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1 名前: mailto:sage [2020/10/17(土) 23:31:09.33 .net]
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602486712/l50
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀

140 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:35:06.53 .net]
>>124

出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。

141 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:39:21.64 .net]
アワサク

142 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:41:18.92 .net]
>>125
>出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。

そう言うの、「負

143 名前:ッ犬の遠吠え」って言うらしいよ。  わははははは   @阿波 []
[ここ壊れてます]

144 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:55:30.49 .net]
・水銀・朱の背景

天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。
辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。

本スレに関連する点としては、物部東征を九州の水銀の枯渇として結びつける論文もあるが
中央構造線に多く分布する水銀鉱脈は九州にもあるのでその線は薄いと思われる。

・士族との関連
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。
丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。
 施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り
これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。
 辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。

145 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:56:30.93 .net]
出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。

青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。

7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。

中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市

実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。
三重県のミエとは水銀中毒の症状で足が曲がるとかそんなイメージ

146 名前:の水銀バリバリの言葉。
本スレに関連する点としては、三重などの東海地方との結びつきが、大彦の狗奴国以前から続いており
纏向でもそっち方面の土器が出ている事から関連が強いと判断する。
[]
[ここ壊れてます]

147 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:57:29.35 .net]
もうこの時点で水銀のど真ん中は忌部では無くなってるだろww

148 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:00:50.85 .net]
「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが、重要なのは需要と供給量、分布である。

錫とは違い、今回は国産のものであるため、時代が合うものとして最盛期の正に古墳時代。
古墳などのでの大量使用例の変遷を見ることが適していると考えられる。



149 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:04:21.32 .net]
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.

150 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:04:32.33 .net]
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

151 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:09:49.88 .net]
現状としてまとめると、阿波の水銀は確かに古いが、水銀遺跡が出れば出るほど、丹生氏と秦氏の投影が強くなり
忌部から遠のいていくという事だね。

152 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:10:28.01 .net]
>>131
>「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが

縄文時代から採掘していたのは、日本で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけだがね。  わははははは   @阿波

153 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:16:17.45 .net]
邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。

154 名前:魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。

倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww
[]
[ここ壊れてます]

155 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:17:41.61 .net]
>>135

昔は露頭があったから集めるのは難しくなかった。
大量消費に向けた体制としては確かに鉱山が必要

156 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:19:46.50 .net]
徳島新聞

弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。

残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw

157 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:24:39.02 .net]
>>138
>残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw

悲痛だね。  わははははは   @阿波

158 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:28:02.59 .net]
実際の阿波の水銀が確認されているのは「四世紀初め」につくられた闘鶏山古墳などがある。

だがしかし荻原古墳群・・・

【形状】突出部をもつ円形の積石塚墳墓
【年代】3世紀前半
【特徴】前方後円墳の原型ともいわれる突出部をもつ円形の墳墓。高さが1m未満の積石塚墳丘墓は讃岐・阿波独特の形状である。1・2号墳の埋葬施設の「石囲い木槨構造」は「奈良纏向のホケノ山古墳と同じ構造をもち」,さらに萩原墳墓群の方が時代的に先行する。破砕粉砕された「銅鏡」,「中国産の水銀朱が使用され」,中国との密接な関係が伺える。

おいおいおいwww中国産ですか?需要は?採掘量は?
めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w

どうする?阿波さん、まだ前に進める?w



159 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:35:19.47 .net]
>>140
>めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w

必死のパッチだね。  わははははは   @阿波

160 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:39:08.34 .net]
>>141

銅鏡も古墳もみんな阿波とか忌部とか言ってなかったか?w

161 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:44:01.19 .net]
弥生時代後期から晩期にかけた北九州(福岡県春日立石遺跡など)、山陰(島根県出雲西谷墳丘墓,鳥取県紙子谷門上谷 1 号墓)
丹後(京都府大風呂南遺跡)の王墓とみられる遺跡より出土した朱に,「中国陝西省産辰砂のイオウ同位体比と一致する値」が観察されている。

初期の古墳は大陸産地が多く、ベンガラからの移行期には、大陸産地の朱砂は欠かせない要素である。

あれ?古墳が阿波から行った割には阿波の水銀どこに行った?

