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1 名前: mailto:sage [2020/10/17(土) 23:31:09.33 .net]
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現111期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1602486712/l50
◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀

101 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:40:50.53 .net]
>>944
>魏書と合わなくて当然。
日本書紀の大和の崇神王朝は、北部九州の台与の倭国を大和が呑み込んだ後に成立した王朝。

魏志倭人伝は、日本書紀よりも信頼性も確率も高く、
北部九州倭國の方が、「南≠東」や「東征毛人五十五國」や「正北抵新羅」などに拠って、列島盟主であり続け、大和も支配下に置いたの。

>だから、この王朝のもとに造営されたホケノ山や黒塚からは鉄器がざくざくと出る。
それ以前の墳墓から何も出ないのに、どうよ、この変化は。
輸入鉄器などを大和が独り占めした結果だ。
崇神王朝は、そういう体制だったつ〜こと。

大和は、九州倭國の別種分家の「大倭」職の旧小国の附庸國であったの。

102 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:41:44.31 .net]
邪馬台国=記紀の熊襲(中九州・肥)

これとは別に、倭人伝の狗奴国(南九州・球磨)有り

103 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:45:46.64 .net]
>>85
>しかし3世紀にはすでに北九州までヤマト連合政権が及んでるので

どこまで能天気なんだ。  わははははは   @阿波

104 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:48:18.91 .net]
>>951
>トヨは物部連合の重要な要。卑弥呼だからね。

魏志倭人伝では、「卑弥呼≠壹與」です。

105 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:51:06.20 .net]
どうやら記紀では、
博多湾岸で活躍した神功皇后を卑弥呼になぞらえた関係上、
中九州の肥前肥後・熊襲と、南九州の球磨・狗奴国を混ぜ混ぜ一体化して、邪馬台国を隠ぺいしたようだ

106 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:52:39.24 .net]
>>85

銅矛制作が盛行した北部九州で
博多湾沿岸は元々銅矛の出土が僅かしかない
博多の東に2世紀後半から畿内第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に博多で畿内の供献土器の模倣制作が始まり一帯に搬出される
海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる
今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる
北部九州の中心は春日から博多に移り3世紀前半中に九州最大の前方後円墳が築造される

107 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:54:35.33 .net]
女王國東渡海(伊勢湾)千餘里復有國皆倭種→至狗奴国=久努国(くののくに)



久努国(くののくに)



馬鹿のおかげで狗奴国の場所が露わにwwww

108 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 10:58:01.86 .net]
テスト

109 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:00:15.78 .net]
>(唐古鍵)まあ当時の国内最大規模の集落らしいしな
王都の集落遺跡でもおかしくないね

弥生銀座の方が、はるかに大きい。



110 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:16:36.60 .net]
>>92
それ全部、北部九州における「忌部はん」 の活動説明なんだよ。   @阿波

111 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:17:40.36 .net]
>>84
あ、激怒先生おはよう御座います。
本スレでも宜しくお願いします

112 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:26:03.20 .net]
>>97
激怒なんか全然してないよ

ただ単に鼻で笑いながら、心の最も深いところから思いっきり見下して馬鹿にしているだけです

113 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:30:18.11 .net]
大和朝廷は、
新羅の血筋の神功皇后を「倭の悪女(倭女王)」に仕立てあげることで、
唐・新羅連合軍の白村江戦犯追求の手を緩めようと画策したのではないか。

そして一方では、伊都国・邪馬台国に係るさまざまな証拠を隠滅した。
だから小細工を弄した記紀・風土記伝説に惑わされて、邪馬台国への道が迷宮に入ったように思う・・。

114 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:32:36.61 .net]
>>98
激怒先生イェーイw

115 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:34:25.03 .net]
>>99
なにをどう勘違いしたらそんな妄想が湧いてくるんだい?  

最早、歴史学ではなく、小説の世界だな。  わははははは   @阿波

116 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:35:47.22 .net]
>>89
阿波なんて全く蚊帳の外の地域。
戦乱に巻き込まれてこの葉の様にひらひらしてた地域

117 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:41:02.58 .net]
>>102
>阿波なんて全く蚊帳の外の地域。

だから、時代遅れって言われるんだよ。 石頭の無知の井戸かわず(蛙)!   

