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■■本能寺の変徹底考察スレA+■■



1 名前:サイコメトリー [2008/06/22(日) 15:50:25 ID:z2hlhln/]

前スレは皆さんに様々な知識やご意見を頂き、本当に勉強させて頂きまして
ありがとうございました。
自分は、支持する桑田忠親説に関して少し固執する所があった事、お許し下さい。

もう語る事無いだろうと仰る方も居るでしょうが、自分としては、もう少し
皆の意見を聞き楽しみたく、またスレ立てしてしまいました。
ここまでの流れとしては、複合説が主流となってきていますが、新たな方の新た
なご意見を求めます。

また、お題にプラスを加えさせたのは、変時の信長の統一構想も少し、語って
行きたいなと思った為です。宜しくお願いします。


132 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 13:36:23 ID:z3EfWzGu]
>>129
天皇譲位を天皇側が望んだ、のは事実のようですが、それは1581の馬そろえの後の話ですよね。
父親の信秀は内裏修理の時にどえりゃぁ金額を納入します、しかし義昭を奉じて信長が最初の上洛をした時に信長は天皇側と
接触をあまりしません。このあたりから天皇側は信長を異質な存在、よ〜わからんでおじゃる、と思っていたでしょう。
で、1573ぐらいに信長から最初に天皇に譲位を提案、天皇もいったんは快諾はします。
このあたりは、「お金は出すなも」「お気持ちは受け取っておくでおじゃる」と最初のジャブ、かけひきであったでしょう。

その後は講和の仲介とかいろいろあったわけですが、信長が無官であったこと、強大な力をつけたこと、安土城を作ったこと
そしてなんといっても誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、などから天皇側がやっぱり信長に脅威を感じていたように思います。
そのギリギリの駆け引きが1581の、自分から譲位を言い出した、ことだと思うのですよね。
「本当にお金をだしてくれるでおじゃるか」と。これはつまり、主と臣の確認というか、かなり天皇側もせっぱつまった状態だったと
思います。

ちなみに馬そろえで天皇が喜んだ、というのも、圧力におびえてたり弱みをみせないための、まさにギリギリのかけひきであった、
そのように思えてしまうのですよね。
史料には友好的に解釈できるようにもあるわけですが、それをそのまま受け取るのは少し危険な感じもします。

このあたりは室町以来の大名、武家、と天皇とのやりとり駆け引きそういうのから判断したりするとわかりやすいですよね。
なんといっても、義満、という前例があるわけですから。

133 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 13:47:38 ID:L8e7nbkC]
>>132
そう言う歴史解釈を「我田引水」と呼ぶ。
自分の考えに沿って資料を解釈しようとすれば、もうどんな解釈だって出来るわけで。

134 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 14:04:04 ID:z3EfWzGu]
>>133
自分の考えなんて恐れ多いことはなくて、いろんな研究者の本なんか見ていてわからない点があるので、
詳しい方にいろいろお聞きしたいだけですよ。
特にここ10年ぐらいの本や説はあまり知らないので、最新研究なんかがどうなっているか、ぜひ知りたいわけで。
決して、自分が正しい、と主張しているわけではないので、間違っている点なんかはどしどし指摘してほしいです。
年号や誤字に関してはご容赦を。

135 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 14:19:40 ID:CD2APO94]
私は逆に天皇及び皇太子が公家以外の権力者にこれほど親密な関係を
持ったのは後にも先にも信長ただ一人と見ていますが
豊臣から徳川時代を経て明治に入り天皇家は初めて織田信長を弔った事実があります
色々な見解があるのでしょうけど豊臣徳川の世で何か理由があり弔う事が出来なかった
単純に織田以外の権力者の世では無理と言う話もありますが天皇家は弔える機会を待っていた
に違い無いと思います
ぶっ潰そうと考えていた野心家を祭る事はありえない←これが言いたいだけね

136 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 14:26:05 ID:pEGeW2yU]
>>132
信長と朝廷は、上洛前から接触持ってるよ。
特に美濃を征服した直後の通称「決勝綸旨」こそが、信長に上洛を促したという
見方もあるほど。

上洛戦のときも入京前に朝廷と使者をやりとりしたり、その後も内裏の建造や朝廷
財政の再建に自ら関わったりと、明らかに将軍と別に直接朝廷と結びついている。

137 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 14:33:40 ID:z3EfWzGu]
>>135
井沢流に言うと、怨霊鎮魂のため、つまり朝廷黒幕説、になってしまうわけですね。
と、これは冗談ですが、信長が何を考えていたかもはや歴史の謎でして、本当に天皇家をぶっつぶそうと
していたのか、これはともかく野心家であったことは間違いないでしょうね。

入鹿、高、義満、信長、と天皇に匹敵する強大な権力をもったのは、ぎりぎりのところで
みんな殺され又は死んでてますよね。
半村良の「ネがでた」とはまさに言いえて妙、ってとこですが不思議なものです。


138 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 14:49:05 ID:z3EfWzGu]
>>136
どもです。ちょっと書き方が未熟で申し訳ない。
朝廷と接触していたのは知ってますが、上洛時に天皇には謁見してませんよね。
もし、天皇側から上洛を促すようなら当然謁見の機会はあったでしょう。
にもかかわらずそうしなかった理由がわからなくて。
単に「よくわからんでおじゃる」なんですよね。

上洛してしばらく、公家さんたちが信長の下にみやげを持ってワラワラやってきます。
その時に信長は義昭を同席させなかったりで、ちょっと舞い上がってるフシはありますよね。
義昭から見たら「主役はわしじゃ」と不快だったでしょう。
このあたりまでの信長は朝廷と将軍家の良いパトロンであったでしょうが、このあたりから
さらに上を見始めたというか視界が広がったというか。
決して天下を狙ったという意味だけではなく、地方の成り上がり大名がいい気分になっとる、
そんな人間くささを感じるのですよね。

139 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 15:33:24 ID:LkUTuIv1]
だから、変には朝廷関係
ないから!

変について語ろうよ。

140 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 15:49:11 ID:aTo34+Km]
「変には朝廷関係ない」ということを証明するためにも、
当時の朝廷の問題を語るのは問題ないと思うけど。

他に語りたい話題があるのなら、自分で話題を提起して議論を誘導すればいいよ。



141 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 16:00:06 ID:L8e7nbkC]
光秀の立場に立って見ると、反乱の「成功」は畿内の軍事的空白状態から言ってある程度見通せたと思うのだけど、
一歩進めて反乱の「成立」、つまり信長を倒すことはあくまで手段であり、信長権力の崩壊後、自分を中心とした
体制(天下政権にせよ割拠政権にせよ)を作り上げることが目的だったはずなのだが、光秀はそれに関しては
どういう見通しを持ってやっていたのだろう?「それを提示する暇も無く滅んだ」と言われるとそうなのかもしれないが
光秀の反乱は、どうもそのあたりが見えにくい。

142 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 16:23:09 ID:KhO54fGh]
そういう見通し、事前準備がみあたらないことが、突発的犯行、の根拠になってるのでしょうね。
ただ、結果を知ってるからそう言える訳で、光秀からみたらやっぱり回りは猿や野蛮人やアホ息子にお坊ちゃん2代目、
こんなだったら自分が中央は押さえられると普通に考えていたのでしょう。
四国とはうまく行ってるし、毛利とは講和を結ぶだけ。
自分が将軍になれないまでも割拠政権の中央を押さえているというのは大きい、そのぐらいまでは思って
いたのじゃないのかな。