次に、畿内の古墳を見ればばよいという事になるのだが、加茂氏の古墳など、後期の豪族の古墳はもうヤマト産地。

何なんだろうね、この乗り遅れ感はwww

162 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:44:32.54 .net]
>>142
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

163 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:48:50.53 .net]
出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。

あれ?四隅突出型古墳は阿波からって誰か言ってませんでした?www

164 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:51:46.98 .net]
「丹生都姫神社」の社数について、和歌山県は74社が最多であり、オホン、ゴホン、阿波にはさほどの数ではない。

歴史的にはともかく、物量的に阿波が水銀の中心地になることはない。大和鉱床軍のほうが圧倒的である。

165 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:58:06.85 .net]
>>146
必死のパッチだね。  わははははは   @阿波

166 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:58:41.52 .net]
福岡や出雲、鳥取、丹後で使用された朱は、中国の陜西省産が多いという傾向
この地域使用の青銅溝鉱山は秦時代に開発されていたといいます。また近くの秦嶺山地の水銀鉱床は始皇帝の住んでいた長安の近くにある。
南氏とともに調査された鉱床学の島崎英彦氏によると、ここから漢水という川を下って揚子江に出れば日本まで容易に達するんだとさ。
弥生後期の北九州や山陰地方の豪族との交易品として、ここから辰砂が運ばれたのではないかと。

後漢書には57年に倭奴国の使者が洛陽の光武帝のもとに挨拶に来たと記されているが、洛陽からさらに西に360qで長安。洛陽にも漢水の支流が来ているので
簡単に揚子江に出ることができる。
弥生時代の大陸との交易品が朱であったとは。三国志魏書に記されたヒミコ以前の話になるわけだな。

167 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:05:49.58 .net]
本スレに近づけていこう

施朱の流行

施朱は古墳時代に入ったとたん一気に最盛期を迎え、北方系施朱の風習があった地域以外の各地で5世紀末まで続く。
3世紀後半から5世紀末までは全葬墓数に対して施朱を行っているのはほぼ100%。
弥生時代は1〜2割ほど。出雲伝承のいう、物部東征後に朱のブームが到来する事になるのだ。
ここにも出雲大和勢力と九州勢力の文化の違いが出始めていると言えよう。

せいぜい10Kgも使えば大金持ちなのだが、奈良の桜井茶臼山古墳には200Kgも使われている
3世紀末〜4世紀初めの築造で、施朱の最盛期の先駆にあたる古墳

施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿。
この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになる。

徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後の物である。

1000年なら誤差じゃないよなぁ阿波さんw

168 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:08:15.78 .net]
阿波のご自慢の水銀の遺跡だが、邪馬台国以前から既に奈良に置いてけぼり

奈良なんて人が住めないとか嘘までついてコリエイトwwww

何がしたくて阿波ってるんだろうな。本当に理解不能。錫に次いで水銀でも大ウソ。



169 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:11:02.46 .net]
阿波はまったく反論できないんだね
誰からも信用されないわけだ

170 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:11:41.69 .net]
縄文時代に細々と始まっていた水銀朱による施朱は、吉野ヶ里遺跡から本格的に始まり各地に広がって行った。
次第に朱は権力の象徴となってくのだ。

有力な鉱山が後に発見されながらも九州にスポットが当たるのはやっぱり交易と紀元前200年代以降の文化の大きな変化

171 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:12:20.72 .net]
>>149
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。  わははははは   @阿波

172 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:13:28.51 .net]
>>151

あえて書きませんでしたが奈良の桜井茶臼山古墳は大和鉱床の物を数十年かけて集めた形跡があるようです。

ミマキヒメとの被葬者の予想がありますが、どう考えても物部氏には無理。加茂氏の墓ではないかと言われています。

173 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:16:44.25 .net]
本スレで卑弥呼の墓じゃね?の噂のある黒塚古墳。

木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。

すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41sの水銀朱が納められていた。こちらは大和水銀鉱山出土朱。