いや、間違い。 実は一番「阿波」を恐れている臆病者だな。  わははははは   @阿波

118 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:50:42.05 .net]
昭和40年代までは、各地の旧家は警戒を緩めず、言動には細心の注意を払っていたフシがある。
オコベ神社の社家の小野田さんも名草の伝承を他人に伝えるときは日本書紀風にイツセを出しながら神武と表現し、物部の名前を一切出さない。
イツセの子孫の社家も、社宝はアマテラス神話の3枚あるヒボコの鏡、のちに配られたモノだと言うし
出雲王家の先代に至っては、物部の名前は出しても徐福には言及なし。
筑紫舞の、都の翁の都とはどこかの質問も菊邑検校は絶対に秘密をもらさなかった。
国宝の家系図の海部氏も、先代旧事本紀の物部氏も、九州のコウラ神社も、出雲より古い宇佐家も、物部すらタブーで徐福などとんでもない

平成になってやっと徐福の話が出始めてお怒りをかう位なのに平然と吉野ヶ里と徐福を結びつけたり、文章の中には躊躇いすら感じない。

あのPDFは、九州にはさらに隠された伝承を持つ家がある事を示唆している様にしか見えない。

あんな書き方ができること自体、超弩級の思考。

119 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 11:55:28.98 .net]
大和は、元は毛人や出雲系銅鐸祭祀部族の地であり、
九州國の「東征毛人五十五國」の侵入で、更に(鍵古鍵にように)混合地域になり、
更に3世紀末に新たな東征軍が入って、在地民を生口や守墓人にして、
前方後円墳を造った。



120 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:00:12.40 .net]
>>103
出土物からもどう考えても阿波は蚊帳の外の地域。
阿波説は妄想とか風説の流布でしかないし、水銀ですら、メジャーの産地ではない。
発掘された古墳からも、ベンガラ→大陸輸入→宇陀の水銀ばかり。
銅鏡に至っては九州や大和に比べるべくもない出土数。
あれだけ大量に作られた和鏡の三角縁神獣鏡すらちょっとしか出ないw

思い込みはあっても裏付ける分布が存在せず、ごく少数のものから千倍くらい話を盛ってるだけのレベル

121 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:01:58.97 .net]
>>105

先に出した徐福の関係のPDFには後に九州に入ってくる大陸や朝鮮系の渡来人との諍いの事まで出てくる。
詳し過ぎる

122 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:06:05.99 .net]
そりゃそうだろw

ぜんぶ江戸時代以降に創られた創作だもの

123 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:18:49.93 .net]
>>101
ま昔から@阿波先生は、正直・実直・単純が取柄だからなあ

124 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:23:52.58 .net]
>>101
事実は、小説よりも奇なり・・、という言い振りもある。 小説もない野蛮国の阿波ヒトは知らないだろがな。

125 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:30:25.48 .net]
>>104
それにしてはあのPDFは、したたか大和朝廷の小細工にまんまと嵌められておるわ、、

126 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:34:21.02 .net]
>>106
>阿波説は妄想とか風説の流布でしかないし、水銀ですら、メジャーの産地ではない。


だから、時代遅れって言われるんだよ。 石頭の無知の井戸かわず(蛙)!   

いや、間違い。 実は一番「阿波」を恐れている臆病者だな。  わははははは   @阿波

127 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:38:37.92 .net]
>>111

うむ・・・
物語と前置きしてる割には参考文献もあるし、調べたことや、遺跡の話も出てくる。

書き方が物語じゃないし、朝廷側の隠したい事実にめっさスポットが当たりすぎてる気がするのです。

128 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:41:32.93 .net]
>>112

じゃあ、畿内と出雲で阿波の水銀を使った大規模古墳は?

ま、物部の影響下にあった土佐が隣なんだから。さぞかし旺盛な需要があったんだろ?

錫の話の二の舞にならなければいいな、阿波センセw

129 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:51:52.79 .net]
>>114
>じゃあ、畿内と出雲で阿波の水銀を使った大規模古墳は?


畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳?   @阿波



130 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 12:56:37.83 .net]
>>115

土から出たものなんて産地が分かるものだろ

ナニじゃないぜ?阿波さん

131 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:00:36.89 .net]
>>116
だから君の言う畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳のことを言ってるんだよ。

調べようがないじゃないか。  アンポンタン  わははははは   @阿波

132 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:02:57.40 .net]
>>117
分析結果は既に発表されてるだろ
大丈夫か?