ただあまりに回りをナメすぎというか、実質上何も考えてなかった、のは事実ですけど、10日ちょっと
で猿にやられるとはびっくりしたでしょうね。
「是非におよばず」は光秀にも似合うなも。

143 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 16:42:00 ID:KhO54fGh]
>>130
連続で悪いけど、そういう大喜びしてるなんとか、というのには大賛成ですね。
新興ブルなんてもんじゃなくて、もっとロコツに、味噌カツで一発当てて東京進出した社長が銀座で
チヤホヤされて舞い上がってる、そんな風に思えますよ。
なんだけど、だんだん自分がカモにされてることがわかってきて、ちゃんとそれに気づく
このあたりは単なる田舎もんじゃないとこですよね。

右大臣をやめた、というのも、東京銀座商店街の副会長に任命されたんだけど、「バカにされとるだけじゃにゃぁか」と
気づいて「こんなんやめたるがや」ってね。
そうしてみると信長と朝廷の緊張状態とは案外情けないレベルだな。

自分が名古屋だもんで、東京行って「言葉が変」なんていっつも言われるから、よ〜くわかるんだ。

144 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 17:04:56 ID:aTo34+Km]
>>143
勝手にお前如きと重ねあわされて共感されても、信長も迷惑だろうなw

145 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/26(木) 17:37:53 ID:QdOuaZD7]
>>139
>だから、変には朝廷関係ないから!
京都馬揃えについてあと一言いわせて。
本来、左義長とは小正月に行われる伝統行事で、内容は今日の「とんど焼き」と同じ。
しかし、信長は左義長を独自にアレンジした。
「信長流左義長」とは、陣列を組んだ馬で行進し爆竹で囃し立て、馬を走らせるというもの。
「信長公記」で「爆竹」の表記に「さぎっちゃう」とカナをふっていることで、それは証明さ
れる。(以上、宮本説より引用)
換言すれば、信長流左義長(とんど焼き)とは馬揃え+爆竹、をいう。
あとは>>129でカキコした通りだが、京都馬揃えが今日の軍事パレードを想起されるのか、朝廷
を威圧したとかいう論者がいるが、かかる解釈は馬揃えの外形に拘泥し、馬揃えが信長流とんど
焼き(の一部)っていう本質を看過したものであるというのが、私の見解です。

>>141
>光秀はそれに関しては どういう見通しを持ってやっていたのだろう?
>>5でも指摘されていたが、細川親子あての文書では「50〜100日で近国を平定できる」
といっている。近国とはおそらく近畿・美濃あたりを指すと思われるが、明智自身は
かつての三好氏・細川管領家のような「天下」を望んでいたのかも知れない。
もしそれ以上の領地拡張を望んでいるなら、同文書で「息子にあとを委ねたい」なんて
呑気なことはいえないと思う。
なお、同文書は花押がおかしいから偽書だって立花氏が言っているから、根拠としては薄弱
かも知れんが。

146 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 17:41:30 ID:L8e7nbkC]
>>145
> なお、同文書は花押がおかしいから偽書だって立花氏が言っているから、

立花氏の資料の読み込みは全く信用できない。

147 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/26(木) 17:54:53 ID:QdOuaZD7]
>>146
禿同!あの本なら、八切本のほうが夢があっていいな。
でも、女史は光秀の花押の年次比定研究ではいい仕事やってたんじゃね?

148 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 18:12:33 ID:pEGeW2yU]
>>138
上洛時に謁見の機会ならあった、以上。

>信長は義昭を同席させなかったりで、ちょっと舞い上がってる
何でこれが舞い上がってることになるのか判らん。

149 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 20:26:40 ID:a58o/NXS]
余りにも羽柴秀吉が早く帰ってきたのが、最大の明智光秀の誤算だったと思う。
すぐ側に四国遠征軍がいるじゃないか、という指摘が散々されているが、トップは神戸信孝で、独立した1万以上の軍勢を率いたことはない。
補佐役として、丹羽長秀、津田信澄、蜂屋頼隆が付いているが、皆、独立して軍勢を率いた経験は無かった。
私が調べた限り、1万以上の軍勢を独立して率いたことのある本能寺の変の当時の織田家の家臣は、柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀位。
そして、津田信澄は自らの娘婿である以上、神戸信孝らに敵視され、自らに味方せざるをえなくなる以上、四国遠征軍は分裂必至と読むのはおかしくない。
そして、軍勢を率いる能力は、自分の方が上である以上、自分が勝つと考えるのは、明智光秀の立場に立てば、そうおかしくない。
羽柴秀吉は信長に援兵を求める苦境にある、柴田勝家も上杉が足止めするし、すぐには戻ってこれない。
そうなると、四国遠征軍を打ち破れば、筒井、細川も嫌でも自分に味方する、と明智光秀は考えたのだろう。

結果として、羽柴秀吉が早く帰ってきて失敗したのは事実だが、純粋な野望説でも、そう無理なく成立する余地はあると思う。

私としては、四国政策破綻と自らの老いからくる将来の不安の方が大きいとは思うが。

150 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 20:42:06 ID:L8e7nbkC]
津田信澄は敵通云々ではなく、信長の跡目争いの競争者になると見られて殺された、って説もあるな。



151 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 21:12:27 ID:Qfj0IZbT]
だが純粋な野望説だと、何故信忠も油断無く殺害しなかったのかという疑問が残る。信長、信忠の二人を殺害しないと乗っ取りにならない。信忠が死んだのは偶然が大きい。

152 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 21:15:28 ID:LkUTuIv1]
149
対毛利、秀吉は苦境にたってないが、基本的には野望+将来不安って所ですね。
俺も畿内掌握野望なら同調します。老いを気にしてって所は‥‥。

153 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 21:38:34 ID:/m/YOZuI]
151
そこよ、そこ。全く同意。そこが野望説の難点。

用意周到さを画に描いた様な光秀らしからぬ所。

154 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 21:40:47 ID:L8e7nbkC]
でも結果的に、大物で逃したのは家康くらいで光秀大成功。

155 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 21:51:27 ID:LkUTuIv1]
光秀よりの考え方したら、信忠の情報把握してたかもね。

156 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 21:52:41 ID:4k7Vhr0p]
149だが、追加。
信忠は、当時、京都にいた。
光秀としては、ほぼ同時に二人を襲えるように計画していたのだろうが、夜間行軍による軍勢の乱れから、時差が生じ、信忠は逃げようと思えば逃げられる状況になってしまったのだと思う。
当時は、伝令を走らせるしか、戦場での通信手段はなく、事前の計画と手筈が狂うのはよくあること。
信長の生涯を概観しただけでも、金ヶ崎の退き口等、信長が危うく命を落としそうになったことはある。

谷口説だと、光秀は67歳、通説でも55歳、今ならともかく、当時としては、そろそろ隠居してもおかしくない。
若いころなら、また別のところに仕官して、とか楽観できるが、老齢の身で、佐久間のように追放されては、下手をすると野垂れ死にしかねない。
四国政策で失敗した、佐久間のように追放され、貧窮の末死ぬかもしれない、それならいっそ、大ばくちを打ってやる、と光秀は考えたのだと思う。

157 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 21:54:33 ID:Qfj0IZbT]
信忠が妙覚寺から二条御所に場所を移せるって時点で光秀の大失態。それが事実。

158 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:11:16 ID:L8e7nbkC]
>>157
妙覚寺から二条御所って同じ洛中の中のたいした事の無い距離の移動が、そんな重要かねえ?

