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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

126 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/26(月) 21:50:10.39 ID:baLYiMg9.net]
篠原長房の弟が自遁だから、>>121>>123も合ってるよね。
一宮長門守(成祐)は後に三好実休(義賢)と小少将の息子三好長治を殺す側に回ってる。
一宮長門守(成祐)の妻である三好実休の妹はこの後どうなったか三好記に記述はありますか?

127 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/26(月) 22:01:51.02 ID:8NuzwDHO.net]
>>126
残念ながらサゲマンというのはエッチした男じゃないとその効果は発揮しないのだよ
だから篠原長房の死は小少将とは無関係であって自遁にとって長房の死は得なのでサゲマンじゃのーてアゲマンとなる

128 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/26(月) 22:34:56.02 ID:baLYiMg9.net]
>>127 そっちの話ね。失礼しました。

ところで阿波の小少将については、息子たちを仲裁しようとして細川真之の元に
行く途中、真之の家臣たちに襲われて落命した話もあるようだけれど、
これも出典が分からない。

129 名前:人間七七四年 [2016/09/26(月) 22:47:42.76 ID:baLYiMg9.net]
スレチなので小声で
三年前、文科省は子ども表記を子供表記に変更した。文科省の公用文は今は子供表記。
一方で厚労省はまだ子ども表記。一般にこれが知れ渡るのはまだ先だろう。
当方は三好記の記述をさらにしりたい。一宮成祐の奥方はどう処遇されたのか。

130 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/27(火) 20:02:53.44 ID:B9t1nf/c.net]
三好海雲(元長)は京での合戦に切り負けて切腹された。

三好喜雲(之長)は和泉国の合戦に切り負けて、堺の町の堅法寺という寺で切腹した。
彼は切腹の際、腹わたを掴んで寺の天井に投げつけた。
その痕跡は諸国の人々が見物し、彼の死に様を褒め称えた。

だが大阪破滅の時(大阪の陣)、堺の町は焼かれ、その天井も焼失してしまった。

昔から今に至るまで、主君(阿波細川家)のために二代腹切った人は稀である。

(三好記)

三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。

131 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/27(火) 23:46:08.12 ID:mNSOphMn.net]
>>129
宇喜多「小声でスレを上げる129殿に茶を振舞おうぞ」

>>130
>三好元長は之長の孫ですが、元長の父が早逝して之長の後継者になっているので二代扱いなのですね。
TERU「祖父と一緒に叔父sも戦死しているとは裏山」

132 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/28(水) 16:11:15.27 ID:7ZLbC4ak.net]
>>131
景さま「ああん?体育館裏くるかコラ」

133 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/28(水) 16:39:45.14 ID:QVxC1CUq.net]
種無しのくせに(笑)

134 名前:人間七七四年 [2016/09/29(木) 09:58:51.10 ID:UKcAPjuH.net]
鹿児島市の西郷隆盛銅像の裏手、鹿児島市立美術館(鹿児島城(鶴丸城)二の丸跡)の一角に「ジメサア」と呼ばれる
お化粧をした変わった石像があり、毎年十月五日前後の日にお化粧が行われるのが恒例行事となって、その様子は
地元のテレビや新聞でも毎回報道されています。
案内板には「この石像は、島津家18代家久(忠恒)の奥方持明夫人像『ジメサア』の名で親しまれています。
持明院様は16代義久の娘で亀寿といい、器量には恵まれませんでしたが、その人間性が尊敬され、人々は
『器量はすぐれずとも、心優しく幸せな家庭を築いた』夫人の人柄を慕い、毎年10月5日の命日には、この像に
おしろいや口紅をぬって、夫人にあやかるようにおまいりするならわしが残っています。」と書かれています。

この石像にはこんな話があります。(文中の家久を忠恒に変えた以外は原文ママです)

持明の方(ジメサー)
鶴丸城のあと、二の丸に市の美術館がある。庭のかたすみ、こんもりとしげった木の下に女の顔をほった
大きな石がある。まっ白な顔、黒いまゆ、口べにのついたくちびる。
そこにはいつも色とりどりの花がそなえられていて、通りすぎる女の人が、その顔をなでていくのを見かける。
さて、この石にどんな話がかくされているのであろうか。
話は、今からおよそ四百年以上のむかしにさかのぼる。
島津第十六代藩主義久のむすめは、十八代の忠恒に持明の方(ジメサー)として縁付いた。
ある朝、持明の方が鏡に向かって化粧していた時、通りかかった忠恒が、「その顔で・・・」とあざけった。
持明の方はいろいろなやんだすえにとうとう自殺してしまった。忠恒も後悔してみたが、今となってはどうにも
ならない。それで、墓を福昌寺にたててとむらった。
ところがある晩、寺のおしょうさんの夢に「ここにはいたくない。わたくしを二の丸にかえしてくれませんか」と
持明の方がでてきた。おしょうさんはおどろいたが、そのとおりにするわけにもいかないので、大きな石を
錦江湾から引き上げてきて、女の顔をきざんで二の丸にすえて供養した。
ところがまた夢で、「もう少し私の顔を美しくしてくれませんか」という。それで城の女の人たちが、おしろいなど
を毎日ぬってやったら、もう夢にはでてこなかった。
そこでこの顔をなでると、顔が美しくなり、きれいな女の子がうまれるといわれるようになった。
(「鹿児島の伝説」 昭和五十二年発行より)