やってることは朝鮮人の歴史創作と同じだな。コリエイトに過ぎないんだな、阿波は

133 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:04:41.45 .net]
>>118
>分析結果は既に発表されてるだろ

じゃあ、その分析結果を示してごらん。  わははははは   @阿波

134 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:11:07.97 .net]
例のPDF抜粋 伊都の口碑(伊藤 久)
>福岡市から西へ向って唐津市へ出る中間が糸島郡であるが、
>この郡は、古くは南部の恰土と、北部の志摩のニ郡が合併して糸島になったところである。
>その南部の旧恰土郡はあの有名な中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」に相当するのを疑う人はいない、、、

記紀風土記の神功皇后記は、明らかに100余年繰り上げだという。
にもかかわらず、
その事績の具体的内容のほうは100%信用して、「伊都国相当を疑う人はいない」でホントに良いのかということだ。
年号が100余年繰り上げなら、事績内容も100余年繰り上げの小細工と疑うべきであろう。

135 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:11:27.26 .net]
>>119

その前に阿波産地の水銀使用例を知らずに水銀水銀吠えてたんだ?

バックボーンなしかよww

136 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:20:04.76 .net]
>>118
>分析結果は既に発表されてるだろ

じゃあ、その分析結果を示してごらん。  わははははは   @阿波

137 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:22:09.55 .net]
>>122

物事を進めるのに、スジくらい通したら?
(まだ引っ張れそうだな、面白い)

あんたさ、阿波の歴史を上書きして、阿波をバカにしてんだよ。

138 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:26:47.08 .net]
>>118
>分析結果は既に発表されてるだろ

じゃあ、その分析結果を示してごらん。  

だから君の言う畿内と出雲の大規模古墳ってなに古墳のこと

139 名前:言ってるんだよ。

調べようがないじゃないか。  アンポンタン  わははははは   @阿波
[]
[ここ壊れてます]



140 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:35:06.53 .net]
>>124

出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。

141 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:39:21.64 .net]
アワサク

142 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:41:18.92 .net]
>>125
>出したところで虚言壁が治るわけでもあるまいに。

そう言うの、「負

143 名前:ッ犬の遠吠え」って言うらしいよ。  わははははは   @阿波 []
[ここ壊れてます]

144 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:55:30.49 .net]
・水銀・朱の背景

天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。
辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。
再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。
九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。

本スレに関連する点としては、物部東征を九州の水銀の枯渇として結びつける論文もあるが
中央構造線に多く分布する水銀鉱脈は九州にもあるのでその線は薄いと思われる。

・士族との関連
辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。
丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。
 施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り
これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。
 辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。

145 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:56:30.93 .net]
出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。

青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。

7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。

中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市

実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。
三重県のミエとは水銀中毒の症状で足が曲がるとかそんなイメージ

146 名前:の水銀バリバリの言葉。
本スレに関連する点としては、三重などの東海地方との結びつきが、大彦の狗奴国以前から続いており
纏向でもそっち方面の土器が出ている事から関連が強いと判断する。
[]
[ここ壊れてます]

147 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 13:57:29.35 .net]
もうこの時点で水銀のど真ん中は忌部では無くなってるだろww

148 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:00:50.85 .net]
「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが、重要なのは需要と供給量、分布である。

錫とは違い、今回は国産のものであるため、時代が合うものとして最盛期の正に古墳時代。
古墳などのでの大量使用例の変遷を見ることが適していると考えられる。

149 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:04:21.32 .net]
.



(8)蒸して食べる

7000年前 中国に起源

最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。

この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。

蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。

日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。

しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。

今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html


.



150 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:04:32.33 .net]
.



7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。

6000年前には鬲も登場して、甑を鬲にセットして蒸し上げるという炊飯方法も加わる。

ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も鬲も甑も何一つ伝えなかった。

弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。

中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。

甑と同時に伝わった同じく中国には7000年前からある竈もそれまで知らなかった。

釜に至っては5Cまで待たなければならない。

弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。


◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑


inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html


.