159 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 22:14:54 ID:Qfj0IZbT]
>>158
重要。信忠側があの光秀なら検問もぬかりなかろうと勝手に勘違いして討ち死に覚悟しただけで、逃げようと思えば有楽みたいになんぼでも逃げれた。

160 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:14:59 ID:aTo34+Km]
最低限信長だけでも殺しとけば、なんとかなると思ったんじゃない?
信忠ごとき、信長さえ殺せばなんとかなると。
家督継いでるとはいえ、まだ信長あっての信忠なんだし。
逆にいえば、信忠は逃がしてでも、信長だけは確実に最優先に仕留める必要があったと。



161 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 22:16:57 ID:Qfj0IZbT]
>>160
信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

162 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:27:52 ID:L8e7nbkC]
>>161
> 信忠がいれば信忠を頭にして家中がまとまるんだから何ともならんと思うよ。

織田家中の内実を嫌ってほど知っている光秀がもし、「信忠はどうでもいい」、と考えていたとすれば、
それは現代の我々の信忠に対する認識を大きく変えないといけないな。

信忠が逃げても、信忠では織田家はまとまらない。との認識があったのかも知れないぞ。

163 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:28:54 ID:aTo34+Km]
>>161
だからその「信忠を頭にして家中がまとまる」という根拠も無いよね。
信雄や信孝でもできなかったわけだし。
嫡子というだけで、隔絶した実力・声望があったのかな?
少なくとも、信長とはまだまだ格段に劣ってたとは思うけど。

164 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:37:51 ID:L8e7nbkC]
信忠は武田攻めの時の突出などで、信長についている家臣団からは反感を持たれていたって事は
ある程度想像できるな。「お世継ぎが手柄立ててどーする気だよ」みたいな。
そこからはプラス方向にもマイナス方向にもいろいろ想像できるw

165 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 22:38:12 ID:/m/YOZuI]
有楽等はなから眼中になかろうて。

信長殺しちゃえば、信忠なんてって発想は分からなくもないが、敵の嫡男は例え乳飲み子でも排する時代だからね。お市の嫡男がどうなったか知ってるでしょ。

166 名前:秀吉 mailto:sage [2008/06/26(木) 22:58:16 ID:49XG5lKY]
高松で遊んでる振りして、
ちょっと京でやっちゃった。

信長油断しすぎwww

167 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 23:11:00 ID:pEGeW2yU]
>>163
信長との実力差はこの場合関係ない。
信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。

「その後」の信忠と政権がどうなるかは未知数ですよ?もしかしたら天下統一できた
のかもしれないし、どこかでヘマして滅んだかもしれない、柴田や羽柴らが能力を
見限って大分裂してしまうかもしれない。
しかし、光秀を滅ぼすまでは、信忠の元に一統される。これははずれようがない。

168 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 23:33:44 ID:aTo34+Km]
>>167
>信忠を見逃したら、当然織田の諸将は信忠の元に集って光秀を滅ぼす。
だから、その決めつけにどれほど根拠があるのかを疑問としてるんだけど。

>信長との実力差はこの場合関係ない。
当主が急に討たれ、実力に隔絶した差がある後継者が残されたとしても、
「この場合関係ない」と言い切れるの?
織田政権なんて、急速的に膨張したものだから、譜代の臣なんてごく一部。
10年そこらの付き合いの近畿地方の諸豪族とか相手に、
信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

169 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/26(木) 23:43:33 ID:L8e7nbkC]
>>168
> 信長個人はともかく、織田家自体にそれほど求心力があったのかな?

だね。織田家と信長権力はある程度分けて考えたほうがいい。
幕府のような政権組織が出来ていない以上、信長のたがが外れると、信忠は濃尾の太守に過ぎないと言う
考え方も出来るわけだし。

170 名前:人間七七四年 [2008/06/26(木) 23:55:10 ID:/m/YOZuI]
信忠がいくらボンクラでも、当主である事には変わりはなく、いくら戦国時代とは言え、おいそれと失脚させる事など出来ない。(あの当時)

ましてや、信孝・信雄と比較する事もおかしい。本人の能力とは別に嫡男ってだけで内外での立場が違う。無能でも嫡男に生まれただけで、当主となる世襲は、幕末まで続いてるのよ。



171 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 00:10:04 ID:lHPj6x+T]
170に同意。
信忠健在なら、秀吉は台頭出来ないと考えるのが普通でしょ。

それに織田家の求心力希薄って言うけど、信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

信長の仇も取らずに各武将が自領に篭り割拠状態??

考え過ぎだと思います。

172 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 00:29:30 ID:k15dXYE4]
>>168-169
光秀の内心の動機がどこにあったかは不明だが、史実として、光秀は信長を倒し、
信長に取って代わることを行動で示した。(それが当初からの目的だったのか、
信長を倒してから生まれた目標なのかはともかく)

つまり、残された織田諸将に対して、光秀は「信長に代わって、これからは俺に
従え」と宣言したようなもの。織田諸将としての選択は二つ。光秀の天下を認めて
従うか、認めずに敵対するか。認めない場合は光秀を倒すしかない。この時に誰を
旗頭にするかといったら、信長の遺児しかないわな。それがすでに成人した嫡子で
軍事力も持っていて実績もあるのなら選択の余地はない。

仮に、この機会を捉えて独立なんて野心を抱いたとしても、まず光秀は倒さなければ
ならない。光秀を認めることは、光秀が信長にかわって自分の主君になることを認める
ことに繋がるのだから。(そんなことを認めたら独立もなにもない)

羽柴とか柴田とかが野望に駆られてか信忠の器量を見限ってかはともかく、織田政権に
反逆をするのなら最低限光秀を滅ぼしてから。

173 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 00:31:57 ID:62SP3iBs]
>>148
なので機会があったのにもかかわらず、謁見してない、のが「よくわからんでおじゃる」なんですよ。

で、主はあくまで将軍義昭なのにもかかわらず、信長の方が主みたいに振舞ってしまったわけですよね。
公家さんたちから見ると、お金持ち信長、にへつらってしまったわけだけど、そこは信長が義昭に
気を使ってあげないと。
このあたりが田舎もん独特の舞い上がり方に通じる、そのように思ったわけです。
ささいなことですけどね。

174 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 00:46:48 ID:62SP3iBs]
数日前は、信忠が生きていたら秀吉は単なる1武将でしょ、みたいな意見が多かったみたいだけど、
170、171さんみたいなね、やっぱりそれも可能性のひとつであって、まず間違いない、
みたいな考え方は少し信忠と織田家自体を高く評価しすぎのようにも思いますね。

本能寺を聞いて一番近くにいた丹羽&信孝の兵が逃げ出してしまったように、織田家は信長の強力なカリスマ性に
よるところが大きいですから、変の後に信忠がどの程度まで家臣団をまとめることが出来たか。
要は信忠の能力論になってしまいますけど、お坊ちゃん武将であったでしょうし、本能寺の時に
逃げ出してないのがその限界、というか。

で、秀吉の不忠さ悪逆さを思うと、相当なんかやらかしてたんじゃないか、というのがかえって普通のようにも
思いますけどね。

175 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 00:51:57 ID:62SP3iBs]
>>146
ちょっと教えてほしいのだけど、京子ちゃんのあの「天正十年夏記」だったかの読み方、
結局どうなりました?
主語が天皇側ではなく、村井にあるって言うの。
確かにあれで180度方向性が変わってしまうから最初に出た時はかなり驚いたのですけど。
よろしく〜。

176 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 00:56:14 ID:slnpkwQm]
>>175
答えから言えば、結論出てません。

いまだに諸説入り乱れている感じだけれど、基本的には朝廷と村井との交渉の過程で出てきた
素案、って感じでは、ある程度意見は一致されているんじゃないかな?