いろいろとツッコミどころのある話ですが、この話の一番のツッコミどころは
「この石像は、持明院(亀寿)の石像ではない」というところです。
島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ博物館「尚古集成館」と歴史作家の桐野作人氏が再三
違うと言ってるのですが、未だに「持明院(亀寿)の石像」として伝わっています。
尚古集成館側と桐野作人氏の説明では、あの石像は大乗院(現・鹿児島市稲荷町・清水中学校)にあった
「白地蔵」と呼ばれていた石像だそうです。
江戸後期の紀行文「鹿児島ぶり」では
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもてに白粉をぬるなりと云う」
と書かれています。
この石像が大乗院から現在の場所に移ったのははっきりしませんが、明治以降から戦後すぐあとではないか
と推測されています。
石像と亀寿と結びつけられてしまったのは、亀寿が大乗院に本尊の千手観音をはじめ、勝軍地蔵、毘沙門天
や経典などを寄進したという由緒と関係があるのではないかといわれています。

亀寿の容姿について、尚古集成館側は美人説、鹿児島市立美術館の案内板には不美人説が取り上げられて
いますが、世間一般には不美人説が強いらしく天文館アーケードに無料配布してある「天文館史跡めぐりマップ」
には鹿児島市立美術館の案内板と同じ内容が書かれていて、アーケード内の数箇所にマップが張られています。

※美人説・不美人説について桐野作人氏は「どちらの説も確証が得られていない」とおっしゃってました。

さつま人国誌「再考・ジメサアの由来」
373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=423



135 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/30(金) 15:02:35.59 ID:Zp91inL8.net]
昔、阿波の御屋形様(阿波細川家)は、万事を家老衆に任せて、軍の事を少しもお構いなかった。
彼らは能、蹴鞠、囲碁、将棋、お囃子といった遊びばかりしていた。

一方、三好殿の衆は、兵法、鑓、長刀、弓といった武道ばかりで、とにかく強いことだけを求め、
文道には少しも関心を示さなかった。そして理非をとなえるような人を『よわ者』と蔑んだ。
だがそのために御家は滅びた。
(三好記)

136 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/01(土) 08:28:56.39 ID:ILEHhOb7.net]
本能寺の変を起こし織田信長・信忠親子を討ち取った明智日向守(光秀)は、床机に座って
洛中の人々の礼を受けると、京中の地子(家屋税)を免除する意向を示し

「織田信長は殷の紂王であった。」

そう語った。

京童たちは『彼は自分を周の武王に比しているのだ。片腹痛いことだ。』と思ったが、
地子を免除されることの嬉しさに、万歳と祝い、光秀の成功を賀した。

今に至るまで京中の屋地子が無いのは、明智日向守のおかげである。

(豊内記)

137 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/01(土) 09:03:44.86 ID:nw5adTKJ.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4860.html?sp&sp
既出
(秀頼事記=豊内記)

138 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK.net]
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)

139 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8.net]
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

140 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 02:27:18.87 ID:6qfdtbzd.net]
神西元通の変心と中原善左衛門の忠死

伯耆の国、末石城の城将神西元通は元は尼子十旗の一つで第七、出雲神西城の守将であったが
毛利家の出雲侵攻の際に降服し、月山富田城の落城後は毛利家の命で毛利の目付中原善左衛門と小寺佐渡守とともに、
伯耆の末石城に籠っていた。

1569年、毛利家が北九州立花で大友家との争いを繰り広げていたころ、その隙をついて
尼子勝久を擁した山中鹿介・立原久綱らの尼子再興軍が海路より出雲へ侵攻を開始。
島根半島に上陸して忠山の砦を占拠した尼子再興軍はそこから尼子旧臣らに檄を飛ばしたところ、
同心するもの数多く、尼子再興軍は急激にその勢力を拡大していった。

そんな中、神西元通は末石城に籠り沈黙を保ったままであったがある日、山中・立原の両将から使いが訪れる。
そして扇を出すと「これに一筆頂きたい」と言う。何故か?と問う元通に使者は
「山中殿・立原殿がおっしゃるには、『尼子家に人は多いが、神西殿とは特に朋友の契り浅からず。
今は敵味方となってしまって簡単に会うことはできないが、昔のよしみは忘れられず、懐かしく思い出される。
人の思い出としては、筆跡以上のものはないという。
神西殿はなかなかの名書家であるから、何でもいいから一筆書いてもらってきてほしい。
顔を合わせていると思って筆跡を見たい』とのことです」

と、鹿介より言付かった通りに返答すると、元通は「山中・立原との昔のよしみは深く、私にとっても忘れ難いならば一筆書きましょう」
と答えると扇に「ふるかう小野の本柏」とだけ書いて使者を返した。これを見た鹿介と立原はこの歌が古今和歌集の、
『石の上ふるかう小野の本柏もとの心は忘られなくに(いその神ふるから小野の―本の心は忘られなくに)』
から来ていることを見て、元通に脈ありと見て再度使者を送ると、案の定元通は尼子再興軍に味方することを約束して使者を返した。

141 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 02:28:20.59 ID:6qfdtbzd.net]
神西元通はこの事を表に出さず固く秘して隠していたが、いち早くこれに気付いた者が居た。
毛利から目付として付けられ一緒に末石城へ籠っていた中原善左衛門である。
彼は吉田郡山の戦いで一矢にて尼子経久の弟である尼子久幸を討ち取るなど、歴戦の勇士であったが
また智にも優れた者であった。

