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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

573 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/04(土) 03:17:10.72 ID:RWhjGdVD.net]
権現様(徳川家康)が中原御殿におられた折、夜中、にわかに犬が
吠えたので、「誰か見て参れ」と仰せになった。

すると小姓衆が「見に参ります」と言い、御前で手をつき通ったので、

「斯様の時の礼は、かえって無礼ぞ。少しでも早く出て見るものぞ」
と、仰せになった。

さて、犬が吠えたのは“淫乱の人跡”と見えたので、詳細を密かに
仰せ上げられると、権現様は「良きぞ。黙れ」と、仰せになった。

(扨犬の吠たるは淫亂の人跡とみへたる故。委細ひそかに仰上られ
たれば。よきぞだまれと上意なり)

――『武功雑記』


“淫乱の人跡”とはいったい…

574 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/04(土) 09:46:46.25 ID:dvy1U+wC.net]
ギシアンかアッー!(ボソッ!

575 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/04(土) 11:46:12.00 ID:iA9RwaR5.net]
獣姦の詳細なんぞ聞きたい奴おるん?

576 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/04(土) 12:10:27.53 ID:8RyG3zgi.net]
>>573
>よきぞだまれと上意なり
これ素直に訳すと「解ったもういい黙ってろ。」って事だな。
家康が苦虫噛み潰したような顔でこれ言ったと想像すると結構面白い

577 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q.net]
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

www.tonichi.net/news/index.php?id=58285

578 名前:人間七七四年 [2017/02/04(土) 20:48:26.85 ID:nqYD0FKg.net]
>>572
文献が思い出せず書けなかったのですが、
記憶が確かならば、大永年間の国分八幡神社の火災の原因は
島津と敵対する武将による“放火”だったはず。
怖い尾鰭がつくのはある意味当然かもしれない。

579 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/05(日) 14:14:36.09 ID:S09LjR6w.net]
「関連づける文献はなく恵方巻きの起源といえる証拠はない」けれど恵方巻の起源は堀尾吉晴だった可能性も、として「堀尾巻」が販売される
www.nhk.or.jp/lnews/matsue/4033545961.html?t=1486266775000

580 名前:1/2 mailto:sage [2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8.net]
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2 mailto:sage [2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8.net]
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG.net]
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d.net]
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U.net]
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu.net]
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB.net]
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる

587 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02.net]
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』

588 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0.net]
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub.net]
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8〜9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2.net]
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0.net]
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?



592 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/10(金) 02:48:01.57 ID:2I4GYOmF.net]
○ 浜松にて、鳥居金次郎と成瀬藤蔵は口論し、果たし合いをしようと約束した。

ところが、成瀬が「いや、明日の合戦で先を争って死ぬことこそしかるべきだ!」
と言い、三方ヶ原で両人は討死した。

この金次郎の子も金次郎といい、長久手で討死した。

○ 山県三郎兵衛(昌景)の与力・孕石源右衛門は小瘡<ほりめがさとも云>
を煩い、行歩は不自由で、殊のほか痛んだ。

三方ヶ原合戦の時、孕石は馬から下りることができず、下人に負われ槍場まで
参り、ひたと這い出て人より先へ行き、一番槍を合わせて、名乗りをあげた。

三郎兵衛はこれを見て乗り来ると、「孕石の一番槍を見たぞ!」と、言った。

その相手は小栗某と取り沙汰し仕ったが、成瀬藤蔵と鳥居金次郎の両人の内、
どちらかであるという。

――『武功雑記』

593 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/11(土) 21:46:26.57 ID:p+eky8c1.net]
本多忠勝が桑名城を拝領した時、本丸の堀を腰の高さまで埋めさせたという。
これは桑名城が海岸に築かれた城であったので、石垣の際まで敵が攻め寄せたところを、
下矢で射やすくするための改修であったそうだ。

(武野燭談)

594 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/11(土) 22:23:11.24 ID:6M6UdOVU.net]
松平上総之助忠輝卿は大神君の九男であり、越後高田六十万石の領主である。
あるとき忠輝卿は自領の名生村へ出かけ、漁を見物することにした。
集められた千人の漁師たちは「殿様が見てるなら」と秘術を尽くして網を引いたため、
魚が浜を埋め尽くすほどの大漁。
忠輝卿もおおいに機嫌が良くなり、魚を料理させた上で家臣と漁師に酒をぞんぶんにふるまった。