177 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:04:23 ID:62SP3iBs]
>>176
なるほど、ありがとう。
で、思うけど、新説に少しでも問題点があったらそこをつっこむのがそれまでの「定説派」。
にもかかわらず結論が出てないと言うのは、かなりいい線いってるということですかね。

京子ちゃんは資料の読み方というより結論に難点があるのではないかな。


178 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:13:34 ID:62SP3iBs]
連続で悪いが、サッカはじまるまでひまだもんで。

>>145
馬そろえで、朝廷威圧説、というのは決して今日の軍事パレードからの想起ではなくて
それまでの信長の行動、朝廷との関係、そこから導き出されたものです。
なので、失礼ですが、信長流左義長と言ってその行事性や細かい内容にその意味を求めるのは
少し方向性が違うのではないか、そのように信長ー朝廷友好説には疑問を感じております。
あくまで私見なのでご容赦を。


179 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 01:20:24 ID:rH1JPeZh]
>>169
あなたにとって戦国時代とは北斗の拳のモヒカンのような世界なのでしょうね

180 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:24:57 ID:62SP3iBs]
>>179
例えるなら北斗の拳より花の慶次が適切では。





181 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:30:38 ID:k15dXYE4]
>>178
それまでの信長の行動や朝廷の関係って、例えばどんなところが、対立していると
判断しているんですか?
おそらく、あなたが考えているそれらは、現在は否定されているようなことばかり
かと思われます。

すでに出ていますが、馬揃えは天皇の要望で行われたもので、後日に忌みで見学
できなかった東宮の希望で、規模は縮小したがもう一度行われています。さらに
このパレードには公家衆も参加しています。

天皇は威嚇されるためにわざわざ要望したんですか?脅迫行事に公家も参加した
のですか?

182 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:48:23 ID:62SP3iBs]
>>181
前にもちらほら出てますが、1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、
誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの
管理下からはみでようとした行為ですよね。

天皇からの要望、というのも、まさにギリギリのかけひきだったと思いますよ。
威嚇されるため、というより、承知で臣下の順をこちらから言い出した、こちらが主であり
信長は臣である、言うこときくがよいでおじゃる、ってね。

現在否定されている、というのに関心があって、本なんかだと質問できないので
こうやって疑問をカキコして、教えて頂けるととてもうれしく思います。


183 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:49:24 ID:slnpkwQm]
>>177
つーか、あくまで読み方の問題でしかないから、解釈次第でどうとでもなっちゃう。

184 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 01:55:02 ID:62SP3iBs]
>>183
あ、そか、読み方ってそういうことね。
でも京子ちゃんは一応用例なんかを細かく調べてそこから結論
出してるわけですよね。
村井が主語のほうがより確実であろう、って。

ま、あんまり言うとこっちがヤバいかな。

185 名前:163 mailto:sage [2008/06/27(金) 05:47:48 ID:zT9wAJ9c]
昨日のID:aTo34+Kmだが、一部どうも話が妙な方向にいってそうな気がする。
俺が疑問を示してるのは、信忠への対応の遅さを大失態とみなし、
信忠も確実に殺さなければ織田家乗っ取りは成り立たず、ひいては野心説への否定にまでつなげている点。

それに対し、光秀にとっての重要度は、圧倒的に信長>信忠であり、等価とはみなされず、
最悪信忠を逃がしてでも、確実にまず信長だけは仕留める必要があった。
その光秀にとっての優先度の差じゃないか?という反論の提示。
そりゃ、信忠も同時に殺せたらベストなのは間違いないが。

>>171みたいな「信忠健在なら、秀吉は台頭出来ない」とかは全く別問題。
大軍を擁した実力者はみな地方で大敵にあたり、早々戻ってこれないはず。
というのが光秀の勝算の一つと考えられるよね。
その状況で仮に信忠が逃げたとしても、信長さえ討てば勝算ありとふんだとは考えられない?
実際のとこ、摂津諸将が秀吉につかず、筒井が旗幟を不鮮明にしたのも、
織田家の威光じゃなく、秀吉という実力者の、予想外の早期帰還だったよね。

186 名前:163 mailto:sage [2008/06/27(金) 06:08:37 ID:zT9wAJ9c]
>>171
>信忠の元以外に結集する所、他に誰ん所行くのよ?

だから、それは単純に明智につくという選択肢じゃない?
繰り返すが、尾張時代からの譜代の臣なんて、急激に膨張した織田政権ではごく一部
上洛以降、織田家の(信長の)勢力に服した、せいぜい十年程度の付き合いの豪族も多数いる。
そうした連中が、信長の死後、織田家という名分よりも、光秀という実力者に鞍替えしてもおかしくない。
というか、そう光秀が読んでたとしてもおかしくないんじゃない?

187 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 06:58:50 ID:effBV0k7]
>>181
>馬揃えは天皇の要望で行われたもので

実際には天皇が要望する以前に信長は光秀にその指示を与えており、
前久(信尹か)を介してそのように仕向けたというのが真相だと思われます。

また、『お湯殿の上日記』によれば親王もそれを楽しみにしていたことが窺われますが、
果たして当日の演出(信長を住吉明神にも中国皇帝に凝らす)を天皇を素直に喜んだかは疑問だし、
二回目の馬揃え(※親王が望んだものではありません)の様子(朝廷側)はとても牛一が『信長公記』に
記したようなものではなく、『お湯殿』の記述も素っ気無く、またそれを親王がお忍びで見学したのは、
興味はあったが正式に見学することを「良し」としなかった(※)ものと見られます。

二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。

信長は、先に親王の五宮を猶子とし尚且つ二条御新造を贈っおり、また今回、譲位の件を持ち出すことで、
朝廷に対して自らの立場(真の上位者が信長であること)を認識される目的があったと考えられます。

188 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 07:19:16 ID:16wxOwQG]
信忠が京都から結果的に逃げようと思えば逃げられたのは事実だが、その後を光秀軍が追いかけないというのは考えにくい。
なぜなら、信忠は、信長の跡取りであり、逃がしたのでは、反明智の旗印になる。
確かに有楽は無事逃げているが、それは、有楽の重要性は低く、光秀軍が追いかけなかったから。
史実と異なり、信忠が京都から逃げ出し、光秀軍が追いかけ、山科あたりで信忠が殺されていたら、このスレでは、京都でなぜ正々堂々と信長の跡取りらしく死ななかった、と叩かれていたような。

189 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/27(金) 10:19:48 ID:NkNOCKW3]
>>187
>二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての
「駄目押し」であった観があります。
堀新が指摘しているが、さらなる「駄目押し」するならば、より権力が増大した天正10年の小正月にも京都馬揃え
をするのが効果的だが、天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