中原は神西元通の変心に気付いたがそ知らぬふりをし、密かにかつ迅速に対処しようと同じ目付の小寺佐渡守を呼ぶと
「神西について何か気付いたことはないか?」と尋ねた。小寺は「何も気付いたことはない」と答えた。
中原はそれに「いや、神西はどうも逆心を抱いているように見える。しかし、何の証拠もなしに彼を討っても胡乱の極みと人から笑われるだろう。
そう思い見過ごしてきたが、このままでは神西はそろそろ事を起こし、私と貴方を討ち果たそうとするだろう。これまでは無闇に波風立てまいと貴方には
黙っていたが、もう神西の逆心は疑いなく思えたので貴方に教えたのだ。私はここで神西と刺し違えて討ち死にしても元就様の厚恩に報いようと思う。貴方はどうだ?」
と、尋ねると小寺はつくづく思案して「中原殿の覚悟、実にその通りだ。だがこの城で無駄に討たれても意味なく思う。だから命を全うし、再び元就様の役に立ちたいと思う。」
と答えた。

中原は冷笑し「あなたの言うことはもっともだ。今ここで討たれて勝久へ首を捧げられるのは実に悔しい。
しかし一隅を守る私は何の才覚・智謀なくこの城に籠った日から神西に野心あれば刺し違え、
毛利に忠を尽くし敵に囲まれるなら神西と共に自害せよと命じられたと考えている。だから気にすることはないのだ。
あなたは命を全うしして、五百八十歳まで生き永らえるとよろしい。
私は死して善道を守り、忠義の名を子孫に残そう」と言った。

小寺はやがて神西に「両足を痛めたので、牛尾の出湯に入って養生したい」と暇を請うた。
神西は「好きにするといい」と言うので、小寺は喜んで、すぐに城を出て逃げていった。
しかし芸陽には帰れず、豊後へ渡って大友金吾入道を頼り、また老後になってから本国に帰ってきたという。
(異説では軍議の為、城を出て安芸へ向かったとも言われる)

この後中原は神西と刺し違えようと思い決めていたが、証拠もなしに神西を討てば人々から
『中原自身の思慮が足りずに、さしもの忠功の神西と刺し違えたのだ』と口さがなく言われるに決まっている。
どうにかして、神西が私を討とうと目の色を変えたときにこそ、一打に斬るしかない。
あの小男一人なら、掴み殺すのも簡単だと思って今まで放っておいたが、
もし私が討たれてしまえば、私が油断したから易々と討たれたのだと、
人々はあざ笑うだろう。これも口惜しい」と思った。
それでこのことを詳細に書き記すと、「妻子に伝えよ」と、下人一人を故郷へ帰したのだった。

こうして中原は、神西の反逆の証拠があれば一刀のもとに切り捨てようと考えて、心を許さずにいた。
神西もなかなかのつわものなので、少しも態度に出さずに時が過ぎていったが、
あるとき神西は、同朋(近侍の僧体の者)の林阿弥という者と中原の囲碁対戦を所望した。
中原は「よろしいですとも」と答えて神西のところへと向かう。

神西は碁を討っているそばからのぞくように見物して、
指を折りながら「十、二十、三十、四十」と数え、
「そこに打って取れ、ここの石を拾え、投了させるな」などと言っていたが、
「そこで切れ」というのを合図に、討手にキッと目配せした。
神西が林阿弥に「切れ」と言ったのと同時に、討手の者たちが抜き打ちにそばから丁と切る。
中原は前から覚悟していたことだ。自身も屈強な太刀の達者であったので、碁箱でもって受け流し、
一尺八寸の脇差を抜いて討手の眉間を二つに切り破る。
二の太刀で碁の相手の同朋を袈裟懸けに切り捨てる。
その際に神西は中原の左手をしたたかに切った。
中原は切られながらもスッと立って打ち払い、八面に敵を受けながらしばらく戦って、
数多くを切り伏せまたは怪我を負わせて、自身もぼろぼろになって死んだ。
勇といい義といい忠といい、まさに類まれな者だと、これを聞く人は皆たいへん感心した。
神西も情けのある者なので、これまでのよしみが忘れがたいと、中原を手厚く供養したとのことだ。
(陰徳記)

142 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 02:49:09.71 ID:6qfdtbzd.net]
ちなみにこの中原善左衛門であるが、末石城跡とされる場所にある碑には
この逸話の2年後の1571年に吉川元春が末石城を囲んだ際、和議の使者となった
在郷の勇士と共にその目付として城に入り、和議成立を偽装した城方に寄って騙し討ちされ
退去の際に丸腰の所を使者と共に斬られたとされている。

143 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 03:18:36.35 ID:7qJmlchd.net]
林 阿弥「解せぬ」

144 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG.net]
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は



145 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f.net]
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ.net]
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ.net]
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148 名前:人間七七四年 [2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ.net]
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

149 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/02(日) 21:12:09.36 ID:+e23W/r8.net]
そりゃお福と密通してたからなあ

150 名前:人間七七四年 [2016/10/03(月) 01:38:24.33 ID:Om5w01zA.net]
尼子再興軍、和議の使者を騙し討つ 〜美甘塚由来〜

