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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話43
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1452933689/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話44
hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1469664777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

226 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO.net]
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年 [2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH.net]
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035.net]
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

229 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 20:03:41.41 ID:vD6BiNk0.net]
>>226
会津松平家が徳川宗家だけどな

230 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0.net]
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA.net]
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA.net]
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O.net]
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

234 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/21(金) 13:49:21.24 ID:2urGPJb5.net]
すみません、質問させてください

『鬼』の風化
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html

こちらの逸話の一次ソースをお教え願えませんでしょうか?

地元の歴史を調べていて、こちらのまとめブログに行き着いたのですが、
とても面白い話で、特に「農民が勝手に供養塚の場所を動かしてしまった」という下りに興味を惹かれました
ここの部分の原文ソースにあたってみたいのですが、もしご存知の方がいらっしゃいましたら、
ご教授いただければ幸いに存じます。よろしくお願いします。



235 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/21(金) 15:20:48.20 ID:EdsGRopz.net]
『長久手合戦記』が出典だと思う

236 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/21(金) 15:52:44.92 ID:vvaNobsX.net]
ありがとうございます。助かりました
早速調べてみます

237 名前:人間七七四年 [2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD.net]
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)

238 名前:人間七七四年 [2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M.net]
粟屋弥七郎(就俊)

239 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC.net]
?嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)

240 名前:人間七七四年 [2016/10/25(火) 07:22:34.73 ID:Bd8kq3tu.net]
声優でスネ夫役の肝付さんて、島津と争った肝付氏の末裔らしいな。

241 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 08:01:57.85 ID:+2Ja90m6.net]
肝付とか聞いたこと無い名字だよな
在日かこいつ

242 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 08:49:44.07 ID:CVOZtn5h.net]
小松帯刀くらいは聞いたことがあるだろ
その出身>肝付

243 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 09:18:59.28 ID:xjKmbkse.net]
戦国板で肝付を聞いたことがないとか勘弁してくれよ

244 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 09:21:46.33 ID:9xpVU5sN.net]
あからさまな釣りに引っかかるのはNG



245 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 20:11:50.09 ID:BRHBqmwz.net]
かなり昔に戦国時代の末裔の有名人の話題で盛り上がったことがあったよな
スネ夫の中の人もその時名前出てた

246 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 21:53:12.75 ID:MG+WC0Bk.net]
ノブヤボで見た感じだと肝付氏の通字は兼ぽくみえる

247 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/25(火) 23:24:37.87 ID:NAJp8WhF.net]
初代から兼を使ってるんじゃなかったっけ?
伴なのか大伴なのかの決着ってついてるの?

248 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 02:31:41.89 ID:kweATJqC.net]
東国で1人の浪人が“地ずりの晴眼”という太刀を覚え、「これに勝てる者はおるまい」
と思い、伊藤一刀斎に会って、

「この地ずりの晴眼の止め様でもありましたら、御相伝くだされ」と、望んだ。一刀斎は
「なるほど、伝えよう」と請け合いながらも、それを伝えずにまた他国へ行こうとした。

浪人は心に、「一刀斎でもこの太刀を止めることができないからだ」と思って、彼の
途次に出向かい、「日頃望んだ地ずりの晴眼の止め様を御伝授されないとは、遺恨
である。只今、御相伝くだされるべし!」と、言うままに、

刀を抜いてかの地ずりの晴眼で、するすると一刀斎に仕掛けた。その時、一刀斎が
抜き打ちに切ったと見えると、かの浪人は2つになって倒れ伏した。

世間はこれを、「地ずりの晴眼の止め様を伝授したのに、そのまま息絶えてしまって
残念である。これを“真金江の土産(冥土の土産)”とでも言うべきだろう」と評し合った。

一刀斎一代の行跡には、このような事なども多かったという。

――『撃剣叢談』

249 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 07:46:51.73 ID:/8rCg6Gs.net]
ホネカワつながりで、盗賊連れて応仁の乱の際に暴れまわったあげく、最期は女装して逃げ出そうとしたところを殺されてしまった
足軽大将、骨皮道賢ネタを書こうとしたら既出だった。
スネ夫というよりジャイアンに近いか