おかげで一同、大騒ぎした上で酔い潰れてしまったのだが、
村の住人である庄左衛門、異名を“今猩々”という男だけが素面である。
これを見て奉行、「お前は下戸なのか、なぜ飲まないのだ」と問うと、
男「酒は大好きなのですが、いくら飲んでも酔わないのです。
今日もせっかくの心遣い、存分に飲もうと思って何杯かいただいたのですが(酔えず)、
酒が尽きたのか持ってくる人もいなくなってしまいました」という答。
これを聞いて奉行、せっかくみんな楽しんでいるのにこの男だけ酔えないとは気の毒だと思い、
残りの酒を三、四斗ほどをかき集めて飲ませた。
奉行「満足しましたか…(小声
男「もうちょっと飲めば酔えたんですけどね」
奉行「えぇ…」
しかし酒も尽き、忠輝卿も帰城することになったので、話はここまでとなった。

後日この話が評判となり、聞きつけた忠輝卿が
「さてさて不思議なことだ、こやつがどれだけ飲めるのか調べてみよ」と仰せになったので、
男を城へ呼び寄せて饗応することになった。
次の間に通された男、次々に運ばれてくる酒を飲むわ飲むわ、
六斗まで飲み干したところで「ありがたき幸せ、私は生まれてこのかた酔ったことはありませんでしたが、
お殿様のおかげで今日こそは満足しましたぞ」と言い、遂に酔った様子を見せる。
役人が「そりゃ良かった、では少し酔いをさまして帰りなさい」と伝えると、
小唄などうたってご機嫌の男、「かしこまった」などと言い、床の間の縁を枕にグーグー寝てしまった。
これを障子の隙間から見ていた忠輝卿、
「あのような小男がいくら酒を飲んでも酔わないとは不審なことだ。気の毒だが殺せ」
「えっ」
「殺して腹を割き、酒があるか確認せよ」
お殿様の言うことなので誰も逆らえず、哀れ男は殺されてしまった。

家臣たちは男の腹を割き、ついでに手足もバラバラにしてみたが、酒の痕跡は一滴もない。
これはおかしいとよく調べると、男の両脇の下に一寸ばかりの瓶が見つかり、そこから酒の匂いがただよってくる。
忠輝卿、これを打ち砕いてみよと命じるも鉄石のごとき固さで歯が立たず、そのうち口から酒がこぼれてきた。
その酒をあけてみると、一瓶につき三斗、併せて六斗が入っており、
逆に出てきた六斗ぶんの酒を瓶に戻すこともできた。
これを見た忠輝卿、この世にふたつとない宝を得たといって喜び、猩々瓶と名付け、
その後は身から離さず持っていたという。

〜掃聚雑談

捨て童子さんのちょっと悪い話

595 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 02:11:19.37 ID:1YM6JH+R.net]
長坂源五郎の事

武田信玄は長坂源五郎の心気を試そうと、
度々美女を源五郎の方へ御用を申し付けて使いに出されました。
すると、度々の事なので後になっていくと、
源五郎は嗜みが緩みその女に戯れた言葉をかけてしまった。
その様子を御側の者から聞かれると、信玄は実際にその様子を御覧になられ、
とうとう源五郎を見限られたといいます。

かりそめにも美童美女等に、たとえ遠くから見る人聞く人がいなくても、
少しも戯れた様子で詞をかけてはならないということです。
嗜むべきなのは『色の道は金銀の事』と
堅く守らなければならないということです。


『武士としては』

596 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 02:39:21.28 ID:rnvBOGUA.net]
ハニートラップしかけて浮気調査

597 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 02:40:36.37 ID:vQNGMvww.net]
モニタリング?

598 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 06:17:26.53 ID:vMpwbjHL.net]
嫌なやつだなw

599 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 09:13:54.62 ID:9kYINmyX.net]
>>594
寝てるならそのまま身ぐるみはげばいいだけじゃん
殺すこたぁないだろw

600 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 14:06:35.43 ID:doLJSv2v.net]
>>594
御伽噺の世界だw

601 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/12(日) 14:51:03.57 ID:b1Rp+1Iz.net]
>>599
胃の中を見たいからね、しかたないね



602 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/15(水) 20:08:35.82 ID:0fvy8vfu.net]
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)

603 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx.net]
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)

604 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/16(木) 21:25:00.04 ID:op0NtBCx.net]
>>603
オチが・・・・・・

605 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+.net]
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?