1571年、吉川元春の軍勢6000に囲まれた山中鹿介と神西元通の籠る末石城。
僅か500程度の城方に対し三層の櫓を組むと石礫や鉄砲、矢を撃ち込み攻撃する吉川勢。
守る城方も土塁を築き必死に抵抗し、3日に渡り激戦が続いた。
その中、吉川勢は和議の使者として地元の所子と言う所に住む美甘与一右衛門(みかもよいちえもん)と言う血気盛んな勇士を送り込む。
毛利氏の依頼を受けた美甘与一右衛門は目付の中原善左衛門と共に城へ入るが、和議に刀は不要と入り口で刀を取り上げられた。
交渉は順調に進み、和議成立となり歓待の宴が開かれる。宴も終わり、2人が退出しようとしたところ城方の兵士は不意に美甘と中原に斬りかかる。
未だ刀を返されていなかった美甘は身近にあった石を手に立ち向かうが、敢え無く中原と共に討たれて死んでしまう。
数日の後宍戸隆家、口羽通良を通じて城方は降参を申し出た為吉川元春は城を受け取った後、亡くなった美甘与一右衛門の義を讃えると共にその死を悼み、碑を建て厚く葬った。
現在も末石城跡には美甘塚が残り、美甘家の人が与一右衛門が城方に立ち向かった時の石を力石として碑の近くに保存供養を続けているとの事である。

当地に残る美甘塚の案内板などより

151 名前:人間七七四年 [2016/10/03(月) 06:46:55.58 ID:FrR4NjML.net]
>>150
中原「ワシは何回死ねばええんじゃ…」

152 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/03(月) 19:18:04.90 ID:+ZXcHLbM.net]
>>150
未だに供養が続いてるって凄いな。

153 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/03(月) 23:42:14.17 ID:9IRF6OyF.net]
大友義統悪逆の事及び彦山の意地

天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った

参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など

ちなみにこの話は

宗麟公悪逆之事
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9168.html
の別バージョン

焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点

154 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 04:01:44.58 ID:Ib0P9j1i.net]
合戦は百日の内に埒の明くものである。関ヶ原は、7月中旬から9月15日に埒が
明いた。大坂は10月から1月20日までに埒が明いた。大坂後の合戦は3月から
5月7日までに済んだ。有馬(天草一揆)は、1月から2月27日までに済んだ。

――『武功雑記』



155 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 07:37:24.77 ID:6nfw2tfV.net]
石山合戦
三木城籠城戦
月山富田城籠城戦




応仁の乱

156 名前:人間七七四年 [2016/10/05(水) 07:57:16.26 ID:5J8+ztnF.net]
妙玖の方、吉川家臣を説得

1550年、毛利元就の命令で布川(現広島市安佐北区深川)に隠居していた吉川興経は謀反の疑いを受け天野、熊谷率いる手勢により殺害された。
この報を受けた吉川家重臣、吉川伊豆守(吉川経世?)と森脇和泉守は直ぐさま郡山の城へ駆け付け、2人は元就に涙を流し抗議し
「興経を討ち果たすのであればどうしてお知らせくださらなかったのですか。
隠居蟄居の身となったのですから、どうして反逆など企てられましょう。
こうして誅罰なさるとは、なんともお情けのないことです。
私たちも、興経に対して私怨があってこのように(興経から元春への家督相続)したわけではありません。
吉川の家のことを考えたからこそ、一旦は主従の間を乱すような振る舞いをしたのです。
確かに興経に楯突いたと同じようなものですが、本当は家のためを思い、
それに興経の不義を正すために行ったのです。
こうなったら私たちも、縁側の片端を汚して自害させていただきます」と大騒ぎした。

元就はあれこれとなだめたものの、二人はまったくおさまらない。
その騒ぎを聞きつけたのか、元就の北の方が姿を現し、
「伊豆守殿にとって興経は甥ですが、わたしにとってもまた甥です。
甥を殺されたのが無念だといって自害なさるのなら、私も女の身ではありますが自害すべきでしょう。
伊豆守殿、どうか私に免じて自害を思いとどまってください」と、
一度は怒り、一度は涙を流して説得した。
吉川伊豆守はこれにしぶしぶ自害を思いとどまったので、森脇和泉守も強行することができずに涙を抑えて自害をやめた。
(陰徳記)

ちょっとツッコミどころの有る逸話なので悪い話に持って来ました。

157 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 08:09:09.82 ID:w5JhOUZD.net]
切る切る詐欺か

158 名前:人間七七四年 [2016/10/05(水) 08:29:12.59 ID:5J8+ztnF.net]
>>157
違う、そこじゃない

159 名前:人間七七四年 [2016/10/05(水) 11:18:22.35 ID:3PMHM5EC.net]
妙玖(みょうきゅう、明応8年(1499年) - 天文14年11月30日(1546年1月2日))は、戦国時代の女性。
毛利元就の正室。妙玖は法名で本名は不詳。父は吉川国経、母は高橋直信の娘、兄弟には吉川元経、吉川経世ら。
子に長女(高橋氏人質、夭折)、毛利隆元、五龍局、吉川元春、小早川隆景。


あっ…(察し)

160 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 13:20:12.96 ID:7Lcaw4B2.net]
んー?わからんぞ

161 名前:人間七七四年 [2016/10/05(水) 13:24:48.02 ID:o/sCiXIJ.net]
>>160
えぇ…
>>159の初めの辺りをよく読んで再度>>156を読めば分かる筈…

162 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 16:16:28.54 ID:QTk5iYVv.net]
黄泉返りなんて日常茶飯事

163 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 16:45:39.11 ID:c3gMfmgy.net]
大河で呂宋助左衛門がでてたので

堺市の大安寺本堂は元、呂宋助左衛門の屋敷であったが、
呂宋助左衛門が秀吉にフィリピンの便所壺を高く売りつけたのがバレて
呂宋助左衛門がフィリピンに逃亡した際に移築したと言われている。
呂宋助左衛門が屋敷を建てた時のこと、松永久秀を招待したところ、あまりにも豪勢な屋敷に驚いた松永久秀は
刀で柱にざっくり傷をつけてしまった。
呂宋助左衛門が「なにをする!」と怒ったところ、松永久秀は
「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」と言ったとか。
この柱の傷は今でも見られるらしい。