250 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 17:11:00.91 ID:zAjQwwv/.net]
無能扱いされてる関東管領、上杉憲政の河越合戦後の書状
討ち死にした赤堀上野介の娘に対して「男児がいないため、女児であるお前に家督を継ぐことを許す」
とわざわざ仮名で書くという気遣いを見せているが、その文面

「あかほりかうつけのかみむすめ のり政
かたへ
返々みやうたい(名代)の事、まかせおき候、
こんとかわこえにおゐて、をやかうつけのこみうちしに、ちうしんのいたりニ候、
しからはおふなこの事に候とも、みやうたいしきの事、あいはかるへく候、
ここもととりしつめ、ちうしやうもあてをこなふへく候、あなかしく

四月廿七日 のり政
あかほりかうつけのむすめのかたへ」

上野守(かうつけのかみ)、と書いてるけど上野って親王任国では

251 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 17:12:13.65 ID:zAjQwwv/.net]
文中ちょっと訂正
をやかうつけのこみうちしに

をやかうつけのかみうちしに

252 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 17:32:18.28 ID:zAjQwwv/.net]
ttp://www.city.saitama.jp.cache.yimg.jp/004/005/006/001/017/012/002/p000183_d/img/001.jpg

画像があった。
かうつけの、の下が「かみ」になってるか、読める方がいれば読んでほしい

253 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/26(水) 20:35:53.07 ID:biprH1Xg.net]
赤堀か、うつけの神娘に見えた

254 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/27(木) 02:00:58.95 ID:TnWOS/cS.net]
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。

台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。

この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。

――『武功雑記』



255 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu.net]
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)

256 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/28(金) 22:25:21.46 ID:hT+bzspg.net]
黒田勘解由次官孝高は、黒田職隆の嫡子である。母は明石氏、天文15年孝高を播州姫路に産んだ。
この時雪が降って、その家を覆った、これは英雄の生まれる奇瑞であった。また家門繁栄の
前兆でもあったのだろう。

孝高は天性聡明、鋭敏にして才知たくましく、武芸も人に優れていた、彼ほど勇猛、英武な事も、
また世に少なかった。古の和漢の良将といえども、彼を越えることはないだろう。
まさしく天が下した英材であり、本朝においてこの右に立てる人は殆ど居ないと言える。

秀吉が播州に初めて来た時から、これを助け、遂に天下を平らげたのも、ひとえに孝高の功である。
黒田孝高を知る人は、孝高はよく秀吉を助け、天下を平らげたと思っている。
黒田孝高を知らない人は、秀吉が孝高を取り立てたと思っている。
例えれば、漢の張良が高祖を助け、明の劉基が太祖を補佐した事に似ているが、その功は
それらを越えているのだ。

(黒田家譜)

これが黒田家譜の、黒田如水公式設定である。

257 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/28(金) 22:50:02.34 ID:a0vwWu8v.net]
黒田家譜だししゃーない

258 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/28(金) 23:03:20.81 ID:JnJrWcR6.net]
作者はキリシタンなんだろうな

259 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/28(金) 23:15:53.53 ID:0wqTwghO.net]
貝原益軒はキリシタンだったのかφ(..)メモメモ

260 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/29(土) 00:31:26.90 ID:qpXB4M5+.net]
中国の王朝開祖のテンプレートみたい

261 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI.net]
?我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える

262 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl.net]
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(豊久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。

263 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP.net]
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』

264 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp.net]
猛だってこと?