606 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt.net]
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

607 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT.net]
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)

608 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/22(水) 04:00:20.62 ID:LKwAbEd0.net]
この年(天正2年)、近江国鎌刃の城主・堀次郎(秀村)と、同じく樋口(堀氏家臣)
が御改易となる。

その詳細は、木下筑前守秀吉と協力していたが、小谷落城以前の秀吉は5万石、
堀次郎は10万石の領主だったので、秀吉の意見に服さず、関係が悪かった。

近年、浅井へ内通した旨が秀吉より言上されたので、このような事になった。

(其子細木下筑前守秀吉同心たりしが、小谷落去以前は、秀吉は五万石、
堀二郎は十万石の領主たるに依て、不服秀吉異見条、間柄不快。近年浅井へ
内通仕候由、秀吉依言上如此)

――『当代記』

609 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/22(水) 09:46:36.86 ID:3POQtBKt.net]
手取川の戦い(小声

610 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh.net]
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)

611 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl.net]
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。



612 名前:1/2 mailto:sage [2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def.net]
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613 名前:2/2 mailto:sage [2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def.net]
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事

614 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv.net]
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv.net]
褌みたいなもんか

616 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x.net]
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

617 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm.net]
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

(今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』

618 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV.net]
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg.net]
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR.net]
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg.net]
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw



622 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW.net]
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC.net]
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3.net]
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

625 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf.net]
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673〜83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)

626 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa.net]
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

627 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 10:04:22.29 ID:L7mnKgnz.net]
加藤家断絶前兆の事

蒲生秀行に仕えて一万石を領した神田清左衛門という武士は、後に加藤肥後守忠広に仕え五千石を領し、
肥後加藤家断絶の後は阿州松平安房守家(蜂須賀家)に抱えられ、三千石を賜い、その子孫は今も
かの家に仕えている。

この清左衛門の物語によると、肥後加藤家において寛永8年に不思議な事があったという。

熊本城内の桐の木に、冬瓜のようは果物が数多生えた。人々見て、
「これは珍しき事である、末はどのようになるのだろう。そのまま置いて、熟するのを見よう」
そう言って待っていた所、ようやく熟する頃に至って、その果物の中よりネズミが実を食い破って
出てきた。人々更に怪しみ、この果物を尽く取って切り割ってみると、全ての実の中にネズミがあった。
そのネズミは尽く打ち殺し捨てたが、その実のなかに一つだけ、鉈があった。
人々は「不思議、奇怪」と言うばかりであった。

然るにその翌寛永9年6月、肥後守忠広および嫡子豊後守光正父子は配流となり、領国を改易された。
「さては、あれはこの前兆であったか。」人々はそう囁きあった。

そのときに見つかった鉈は、仔細あって某氏の子孫が今も所持しているという。
これは清左衛門が物語したことを、阿州家中の士が語ったものである。

(翁草)

628 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 12:24:35.35 ID:GR/xBTE0.net]
>>627
既出。しかもソースもいっしょ
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7747.html

629 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 13:58:25.95 ID:IhN9hwwZ.net]
阿波の安房守か

630 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 23:11:11.96 ID:kLBlArxO.net]
 ある人、紹巴の所へ行き

「我はあまりに無能でしたので、何か心掛けたいと存じています。
医者か連歌を望んでいます。
御相談の上、あなたの御意見次第にいたすつもりです。」

と言った。紹巴は聞き、

「それはよい心掛けでございます。二つの内では、連歌がましでありましょうか」

と言われた。それから、かの者は連歌を好むようになった。
 その後に、ある人が紹巴の所へ行き、

「さてさて、井原屋の無心は貴老と御相談して連歌をするようになったと申していましたが、
どういった理由からそうおっしゃられたのですか?」

と尋ねた。紹巴が言うに

「そのことでございますか。
あれほど出来が悪いのに医者になりましたら、
人の種がなくなってしまうでしょう。
せめて連歌ならば、人を殺すまいと思ったからです。」

(昨日は今日の物語)