164 名前:人間七七四年 [2016/10/05(水) 17:44:42.46 ID:YH2lTrzx.net]
MTHR「ウチの嫁が不細工とか適当書いてんじゃねーYo」



165 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 18:56:59.20 ID:aJPKN53C.net]
大女だったんだろ

166 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 19:33:13.35 ID:QTk5iYVv.net]
>>164
お前んち、大嫌いなんだもん

167 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/05(水) 19:40:19.74 ID:c3gMfmgy.net]
周瑜は美人の妻を娶ったために早死にした。
一方孔明は不美人の妻を娶った。
よって孔明の方が賢かった。

というような評と同じく、むしろ元春が女色に溺れなかったことを褒めてたんじゃなかったっけ

168 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 00:04:46.44 ID:DPpI50nX.net]
>>163
>「盈つれば欠けるもの、完璧なのはかえっていかん」

家光「なるほど」
藺相如「せやろか」

169 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 05:33:39.65 ID://aE3BIv.net]
>>167
留守中に浮気してないだろうか?
子供は俺の子だろうか?

悩みの種が無くならないね

170 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 05:45:34.63 ID:sSiOXkFU.net]
晋恵帝「嫁が不細工な上に残虐で辛いです」

171 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 13:36:49.56 ID:JZZmnAdY.net]
>>163
前田慶次にも同じ逸話があったような

172 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 19:39:45.16 ID:HlWdKe1k.net]
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。

義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。

しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った

「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。

代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」

そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。

その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。

(大友記)

入田丹後の最後についてのお話。

173 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3.net]
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)

174 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR.net]
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない



175 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd.net]
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか

176 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F.net]
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな

177 名前:人間七七四年 [2016/10/07(金) 03:50:54.34 ID:L67YRt7f.net]
陶興房、嫡子次郎興昌を殺すこと

陶尾張守入道全薑(隆房)は主君義隆卿を討ち果たしたことで、神明仏陀の神罰を恐れて当然となった。
さらに「養父の入道道麒(興房)が草葉の陰で怒っているだろう」と噂され、
隆房は先々のことが恐ろしくなった。

かつて道麒入道には次郎という一人の子がいて、器量骨柄も世に優れ、実にすばらしい若侍だった。
しかし、ややもすれば自分の才能を鼻にかけ、義隆卿を見かけると
「隋の煬帝の詩にでも出てきそうな大将だな。
この人は武士が主君と仰ぐべき大将ではない。
出家くずれか流浪の公家のようなことばかりしているではないか」と、眉をひそめて嘲笑っていた。

父の道麒入道は、「嫡子の次郎は武も文も全備しているし、
そのほかの芸能の道も、弓馬は達者、乱舞にも堪能、
詩歌・管弦に至るまで、人間がたしなむべき道では一つとして劣ったものなどない。
このような末法の世には稀有な才能だ。
しかし自身が勇ましく熟慮できるからといって、それを鼻にかけ、
主君の義隆卿を何かにつけて侮っているようだ。
これは非常にまずい。天の呵責を受けることになろう。
『春秋左氏伝』にも、『内では君主の過ちを諫め、外では君主のすばらしさを称揚するものだ』
と書いてあるというのに、次郎の振る舞いときたら、この入道の心にはまったく適わない。
きっと将来、義隆卿の政道にほんの少しでも私情が入れば、
次郎は大いに恨みを抱いて、いつか復讐しようとするかもしれない。
まったくどうしたものか」と嫡子次郎を評価しつつも行末を憂慮していた。

そんな折、越前から幸若太夫が下向してきたので義隆卿は非常に喜んでもてなし、「烏帽子折」を所望した。
太夫が広縁で手拍子を打ちながら舞うと、
聞いていた人々は貴人も賤民も皆感動にたまりかねて涙で袖を濡らした。

道麒入道は宿に帰ると次郎に「おまえはいつも舞を好んで舞っている。幸若の音曲を学んでみるか」と問うた。
次郎は「私が幸若を真似るのは、実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、
父の命であれば、似せて舞ってみましょう」と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先の幸若太夫の舞よりもさらに趣深いものだった。
父の道麒入道も、「わが子ながら、なんと器用なものだろう」と感心したが、
これでさらに主君のことをないがしろに言うようになるのではと懸念を深めた。

またそのころ、大明国から義隆卿に書簡が届いた。
義隆卿は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、父の道麒入道は自宅に帰ってから次郎を呼び寄せ、
「おまえは今日の書簡の内容をだいたい覚えているか」と問いかけた。
次郎は父に「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。
しかし推量で内容を当ててみましょう」と言って墨をすり、サラサラと書き始めた。結果、一字一句の間違いもなかった。
入道が「それを読んでみなさい」と言うと、次郎は立て板に水を流すかのように読み進める。
父の入道は、「次郎は人ではないのかもしれない。菅原道真の再来なのだろうか」と、ただ呆然としていた。

178 名前:人間七七四年 [2016/10/07(金) 03:51:21.12 ID:L67YRt7f.net]
その後も道麒入道は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、
また義隆卿を軽んじるような考え方もやめなかった。
道麒入道は、「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、
大内家の頭痛の種になるかもしれない。
主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
この為に次郎は十五歳になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶道麒入道は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせた。
道麒にとっては妹の子に当たるので、養嗣子にむかえたとのことだ。
道麒入道は十六歳から屋形に近侍し、最後まで他家には見向きもしなかったそうだ。
『礼記』に「人の臣下となっては外に交わることなく、二君に見えることなし」と書かれているのも、
この入道の生涯と同じことである。
道麒入道は、主君に対して二心を抱かなかったために、
可愛がって大事に育てたたった一人の子を殺し、忠節を尽くした。
これは異国にも稀なことだろう。我が国でも聞いたことすらない。