265 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1.net]
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。

266 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/31(月) 04:31:00.45 ID:n0UEobMf.net]
 宝台院前通の、常慶町教覚寺の話である。


権現様へ常慶と申す仏工が常に御懇意を蒙りいつも御前へ召されていた。
彼には御自像を彫らせ、その寺へ御安置もしたりした。
居間もその御像があるという。


 常慶は碁を嗜んでおり権現様は時々御相手されていた。
あるとき常慶がある提案をした。


「私が勝ちましたら、御頭を叩いてもよいですか」


「そのほうが負けたらどうするのか」


「私が負けましたら、再び御前に仕えません。」


結局勝負することとなったが、常慶が負けてしまった。
よって行方知らずとなった。
これからおいおい御尋があったがついに居場所が分からなくなった。


と寺では言い伝わっている。
(甲子夜話)

267 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/31(月) 07:56:12.11 ID:0R+9GM9r.net]
仕えているのが嫌になったんだな

268 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg.net]
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり

269 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 17:53:18.23 ID:FXCUFiSz.net]
慶長5年8月10日、会津・上杉征伐の途中、江戸にあった徳川家康はこの日、非常に機嫌がよく、
午の刻(正午ころ)に「鶴を料理しよう」と、鍋を持ってきてそれを火にかけ鶴鍋を作った。
前には本多中務(忠勝)、某、全阿弥の3人が呼ばれ馳走され、特に中務は暖炉裏の家康の
すぐ近くに座っていた。

この時、どこから到着したのか、いかにも細かく書かれた書状が家康に渡された。
家康はこれを読んで、誰へともなく呟いた、「伏見城が、落城した。」

そして西の方を見て、はらはらと泣き始めた。
本多中務はこれを見て、御前を走り出て、次の間に逃げた。
全阿弥も逃げ、某も逃げた。

その後家康は、「中務はいるか?」と思って探した所、殿中からそのまま宿舎の方まで退出したと
いうことであった。

(慶長年中卜斎記)

家康が鶴鍋を前に泣き出したら何だか知らんが忠勝はじめみんな逃げた、というお話

270 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 18:06:12.45 ID:rD+ufxCs.net]
一体どんなめんどくさい泣き方するんだろ

271 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 20:00:44.57 ID:Iubn3vBM.net]
忠勝が走って逃げるほどヤバい状況になったのか

272 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 22:42:42.41 ID:80crETN7.net]
感情が昂って脱糞だろうな

273 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 23:21:48.40 ID:CJYMPgVy.net]
そらもう、とりい乱しちゃうんですよ

274 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/01(火) 23:28:30.91 ID:SYhha0a6.net]
「卜斎記」といえば、
会津攻めの前、伏見城の千畳敷で家康が笑ってた話を思い出す



275 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/02(水) 15:16:03.06 ID:Ih9U6azj.net]
>>269
なんで逃げるんだよw気を遣ってさがったにしても逃げるって表記が面白い

276 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/02(水) 15:27:11.53 ID:XeQ0r+Kz.net]
>>273
評価する

277 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/02(水) 20:54:16.38 ID:/RmjyhkS.net]
>>273
やりおるのう
お味噌進呈いたす

278 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/05(土) 01:14:15.22 ID:ueBpyrnR.net]
氏家内膳宅趾

 領邑平戸城の西北一里余、神埼という山の北、海に向かった所の人里を離れた地に"あぼ"という名がある。ここには"どうこく"という所がある。
思うに人名で〔今文字が詳しくなく、ただその唱に依るしかない〕、今はその廃宅の跡がある。
宅の辺りには石垣がなお存在する。その渓間は小竹が生い茂り、人が窺う隙がない。
 さて近頃聞いた話では、この地は氏家内膳正(行広)が関が原の戦に利なくなった後に
西国へ下ったときにこの所に潜伏し名を変えて住んでいたという。
しかし大坂陣起こったときにこの地を去ってしまい、その跡がなくってしまったそうだ。
きっと大坂に赴き与したのだろう。この後廃宅となったと。