631 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/01(水) 23:29:52.99 ID:ahPZfOIy.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6056.html
曲直瀬道三を相手に紹巴で似たような話があったな



632 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/02(木) 20:54:21.55 ID:gsMc9xf7.net]
西国の、大村五島の類の外様大名について、彼らは元来国人にて、鯨突きの類であった。
戦国の頃、恣に近隣を略奪、横領し、後治世となって公儀より御改の節には、よき程に
石高を書いて提出し、その後検地の御沙汰も無く、その提出した石高の通りに、格式軍役を
仰せ付けられている。これを「差出高の衆」と言う。辺境の国にこの類は多い。
東国では津軽氏なども同じような存在である。表向きの差出高に対し、実高はその10倍であるとか。

(翁草)

肥前五島藩の五島家(宇久氏)のことか。

633 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 09:52:22.65 ID:2e2kntZ0.net]
南部さんとか、島津さんとか

634 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 11:26:44.27 ID:zUVujDMJ.net]
島津は表高を上げ過ぎて四苦八苦してるけどね。
津軽も江戸時代の高直しで苦境に陥ったし

635 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 14:18:07.22 ID:41HyJ93c.net]
対馬の宗氏と蝦夷の松前氏は1万石扱いなんだっけかそんなにないのに

636 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 14:26:17.89 ID:9X2ZeKxt.net]
一万ねえと大名じゃねえ

637 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 22:12:12.36 ID:JhVX3B9d.net]
ろくに米とれない所は海産物やら木材なんかを石高換算するんだっけ?

1万石で大名ってのはいつからそう決まったの?

638 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/03(金) 22:51:18.23 ID:H7v176AZ.net]
江戸時代から。
米が単価ベースだったから米が基準、で海産物なんかは別換算だったはず。南部家は米が少ないから広い割に30万石くらいだったけど実際は海産物含めてもっとあったような文献を読んだ。

639 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 02:29:30.81 ID:CyHrUAAx.net]
3月11日(慶長17年)、小笠原権之丞、榊原加兵衛以下、御旗本の輩
5,6人を改易なさった。伴天連の宗門に帰依している族である。

原主水正(胤信)も同罪の者であったが、逐電して行方知れずになった。

この時、大神君(徳川家康)の上意あって、今後旗本の面々は各10人組
とし、相互に吟味を遂げて、もし、その中にかの宗の徒がいれば、言上す
べしとの旨を、仰せ渡しなさったという。

――『関難間記』


岡本大八事件を受けての処罰と処置という話。

640 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 21:22:06.58 ID:x2xTiC3w.net]
まとめサイトの管理人さんオススメの平山優「武田氏滅亡」の甲州征伐の箇所読んでたら
「甲乱記」では
飯田城の武田方は、馬糞が燃えているのを織田軍の鉄砲の火だと思い夜間に一目散に逃げ出した
まるで富士川の合戦で水鳥の音に逃げ出した平家のようだ
(平山優によれば、実際は浅間山が48年ぶりに噴火したのを見た武田方が戦意を無くしたからかも、としている)

と書かれてるとか、

勝頼の新府城からの逃亡を木曽義仲の没落や平家の都落ちになぞらえている、

そうだ。
富士川の合戦の大将が武田信義で
自称木曽義仲の子孫の木曽義昌がいち早く裏切ったことを考えると歴史の皮肉というかなんというか

641 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p.net]
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話



642 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb.net]
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』

643 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz.net]
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g.net]
ザルすぎる防衛網

645 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr.net]
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)

646 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/07(火) 00:36:04.14 ID:sUTcU+gp.net]
寛永14年、肥前島原にて切支丹宗門の一揆が起こった時。江戸より総軍令を遣わされることと成り、
将軍家光のお側に伺候していた板倉内膳正重昌が選ばれた。
ところが、その頃内膳正は病を患っており、老臣以下このことを聞くと

「別にこの役儀に相応しい器量のものを選ばれ、内膳正は御免あるべきではないだろうか。」

そう内々に相談し、何れも尤もであると賛同し、この趣を将軍家に申し上げることに定まった。
そこで大老である酒井讃岐守忠勝まで話を上げると、忠勝は聞くやいなや

「あなた方は内膳正という人間を解っていない。彼がこの度の御使を承りながら、病気のため
御免となったと仰せになれば、忝しとはよもや思わないだろう。
殊に、別人に代わりの軍監を仰せ付けられたと承れば、忽ち自害するような人物である。
ただそのままに、島原に遣わされるべきである。
仮に道中にて病死したなら、その時こそ代わりの人を使わさせるべきだ。」


