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詩文学



1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2021/08/31(火) 18:15:47.81 ID:Vq290yAX.net]
アーケード

146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/15(水) 17:49:41.71 ID:+sZDD647.net]
>◄ 3670. homologeó ►
Strong's Concordance
homologeó: to speak the same, to agree
Original Word: ὁμολογέω
Part of Speech: Verb
Transliteration: homologeó
Phonetic Spelling: (hom-ol-og-eh'-o)
Definition: to speak the same, to agree
Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
(出典 biblehub.com/greek/3670.htm)

147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/15(水) 18:04:27.49 ID:+sZDD647.net]
>>143-146
この場合も、私は、ここに記載を引用して貼り付けたような対応関係や
説明をあらかじめ知っていて、ドイツ語の»bekennen«という表現に
ついての私の解釈を書き込んでいるのではない。手順は、まったく
逆である。»bekennen«という表現を、同様に前綴り、»be-〜«
を用ひる他の表現との関連において、より一般的な推論により解釈する
ことが、私の解釈に都合のよい対応関係や説明を検索に容易に
見出すことを可能にしているのだ。

148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/15(水) 19:44:30.73 ID:+sZDD647.net]
>>144
日本語を母語としていて、それなりに英語の運用能力がかなり高い
人でも、英訳の聖書を知らなければ、この日本語訳を読んで、
「受けいれる」が英訳では"to confess"と訳されることが
あるとは思いもしないだろう。

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/15(水) 20:03:33.42 ID:+sZDD647.net]
ところで、これらの訳語の元となっている古代ギリシア語の
"ὁμολογέω"という表現は、それを形の上ではラテン語にそのまま移した
表現である"homologare"を介して現代のフランス語では、「許可する」、
「公認する」を意味する表現として用ひられている。
>homologuer
プログレッシブ 仏和辞典 第2版の解説
➊ 〖法律〗 …を認可する.
➋ 〖スポーツ〗 〔記録〕を公認する<

この《homologuer》のWiktionnaireにおける記載で語源を遡って
いくと、古代ギリシア語の"ὁμολογέω"の用法のフランス語による
記述に辿りつき、そこでは、まず最初に次のように記述されている。
>ὁμολογέω
Concorder, parler d'une même voix.
λέγουσι Κορίνθιοι, ὁμολογέουσι δέ σφι Λέσβιοι — (Hdt.1.23)<
(出典 fr.wiktionary.org/wiki/ὁμολογέω#grc)

150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 10:35:23.89 ID:DLkF/h6a.net]
"マタイ" & "10:32"をキーワードにして検索すると、この節における
古代ギリシア語の"ὁμολογέω"に対する直接または間接の様々な
日本語訳の言葉がヒットする。それらの事例をいくつか拾って
並べてみると、次のとおりである。

〜の仲間であると言い表す
『〜の友だ』と認める
〜を認める
(〜について)告白する
〜を言い表す
〜を受けいれる 

また、『ラゲ訳新約聖書』では、「〜を宣言する」と訳されている。

151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 11:06:31.52 ID:DLkF/h6a.net]
以上のとおり、"ὁμολογέω"は、直接または間接的に様々な日本語の
表現で訳されているが、「〜を認める」とされることが多いようである。
ただし、単に「〜を認める」と表現したのでは、一般に、認める側に
その権限があるものと理解されて、原文の表現の意図に沿はないと
考へられるので、それ以外の表現も試みられているのだろう。

私は、古代ギリシア語を教はったことも、自分で学んだこともないので、
この文例以外で"ὁμολογέω"がどのように用ひられているのか、
自分で事例を確認して解釈することはできないが、>>146に引用した
>Usage: (a) I promise, agree, (b) I confess,
(c) I publicly declare, (d) a Hebraism, I praise, celebrate.<
から、それが日本語としてどのような表現に相当するのかを推測する
ことはたやすい。"ὁμολογέω"は、"ὁμο・λογέω"と分けられ、
それに"con・fess"が当てられているわけだが、この場合もやはり、
"con(with, together)・fess(speak)"は、「一緒に云ふ」ことを
意味しているのではなく、「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」
こと/「しか(然)相違ないとい(云)ふ」ことを意味している。

152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 11:33:41.72 ID:DLkF/h6a.net]
したがって、キリスト教という鏡/「耶蘇鏡」を通して見た古代ギリシア語
の"ὁμολογέω"という表現を、「まそ(麻蘇/真)鏡」にそのまま映し出して
ΚΑΤΑ ΜΑΤΘΑΙΟΝ 10:32を訳すことを「こころみ(心観)」るなら、

>πας ουν οστις ομολογησει εν εμοι εμπροσθεν των ανθρωπων
ομολογησω καγω εν αυτω εμπροσθεν του πατρος μου του εν ουρανοις
>それゆえ人の前でわれのまこと(真言)をしろしめす者には、
われも、天にましますわが父の前でその者のまこと(真言)ををしろしめす

とすることもできるだろう。この場合、"ὁμολογέω"は、
「しか(然)い(云)ふことをたが(違)へない」こと/「しか(然)相違ない
とい(云)ふ」ことを意味することにおいて、「しか(然)い(云)ふ者」
の「まこと(真言)」は、「相違ないとい(云)ふ者」の「まこと(真言)」
と同じであるものとして「しろしめされる」ことになる。

153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 11:36:01.84 ID:DLkF/h6a.net]
誤:まこと(真言)ををしろしめす
正:まこと(真言)をしろしめす