 案ずるに、『武事紀戦略考』に、
「九月十五日の暁、長束大蔵大輔正家、関ヶ原を落ちて大嶋にいると聞いて、
道阿弥が手勢三百ばかりで大嶋に押し寄せ、大いに戦った。
長束は敗軍して逐電した。〔大嶋は長嶋かた二十余町南北。〕
十六日、山岡はまた桑名に押し寄せた。氏家内膳正行広は和を乞うて城を渡した。
〔桑名は長嶋から二十四、五町南〕
それから山岡は、また神戸に赴いた。」
との記述がある。同書によると氏家常陸介入道卜全〔濃州大垣城主〕は、美濃斎藤家三人衆の一人であるそうだ。後に信長に従って、度々の戦功があったとか。
(『石卵余史』巻十には、
「桑名の城主氏家内膳正兄弟は、彼方此方に忍び、
後に御侘びすると口では言っても、内心は御憎み深く、
内膳正は池田輝政に、志摩守行継は福島正則に御預けられたが、
後に慶長十九年大坂陣の時内膳正も籠城した。その時は萩野信濃守と号した。」
と書かれている。)


『武功雑記』には、
元亀三年、信玄、遠江へ出張の条に、
「信長公から権現様へ加勢として、一番手平手中書(汎秀?)、二番手佐久間右衛門尉(信盛)
三番手大垣の氏家常陸入道卜全。」
と記述してある。卜全は思うに行広の父であろう。
(甲子夜話)

わざわざ平戸くんだりまで潜伏する氏家さん

279 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/08(火) 06:43:10.14 ID:haaJnWgE.net]
月次の連歌会があった。
宗長のおられる席の末座から弟子である人が句を詠んだ。
決まりに触れたこともなく、書記が記録している様子をみて
『さては今の句はよく出来たのだな』と思い、
気をよくして宗長に対して手をつき、

「どう聞こえましたか」

と問うと

「中々よく聞こえた」

と言われた。
しばらくたった後又一句詠んだ。
その句も記録されたので、ちと思いあがってまた手をついて

「どう聞こえましたか」

と言うと宗長は

「聞こえた。そこからここまでよ〜く聞こえた」

と返された。
(醒睡笑)

280 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/08(火) 09:49:47.06 ID:4jJkcgOV.net]
つまり「凡人」判定だったと?

281 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/08(火) 20:32:26.56 ID:ZmqVOuEJ.net]
天正15年、伊東祐兵は豊臣秀吉より飫肥を拝領したが、島津家の将である上原長門守(尚近)は飫肥城から
退去せず、引き渡そうとする気色もなかった。

伊東家はその年の8月初めより川崎又右衛門尉を大将、川崎宮内左衛門尉を副えて郷原水城に陣を取り、
上原を説得したが、彼はこれに従おうとせず、あまつさえ8月10日には軍勢を出して、郷原において
苅田を行った。

伊東勢もこれに打って出て、飫肥城勢を広木田まで追い詰め、大勢を討ち取って引き上げた。しかし味方にも、
桜木藤七兵衛尉、海老原清左衛門尉の両名が討ち死にした。

この事は豊臣秀吉に報告され、秀吉は早速、土井九右衛門尉を上使として飫肥に差し下した。
土井九右衛門尉は豊臣家の朱印を持って、同年12月13日、飫肥に到着した。
彼は上使であったので一の城戸を騎乗のまま乗り通り、二の城戸まで乗り通ろうとした所で、
上原の門卒たちが「乗打無礼なり!」と腹を立て、九右衛門尉を始めとしてその一行のうち13人を
惨殺した。その時は伊東家からも、平原河内守、松浦甚助が案内者として同行していたが、平原は
殺され、松浦は生け捕りにされ、のちに解放された。

上原長門守は門卒たちの濫妨を聞いて驚愕した
「上使を殺した罪は逃れがたい!お前たちは私の首を斬ったのと同じであるぞ!」
そう悔やんだが及ばず、程なくこの事件は秀吉に聞こえた。

秀吉は激怒し、即座に上原長門守を召喚した。
上原は、とても逃れられないと思ったか、嫡子城之介を名代として大阪に上らせたが、上使を殺した罪により、
この嫡子が斬罪となった。
飫肥城は天正16年閏5月3日、伊東家に引き渡された。

(日向纂記)

島津家の上原尚近、よりによって秀吉の上使を無礼討ちにしたというお話。

282 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/08(火) 23:42:29.86 ID:RvUCPlAS.net]
息子を斬らせて助かるなんて…

