- 1 名前:記憶たどり。 ★ mailto:sage [2018/01/14(日) 02:17:02.47 ID:CAP_USER9.net]
- <大川小>避難経路、最短ルートと誤解か 行き止まり知らず進んだ可能性
東日本大震災の津波で全校児童108人中、74人が犠牲となり、児童を保護していた 教職員10人が死亡した宮城県石巻市大川小の避難ルートについて、 教職員が北上川の堤防道路(三角地帯)への最短ルートと誤解し、行き止まりを知らずに 裏道を進んだ可能性が高いことが、河北新報社の検証で分かった。 児童の足取りを巡っては「なぜ、津波に向かって進んだのか」 「なぜ、県道に直接出ず、遠回りしたのか」など長い間謎だった。(大川小事故取材班) 2011年3月11日午後2時46分の地震発生後、教職員と児童は約45分間、校庭にとどまり、 津波襲来の約1分前までに校庭を徒歩で出発した=図=。証言によると、その後、釜谷交流会館の 駐車場を横切っている際に県道から戻ってきた教頭が「津波が来ているから急いで」と叫び、 児童の一部は途中で右折し、民家の間を通って県道に出ようとした。 先頭付近にいた当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は県道に出る直前、津波に気付いて引き返し、 裏山を約3メートル登った辺りで波にのまれた。地元釜谷育ちの只野さんは「行き止まり」を知っており、 とっさに右折するルートを選んだ。行き止まり付近では児童34人の遺体が見つかった。 地元住民によると、裏道は1976年12月に新北上大橋が開通するまで、軽トラックが通れる道幅があった。 開通後も幅1メートル弱の小道は残り、近所の住民が生活道として利用していた。 商店主が震災の約10年前に高さ2メートル以上の鉄柵を設置し、通行できなくなった。 鉄柵と山裾にはわずかな隙間があり、「震災の数年前まで三角地帯に行けた」との証言もある。 地元の女性は「無理をすれば通れたが、子どもを大勢連れて通る道ではない」と話す。 三角地帯は標高約7メートルで学校より6メートル近く高い。教頭は地元住民と相談し、三角地帯行きを決めた。 住民のアドバイスなどを基に、土地勘のない教職員が裏道を先導した可能性があるほか、 「交通量が多い県道を避けた」との見方もある。 大川小は07年度に危機管理マニュアルを改定し、「津波」の文言を初めて盛り込んだ。 10年度の改定でも校庭からの避難場所については「近隣の空き地・公園等」を踏襲し、 具体的な場所を指定しなかった。 仮に三角地帯にたどり着けたとしても、付近は高さ2〜3メートルの津波に襲われた。 マニュアルの不備に加え、震災当日の(1)避難先(2)避難ルート (3)出発時刻−など二重三重の判断ミスが重なり、「大川小の悲劇」につながったと言える。 河北新報 www.kahoku.co.jp/tohokunews/201801/20180111_13058.html 宮城県石巻市大川小の周辺図 storage.kahoku.co.jp/images/2018/01/11/20180111kho000000156000c/001_size4.jpg ★1が立った時間 2018/01/11(木) 19:22:05.79 前スレ asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515732802/
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