中国の古銭が100枚見つかったら、中国は阿波から始まったとか言い出すのが@阿波

174 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:20:10.84 .net]
>>155
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。  わははははは   @阿波

175 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:22:17.70 .net]
ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

176 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:28:51.14 .net]
>>157
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録スレ」も形無しだね。  わははははは   @阿波

177 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:31:25.45 .net]
で?阿波のバックボーン、根拠は?www

178 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:34:02.35 .net]
本題に戻ると、

九州と出雲、奈良の凄さが錫や水銀からも分かると言うことですね。



179 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:35:02.73 .net]
>>159
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

180 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:45:15.80 .net]
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。  わははははは   @阿波

181 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:53:17.84 .net]
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125

182 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2020/10/18(日) 15:57:09.62 .net]
急に唐子鍵あげはじまったな

183 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:57:33.91 .net]
ね?皆さん。

証拠を出せとか根拠を出せとか言いながら自分で調べもしないやつに限ってロクなのは居ない。

ホラは治らない

184 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:01:24.08 .net]
>>149
奈良の墓で朱が用いられているのは、黒塚古墳が最初なん?

185 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:06:25.05 .net]
>>166
もちろんウソ
ホケノ山でも使われている

186 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:15:28.32 .net]
>>166

黒塚古墳は初期のものではありませんが、時代的に卑弥呼の時代に近いから候補としてあげた人が居たのではなかろうかと

187 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:17:10.62 .net]
>>87
3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。

それ、旧小国=中国史書の誤解。

188 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:19:29.09 .net]
>>92
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
博多の弥生銀座付近に2〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎



189 名前:土での供献土器の制作が始まり、
「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる
海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる
今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる
北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、
3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、大和などに広がる。
に九州最大の前方後円墳が築造される
[]
[ここ壊れてます]

190 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:21:12.93 .net]
>>168
弥生中・後期の大和の墓で朱が用いられていたら、その朱の産出地が丹生である可能性が出てきますが、
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ないとなれば、黒塚や天神山の朱はどこか別のところから集めてきた朱である可能性も出できますね。

191 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:37:09.54 .net]
>>170
九州説は
こうやって
歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね

192 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:44:15.37 .net]
>>129
>出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。
青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。

ふーん。

193 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:51:03.97 .net]
>>129
>阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 

無知の井戸かわず(蛙)! 


>若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡

無知の井戸かわず(蛙)!  わははははは   @阿波

194 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:52:44.06 .net]
それにしても、久留米祇園山は卑弥呼の寿陵である山門権現山のコピーだったという説は、かなり衝撃的な説だ。
この図式は、狗奴国に攻め込まれた邪馬台国の卑弥呼が、その邪馬台国の北限付近の御井まで避難し、そこで急死したとする図式とぴったり重なり、
卑弥呼の邪馬台国のエリアが如実に分かる説だといえる。
まあ、今後の邪馬台国九州説の核心説となることは間違いないな。

195 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:57:18.83 .net]
>>171
大和の墓の朱はホケノ山でも確認できるとのことですが、ホケノ山が大和最古の朱なんでしょうか。
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ているのでしょうか。

196 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:17:53.19 .net]
俺の霊感では狗奴国が九州なんて1回も言ってきた試しがないわ

何度聞いたって、静岡の久能だ久能だとしか言ってこない

197 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:18:26.50 .net]
>>136
>邪馬台国の卑弥呼

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。

>卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。

「献上品」としては名を連ねていなかった筈。

>卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

「辰砂」とは特定していない。「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
「丹木」の献上や、「鉛丹」の下賜の記録があるだけであり、
水銀朱だけではなくベンガラの使用例も見られ、鉛丹が下賜され、丹木を魏に献上している。