283 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/09(水) 04:27:01.27 ID:LHaGcvNP.net]
???「子供なんていくらでも産めばいいのよ」

284 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/09(水) 04:55:48.51 ID:oIThLz4f.net]
何そのカテリーナ・スフォルツァ



285 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/10(木) 11:25:31.29 ID:K23paop2.net]
芸州寂静寺デイウス画像の事

 寛政己酉(1789年)、予は東勤のとき、安芸の怒田本郷駅に宿泊した。
この所に寂静という親鸞宗の寺がある。
予の医者がここに宿泊したときに、その住職が語った話である。

 寛永の肥前天草一揆騒乱のときにあたり、ある僧がどこからとなくこの所に来て説法講談した。
聴者の群集は日ごと多くなった。
ある時にその僧はついに耶蘇の法をすすめ、信じる者が多くなったので、
領主からかの僧を捕らえ、東武へ連れて行ったそうだ。

 かの僧が置いていったデヰウスの画像が今も本郷禅宗の寺にあるという。
この事を語った僧も見たそうだ。
その像は阿弥陀のようで威霊があったと。
奇聞である。

 天草に凶徒蜂起のとき、安芸にこのような事があったとは
世人に知らないことである。
(甲子夜話)

デウス像見たいなあ

286 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2.net]
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)

287 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/11(金) 02:18:29.80 ID:1jlJkqVM.net]
今日は鮭の日なので、鮭様関連の話を一つ

※原文準拠

最上駿河父之遺跡を受て後

駿河守家親(最上家親)父の遺跡を受て後 日々に花車を好み 双六鞠俳諧に日を送り 殿宅に金銀を鏤むを 諸人諌めける
昔時源頼朝公政道正敷諸士に情深かりしが共 御子右衛門督頼家政道宜しからず
終に弟の実朝に殺れ玉ひ 実朝は頼家の子悪禅師公暁に討れ 頼朝父子三代治世纔四十余年にして亡びぬ
是頼朝平家を亡さんと多くの人の命を断し故 其積悪子孫に報ふて断絶せり
去れば義光も頼朝の如く政道正敷 万民に情深く 寺社を敬ひ其領を寄付し 古今に稀なる大将と云へ共
以謀略多くの領主を打亡 栄花身に余ると云へ共 其積悪子孫に報ふて 源五郎(最上家信=最上義俊)殿御代に至て没落せり
彼頼朝父子の古へに不異
家親御行跡宜しからざる由 三浦上総助御諌言申ければ 御腹立有て終に切腹被仰付けり
延沢能登守(遠江守延沢光昌の誤り)楯岡甲斐守(楯岡光直)御一門顔にして御異見無れば 最上家の家の可亡時節至来と見へたり
去れば聖人禍福将に至らんとし善必先知之 不善必先之を知と云り
孔子も国家将に興らんとし必禎祥有 国家将に亡んとし必妖□(けつ=草冠に辟)有と 云り

「信辮手記」等

288 名前:人間七七四年 [2016/11/12(土) 12:45:58.55 ID:ase/33+1.net]
さて、どんな悪い話になるのかw

mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=422388

【お知らせ】歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」

歴史秘話ヒストリア「最上義光と義姫(仮)」

NHK総合テレビジョン

放送予定日 平成28年11月18日(金)20:00〜20:43
※北海道→11/26(土)10:05〜10:48
※福島県→11/27(日)13:05〜13:48
※高知県→未定


「戦国一のワル?最上兄妹の素顔」

戦国一「邪悪」と言われた山形の武将・最上義光と妹・義姫。
しかし新たな史料からその素顔が明らかに。
大河ドラマ「真田丸」と同じく家族・故郷を大切に生きた武将の物語。

NHKオンライン「歴史秘話ヒストリア」より
2016/11/10 10:00 (C) 最上義光歴史館

289 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/13(日) 00:58:06.85 ID:ixMh2+he.net]
イスラム人種差別→撤回
オバマ批判→会ったら丁寧