>>182
>1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、
>これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの 管理下からはみでようとした行為ですよね
譲位するならば、即位礼・大嘗祭を挙行する必要があるが、戦国天皇家は式微で大嘗祭を省略
しても即位礼の費用をねん出すらできなかった(そのせいで、戦国期最後の譲位を受けた土御門
天皇の即位礼は22年遅れでなされたのが実情)。
同天皇譲位後100年間にわたり、譲位できないという異常事態が続いていた。
1573年に信長が譲位の申沙汰(費用負担)した際に、信長宛の天皇自筆消息において「朝家再興の時
いたり候」と喜びを表している。
しかも、その後朝廷は天正3年・4年に礼服風干を行って、即位礼にそなえている。
なぜ、天皇が譲位を喜んだのかは、中世天皇の「上がり」は「治天の君」すなわち上皇になることが
常態だったからである。
また、無官になったのは天皇からみれば気味が悪いが、無位ではない。
しかも、右大臣辞任の際に、天皇側近である広橋右中弁宛てと勾当内侍宛てに辞任理由をいくつか述べ
ている。それぞれの理由は異なるが、両名宛ての辞任理由で唯一共通するのが「信忠の顕官起用」。
堀氏はこれが信長の本音だといっている。
いささかスレチになるが、「信長は朝廷のくびきを超越した」って論者があるが、そうであるならば、
甲斐平定後に信長が「天下の御与奪」を与えた信忠も中将を辞任しなければならないことになる。
なぜなら、この時点をもって信忠は信長にかわって朝廷のくびきを超越する必要があるからである。
しかし、そのような事実は存在しない。



190 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 11:19:32 ID:ik12Xl7m]
uproda11.2ch-library.com/src/1196743.jpg

ξに。。、こξ<結局あたしは酒#(木イ主野)リ奈40歳あきる野・羽村・一の谷小&西中卒左官嫁255アナル
mamono.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1214362463/



191 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 14:26:51 ID:68RTaodo]
信忠健在で、明智に付く武将が居るとは思えない(すぐに)
実力は確実に光秀の方が有る事は皆分かっていても、付く事が出来ないのが実状。いくら戦国時代でも主家を重んじる武将の方が多い。松永久秀がごとき武将は稀だよ。

192 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 14:42:19 ID:xPPxxPnm]
まさか陪臣VS譜代+織田の構図になると思っていたのかな
北陸方面軍以外の武将ら家族は光秀から距離が近く捕らえ人質に出来る可能性も
違うか

193 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 15:16:50 ID:slnpkwQm]
信忠の息子の三法師(秀信)だが
秀吉がつけた家臣が家老以下ぞろりと旧六角家臣なのは何故だろう?

194 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 15:30:30 ID:bboqjoNW]
     ●-、
    r´ - ●
     ` =='\
      |    ヽ
      UUてノ

195 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 16:44:58 ID:ZYdHcgbo]
冬広さま、レスどうも。
で、堀新のその説にどうしても疑問があるのでぜひ教えてほしいところです。

1573の時点では確かに天皇は喜んだでしょうが実際には退位してませんよね。
もちろん理由はいろいろ言われていますが一番重要なのは、退位しなかった、という
事実と思うのですよね。

1581に話がとびますが、馬そろえ、翌日天皇は信長に左大臣申し入れ、信長これを拒否、
ここで緊張状態がうかがえます。
数日後2回目の馬そろえ、これがあまり盛り上がらなかったのは187さんの指摘通りで、
まさに信長と天皇側の関係をよくあらわしていると思います。
数日後天皇は2回目の左大臣任官提示、これに対する信長の返事は「譲位をしたら左大臣をうける」
です。
これは、信長が天皇に譲位をせまった、という解釈をしたいのですが。
さらに、朝廷は公卿会議を開く、これは普段参加しない身分のものまで参加させた
異例の会議です、の結果、やはり譲位を拒否します。
天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。

その理由も、方角から年が悪い、などという苦しいもの、これを信長は打ち破れなかった、
みたいな本がよくありますが、まったく逆で、翌年にはこの理由は使えない、本当に苦しい
天皇側の言い訳、相当困っていた、に思います。

ちなみに、翌年本能寺ですが、決して黒幕説とかにもって行こうとするのではないので
安心してくださいね。

そして、このあたりが重要ですが、馬そろえの前年、誠仁親王が二条城に移されます。
これはどう見ても、人質、というと言葉は厳しいですが、信長の手中におさまった、そのような
これも駆け引きのひとつだったでしょう。
もちろん、史料では「朝廷側は喜んだ」とかあるでしょうがそのまま受け取るのはその
意味内容性をよく理解していない表面的なものに思います。

つまり、信長は天皇に譲位をせまりその準備をちゃくちゃくと固めていった、猶子問題も
そうですよね。
そしてその延長上に馬そろえがある、そのように思います。
翌日天皇が左大臣任官を申し入れしたのも、馬そろえの礼、というのは表面上で
信長の意図に気づいていた、というように解釈したいのですよ。

黒幕説や簒奪説にまで話を広げる気はありませんが、信長ー朝廷の関係は
決して友好ではない、対立とまではいかないがある意味の緊張状態にあった、
こういう最新の定説、とお聞きしました、をこのように理解しております。



196 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/27(金) 18:27:33 ID:KrqzIiLY]
>>195
>天皇が譲位をいいだした、友好関係にあった、のならどうして拒否し続けるのでしょうか。
「真説 本能寺の変」(集英社 2002.2)の堀新氏の稿の受け売りなんですけど、ここらへん
の流れは、
信長:馬揃え→
朝廷:お礼としての左大臣推任(勅使派遣)→
信長:譲位・親王即位を条件に受諾→
朝廷:金神を理由に延引 です。
もし、信長が馬揃えをしてまで譲位を求めるならば、再度何らかの信長サイドの申し出があって
も不思議ではありません。しかし、信長はここで交渉をやめています。
堀氏によると、これはすべて左大臣推任を断る方便だという理屈です。朝廷が二度も勅使を派遣
させるような交渉の継続をすると、(回答は左大臣任官拒否なのに)朝廷の顔の泥を塗るから、
朝廷に配慮したのです。金神だと朝廷のメンツが立ちます。
なぜ、左大臣を拒否したのかは、信忠の顕官起用の布石のためです。ここで信長自身が左大臣に任官
すれば、その先に太政大臣への累進がなし崩しでなされるおそれがあり,信忠への官位移譲の意味がなく
なるからです。続きは上記文献でご確認ください。
一言でいえば、拒否したのは信長で、左大臣になりたくなかったのです。

以下は私論ですが、三職推任問題で信長がこれを拒否したのも、信忠のためだと考えています。
>>189でちょっと触れましたが、天正6年に右大臣を辞任したのは信忠にしかるべき官職への任官
をさせるためで、それを望むのは家督を相続した信忠が織田家当主として相応しい官職をうるこ
とで、代替わりを志向していたのではないかと考えています。
1577年に、信忠が正三位・信雄が従四位に累進し、位階をみれば公卿・非公卿との差異はありま
すが、官職はいずれも中将で同一です。これでは82年に「天下をお与奪させた」信忠の官職として
はあまりにみすぼらしいものだと思います。
ところが、81年の左大臣推任でも信忠への累進の沙汰はなく、82年も状況は同じです。
もともと、自身の官職累進に興味のなく信忠の顕官起用を望む信長に、朝廷はひたすら信長への
顕官復帰を運動していたのです。
私見における公武の対立とは、信忠の顕官起用VS信長の顕官復帰 だと考えています。

じゃ、なんでズバッと「信忠を大臣にしろ」っていわなかったのか?
私見の最大の欠点です。

197 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 19:27:03 ID:zQYi6zNr]
>>196
冬広さん、レスどうもです。
堀新への質問みたいになってしまいますけど、189の上段、なぜ天正9年だけだったか
というのもまさにこの年に緊迫したやりとりがあったからで、10年の馬そろえはそれこそ単なるお祭り
だったでしょう。
それを生母とか結びつけるのは少し方向がずれているように思います。