それというのに、当代の隆房は義隆卿に恨みを抱いて反逆を企て、
ついに主君を討ち果たしてしまった。
それどころか、摂政関白殿をはじめとして多くの公卿を討ち、悪逆の限りを尽くした。
そのため神の怒りに触れてたちまち天罰を蒙るばかりか、
亡父の道麒入道の怒りも深く、不孝の罪を免れないだろう。
陶の行く末は恐ろしいことになりそうだと思わない者はいなかった。

(陰徳記)

179 名前:人間七七四年 [2016/10/07(金) 04:22:53.06 ID:L67YRt7f.net]
ちなみにこの陶次郎興昌の墓は陶家の居館から程近い海印寺(山口県周南市上横矢)に有り、父興房の次兄・興明の墓と並んでおり、1529年(享禄二年)25歳で亡くなったと記されている。
また、興房の兄興明は長兄武護出奔後に陶家の家督を継いだものの、その後出戻った武護に殺害され家督を奪われており、この海印寺には二代続いて陶家当主の兄の墓が並んでいる。
興房の兄の事は陶家だけでなく、大内家中の様々な内部抗争も絡んでそうで、隆房とYSTKの事と言い大大名のお家の内部事情って大変だなと思った今日この頃

180 名前:人間七七四年 [2016/10/07(金) 07:45:34.37 ID:L67YRt7f.net]
義隆先輩「お前の事好きだったんだよ」
次郎「やめてくれよ…(絶望)」
義隆先輩「」

興房「…次郎、茶しかないけど良いかな?(サーッ)」

痴情のもつれだったに100義隆

181 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/07(金) 11:51:42.07 ID:WHtokoA7.net]
へー隆房って養子だったんだ
子孫が養子に罪を擦り付けたのかと思った

182 名前:人間七七四年 [2016/10/07(金) 12:21:42.78 ID:BPF3ObJe.net]
陰徳記やからなぁ

183 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/07(金) 19:08:46.94 ID:6k9oMf0i.net]
天正6年(1578)3月、大友家は評定によって、日向に侵攻した島津勢に対する攻撃を決定し、支配下の国々に
その旨を伝達した。

この決定以降、大友一門や重臣の面々は日夜あちらこちらで寄り合い、会合を設け珍膳を尽くした饗宴ばかり
行い、また茶の湯の会、酒宴と暇もない有様であった。これは彼らが、大友家の武運が徐々に傾いていることを
理解していたので、それぞれ討ち死にして生前の報恩として、死を以って報いようと一途に思い定め、
その最期の名残として、このような宴を設けたのだと言われた。

こうして大友宗麟は3万5千3百の軍勢にて豊後府中から出陣した。
そして、まず戦場に向かう門出であると、豊後一宮である柞原八幡宮に「矢を一筋奉れ」と命じた。
すると足軽2,3百が打ち出て弓鉄砲を揃えて、八幡宮に射かけた。

また行軍中、道の悪しき場所では仏神の尊容を取り壊して、これを踏んで通るようにさせた。
これらは前代未聞の悪行である。

いにしえ、高師泰は石川河原に陣取り楠を攻めた時、彼の配下の悪逆無道の者共が仏塔の九輪を外して
帷子に鋳たという。

また延文四年の夏の頃、畠山入道が楠を攻めた時は、その奴たちが神社仏閣に乱入し神宝を奪ったという。
この時の狼藉はもはや制止がきかず、獅子や狛犬も打ち割られ薪にされ、仏教典は売り飛ばされ
その代金で魚鳥を購入したそうだが、これなどは師泰の悪行に百倍する稀代の罪業であると書き残されている。

しかしこの度の大友勢のやったことは、それと比べてすら千倍する。浅はかというのも愚かである。
心無い者はこのような悪行に却って勇んだが、智有る者達はこの行為を恐れ、
「今度の合戦ははかばかしく成らないだろう。」
そう囁き合ったという。

(大友記)

耳川の戦いに至る大友軍の日向出陣について

184 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/08(土) 03:05:23.56 ID:fSd8+Dwx.net]
道長「…」



185 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/08(土) 10:06:15.64 ID:uu7ZPwxT.net]
まるでISIS.....

186 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/08(土) 19:02:49.06 ID:Z6eeHzVq.net]
宗麟「わしキリシタンだから神社仏閣を壊してもノーカン」

187 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/08(土) 19:52:30.77 ID:9bgS062b.net]
高山重友も同じことしてたぞ!