>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。

九州には辰砂もベンガラも採れる。

>倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww

倭国大乱なんて存在もせず、卑弥呼の遣使は景初二年である。

198 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:38:14.74 .net]
奈良県五條市の吉野川沿いの大阿太が、伝統的に九州隼人が住んだエリアだとすると、そのルーツは神武天皇の畝傍山東南麓の宮に求められる。
神武天皇は一人で南九州阿多からやってきたわけではなく、多くの伴と一緒に大和入りしたのであるから、その隼人集団が橿原の南に位置する大阿太に住んで、天皇の世話を行ったことは十分考えられるのである。
そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
この説に従えば、神武天皇は崇神天皇であり、その崇神天皇は橿原の畝傍山東南麓の地に宮を置き、纏向の大型建物跡の祭祀所での祭りごとのために、橿原から磯城の仮宮に赴いて斎戒沐浴し、その後に纏向で祭祀を行ったとすることが可能だ。
このようにみれば、三輪王朝といわれた崇神天皇の系譜と葛城王朝といわれた神武天皇の系譜は、実は崇神天皇のもとに開かれた一つの王朝の系譜であり、そのエリアは橿原・葛城から磯城・纏向までをカバーしていたと考えることができる。
その神武天皇と崇神天皇の皇后の名からすると、



199 名前:橿原が崇神天皇の正式の宮であり、磯城は纏向の祭祀に関連した仮宮であったことになってくる。
また、崇神天皇を南九州から招き、大シャーマンの位に載せたのは大連合の出先事務所であり、その出先事務所は纏向遺跡の南にある芝遺跡の地に置かれていたとみることができる。
この大連合事務所が崇神天皇の到着とともに衣替えしたのが大連合出先庁であり、大シャーマン崇神天皇と大連合出先庁が大和の大連合政権の中枢であったとすることができるのである。
[]
[ここ壊れてます]

200 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:42:59.54 .net]
>>177
その霊感は質がよくないのじゃ。

201 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:47:07.61 .net]
>>179
妄想を垂れる前に、その妄想に見合う「集落遺跡」を示せ! アンポンタン。

まず、求むるべきものは、王都たる集落遺跡の筈。 

碌な弥生集落遺跡や資源の無い畿内に、「邪馬臺国」など興る訳がない。  なにを考えているんだか。   @阿波 

202 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:04:32.87 .net]
まーだやってらっしゃるのか


卑弥呼陵 ← 黒塚古墳(天理市)

卑弥弓呼陵 ← 高尾山古墳(沼津市)



ハイ終了

解散!

203 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:04:56.37 .net]
一年365日、朝昼晩このスレに張り付いて、
その結果間違えていた>>1君の人生大惨敗の原因は、卑弥呼もトヨも記紀に登場しないという近年の歴史学の常識を打ち破ることが出来なかった事。


卑弥呼もトヨも記紀に登場します。
登場するからその時代をとんでもない時代=BC660年に設定したのだ。
卑弥呼を隠すことは100年前の帥升=スサノオを隠すことでもあるからだ。

卑弥呼(Bei mei hu)とは比桃@(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后である。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津          E孝安 D孝昭
トヨ津       (250年頃) C懿徳 
ヒメ(踏鞴五十鈴)后        B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴)后       A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴)后 (200年頃) @神武 

墓は高天原(=奈良県御所市高天)にしかない。
bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_0.png


径百余歩の塚のとなりに土蜘蛛塚つまり殉葬奴婢の痕跡がある。

>>1は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!

204 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:05:32.71 .net]
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。  わははははは   @阿波

205 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:10:38.94 .net]
>>181
瀬田遺跡がみつかっている。
こんなのがあちこちにあっただろうな。
神武の宮が崇神の宮だ。

206 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:20:20.69 .net]
>>185は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

207 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:23:07.82 .net]
>>176
200年頃の大和の遺跡に清水風遺跡があり、この遺跡は唐古・鍵遺跡関連の祭祀場と墓域だと考えられている。
この祭祀場から出土した土器に朱が付着しているそうだ。
朱生成に関わる土器とみられている。
この他の土器も含めて、一般的な土器構成であるとされている。
墓域については、朱の記事はみられない。
つまり、朱を多量に必要とする墓からは、そうした量の朱はみつかっていないということになる。
ホケノ山や黒塚の棺に塗布された朱はどこかから集められた朱であって、
それ以前の大和の墓ではそうした多量の朱を用いた墓はみつかっていないような状態からして、
近くに朱を産する丹生があったのかどうか、判然としないな。