大統領選までの言動が大人の対応に変わっとるトランプって
斎藤道三に会いに行ったときの織田信長みたいだよな

290 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/13(日) 23:27:31.06 ID:2jXX2utE.net]
支持者は納得してないだろw

291 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/14(月) 00:55:44.29 ID:5M7DLXjN.net]
?東寺観智院密教御朱印の事


 東寺の観智院に、真言密教の疏が百冊入っている箪笥が五百あった。
神祖の命があり
「密教なので門外不出にするべし。
ただし高野はその本なので、ここには送るべし。」
との御書付が今も有るという。
またこの経疏により永伝の料として別に五百石の御朱印を下されたという。
これは普門律師(円通)の語ったことである。

 どうして神祖の御事は何もかもこのように広大なのかと敬感される。
しかし律師が言うに
神祖の命もこのようであったが人情は釈徒も同じことで、
東寺はついに高野に送らず今に及んでいるとのことであった。
(甲子夜話)


東寺と高野山の仲がちょっと悪い話

292 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ.net]
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎、酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)

293 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX.net]
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU.net]
うわあぁ



295 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY.net]
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x.net]
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY.net]
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2.net]
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx.net]
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x.net]
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

301 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/15(火) 23:04:18.80 ID:02+9kijt.net]
甲州伝目つぶし之法?活薬


 会談で、小幡勘兵衛景憲かた伝わる目つぶしの法として聞いた。

『蛍火 山蔭のたにし 青とかげ ムカデ 馬の目〔馬の目をほりとったもの〕
各等分にして卵の中皮?に入れる』

 これは大いに験がある。投げて胸や四肢に当たればそのところはたちまちしびれて、
手は揺らすことができず、胸は気が塞がって身を動かせない。
また鼻口に当ればすぐに絶倒するという。

聞いた話だが、これも甲州の伝で基本信玄から出たものだという。
信玄は毒矢を用いたことはこれと似ている。
またこれに遭った者のための活薬がある。

『塩 ひき茶』

この二物をといてその当った所に塗れば、すぐにその毒気が散って動揺が生じる。
また絶倒したら湯を加えて服させたら回復するという。
(甲子夜話)


信玄がなぜ塩を断たれたら困るのかが分かりますね〜

302 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 08:38:58.73 ID:GV3HsWUU.net]
気持ち悪いものを投げて当たったら塩と茶を塗れとか
小学生かっ

303 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 11:16:58.83 ID:LWmC7QHM.net]
        ::::::::::::::::∧口∧   そうやってなんでも
        ::::::::: ( ::;;;;;;;;:)      信玄の発明にしてりゃいいさ…
          _..  /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''――'`'
 ,,  '''' .  ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ   、、, ''"        
    ,,, ''  ,,,    ::;;;;;;;;;::: ,,  '''''  ,,,,  

304 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 16:34:37.11 ID:WRGo2PvK.net]
いい話の方で軍記物の話が出てましたが、やっちゃった感について一例を。

1609年の薩摩の琉球攻略についての軍記物を「薩琉軍記」と総称して研究が進められていますが、
そのうち、目黒将史「架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻」から。(PDFで閲覧できます)
某板某スレで火葬戦記と評されていましたけれども、これは酷いw

琉球は基本的に異国・異世界扱いで、三国志演義の南蛮討伐と世界観が同じようなものですね。
実情はともかく、日本でイメージされていた講談での中国世界そのまま。

島津勢の総数が10万5873、これがまた一々武将名と軍役を挙げてディテールに妙にこだわってる。
対する琉球は高さ34丈の城門など、4里四方の王都に3万騎の軍勢で守備し、もちろんその他にも
相当数の軍勢です。

戦の展開はもうどうでもいいようなもんだけど、戦後の論功行賞で、薩軍が討ち取った首級が2万9307、
損害が1843とか。

数のインフレも異世界だとあんま難しいこと考えないでいいのかなあ。

立教大学学術リポジトリ  目黒将史 架蔵『島津琉球合戦記』解題と翻刻
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6639&item_no=1&page_id=13&block_id=49



305 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 16:36:05.72 ID:WRGo2PvK.net]
実際の薩摩の琉球攻略の研究では、沖縄の研究者によって最近いろいろと本になったり、歴史雑誌に載せられたりとありましたが、
実のところ史料の扱いに疑義が呈されていたりしますんで難しいものですね。

306 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 18:04:58.30 ID:1rlij8XH.net]
>>304
ちょうど今、沖縄に住んでるので興味深いです。
薩摩藩の琉球侵攻についての入門書的なものご存知でしたら、ご教授いただけませんか?