「そのような事になれば、何かと日数を経る内に、一揆の蜂起はますます広がって
しまうのではないだろうか?そのことをどう思われるのか?」

この反論に讃岐守は笑って
「あれは土民の一気に過ぎない。一体誰が彼らに味方するというのだろう。
もしまた、この混乱を幸いに、幕府に対して反抗の色を立てる者が居れば、それこそ
我々にとって良き対応を試みる、良い機会となるだろう。
尚以て、板倉こそ遣わされるべきだ。」

内膳はこのことを聞き伝え、大いに喜んで早速準備をし、嫡子である後の内膳正重矩、
当時16歳であったのを同行させ、命を受けた即日出陣した。


しかしその冬の軍は思いの外手間取り、その事は将軍家まで聞き及び、重ねて松平伊豆守信綱を
差し向けられるべしとの事となった。

これを大久保彦左衛門忠教が聞いて、心易い同輩にこう囁いた
「あたら内膳正は討ち死にするだろう。不憫な事だ。」

彦左衛門察しの如く、松平伊豆守が発向したとの情報を聞くと同時に、板倉内膳正は一揆に猛攻を
仕掛け、深入りして討ち死にをし、息子重矩も深手を負った。

内膳正はこの日を討ち死にと覚悟し、出立の時、息子重矩に向かい
「私は今回、酒井讃州の一言によって、忝なくも総軍の支配を承った。
お前は相構えて、讃岐守の子孫に対し、無沙汰をしてはならない。」

そう重矩に、くれぐれもと言い含め打ち出たのだという。
人にとっては、一言であっても大事になる事もあるのだ。

(武野燭談)

647 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV.net]
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

648 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/09(木) 03:40:45.70 ID:3YZkEmVw.net]
坂田五郎左衛門、穴沢左近と勝負之こと〔『校合雑記』〕付異聞

 世に『校合雑記』と題す書がある。実録と見える。
その書には、大坂信貴野での上杉景勝の兵である坂田五郎左衛門と穴沢左近〔世にいう薙刀の名人である〕の勝負が書かれてある。

 穴沢は隠れもない薙刀の上手であった。
坂田と槍を合わせると互角であり、
穴沢が手元まで入って来ると坂田は槍を捨てて穴沢を押し付けて引き組んだ。
穴沢は大力であったので、手もなく小高い所に坂田を組み敷いた。
しかし坂田は老武者で武功があったので、騒がず九寸五分を抜いて、
【根付の所より繰(クリ)かへし】〔根付以下十字はまだその事が分からない。よって原本に従った〕穴沢の首を取った。

「総じて自分の器量より他人をみくびりおごっている者は仕損じがあるものだ。
穴沢は器量を自慢していたと見えて、長刀ゆえに自分が生き残ると思っていた。」

と坂田が話していたと、上杉衆の話を書き付けてある。
〔長刀ゆえの言葉は、穴沢が長刀の能を誇っていたからかえって坂田は勝つことが出来て生存し、今日に至るとの事であった。〕

 ある夜話のとき、剣の師がいつもの稽古の話として言い伝わっているものを話してくれた。
穴沢のこの最後のとき相手は素槍であった。
しかし槍を合わせると穴沢はすぐに入ってきたので、相手は槍を投げ刀で袈裟に斬った。穴沢はここで負けたという。
師曰く、

「このようなので、太刀槍薙刀、その勝負の場は剣刃上である。」
(剣刃上※剣の刃の上を歩くように、自由自在なこと。)

『雑記』の文と異なっている。しかし両者とも心得るべきことだ。

(甲子夜話三篇)

649 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/09(木) 23:55:41.28 ID:RVhtdrtc.net]
或る説によると、豊臣秀吉が、実は神皇百六代後奈良帝の御落胤であるという。
母はこの朝廷に仕えていた所、禁裏衰微の故から御妊娠のあと故郷に帰り、上中村の何寺
とやらに居た叔父の僧の世話に寄って木下弥右衛門の所に嫁いだのだとか。

