物語り、 金印を受領した志賀島の主は倭人であった、つまり、その1000年も前から列島 穀倉地帯を支配している縄文・中国系農民層が列島の主体であったと考えられ ます。 >天皇家の系譜についても、崇神・応仁・継体期の系譜か解りませんし、 >系譜など、後世の徳阿弥の子孫徳川氏が、藤原氏を名乗って、後に新田流源氏を >名乗るようええ加減なもので、天皇家も、確率上、土着民の可能性は低いんです。 既述の通り、倭人が天皇になれる確率は低いと思うんですが。 >世界的にも、在地勢力が上位じゃった例など知りません。同じ島国の >英国でも、支配層は渡来したアングロ・サクソンで、在地勢力のケルト系は山間部や >辺境に追いやられました。日本列島でも、在地勢力は、中央から追いやられたんは、 >形質人類学からも、そう云えます。縄文系在地人が、海外に雄飛ならば、ケルト系が >ヨーロッパ大陸に、進出した云う夢物語になります。 スコットランド、アイルランドは負けん気強いですよ。
- 664 名前:月光仮面 [2007/08/06(月) 08:52:52 ID:38oxKsTr]
- 「紀元前1世紀の日本
夫れ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。 (出典:「漢書」地理志)」 www.geocities.co.jp/Berkeley/9457/shiryou/text/kanjo.html
- 665 名前:月光仮面 [2007/08/06(月) 09:37:54 ID:38oxKsTr]
- >>663
www.occh.or.jp/kokomade/kokomade-ya/kokomade-ya.html 「弥生終末−交易拠点の乱立 弥生終末になりますと,瀬戸内や大阪湾岸で三韓土器の形を持つ在地産土器がみら れ,特に大阪府の久宝寺遺跡などには渡来人が居住した可能性が高いようです。 日本海側でも島根半島での三韓土器の出土が知られております。これは,三韓の 人たちの側の変化というよりも,西日本各地で,いろいろな人が,いろいろな場所で, いろいろな相手と,盛んに交易をするようになったため,西日本各地の倭人が三韓の に直接会ったり,あるいはそうした交易ルートをたどって三韓の人が西日本の各地に 赴く機会があったのでしょう。」 www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001b.html 殷の「商人」、つうか、もともと殷そのものもそうした商人の集まりから発したので しょうが、商活動こそ弥生末期の実態で、バイキング、コルテス・ピサロのような 実態ではなかったと思われますね。
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