307 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 19:20:28.25 ID:cznpWbrV.net]
いまの沖縄の人の研究話はそれこそフロイスと同じで話し半分で聞く程度でしかないんじゃ

308 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 20:17:46.41 ID:LDUIBqx2.net]
>>306
とりあえずこれが一番いいと思う

琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀
www.yoshikawa-k.co.jp/book/b214961.html

309 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 20:19:47.78 ID:Iqooltxr.net]
>>306
まず読むならばこれでしょうか。

上里隆史『琉日戦争一六〇九 島津氏の琉球侵攻』

著者の出世作で、島津の琉球侵攻が注目される嚆矢ともなりました。
ところが、戦時の当事者の書いた一次史料だけではなく、後になって政治的思惑や顕彰目的で書かれた文書まで
無批判で取り入れているんじゃないかとの批判が出てきました。

琉球王国〜その真実の歴史
blog.livedoor.jp/neoairwolf/
それを検証したのがこちらのサイトですが、管理人はかなり基地外入った人(本人が自称してるから構わんでしょう)
ですけれども、その論考は確かな説得力があるので評価を得ています。
上記の本を読んでから、サイトに目を通して見ればいいと思います。

それに補足して、>>308も目を通しておけばいいんじゃないでしょうか

310 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/16(水) 23:35:16.70 ID:7/SL5c8d.net]
島津の琉球侵攻って
琉球王朝が元亀年間に奄美に侵攻した逆襲じゃないの?

311 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/17(木) 07:51:37.39 ID:GDJQT7/A.net]
>>310
そりゃ反応遅すぎだろ

312 名前:人間七七四年 [2016/11/18(金) 00:02:23.28 ID:gKlDuncp.net]
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5053.html
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。

関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助をいう者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。

・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。

※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)

(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)

313 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 01:20:52.31 ID:43f1UwnJ.net]
島津の琉球侵攻と関係ないけど小説の琉球処分は面白かった
著者が琉球政府、沖縄県庁の経済や歴史編集役人を経て沖縄県立博物館長だったので
太政官政府より琉球寄りかもしれないが冒頭は寺田屋事件生麦事件に関係した
奈良原繁が琉球へ赴いたことも書かれており面白かった
もっとも幕末の奈良原繁のことは触れず官吏としてしか書かれているに過ぎないが

314 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 09:14:27.63 ID:JKeteUbK.net]
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね



315 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 17:02:34.45 ID:865MJPbR.net]
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ

316 名前:306 mailto:sage [2016/11/18(金) 18:22:17.68 ID:iAUdVKIa.net]
皆様、情報提供いただきありがとうございました。
ご紹介いただいた書籍やウェブサイトに目を通していきたいと思います。

317 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r.net]
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。

318 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR.net]
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ.net]
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB.net]
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny.net]
2ch発祥ネタじゃねえか

322 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/19(土) 00:10:42.32 ID:QQzb0Sra.net]
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。

藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。

(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)

――『当代記』

323 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/19(土) 04:38:09.49 ID:EgHEZ3Hh.net]
裏切りものだからかな?

324 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/19(土) 17:54:19.84 ID:Qu1Fqqy3.net]
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。

ちょw



325 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/19(土) 18:22:16.97 ID:yU1LQAy1.net]
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

326 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/20(日) 00:16:12.28 ID:u73Z9G9W.net]
城地革変甲冑論


 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。

 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。

 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。

 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。

 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)


こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね






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