208 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:26:11.75 .net]
>>185
>神武の宮が崇神の宮だ。

崇神の宮は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)
神武の宮はカシハラ(御所市柏原)の神武天皇社。

全然違う。



209 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:28:10.21 .net]
>>188は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

210 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:33:54.05 .net]
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録」も消え失せ、 ゴミスレの掃き溜めと化したね。  わははははは   @阿波

211 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:34:54.54 .net]
>>185
崇神は、和歌山の紀の川から大阿太へ登り、そこから橿原に入った可能性が高い。
和歌山に上陸する前に徳島の手前の小松島から和歌山へ渡ったかもな。
阿波には行ってないし。

212 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 18:43:26.74 .net]
>>188
磯城は崇神の仮宮。
書紀の崇神の皇后の名前は、皇后とはみえない軽さ。
橿原の崇神が纏向の祭祀に赴く途中の仮宮にいた妃が、書記の皇后として記述されているのよ。
書記の崇神の皇后は、実は妃だ。
崇神の皇后は、媛蹈鞴五十鈴媛。

213 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 19:01:46.24 .net]
>>191
>阿波には行ってないし。

徳島も小松島も「阿波」なんだけど?  どういうこと?   @阿波

214 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 19:10:07.46 .net]
>>145
>出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。

ふーん。

215 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 19:22:39.98 .net]
倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、
日本書紀も大和政権の歴史を古く遡らせるために歴史を変えたのよ。
神武は崇神の分身だった。南九州からやってきたのは崇神であって、橿原に宮を置いたのは崇神なのよ。
書記は崇神が磯城に宮を置いたとしているが、実はそれは仮宮であって、本宮はあくまで橿原にあった。
それを分離して時代を遡らせたのが崇神の分身である神武天皇だ。

216 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 19:37:36.48 .net]
>>195は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

217 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 19:55:23.43 .net]
>>193
ざんね〜ん !!!!
律令の阿波国の前は北の粟国と南の長国に別れていて、南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。
小松島は古来和歌山と結ぶ港。
粟国造の範囲ではあ〜りません。

218 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 20:03:57.06 .net]
>>197
>南の長国造の領域は徳島市、小松島市、阿南市、勝浦郡、那賀郡、海部郡だワイ。

そこが「邪馬臺国」と不和である、超強大国の「狗奴国」だワイ。  よく覚えておけ。  わははははは   @阿波



219 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2020/10/18(日) 20:09:07.65 .net]
>>196
泣いてるの?
論破され続け阿波かわいそう

220 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 20:11:54.71 .net]
>>199は本当にアフォだ、アホアホアホォ〜〜!    @阿波

221 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 20:16:31.40 .net]
>>195
書記の神武紀では、宇陀などの人民にはかなり厳しい対処をしているが、
これと一転して吉野の人民や下流の阿太の人民には優しく接している。
この態度を崇神(神武)と共にやってきた南九州の隼人たちと被せて眺めると、なんでまたそんなに優しく編集しているのか理解できるのよ。
この阿太の人民などは、そもそもが身内だから、やさしく接しているのは当然なのよ。
崇神(神武)が橿原に宮を置いたことを裏付けるものだな。

222 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:02:09.38 .net]
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.

223 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:02:21.74 .net]
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

224 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:10:44.06 .net]
>>163
>投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」・・・

「南≠東」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などのよってバツ。

225 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:12:39.93 .net]
>>178

>>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。
>九州には辰砂もベンガラも採れる。

開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。

226 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:25:32.60 .net]
>>169
>3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。
それ、旧小国=中国史書の誤解。

中国からの役人の「梯儁」や「張政」や「裴清」や「郭務ソウ」らの、
同時代の実地の見聞計測などの記録は、信頼性や確率が非常に高く、
誤解などは殆どなく、
それに引き換え、中国のはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」や、
列島の旧家や大和政権などの自家伝承や記紀や風土記や系図などは、
どうしても自家の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も確率も落ちるの。