同じように189の下段での質問なんですが、信忠への顕官というのは単にそれこそ
建前でしかないように思います。信長は息子への官位を天皇に頭を下げて望んだ、みたいな本も
見かけますが、こういうのも本質を見誤っているように思います。

右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
冬広さんも言っておられますが、信長ぐらいになると官位はいつでも信忠にあたえることはできたでしょう。
大事なのは、朝廷から見て「信長を」臣としての立場におくことなわけです。
家督を譲ってあった、というのもあまり意味のあるものではなく、信長自身を警戒した、
そのように思うのですよね。
堀新がどうして、信忠への顕官、とか信忠にこだわるのか不思議なんですよね。
あくまで信長の問題であるというか。

その傍証ですが、誠仁親王のの皇子を猶子にした、これがあげられますよね。
譲位とはつまり誠仁親王を天皇にすることです、そしてその皇子が自分の猶子、ということは
誠仁天皇をすぐまた猶子に譲位させる、そうすれば信長自身が天皇の外祖父になれますよね。
もちろん猶子には自分の娘を嫁がせ、その子をにまた譲位させるわけです。
これ、藤原家の得意技、日本史では定番の作戦です。

信長がそうしようとした証拠云々ではなく、朝廷側がどう思ったかです、信長の猶子問題を。
さらに上記のごとく誠仁親王は二条城で信長と親しい関係にあります。
こういった点には堀新はあまり触れません。
あくまで「信長はそんなこと考えてないでしょう」の一言ですませてしまいますよね。
こういう点をぜひお聞きしたくてね。
信長の行動、というのを順にみていくとそういう状況は事実としてあるわけですが。

さらに言うと、晴良の嫡子に養女を嫁がせる、前久の嫡子の元服にも「信」の字を与えるなど、
信長は朝廷への工作を続けています。
信長と天皇との書簡を見ても天正のある時期から突然増え始めます。
このあたり、信長と朝廷の関係は複雑ですが、信長は一環して、東大寺切り取り、のような
武威をはっきりしています。

こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって、友好的なのは一種の社交辞令、
そういうものにすぎない、そのように思えるのですよ。


198 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 20:12:40 ID:k15dXYE4]
どんな議題であれ、朝廷論を進めるときに、まず前提として把握しておかなければならないことがあります。

それは、朝廷を構成する天皇と公家は一枚岩ではない、それぞれ対立している存在だということです。

公家同士はいうまでもない。官位や所領を巡ってずっと争い続けています。単に武家と違って軍事力がない
ので、表立っての争い(合戦)にならなかったというだけ。そして天皇と公家同士も当然、単なる主君と家来、
公家は天皇に絶対服従なんて関係ではありません。

信長と天皇の関係とか、本能寺朝廷(天皇?公家?)黒幕説などの時に、この事実が無視されて、何故か天皇と
公家は一体、朝廷は一つの勢力と看做して議論が進められますが、その時点その持論はもうあてにならないと
思います。

もう一つあげると、天皇個人と争うことと、天皇と制度というか身分というかそのものをどうにかしようと
することは当然ならが別のことです。
日本史上、武家であれ公家であれ天皇個人と争ったものは枚挙に暇はありませんが、彼らはあくまでも天皇
個人と対立したのであって、天皇制自体を消そうと考えたのは、仮説が正しければ義満だけです。
信長だって同じです。史料の読みようによっては、天皇と正親町天皇は争っていた関係とも言えます(私自身は、
両者は仲がよかったと考えていますが)。しかしそうだとしても、信長は正親町天皇個人の勢力と戦っていたので
あって、それで即天皇制自体を、朝廷そのものをどうにかしようと、朝廷に関わる全てを敵に回していたと
看做すのは暴論です。仮に信長が正親町天皇の譲位させ実権の喪失を狙っていたのだとしても、それで困るのは
正親町天皇とその近臣で、他の公家は別に困りはしません。新しい天皇て実力者(織田)のもとで、なるべく
高いポストを狙うだけです。

199 名前:187 [2008/06/27(金) 20:16:36 ID:hQatjbHR]
>>189
>天正10年は安土馬揃えしか行われていない。
>なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。
>前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。

確かに「親王生母の死去」は、朝廷と信長の双方にとって京で「馬揃え」を行うに
尤もな口実になったと思います。ただそれ以前の問題として、本願寺との和睦を巡って
親王と信長の間には「腹立ち事件」とも呼ぶべき意見の対立が起きており、その意味でも
信長には親王に釘を刺す必要があり京での「馬揃え」が行われたのだと考えられます。

ちなみに「金神」を持ち出したのは信長側からだとする見方もあり、天正元年のそれも
言い出した信長の都合で延期(立ち消え)となっており、譲位、即位も朝廷の希望のままには
為らないのだと云うことを示す必要が信長にはあったものと考えられます。

その意味では天正9年の「馬揃え」でその目的は達成されており、わざわざ翌年にそれを再演
する必要がなかったのでしょう。

200 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 20:17:48 ID:k15dXYE4]
ところで>>197あなたの主張は中世の天皇の在り様からだいぶかけはなれた天皇像をもとに推論を建てていると思います。

特に天皇の意思と発せられたことや、天皇と信長との関係に対立ないと推測できるような史料を、全て「表向きそう演じて
いるだけ」と切り捨ててます。根拠なしに。



201 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 20:22:34 ID:slnpkwQm]
>>197は典型的な「まず結論ありき」の議論だな。

202 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 21:02:43 ID:68RTaodo]
198に激しく同意。
天皇個人や一部を語っても、文字通り一部でしかない。まぉ天皇や公家やら朝廷関係者が変に大きく関わっているとは思えないし、それだけの力もないと俺は思う。

203 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 21:50:24 ID:FD8FEjq+]
1、同じ土岐源氏の快川和尚を恵林寺で焼き殺しされた、恨み
2、従兄妹どうしのお市に茶々を胎まし、濃から託された恨み
3、天皇暗殺指令が降りたことに対する恐怖と怒りからの恨み

204 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/27(金) 22:09:33 ID:FKaAl9LZ]
>>200
ご教授どうもです。
自分なりに198の論は理解しているつもりですが、なにせ短いスペースでは全てを
語れません。
まずは、馬そろえが単なるお祭り、ではないであろう、ということの説明から始めて
大まかに1582までの注意点をあげたわけです。

中世の天皇のありかたというと今谷の論がありますが、その後の進展がどうなったかは全て
把握しているわけではないので、機会と話題がそちらに行ったらぜひ教えていただきたい
ものです。

あくまで例えですが、ブッシュとプーチンが笑顔で握手しているから、と言って両国が
友好的であった、という判断は部分的でしかないですよね。
ウラで核兵器をつきつけあってるわけで。

同じように歴史を判断するのも、見えないところ、実のところ、そういった点に注意して
考えて行きたいと思っています。
そして教授だったら学生に「証拠は無い」の一言ですませてしまうところも
こちらは素人ですしせっかくこういう場があるのですから、いろいろと教えてもらえると
うれしいと思っています。



205 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 22:13:12 ID:hQatjbHR]
>>203
3が付くだけにアホだね。

