- 189 名前:冬広 mailto:sage [2008/06/27(金) 10:19:48 ID:NkNOCKW3]
- >>187
>二回目の馬揃えは、最初の馬揃えにこめられたメッセージとそれに対する朝廷の対応(左大臣推任)を受けての 「駄目押し」であった観があります。 堀新が指摘しているが、さらなる「駄目押し」するならば、より権力が増大した天正10年の小正月にも京都馬揃え をするのが効果的だが、天正10年は安土馬揃えしか行われていない。 なぜ、天正9年だけだったのかに着目する必要がある。 前年末の親王生母の死去と関連付けるほうが合理的だと思う。 >>182 >1573に譲位を言い出した件、無官になったこと、誠仁親王の皇子を猶子にしたこと、 >これらは朝廷側から見ると異質で自分たちの 管理下からはみでようとした行為ですよね 譲位するならば、即位礼・大嘗祭を挙行する必要があるが、戦国天皇家は式微で大嘗祭を省略 しても即位礼の費用をねん出すらできなかった(そのせいで、戦国期最後の譲位を受けた土御門 天皇の即位礼は22年遅れでなされたのが実情)。 同天皇譲位後100年間にわたり、譲位できないという異常事態が続いていた。 1573年に信長が譲位の申沙汰(費用負担)した際に、信長宛の天皇自筆消息において「朝家再興の時 いたり候」と喜びを表している。 しかも、その後朝廷は天正3年・4年に礼服風干を行って、即位礼にそなえている。 なぜ、天皇が譲位を喜んだのかは、中世天皇の「上がり」は「治天の君」すなわち上皇になることが 常態だったからである。 また、無官になったのは天皇からみれば気味が悪いが、無位ではない。 しかも、右大臣辞任の際に、天皇側近である広橋右中弁宛てと勾当内侍宛てに辞任理由をいくつか述べ ている。それぞれの理由は異なるが、両名宛ての辞任理由で唯一共通するのが「信忠の顕官起用」。 堀氏はこれが信長の本音だといっている。 いささかスレチになるが、「信長は朝廷のくびきを超越した」って論者があるが、そうであるならば、 甲斐平定後に信長が「天下の御与奪」を与えた信忠も中将を辞任しなければならないことになる。 なぜなら、この時点をもって信忠は信長にかわって朝廷のくびきを超越する必要があるからである。 しかし、そのような事実は存在しない。
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