151 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:09:49.88 .net]
現状としてまとめると、阿波の水銀は確かに古いが、水銀遺跡が出れば出るほど、丹生氏と秦氏の投影が強くなり
忌部から遠のいていくという事だね。

152 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:10:28.01 .net]
>>131
>「若杉山遺跡」などの遺跡が四国にはあるが

縄文時代から採掘していたのは、日本で「若杉山辰砂採掘遺跡」だけだがね。  わははははは   @阿波

153 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:16:17.45 .net]
邪馬台国の卑弥呼
卑弥呼の時代は施朱の風習があった。

154 名前:魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。

倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww
[]
[ここ壊れてます]

155 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:17:41.61 .net]
>>135

昔は露頭があったから集めるのは難しくなかった。
大量消費に向けた体制としては確かに鉱山が必要

156 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:19:46.50 .net]
徳島新聞

弥生時代後期〜古墳時代初期(3〜4世紀)の若杉山遺跡からは、辰砂採掘に伴う石くずや精製用の石器が出土している。水銀朱は奈良や大阪など各地の有力者の墓で使われており、徳島産だった可能性があるが、出荷先などは分かっていない。

残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw

157 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:24:39.02 .net]
>>138
>残念ながら徳島も初期は採掘ではなかったようだなw

悲痛だね。  わははははは   @阿波

158 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:28:02.59 .net]
実際の阿波の水銀が確認されているのは「四世紀初め」につくられた闘鶏山古墳などがある。

だがしかし荻原古墳群・・・

【形状】突出部をもつ円形の積石塚墳墓
【年代】3世紀前半
【特徴】前方後円墳の原型ともいわれる突出部をもつ円形の墳墓。高さが1m未満の積石塚墳丘墓は讃岐・阿波独特の形状である。1・2号墳の埋葬施設の「石囲い木槨構造」は「奈良纏向のホケノ山古墳と同じ構造をもち」,さらに萩原墳墓群の方が時代的に先行する。破砕粉砕された「銅鏡」,「中国産の水銀朱が使用され」,中国との密接な関係が伺える。

おいおいおいwww中国産ですか?需要は?採掘量は?
めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w

どうする?阿波さん、まだ前に進める?w

159 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:35:19.47 .net]
>>140
>めっちゃ物部氏の気配が強いぞ?w忌部氏どこに行った?w

必死のパッチだね。  わははははは   @阿波



160 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:39:08.34 .net]
>>141

銅鏡も古墳もみんな阿波とか忌部とか言ってなかったか?w

161 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:44:01.19 .net]
弥生時代後期から晩期にかけた北九州(福岡県春日立石遺跡など)、山陰(島根県出雲西谷墳丘墓,鳥取県紙子谷門上谷 1 号墓)
丹後(京都府大風呂南遺跡)の王墓とみられる遺跡より出土した朱に,「中国陝西省産辰砂のイオウ同位体比と一致する値」が観察されている。

初期の古墳は大陸産地が多く、ベンガラからの移行期には、大陸産地の朱砂は欠かせない要素である。

あれ?古墳が阿波から行った割には阿波の水銀どこに行った?

次に、畿内の古墳を見ればばよいという事になるのだが、加茂氏の古墳など、後期の豪族の古墳はもうヤマト産地。

何なんだろうね、この乗り遅れ感はwww

162 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:44:32.54 .net]
>>142
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波

163 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:48:50.53 .net]
出雲地方では出雲西谷墳丘墓を含め10 の遺跡出土朱を比較したところ,陝西省産を示したのは出雲西谷墳丘墓出土朱のみ。
他の 9 遺跡のうち 8 遺跡は大和水銀鉱山産か丹生鉱山産を示した。
出雲西谷墳丘墓と同時代でしかも同じ四隅突出型墳丘墓の出雲沢下遺跡では,頭部と思われる部分から採取した朱と足元と思われる部分から採取した朱では
値が異なり,しかも両者とも出雲西谷墳丘墓出土朱とも異なっていた。加えて,出雲西谷と覇権を争ったと推定されている吉備の楯築遺跡出土朱
も日本および中国の辰砂鉱山はみられなかったことから,人造朱を用いたか,あるいはいくつかの産地の朱を混合した可能性が示唆された。

あれ?四隅突出型古墳は阿波からって誰か言ってませんでした?www

164 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:51:46.98 .net]
「丹生都姫神社」の社数について、和歌山県は74社が最多であり、オホン、ゴホン、阿波にはさほどの数ではない。

歴史的にはともかく、物量的に阿波が水銀の中心地になることはない。大和鉱床軍のほうが圧倒的である。

165 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:58:06.85 .net]
>>146
必死のパッチだね。  わははははは   @阿波