この説によると天瑞院殿(大政所)は弥右衛門の継室であり、瑞龍院殿(秀吉姉日秀尼)とは
別腹ということになるが、この説を豊臣秀吉は非常に喜び、後に朝鮮より素性を尋ねられた時、

「父は知らず。母は官女」

と書かせたという。

(翁草)

650 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:18:49.42 ID:CuKbDLlq.net]
大村由己「天正記」を真に受ける人がいたとは

なお朝鮮の宰相・柳成龍「懲録」によれば
「秀吉については、ある者は『彼はもともと中国人で、倭国に流れ込んで薪を売って生計をたてていた。
ある日、国王が外出中に道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て、軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、
ついに源氏(足利氏)を奪ってこれに代わったのだ』と言い、またある者は、『源氏が、ある人に殺され、
秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』とも言う。」
(中略)
その国では、天皇を尊び、秀吉以下は、すべて臣下の礼をもって対処している。秀吉は、国内にあっては王を称えず、
ただ関白とか、博陸侯とか称している。いわゆる関白とは、霍光の言った『凡そ事は皆まず関わり白(もう)せ』という
語からとって、そのように称えているのである。」
となってるので落胤とは思われてなかった模様

651 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq.net]
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった



652 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 00:57:59.00 ID:B06BHJSI.net]
平戸広前院、壱岐覚音寺、田平弥勒寺、城下正安寺、誓願寺等鐘之事

 天保甲午に侍臣の父が古談を言ったとして話した。
〔以下の文は他人が聞きやすいように記してある。〕

城下の町中にある七郎権現という祠は大きな宇である。
その祠前に道を隔てて海辺に船着きの石段がある。
法印公(松浦鎮信)が朝鮮へ御出陣の時はここから御船を出された。
この時祠の傍らにある別当広前院の門を顧みると、撞鐘が懸けてある。
公は軍吏に命じて
「かの鐘を銃丸とすべし」
とおっしゃられた。
〔予が思うにこの銃丸はいわゆる唐金丸(からかねだま)であろう。
堅物を貫ける利点がある。朝鮮着岸のとき、兵達の利となるように慮られたのであろう。〕

 これから公の鋭志を見ることができた。
この話を聞き、近頃かの侍臣が広前院の門を視たがその門は今日の物ではなく、
甚だしく古色であった。しかし懸鐘の鉤はなお衡門に存在していた。
鐘を取った後からまた年月を経てそこにある。この門の安否は知らないと。

 また不動院〔この僧は平戸の生まれで、久しく壱岐の某寺に住んでいた〕が話では
今壱岐の覚音寺〔立石村〕にある鐘は、法印公は朝鮮に持っていかれた広前院の物だという。
なぜ壱岐にあるのかというと御帰陣のとき混雑だったためだという。ならば銃丸の話はまた一説であろうか。
 少年の時に広前院に仮住まいしていた者に聞いても、前説のようであった。
これはかの寺で言い伝えだという。
また、懸鉤はかの古門を修造するときに取り離したときに、
そのころの住僧がよく心得ていて古い例によってもとのように打たせたという。

 またある者の話では領内の田平村の弥勒寺という寺には、領内の数里隔てた相神浦真法寺という寺の鐘があり、これも朝鮮帰陣の時のことと言い伝わっている。皆の混雑の有様が想われる。

 城下の正安寺という寺は古き祖先公が開基の寺である。
この鐘も朝鮮に持って行かれたが、この寺の銘がある鐘は今日向国にあると聞いたので、
そこの島津淡州に頼んでかの国に問うた。
何八幡とかいう社頭馬場がある辺りの寺に、
正しく平戸島正安寺と銘がある鐘があると答えた。
これらは元の場所と違い所に行き、島津氏が手に入れる結果となった。

 また城下誓願寺という浄土宗も古い寺である。
この寺に今ある鐘は大きな物であるが、長州吉田郷何々の鐘とか銘がある。
また誓願寺の鐘はいずれかにあると。
『扶桑鐘銘集』かに書いてあると思われる。
これは暗記なので定かではない。
この寺の鐘も古寺のことゆえ、朝鮮の役に持って行ったものの一つであろう。

(甲子夜話三篇)

653 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 11:40:36.45 ID:gLZd/NjL.net]
メチャクチャですがな w