188 名前:人間七七四年 [2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0.net]
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊が
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。

189 名前:人間七七四年 [2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh.net]
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB.net]
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR.net]
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年 [2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm.net]
>>191
お晴カス

193 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 12:01:13.16 ID:Awu9dQS0.net]
加藤侯〔大洲〕の先、光泰、朝鮮に於いて石田が為に毒殺に遭う。

 六月の末、箕輪の里にある大関(増業)の隠荘を訪ねて、謝礼のことを談じたついでに、
彼の実家の祖光泰のことに及んだ。(※大関増業は加藤家からの養子)
光泰は朝鮮の役に赴かれたのかと問うと、以下の話をしてくれた。

「そのころは甲斐一国を領して二十四万石でした。
かの征伐のときは在国していましたが、太閤の名護屋在陣の労をねぎらおうとして、
国を立って肥州に到りました。
 
 その折節、鮮国に在陣していた石田の輩が、
糧食のことで太閤の命を承って直にかの国に渡っていました。
それなのに石田が輩は糧食が乏しく清正が先入していた所に行くことができないと言ってきました。
光泰は
『己が進退のことを難しいと思って先入の人を察せない。
これは勇無しとするべきだ。我が直に先陣のところに行こう。』
と言い、石田が止めても聞かなかった。大いに争論しましたがついにその場を出発されました。

 石田はすぐに彼と和睦し、明日に彼を自分の陣所に招いて光泰を饗応したそうです。
このとき石田は秘かに毒を設けたといいます。
光泰は自分の陣所に帰ると病を発し、救われないことを悟りつぶさにその状を書いて死にました。
その書は今も加藤侯に伝わっているといいます。

 石田がこのことを為したのは、
もしかしたら帰朝の後に光泰がその朝鮮での実態をあらわにするかもしれないと
いまわしんでのことでした。」

『藩翰譜』には、この事が載っていない。
予は光泰の志を憐れむ。ゆえにこの事を記録せずにはいられない。

(甲子夜話続編)

194 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 12:20:52.82 ID:LqOI0YIG.net]
加藤光泰「石田めが俺の食っていた砂に毒を入れたのだ!」



195 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 13:10:38.91 ID:2claNxhB.net]
加藤光泰は碧蹄館の戦いの前に前野長康と明軍と戦ってやられたり、朝鮮では散々だったな

196 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR.net]
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年 [2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm.net]
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR.net]
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年 [2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P.net]
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G.net]
老害おつ

201 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g.net]
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)

202 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/11(火) 13:58:34.44 ID:cmvPSgmJ.net]
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。

予は第一に問うた。

「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」

「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」

大仏石垣の話のときに、予は問うた。

「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」

「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」

などと答えた。


 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは

「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」

 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。

(甲子夜話三篇)

203 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/12(水) 04:41:40.18 ID:6gGIiIHG.net]
豊臣氏は残忍である
???

204 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/12(水) 07:57:24.56 ID:zRqAX6S/.net]
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ



205 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/12(水) 14:14:27.40 ID:Ml1Xcr10.net]
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな

206 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/12(水) 19:42:48.08 ID:zRqAX6S/.net]
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?

207 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/13(木) 00:46:44.64 ID:Y0ZJU9Fw.net]
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事

括斎(大関増業)が言うに、

今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。

(甲子夜話続編)

いつのまにか、同族になってしまった加藤s

208 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/13(木) 07:32:05.95 ID:M+xN9isV.net]
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ

209 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/13(木) 07:41:56.20 ID:79/PQNWV.net]
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7253.html
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。

210 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/13(木) 11:31:05.82 ID:M+xN9isV.net]
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか

211 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/13(木) 19:59:18.60 ID:imbpxLIX.net]
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから

212 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/14(金) 14:54:41.43 ID:UGi9nDJa.net]
徳川家には……


春も末のある時、森可政(森可成の弟で忠政の叔父)が忠政へ生の鱸を差し上げようとしたところ
近習衆は「忠政公は奥にいらっしゃるので今お披露目するのは難しい」
と断りそのまま持っていこうとした。

可政は大いに腹を立てて
「この時分は落ち目のナマモノがあるので、忠政殿はお出でになるべきだ。
ナマモノを直接ご覧にならないのは以ての外である!先年それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが
御列座の衆は
『あの可政は秀吉公の代には黄母衣の御大役として口を聞くような者だったが、庭先のハシゴをくれたのか』
と機嫌よく家康公の御前へ持っていってくださった。何を差し上げようとも
『公儀の場よりも奥の間にいるので披露できません』と返すような御列座の衆は徳川家にはいなかったぞ!
早く取り返してきてくだされ!」
と言ったので近習衆は驚き早々に生の鱸を忠政に披露したということだ。


――『武家聞伝記』

213 名前:人間七七四年 [2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D.net]
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政と後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助は黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。

214 名前:人間七七四年 [2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D.net]
大事な事なので二度書きました



215 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/15(土) 00:45:21.73 ID:3Myx/OD/.net]
森武州の具足

第一巻に、森氏の先祖武蔵守の具足のことを言った。
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10190.html

今年その孫美濃守〔初めは右兵衛佐。既に退隠して名を変えている。〕(森忠賛)と
逢ったときに物語した中で、この甲冑のことに及んだ。
濃州が言うには、甲冑は革具足で黒糸で威ていて、殊に粗末な物で、
なかなか大将の物とは見えなかった。
また小さい具足で、私が着てみると胸さきは空いていて、腹ばかりにある体であった。
兜は討死のとき首とともに敵に渡したので、家にはなく、今は井伊家に伝わっている。
とのことだそうだ。

前記と違うがそのまま記した。

(甲子夜話)

小さい事には変わりはありませんね
結局鬼武蔵の兜は永井家か、井伊家か、どっちの家にあったのでしょうか

216 名前:人間七七四年 [2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD.net]
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は元就様は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年 [2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD.net]
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

218 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/16(日) 20:47:21.16 ID:wZGJMEJ2.net]
永正の頃、日向・伊東尹祐の家中に福永伊豆守祐炳という者があり、尹祐は彼を寵遇のあまり、
召し使っていた女を与えるほどであった。やがてこの女は一人の女児を産んだ。この女児は7,8歳の頃より
伊東家の奥で召し使われ、14,5歳に及んで垂水又六に嫁いだ。
ところが、尹祐は何を思ったか、この女を自分に遣わすよう又六に所望した。