166 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 14:58:41.52 .net]
福岡や出雲、鳥取、丹後で使用された朱は、中国の陜西省産が多いという傾向
この地域使用の青銅溝鉱山は秦時代に開発されていたといいます。また近くの秦嶺山地の水銀鉱床は始皇帝の住んでいた長安の近くにある。
南氏とともに調査された鉱床学の島崎英彦氏によると、ここから漢水という川を下って揚子江に出れば日本まで容易に達するんだとさ。
弥生後期の北九州や山陰地方の豪族との交易品として、ここから辰砂が運ばれたのではないかと。

後漢書には57年に倭奴国の使者が洛陽の光武帝のもとに挨拶に来たと記されているが、洛陽からさらに西に360qで長安。洛陽にも漢水の支流が来ているので
簡単に揚子江に出ることができる。
弥生時代の大陸との交易品が朱であったとは。三国志魏書に記されたヒミコ以前の話になるわけだな。

167 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:05:49.58 .net]
本スレに近づけていこう

施朱の流行

施朱は古墳時代に入ったとたん一気に最盛期を迎え、北方系施朱の風習があった地域以外の各地で5世紀末まで続く。
3世紀後半から5世紀末までは全葬墓数に対して施朱を行っているのはほぼ100%。
弥生時代は1〜2割ほど。出雲伝承のいう、物部東征後に朱のブームが到来する事になるのだ。
ここにも出雲大和勢力と九州勢力の文化の違いが出始めていると言えよう。

せいぜい10Kgも使えば大金持ちなのだが、奈良の桜井茶臼山古墳には200Kgも使われている
3世紀末〜4世紀初めの築造で、施朱の最盛期の先駆にあたる古墳

施朱以外で日本における最古の朱の遺物としては、4500年ほど前の奈良県丹生川上村、宮の平遺跡で出土した朱の付着した石皿。
この頃には朱の採集、粉砕、製粉は始まっていたことになる。

徳島の加茂宮ノ前遺跡や三重の天白遺跡、森添遺跡はそれより1000年ほど後の物である。

1000年なら誤差じゃないよなぁ阿波さんw

168 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:08:15.78 .net]
阿波のご自慢の水銀の遺跡だが、邪馬台国以前から既に奈良に置いてけぼり

奈良なんて人が住めないとか嘘までついてコリエイトwwww

何がしたくて阿波ってるんだろうな。本当に理解不能。錫に次いで水銀でも大ウソ。

169 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:11:02.46 .net]
阿波はまったく反論できないんだね
誰からも信用されないわけだ



170 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:11:41.69 .net]
縄文時代に細々と始まっていた水銀朱による施朱は、吉野ヶ里遺跡から本格的に始まり各地に広がって行った。
次第に朱は権力の象徴となってくのだ。

有力な鉱山が後に発見されながらも九州にスポットが当たるのはやっぱり交易と紀元前200年代以降の文化の大きな変化

171 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:12:20.72 .net]
>>149
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。  わははははは   @阿波

172 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:13:28.51 .net]
>>151

あえて書きませんでしたが奈良の桜井茶臼山古墳は大和鉱床の物を数十年かけて集めた形跡があるようです。

ミマキヒメとの被葬者の予想がありますが、どう考えても物部氏には無理。加茂氏の墓ではないかと言われています。

173 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:16:44.25 .net]
本スレで卑弥呼の墓じゃね?の噂のある黒塚古墳。

木棺の遺体を置く中央部のみ水銀朱で両端はベンガラ。三重県丹生鉱山出土朱。

すぐ近くの天神山古墳には木製容器の中に41sの水銀朱が納められていた。こちらは大和水銀鉱山出土朱。

中国の古銭が100枚見つかったら、中国は阿波から始まったとか言い出すのが@阿波

174 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:20:10.84 .net]
>>155
頑張れガンバレ、必死のパッチ君。  わははははは   @阿波

175 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:22:17.70 .net]
ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪

176 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:28:51.14 .net]
>>157
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録スレ」も形無しだね。  わははははは   @阿波

177 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:31:25.45 .net]
で?阿波のバックボーン、根拠は?www

178 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:34:02.35 .net]
本題に戻ると、

九州と出雲、奈良の凄さが錫や水銀からも分かると言うことですね。

179 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:35:02.73 .net]
>>159
稲作でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

※何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波



180 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:45:15.80 .net]
>ここは邪馬台国関連スレです。阿波さんは自分のスレッドで頑張って♪