654 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 13:55:56.55 ID:c5Zdyy3A.net]
>>650
>『源氏が、ある人に殺され、秀吉がまたその人を殺して国を奪ったのだ』

爆弾正「よし、途中が抜けてるからセーフだな」

655 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 21:36:32.50 ID:I2lYKaTf.net]
大河ドラマのおんな城主直虎が不発なので応援エピソードを送る

1983年の大河ドラマ徳川家康でのエピソードだが
(NHKオンデマンドで見れるシーンだが)
徳川家康の幼年時代に今川家に人質になった年の正月に
今川義元から屠蘇をもらう時、竹千代のそばに美しい姫が二人並んだ
1人は鶴姫といいもう1人は亀姫という
義元は竹千代に将来、鶴姫を嫁にしないか?と言われる。
竹千代は殿の命令ならいただきますと答えた。
すると義元は竹千代にでは亀姫はどうか?と尋ねられ
竹千代は即答で亀姫を嫁にしたいと答えた。
数年後、竹千代の嫁になったのは鶴姫だった。
それから数年後、亀姫は竹千代事、徳川家康の敵としてはばかり
悲劇の最後を遂げるのである。
亀姫が亡き後、家康は亀姫にそっくりな姫を側室にして
その側室が2代将軍秀忠を生むのである。

ちなみに亀姫が死んだ後に鶴姫は亀姫の墓前に
椿の花を数百本植えて弔った弔ったいうエピソードがある。

656 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 22:01:22.78 ID:SqWqwXvN.net]
それって大河以前の出典のあるエピソード?

657 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:13:40.76 ID:I2lYKaTf.net]
原作読んでないからわからん
脚本家の創作かも知れないけど

658 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:39:44.07 ID:I2lYKaTf.net]
これからの「おんな城主直虎」は田鶴との血を血で洗う攻防戦になるから
これをどのように描くのかシナリオに興味があるな
この田鶴との攻防戦のできによっては面白くなるか
オニギリ以下の大河ドラマになるかの瀬戸際だから注目しといていいよ

659 名前:人間七七四年 [2017/03/10(金) 22:51:14.59 ID:I2lYKaTf.net]
ネタバレになるのだが
大河ドラマの徳川家康の亀姫=おんな城主直虎の田鶴なんだよな

徳川家康では竹千代の初恋の姫で、直虎では直虎の最大の天敵というのも面白いですと思う

660 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/10(金) 23:24:00.65 ID:TbL3G2rO.net]
10年くらい前にいい悪いスレに上がってた話をドラマで見れるとか胸が熱くなるよな

661 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/11(土) 10:28:41.06 ID:NRxTn7fG.net]
鶴姫=瀬名
亀姫=田鶴



662 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/11(土) 12:42:16.66 ID:3jYWWDyx.net]
鶴がついてる方がつるひめじゃーないのか

663 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/12(日) 03:54:09.75 ID:Ea6rH+3d.net]
 関白秀次公の御咄衆に、曽呂利と申す者がいた。
あまりによく話をしますので、ある時話をつまらせてやろうと思し召された。
彼が朝の寝起きで未だ顔も洗わず目をこすって取り乱している体であったときに、

「何か話を一つせよ」

と仰せられた。すぐの話なのでつまりかけたが、ふと昨夜の夢を語りだした。

「さても、今宵夢を見ておりましたのか。
ある所へ行きまして、道に小金が夥しく落ちておりました。
さても嬉しい事かなと存じ、思う存分に拾い持ち帰るところに、
落とした主が来て取り返そうと追いかけてきました。
汗水をかきながら逃げましたが追いつかれそうになり、
もはやというところで余りの苦しさに、大便を垂れてしましました。
そこで目が醒め、かの金を探ってみましたが金は跡形もなく、
大便はたくさん垂れてありました。」

(昨日は今日の物語)

664 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/12(日) 14:38:42.96 ID:lFS0FxH5.net]
日本人は本当食い物を粗末にするよな

665 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/14(火) 17:34:44.98 ID:T6KbAzrH.net]
ある年のこと、尾張大納言徳川義直の元に酒井讃岐守忠勝が訪問した時、馳走にと
嫡男五郎太殿(後の徳川光友)による能興行があった。
この時、五郎太の手の舞い、足の踏む所、自らの拍子を、『讃岐守はきっと感賞するであろう』と、
義直は自慢げに見せるのを、忠勝は一切褒めず