又六は答えた
「我が妻が未だ福永の家に居るうちならば、上意に従い奉るべきでしょう。ですが今既に私の所に
嫁いで来ています。この上は御免下さるべきです。」

しかし尹祐は承知しなかったため、又六は急ぎ妻を引き連れて知行地の三宅に下った。尹祐もこれを聞くと
又六の後を追い三宅に向かおうとした。この時近習の者が急ぎ使いを立てて、重臣である落合駿河守に知らせ、
まず伊東尹祐を寺に待機してもらい、そこに暫くして落合駿河守が参った。尹祐は面目無く思ったのか、
落合の姿を見ると奥の一間に入ってしまった。その尹祐に落合は声を荒げて言った

「御祖父惣昌院殿(祐堯)が国を治められたあと、御父光照院殿(祐国)は気ままにわたらされ、
飫肥楠原の陣にて御家に困難を引き出されました。しかし飫肥の代地として庄内千町を御知行あってこそ、
御家の難も少しは緩むというのに、今また君の御気ままにては、怠慢であり然るべからざる物です!

我らは、西南には薩摩の大敵を受け、北は豊後梓峠一つを隔てて大友の強敵があります。決して
油断あるべき時節ではありません。今は先ず、国家を固められる御工夫こそ必要なのです!」

尹祐はこれを聞いて面目なく思ったのか。にわかに寺の後門よえい抜け出て、都於郡に帰城した。
落合駿河守もその後に従い、登城して御前に進み

「恐れながら先刻申し上げたことを、御承知下されありがたく存じ奉ります。」
そう涙を流して申し上げた。これを尹祐は黙然と聞いていたが、暫くして

「あの女を所望したのは私の本心ではないので。実は福永伊豆守が勧めたのだ。」

この言葉が垂水又六の一族に伝わると、彼らは評議の上、又六に勧めてその妻を離縁させた。
その後、尹祐が瀧の天神に参詣したおり、福永の邸宅に立ち寄り、この女を連れて帰った。

以ての外なる行跡である。

(日向纂記)

219 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/16(日) 23:41:44.30 ID:KB/bRNLL.net]
落とし胤だったか

220 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/17(月) 10:03:00.92 ID:IziOomWy.net]
輝元「その手があったか!」
宗麟「メモメモ」

221 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/17(月) 16:09:05.57 ID:hV4rsN2C.net]
>>218
よくわからん、ただの横恋慕?

222 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/17(月) 16:19:59.53 ID:FNw7DcIn.net]
母と娘両方とすることは畜生の所業のはず

223 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/17(月) 21:00:40.31 ID:zpQa4NRC.net]
>>218の続き

永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した

「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」

これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)

この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。

その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

(日向纂記)

224 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/17(月) 23:58:55.58 ID:GuZsnBMu.net]
能役者の古事

 人が伝える話も時々違うものだ。

 予が若年の頃、能役者笛吹の清甚兵衛が語ったことは以下のようなものであった。
「私どもはそもそも、奈良春日の神職の中からでました。
大夫、脇師の如きも同じです。」
と聞いていたが、この五月観世の宅に能見物に行ったとき、その弟四郎に、
『同職の今春大夫は奈良の神職か?』と問うたが、
そうではないという旨が返ってきた。
ならば『年々奈良の神事に赴くのか?』と問うたら、
「私の家の如きも以前はかの神事に同じく行っていましたが、
神祖の仰せで、『観世は行くに及ばず』、とのことが有りましたので今は赴きません。」
との答えであった。

 また大阪茶臼山の御陣所にも観世は御供していた。
そのときいつもは暇なので、こよりを多く持っており、
それを使って戦士の甲冑の毛ぎれ、あるいは損じたものにつぎ合せていたら、
人々はそれを重宝がり、こよりを観世から請い求めたという。
 予がかつて聞いたことに、道成寺の能の鐘の内には面の紐無かったので、
一時的に紙をよって面につけたことから起きたと。
この話とは異説である。しかし正しく子孫の伝なので用いるべきであろう。

 予はまたかの御陣中には何の御用を為したのかと尋ねると
「謡を度々命ぜられ、折には御囃子もあったと書き伝えております。」
との答えが返ってきた。
なので御陣中とても、今の治世に想っているものとは全く違うものだ。

 また、大夫[左衛門]の話では、
神祖の頃には、御出陣に謡うには必ず弓矢の立合と決まっていたそうだ。
[今では正三の夜に、御謡初として御前で謡うものである]
また御出船のときには船の立合を謡うもという。
この謡は今の乱曲の中に見えるが、多くの人は知らないものだ。

 かつて或る人の話に、
太閤名護屋在陣のとき、慰めに狂言をされた。折節”止動方角”の狂言をすることとなった。
神祖に太閤は「何の役をやりたいか」と問うと
神祖は御答として「某は何でもいいです。しいて言えば馬になりたい。」
と仰って馬となりなさった。
そこでは鷺仁右衛門の祖は太郎冠者として、恐れ多くも神祖に乗ったという。
今では鷺の家ではこの狂言は憚ってやらないと聞いた。
 しかし近頃今の仁右衛門がこの止動の狂言をしたので、
ある鼓の者に頼って鷺に以上の話をしても、今までそんな話は伝えていないとの返事であった。

ならばこの説は誤伝であろうか。
(甲子夜話)

諸説入り乱れる能役者逸話集



225 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X.net]
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…

226 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO.net]
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど






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