もはや「勝者の貫録スレ」も張子の虎だね。  わははははは   @阿波

181 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:53:17.84 .net]
投馬国(ダウマコク)は岡山にあった「たまのくに」

都は倉敷市と岡山市の中間あたりに位置する上東遺跡あたり

当時はヤマトに奈良という呼称がまだなかったように吉備という呼称もまだない

玉や玉島など、当時の「たまのくに」という呼称の名残というか残骸が周辺に
残っている

投馬国の場合、当時は穴海になっていて海岸線が今よりもはるかに内陸にあったため、
都である中心港の遺構がかなり内陸にあったのだ

今の倉敷市と岡山市の大部分は当時はまだ海の底だったのである

郡使は今の岡山の玉に寄港したのではなく、今では内陸になってしまった当時の
たまのくにの中心港だった上東遺跡に寄港したのである

https://stat.ameba.jp/user_images/20170602/00/kadoyas02/c9/40/j/o0454031313951122410.jpg?caw=1125

182 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2020/10/18(日) 15:57:09.62 .net]
急に唐子鍵あげはじまったな

183 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 15:57:33.91 .net]
ね?皆さん。

証拠を出せとか根拠を出せとか言いながら自分で調べもしないやつに限ってロクなのは居ない。

ホラは治らない

184 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:01:24.08 .net]
>>149
奈良の墓で朱が用いられているのは、黒塚古墳が最初なん?

185 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:06:25.05 .net]
>>166
もちろんウソ
ホケノ山でも使われている

186 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:15:28.32 .net]
>>166

黒塚古墳は初期のものではありませんが、時代的に卑弥呼の時代に近いから候補としてあげた人が居たのではなかろうかと

187 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:17:10.62 .net]
>>87
3世紀半ばまでは「列島の盟主」だった説はOK。
問題は、それ以降。

それ、旧小国=中国史書の誤解。

188 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:19:29.09 .net]
>>92
銅矛制作が盛行した北部九州であり
大和付近には元々銅矛の出土が、殆ど全くのようにない。
博多の弥生銀座付近に2〜3世紀頃から筑紫式第X様式が目立つ集落が出現し
3世紀前半に筑紫の胎

189 名前:土での供献土器の制作が始まり、
「市」や「東征毛人五十五國」などによって、3世紀後半に大和などに広がる
海の中道に中西部瀬戸内系製塩土器による製塩が始まる
今津湾沿岸で山陰の玉作りが始まる
北部九州の中心は弥生銀座付近に移り、
3世紀後半半ば過ぎの那珂八幡などで、前方後円墳が始まり、
3世紀末に、「東征毛人五十五國」の征服部隊に拠って、大和などに広がる。
に九州最大の前方後円墳が築造される
[]
[ここ壊れてます]



190 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:21:12.93 .net]
>>168
弥生中・後期の大和の墓で朱が用いられていたら、その朱の産出地が丹生である可能性が出てきますが、
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ないとなれば、黒塚や天神山の朱はどこか別のところから集めてきた朱である可能性も出できますね。

191 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:37:09.54 .net]
>>170
九州説は
こうやって
歴史学に反したインチキ年代を捏造して
目先の困難だけ口先で凌ごうとするから
学者やちゃんと勉強した市民から軽蔑される存在に
落ちぶれたんだよね

192 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:44:15.37 .net]
>>129
>出雲の最高の葬儀は風葬であり、遺体に朱を流し込んで腐敗を防ぎ、数年後に洗骨してそれから磐座に埋葬するスタイルだった。
千家の葬儀は水葬であり、出雲には千家の古墳は一切存在していない。
液体水銀の需要が増えるまでは、青銅器と同じく、古墳時代に一度終焉を迎える事が大前提。
つまり、大規模需要は青銅器、古墳時代という期間に重なる。
青銅器の材料の錫と同じで、需要と分布の世界。土から出るものはごまかしがきかない。
7世紀後半の記紀が編纂される頃には、丹生氏の影は薄くなっており、記記には丹生都比売神は登場していません。 神功皇后のエピソードの中にかろうじて天野祝の名が出てくる程度の扱いとなっている。
中央構造線沿いの水銀鉱床群
大和鉱床群 伊勢から紀ノ川河口の間 伊勢神宮と日前国縣神宮が東西の端に鎮座している。
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡で石臼石杵が多数出土している。
九州鉱床群 大分市坂ノ市から姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳から嬉野町、松浦市
実は大量に産出する三重県は大和鉱床群の一部なのである。

ふーん。

193 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:51:03.97 .net]
>>129
>阿波鉱床群 阿波吉野川沿い 

無知の井戸かわず(蛙)! 