「勿体なき大事の御身でございます。どうぞ余人に仰せ付けてください。すでにご器用なのはよく解りました」
(勿体なき大事の御身にて候。只余人に仰せ付けられ候へ。最早御器用の程は見え申したり)

と、しきりに止めようとした。立ち返ってから

「武家は何度も武を賞賛されることこそ本意である。大人・公子の御身として、幽霊女の真似など、
全く益がないではないか。」
故に全く感心できなかったのでやめるよう言ったのだと、成瀬隼人正正成に語ったそうである。

(武野燭談)

666 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/14(火) 21:27:44.11 ID:BQ1j7HGy.net]
でも武を見せつけると謀叛の疑いをかけらるんだろ

667 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 17:53:08.67 ID:FwIHOceO.net]
ある人が言った
「大久保相模守忠隣、本多上野介正純などは、父祖代々御当家に仕えて大功のある人々の子です。
であるのにその一身が修まらざるによりて、最期には辱められ、彼らに縁のあった大名たちもまた、
名家、あるいは数代の武臣であったのに、多くがこの事によって改易されました。
これは非常に荒い御政務ではないでしょうか。」

これを土井大炊頭利勝が聞いた
「愚かなることを申す者かな。私などは今、武家(将軍家)執事職を兼ね勤めていると言っても、
子孫が君命に背くなら、他の者よりも罪を糾明されてこそ本意である。
またその上で、折が有れば、大久保・本多といった罪を問われた人々に存命の子孫が有れば、
宜しく召し仕わされる事、これが仁政である。

今は、天下創業の御政務である。
だからこそ、先ず御譜代より厳しく戒め置かれているのは天下に恐れられている。
御譜代の者が別してその罪を深くしてこそ、上の後威光が増すのである。

忠隣、正純の父である、大久保忠世、本多正純も、息子に対して泉下で憎んでいるだろう。
仮に存命していれば、共に子を勘当したであろう。
彼らはそういう人物であった。」

そう申されたという。

(武野燭談)

668 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 19:41:25.77 ID:jC7m6Npx.net]
>>667
いい話じゃない?

669 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 21:45:02.10 ID:kjNWxgyd.net]
正純の父が正純

670 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/15(水) 22:44:16.45 ID:ccF9VRfj.net]
Oh!マサズミホンダJrのコトダネー

671 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 00:57:14.93 ID:ESpxuFY9.net]
 天正の末のことである。
関白秀次の家臣の人々が新しい諸大夫になった時、
その若造どもは聚楽の番所のわきに集って居た。

「我が主殿は、今度”かみ”になられたか。
社参してくる衆も『めでたくございます』と樽酒を持って参る。
が、まだ賽銭などは見えませんな。」
「何の”かみ”におなりになられたのか?」
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」
「それは少し生臭いかみじゃ。しかしながら、これは御意であろうのでどうしようもない。
うちの主殿も昔から、”なまこの寿千寺”といってきている。」

 評して云う。
万民を憂う心は弱く利を思う心が強い人を宰相の職に挙用したら、
雀部淡路守をあはびのかみ、尼子寿千寺をなまこと聞き違える害がでたのだろう。
善悪が生じる原因は、智に明るいかどうかではないだろうか。

(戯言養気集)



672 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/16(木) 10:10:26.13 ID:9pvTh3BL.net]
落語の「松竹梅」を思い出した
長屋の松さん、竹さん、梅さんが名前が縁起がいいってので若旦那の婚礼の座興をすることになったが
松「なったあ、なったあ、じゃになったあ、当家の婿殿じゃになったあ」
竹「なんのじゃになられた?」
梅「長者になられた」
というところを梅さんが間違って
「大蛇になられた」「風邪になられた」
最終的には「亡者になられた」
と言ってしまい、あわてて逃げ帰るという

673 名前:人間七七四年 [2017/03/16(木) 21:35:54.42 ID:+0jck8rG.net]
おんな城主田鶴
井伊直虎の最大ライバルなのになぜ出て来ないの?
武田信玄に上杉謙信
武蔵に小次郎
みたいな存在なのに
そもそも田鶴が直虎の曽祖父を毒殺して
直虎がおんな城主になったのに






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