206 名前:人間七七四年 [2008/06/27(金) 22:16:57 ID:hQatjbHR]
>>203
さすが3が付くだけに阿呆だね。

207 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 01:39:48 ID:rj8LJrQu]
206
君もたいした事ないから心配するな。
何がどうアホなのか、せめて説明しな。

208 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 01:45:14 ID:p5KnK61h]
>>197
>右大臣辞任はやはり、天皇の配下であることを暗黙に拒否したものであって、信忠への顕官は
>「わしは官位なんてどうでもえぇがや」という己の立場、主張を明確にしたようなものでしょう。
何故そうなる?信忠に顕官を望むというのは、織田政権の後継者は朝廷の枠内に入るということだろう。

それから言っておくと、実力者が表向きは引退隠居という形で後継者に地位を譲った後も、無官の身で
実権を握って政権を支配・運営するという体制は実は日本においてはごくありふれたもの。

一番の例を挙げると、上皇・法皇による院政。天皇家ですら、本来なら無官(という言い方は本来はおか
しいのだが)の引退した元天皇が、現天皇を上回って統治を行った。中世では上皇の権威は天皇を上回り、
だからこそ戦国時代の天皇家は生前譲位が出来ない=上皇になれないことを大問題とした。
そしてこれは天皇家に限った話ではなく、鎌倉幕府では本来は公式の地位でもなんでもない得宗が実権を
握り、室町でも四代義持や八代義政は将軍位を譲った後も無官の身で統治を行った(この二人はやむを得ない
処置という面が強いが)。信長以後にしても、秀吉はなんら権能のない太閤という、地位でもない単なる
尊称で政治を行い、江戸幕府も大御所政治が見られている。

つまり、後継者には顕官を与えて現在と将来の箔を与え、自分は無官の身で統治するという信長の行動は、
体制は、実は天皇や公家にとってはよくよく見知った体制といえる。
>こういう信長を天皇側はどう思ったでしょうか。
>しつこいですが「よくわからんでおじゃる」であって
だから、これはあなたの全くの誤認識です。

209 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM mailto:sage [2008/06/28(土) 01:50:24 ID:ECuT5oKJ]
秋田城介説。

210 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 03:11:43 ID:FxqdjfHH]
家康と光秀の共謀説ってのはねぇの?



211 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 06:40:39 ID:Ij0EEPqt]
信長が島津領に脱出し、そこで死亡したという珍説がある
そこでは家康黒幕説を取っている

212 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 08:46:38 ID:VL0MNBIr]
>>210
ないことはないけど天海=光秀説というトンデモ説とセット。

213 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/28(土) 09:53:22 ID:nSpIMY6c]
公武対立論者の不思議

1、京都馬揃えについて
安土馬揃えの記述
信長公記「御爆竹」
兼見卿記「爆竹・御馬汰」
京都馬揃えの記述
信長公記「御馬揃」
兼見卿記「御馬汰」
公武双方の史料で、京都馬揃=信長流左義長ー爆竹、と一致している。
にも拘らず、「そもそも公武は緊張関係にあった。ゆえに、馬揃えは祭りでは
なく威圧である」という。なんで?

2、作暦問題
「晴豊記」で信長が再度蒸し返した天正10年6月2日の記事において、「信長むり
なること」(=作暦問題は解決したのに、信長はん、そりゃ無茶や)ってはっきり
記述している。
公家でも「だめなものはダメ」というし、微妙な問題ならば、兼見卿記の天正10年
4月・5月の記事のように空白にして記述しないという方法もある。
にも拘わらず、「表向き賛成だが,公武は緊張関係にあったので、本心は反対である」
という。その論法を代入すれば、晴豊記の記述は「表向き反対だが、本心は賛成である」
って読むことになる。しかし、公武対立論者はこの記述だけは素直に読む。なんで?

公家の日記は1次史料であるのに、公武対立ありきで行間・裏の意味を忖度しだすと
、1次史料が浮かぶ瀬もあるまい。

214 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 12:10:34 ID:xPvrkPGh]
>>208
言葉足らずで申し訳なかったけど、院政みたいなシステムが日本史でよくあることは承知です。
で、信忠の問題ですけど、繰り替えしになりますが、あくまで信長の立場の問題であり、信忠が朝廷の
枠内に入ることを信長が重視していた、又はそう望んでいた、と信長は考えていた、とは思えないのですよ。
これは、、無官の身で実権を握る、というごくありふれたシステムと矛盾するわけでもなく、まさに信長の
行動と一致しているように思うのですが。

それで、信長が右大臣を辞任したことは、枠外にでた、という意味と重要性のあることと思いますが、
これに関してはどうでしょうか。
さらに繰り返しでですが、父の信秀が内裏修理で多額の献金、これに関して天皇側からお礼をする、
三河守ももらったのでしたっけ、そして信秀もその感謝をしていますよね。
このあたりでは天皇から見ると織田という新興の地方大名は理解しやすかったでしょう、また勤皇という
ぐらいにも思ってたでしょう。
にもかかわらずその息子の信長が、官位辞任、これはやっぱりしつこくて悪いですけど
「よくわからんでおじゃる」という認識に近かったと思うのですよね。

そしてもうひとつ先に例を挙げてますが、1568の上洛のときに天皇に謁見する機会があったであろうに
謁見してません。父親の献金もあり望めば可能だったでしょう、これもやっぱり天皇側から見ると
「あれっ」と信長を認識する出来事のひとつのように思います。

まとめると、右大臣辞任はなんのため?そして信忠顕官というのはあくまで副次的なものであり、
信長の目標又は重要な意味を持つものではないのではないか。
そういったことです。

215 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 12:19:30 ID:7yHNqgyE]
>>214
> 思えないのですよ。
> 思うのですが。
> 思いますが、
> 思ってたでしょう。
> 思うのですよね。
> 思います。

あなたが何を思おうと勝手だが、思う以上のきちんとした根拠を提示できなきゃ
誰もあなたの意見に賛同しないよ。

216 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 12:26:45 ID:xPvrkPGh]
>>213
冬広さん、まとめて頂いてどうもです。

で、やっぱり繰り返しで申し訳ないですが、結論ありき、ではなくてずっと信長の行動を
追っていって、1581のあたりの微妙なやりとりまで来るとやっぱり、対立、とまでは言いませんが
それなりの駆け引きがあったように思うわけです。
1581の3月19日の異例な公卿会議、これはどうして行われたのでしょう。
左大臣を受けない言い訳で譲位を持ち出してうまく断ろうとした、天皇側に気を使った、というのも
逆に、友好説ありき、と言いますか少々おかしな解釈に思えるのですよね。

暦問題も同様で、無茶や、という問題をどうして信長が持ち出したか、東大寺切り取りから続く
信長のそういった行動は一環しており、これもやっぱり「よくわからんでおじゃる」に結びつくように
思います。

217 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 12:37:10 ID:xPvrkPGh]
>>215
根拠と言いますか事実を出していますがどうでしょうか。

そして大事なことですが、賛同を願ってる、人の意見を間違ってると主張する、のではないのですよ。
繰り返しですが、いろんな研究がある中でわからないことがある、のでいろいろと質問しますが
ぜひ教えてほしい、そういうことです。

2チャン的な、妄想厨おつ、と言われてしまってはせっかくの機会が残念です。
せっかくこれだけ列挙したのですからね。
そして、感情的にならないこと、これを望みます。

数年前の本能寺のスレでは、当日京周辺の関所、物見はどうして機能しなかったか、やすやすと
大群が洛中に進入できたか、そういったことで盛り上がっておりました。
最近はそういう話題もあまり見かけませんが、そういった点まで触れられたら、と思います。