227 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21: ]
[ここ壊れてます]

228 名前:31:29.89 .net mailto: >>170の訂正
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
また、博多の弥生銀座付近に2世紀末〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎土での供献土器の制作が始まり、
「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる
そして、北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、
3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、
大和などに広がって、最大の前方後円墳が築造された
[]
[ここ壊れてます]



229 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:34:57.56 .net]
>>206
同時代の実地の見聞計測などの記録だという根拠のない決めつけこそ
現代日本というはるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」であって
自説の都合がよいようにした処理が多く、信頼性も皆無ですな

230 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:36:43.63 .net]
>>172
「南→東」や「冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」の否定などの、
史料事実の曲解や嘘吐き騙しの大和説学者や大和説者らは、
これらの事に反論が出来ずに、その根拠提示出来ずに
こうやって歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね

231 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:40:35.30 .net]
その東征毛人五十五国ってどやって制圧しただ?

232 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:42:52.10 .net]
>>210

そりゃ、空想で制圧したんだろ。  わははははは   @阿波

233 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 21:51:16.37 .net]
>>179
>そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、
崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。

大和に天皇なんてまだおらず、
記紀ともに神武と崇神の間に欠史八代を挟んでいて別人であった、という証言であり、
「同一」論はバツだな。

234 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 22:12:16.76 .net]
>>195
>倭人伝が、司馬氏を持ち上げるために原資料をあちこち書き換えて読者をたばかったように、

陳寿が参考にした魏朝の記録の内容は、
梯儁や張政やや、その部下の役人たちや、
魏の役人に任ぜられた難升米や伊聲耆や掖邪狗らも関わっており、
陳寿がウソを付いておれば、直ぐにバレるのであり、
陳寿は「原資料をあちこち書き換え」てなど、いない。

235 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 22:27:47.37 .net]
>>213
それ、ただの想像でしょ
それも素人のおじいさんが理由なく勝手に言ってるだけの

236 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 22:33:27.27 .net]
>>212
間に欠史をはさまないと、崇神と1世代しか違わなくなり、前660年に持って行けないのよ。
同一だとすぐばれちゃうからね。
編纂者は、いろいろ細工してるのよ、苦労してるの。

237 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 22:36:32.07 .net]
>>205
>開発時期が遅れたという事ですね。そんなことしなくとも九州の人たちは大陸から仕入れることが出来ましたので。

つまり九州は「其山有丹」に該当せず、そんなところに女王の都はないのだった

238 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 22:50:52.93 .net]
>>201
でもって、この崇神(神武)の前には、祭祀場のあった纏向周辺に5基の大墳丘墓があって、これらの墓は連合有力国から持ち回りで派遣された代表シャーマンの墓であるので、180年頃から247年頃まで生きた卑弥呼が入る寿陵の余地はどこにもない。
卑弥呼は北部九州の倭国の女王なのでこれは当然のことであるが、大和説者はこの5基の大墳墓のどれに卑弥呼を入れるつもりなのだろうか。
まあ、あまり混乱するようなことをいうつもりはないが、卑弥呼を大和に設定するのは、そもそも無理ということだね。



239 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 23:00:56.65 .net]
>>213
まあ、魏略が太伯と書いたのを、倭人伝は大夫と書き換えたり、
対馬・壱岐・末盧・伊都の各国に魏の使節などが常に逗留したと魏略が書いているのを、使節が逗留するのは伊都国一国と倭人伝は書き換えたりしてるのだから、
倭人伝は相当にバイアスかけた史書であることが分かるのよ。
何のためにそんなことをしたのかというと、ひとえに時の皇帝の始祖を持ち上げ、その血統の今上皇帝も持ち上げるためなのは明らか。
まあ、そのおかげで、かなり詳細な倭国の様子が分かるので貴重な史書であることは変わらないけどね。

240 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 23:27:24.88 .net]
イニエが神武の場合は、草薙の剣を尾張家が絶対に渡さないので無理がある。

奈良から追い出した元凶になぜ協力するのかw






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