>若杉山遺跡は古墳時代の辰砂採掘遺跡

無知の井戸かわず(蛙)!  わははははは   @阿波

194 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:52:44.06 .net]
それにしても、久留米祇園山は卑弥呼の寿陵である山門権現山のコピーだったという説は、かなり衝撃的な説だ。
この図式は、狗奴国に攻め込まれた邪馬台国の卑弥呼が、その邪馬台国の北限付近の御井まで避難し、そこで急死したとする図式とぴったり重なり、
卑弥呼の邪馬台国のエリアが如実に分かる説だといえる。
まあ、今後の邪馬台国九州説の核心説となることは間違いないな。

195 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 16:57:18.83 .net]
>>171
大和の墓の朱はホケノ山でも確認できるとのことですが、ホケノ山が大和最古の朱なんでしょうか。
弥生中・後期の大和の墓で朱が出ているのでしょうか。

196 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:17:53.19 .net]
俺の霊感では狗奴国が九州なんて1回も言ってきた試しがないわ

何度聞いたって、静岡の久能だ久能だとしか言ってこない

197 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:18:26.50 .net]
>>136
>邪馬台国の卑弥呼

邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言。

>卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。

「献上品」としては名を連ねていなかった筈。

>卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

「辰砂」とは特定していない。「以朱丹塗其身體,如中國用粉也」や、「其山有丹」や、
「丹木」の献上や、「鉛丹」の下賜の記録があるだけであり、
水銀朱だけではなくベンガラの使用例も見られ、鉛丹が下賜され、丹木を魏に献上している。

>どの山であったのかは邪馬台国の位置論に関わる。それぞれの鉱山の開発された時代を探る必要がある。卑弥呼の時代には、大和と阿波の鉱床群が開発されており、九州はまだであったと市毛勲氏は日本民族文化体系3の中で言われている。

九州には辰砂もベンガラも採れる。

>倭国大乱の時の景初3年の朝貢では、丹はなんと、献上品ではなく、下賜されて10Kgほど貰う側であった。今まで献上品だったのに、何故今回貰ってるのかwww

倭国大乱なんて存在もせず、卑弥呼の遣使は景初二年である。

198 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:38:14.74 .net]
奈良県五條市の吉野川沿いの大阿太が、伝統的に九州隼人が住んだエリアだとすると、そのルーツは神武天皇の畝傍山東南麓の宮に求められる。
神武天皇は一人で南九州阿多からやってきたわけではなく、多くの伴と一緒に大和入りしたのであるから、その隼人集団が橿原の南に位置する大阿太に住んで、天皇の世話を行ったことは十分考えられるのである。
そして、学者も認めるのは、神武天皇は崇神天皇は同一であり、崇神天皇の大和入りと崇神天皇のその後の統治の二つの姿が描き分けられたとする説だ。
この説に従えば、神武天皇は崇神天皇であり、その崇神天皇は橿原の畝傍山東南麓の地に宮を置き、纏向の大型建物跡の祭祀所での祭りごとのために、橿原から磯城の仮宮に赴いて斎戒沐浴し、その後に纏向で祭祀を行ったとすることが可能だ。
このようにみれば、三輪王朝といわれた崇神天皇の系譜と葛城王朝といわれた神武天皇の系譜は、実は崇神天皇のもとに開かれた一つの王朝の系譜であり、そのエリアは橿原・葛城から磯城・纏向までをカバーしていたと考えることができる。
その神武天皇と崇神天皇の皇后の名からすると、

199 名前:橿原が崇神天皇の正式の宮であり、磯城は纏向の祭祀に関連した仮宮であったことになってくる。
また、崇神天皇を南九州から招き、大シャーマンの位に載せたのは大連合の出先事務所であり、その出先事務所は纏向遺跡の南にある芝遺跡の地に置かれていたとみることができる。
この大連合事務所が崇神天皇の到着とともに衣替えしたのが大連合出先庁であり、大シャーマン崇神天皇と大連合出先庁が大和の大連合政権の中枢であったとすることができるのである。
[]
[ここ壊れてます]



200 名前:日本@名無史さん [2020/10/18(日) 17:42:59.54 .net]
>>177
その霊感は質がよくないのじゃ。






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