218 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 12:55:21 ID:p5KnK61h]
>>214
>信忠が朝廷の枠内に入ることを信長が重視していた、又はそう望んでいた、と信長は考えていた、とは思えないのですよ
あれだけ信長が「自分よりも信忠に顕官を与えてくれ」といっているのに、なんでこのように思えるのか不思議です。
あなたはまず最初に信長と天皇が対立していたという結論から史料をみています。はっきりいえば、自分の好みの色眼鏡を
通してしか、史料をみていない。

>にもかかわらずその息子の信長が、官位辞任、これはやっぱりしつこくて悪いですけど「よくわからんでおじゃる」という
>認識に近かったと思うのですよね
では逆に質問します。同じく無官の身になった秀吉に対して、「よくわからんでおじゃる」という認識にならなかったのは何故ですか?
>208で示した通り、信長の行動はありふれたもので特別なものではありません。なのに何故、天皇や朝廷は、信長に対してだけ
「よくわからんでおじゃる」という認識になって、それまでの室町将軍やその実力者、その後の秀吉らには理解しているんですか?

あなたの主張には矛盾と誤認だらけです。そういった指摘に対して根拠もしめさず「自分はこう思う」という反論になっていない
口上を繰り返して、かつ「感情的にならないこと、これを望みます。」などと人格攻撃。

はっきり言いましょう。現在議論になっていないのは、全面的にあなたの責任です。
あなたがやっていることはリングに上がらずに外から無根拠に感想を垂れ流しているだけです。



219 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 13:41:06 ID:xPvrkPGh]
>>218
秀吉や室町将軍に触れないのはここは信長に関するスレだからです。
決して、信長にだけ、ということを主張しているのではありません。どうぞご理解を。
「よくわからん〜」という表現がよくなかったのなら謝罪します。
ただ、わかりやすいかと思っただけで他意はありません。

「感情的にならないこと」これは自分に対する戒めでもあり、決して他人に対する人格攻撃
などという意図はありません。
ご理解いただけないでしょうか。

文が未熟でそのように思われたなら、指摘していただければ訂正いたします。
今までのいくつかのレスで、決してこちらにそのような意図がないことはご理解
頂けるかと思いますが、そんなに失礼で攻撃的な口上をしているつもりはありません。
重ね重ねご理解賜りたく存じます。




220 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 13:48:52 ID:p5KnK61h]
>>219
>秀吉や室町将軍に触れないのはここは信長に関するスレだからです
つまりあなたは、秀吉も含めて無官の身で政権を運営した実力者たちは、全て朝廷のくびきから
脱しようとするものだと、朝廷との対立の宣言なのだと、天皇はそう解釈してしていたと言うの
ですね?天皇はそういった実力者全てと対立関係にあった、と。



221 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 13:57:43 ID:7yHNqgyE]
もう完全に「議論のための議論」に陥ってるなあ。

222 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 13:58:05 ID:xPvrkPGh]
>>220
いえ、そういった実力者たちに関しては個別に語るべき必要があると考えます。
信長と他の実力者を同列に考えているわけではありません。

また「対立」とまでは考えていません。あくまで信長の行動に対する、疑問というか
対応、そういったものには一種独特の「緊張があったのではないか」というのが
今のところの推論です。

これは、馬そろえが単なるお祭りであった、という点への疑問から出発しており
それを語るためにいろいろな事実を列挙、その時々で「これはどういう意味でしょう」
と質問しているわけです。

223 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 14:38:25 ID:mS3nxdOm]
「両者に駆け引きがあったこと」と「できれば相手を滅ぼしたいほど両者は敵対していた」ということはイコールではない。

224 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/28(土) 15:00:36 ID:g1qaTTZw]
>>222
>それで、信長が右大臣を辞任したことは、枠外にでた、という意味と重要性のあることと思いますが、
これに関してはどうでしょうか。
これは信長には官位の利用が不要だったからだと思う。
信長の政敵は足利義昭がいたが、信長は義昭追放後、「陣宣下」という大袈裟な儀式で右大臣・右大将
に任官している。そして、官位において義昭と肩をならべることができた(官位利用第一段階)。
これは、信長にとって「室町殿」の地位を自分がとってかわったことを天下に喧伝する重要な意義があった。
逆にいえば、信長自身にとってこれ以降の累進は不要だということです。
信長にとって、官位の利用はこの「陣宣下」こそが意味のあるものだったと思う。
だからこそ、右大臣の辞任を申し出、後継者信忠への顕官承継を望んだと考えています(官位利用第二段階)。
もし、枠外にでたのであれば、信忠の顕官起用を望むことと大きく矛盾します。
右大臣辞任は官位利用の第1フェイズから第2フェイズへの転換点だというのが、私の見解です。

>暦問題も同様で、無茶や、という問題をどうして信長が持ち出したか
天正10年6月1日が月食で、宣明歴がそれをあてられなかったからです(桐野PHP本参照)。
もし、あなたが買ったばかりの時計が狂っていたら、メーカーにクレームつけませんか?
それと同じだと思います。


225 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/28(土) 15:21:18 ID:g1qaTTZw]
月食→日食
宣明歴→宣明歴

>左大臣を受けない言い訳で譲位を持ち出してうまく断ろうとした
おかしくないね。翌年はより高位の三職推任が議案になっているので、信長が譲位
を蒸し返すのはより容易。でも、蒸し返していない。
譲位には執着していなかったんじゃないかな。

226 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 15:44:48 ID:C+XZXOML]
盛り上がってるとこ申し訳ないが、
朝廷と信長との対立(緊張)関係を唱えているのも、否定してるのも、
今のとこ、朝廷は本能寺の変と無関係、という主張でいいのかな?
ちょっと本能寺スレの主題から逸れすぎてる気がするから、
ちょっと議論を落ち着けた方がいいと思う。
特にID:p5KnK61hとか、一度ちょっと頭を冷やした方がいい人もいるし。

とりあえず、朝廷対立論と融和論、研究者間でも決着のついてない問題であり、
ここでそう簡単に結論が出るわけでもないから、一旦それは一つの意見としておき、
それが本能寺の変とどう結びつくと思うのか、に議論の方向を持っていっては?

227 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 20:19:06 ID:iFwKygnM]
226
に同意だな〜。
本来、何を語るスレなのかもう一度、根本に戻ろうよ。

228 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 21:11:39 ID:K9Fh9QTz]
226に同意です。

229 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 21:21:08 ID:K9Fh9QTz]
228 あ、でも頭冷やしてほしいと思うのは別の人。教えを請う、
素直に反論を受け止める態度ではない。書き方ではない。


230 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 22:02:23 ID:7yHNqgyE]
光秀の考えはともかく、逆にあれほどの隙を見せた信長の弛緩っぷりも武将としてほめられたものではないわな。
本能寺の原因の半分は、信長の油断って言って良いでしょ。



231 名前:人間七七四年 [2008/06/28(土) 22:27:15 ID:rj8LJrQu]
信長と光秀が反乱分子をあぶり出す為に変を装ったって超異説本もあるね。

232 名前:人間七七四年 mailto:sage [2008/06/28(土) 22:39:59 ID:7yHNqgyE]
>>231
信長「俺ちょっと無防備やってみるから不届き者出て来るか見ててくんない?」

光秀「うはwwwwwwまな板の鯉wwwwww」

こうか?w






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