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 11:44:26.53 ID:DLkF/h6a.net]
これが、「いは(祝/斎)ふ」 に対応するのは、「いは(祝/斎)ふ」
という行為が、基本的に、「ことい(言忌)み/ことほ(言祝)ぎを
同じくすることによって『な(汝/己)』をしろしめすように
しめ(標)ゆ(結)ふ」行為であるからである。



155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 12:17:18.95 ID:DLkF/h6a.net]
私は、キリスト教のレトリックがどのような言語表現をどのように操って
いるのかは、むしろ、「まそ(麻蘇/真)鏡」に映した方がよく見えるよう
になるのではないかと思ふ。なぜなら、「まそ(麻蘇/真)鏡」を通して
見た場合には、しろしめされる「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
は、人の前であろうと、天つ神の前であろうと変はらないのに対して、
「耶蘇鏡」を通して見た場合には、「『な(汝/己)』のまこと(真言)」
がキリストの父の前でしろしめされることは、それが人の前で
なされるのとは比べものにならない、計り知れないほど大切な
こととされるからである。さらに、「まそ(麻蘇/真)鏡」を介して
効験をもたらすことが期待される天つ神は、統治イデオロギーが
それをどのように利用するにせよ、おほきみ(大君)の上位互換
であるかのように見間違へられることがないのに対して、
「耶蘇鏡」の「天にまします父なる神」は、容易に君主の上位互換
であるかのように見間違へられることがよくあるからである。

156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/16(木) 12:18:14.01 ID:DLkF/h6a.net]
誤:どのような言語表現をどのように
正:言語表現をどのように

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/17(金) 00:12:50.24 ID:Hoj8pEsN.net]
>>140
誤:「み(認)める」
正:「みと(認)める」

158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/17(金) 00:16:31.47 ID:Hoj8pEsN.net]
読み返すと、細かい誤記がいくらでも見つかるな
>>125
誤:言葉を発からではなく
正:言葉を発するからではなく

159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/17(金) 09:27:51.13 ID:Hoj8pEsN.net]
>>135
誤:「核心的」と呼べる 正:「核心的」とも呼べる

私の書込みには、誤記がとても多く、いちいち訂正しているときりがない。
考へていることを言葉の表現で伝はるようにすることを試みている以上、
誤記を軽視すべきではないが、実のところ、私は、誤記によって書込み
が私自身に意味不明となるのでない限り、それほど気にしていない。
喩えてみれば、カレーを作る材料の買物をするメモに、「タマネギ」と
書くべきところを、「タマギ」と書いているようなものだ。
私は、まずなによりも自分で考へるために書いているので、気にかける
必要のあることに気が行き届いていることの方が大切であって、
「タマネギ」とメモすべきところに「ニンジン」と書いてしまったり、
「長ネギ」と書き間違えていなければ、それでいいのである。

160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/17(金) 09:36:30.40 ID:Hoj8pEsN.net]
きちんと誤記のないように書こうと「気をつけている」と、本末転倒に
なりかねない。というのは、「気をつけている」ためには、既に
そのことを「気にかけている」が前提となるからだ。いくら完璧に
「気をつけている」ことができたとしても、そのことによって
あらかじめ「気にかけている」ことが限定されてしまうのでは、
完璧な「気をつけ」の姿勢をとることに集中するあまり、後方
不注意になることを気にかけなくなってしまうようなものだ。

161 名前:イスメーネー mailto:sage [2023/02/19(日) 09:56:32.18 ID:y8/Wenpd.net]
表現法のパターン認定が文法である。
ここで「認定」と表現するとき、「認定する」行為を、古代ギリシア語
における"ὁμολογέω"という言葉の用法を語源的に気にかけながら、
現代のフランス語の《homologuer》に対応するものと考へて
理解すると都合が良い。

162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/19(日) 10:45:22.90 ID:y8/Wenpd.net]
言葉の語源を追求する見地からは、言葉に組み合はされて現れる
単音節の発音であっても、それが組み合はされる個々の要素として
捉へられる限り、意味のない言葉の要素はない、つまり、あらゆる
要素は、意味をあらかじめ帯びていることになる。だから、
言葉の語源的説明は、語源的な要素の意味と想定されるものを
足し算的に合はせることによって言葉の意味の解釈を示すこと
が一般的である。

これに対して、文法研究の見地からは、単音節の語を含め、
いかなる言葉も、まず文法があって、それに則って要素が組み合は
されて初めて意味を有するのであり、文法のなしの発音は、
言葉として意味のない単なる声の響き/»Klang«に過ぎないもの
であるとされることになる。

これらの二つの見地は、明らかに対立し、互いに矛盾しているが、
そのいずれもが正当なものとして言語表現の説明や解釈に
適用されることが普通である。しかし、そこでは、言葉が
言葉、つまり、人に意味の通じる発音として「認められる」
のに最も大切なことが忘れられている。それは、発せられる
声(声以外の別の手段による合図であってもよい)が、表現法
として通じるものとしてそのパターンが認められることである。
まず表現がこころみ(心観)られて、その表現が「まこと(真言)」
として「しろしめ」れることにより初めて、それが言葉として
意味を成すとされるのであり、あらかじめ言葉を構成する
意味を帯びた要素が存在するのでも、先に決められたものと
して存在する文法が、それ自体では無意味とされる声の響きの
組合せに意味を与へるわけでもない。

163 名前:bemoan mailto:sage [2023/02/19(日) 11:12:48.42 ID:y8/Wenpd.net]
言語とはどのようなものであるかについての私の理解を示すのに、
ソポクレースの悲劇、『アンティゴネー』に示される対立の図式を
流用してみるのも面白いのではないかと私には思はれるが、その場合、
この劇の私の解釈は、一般に通用している『アンティゴネー』の
理解とはだいぶ異なったものとなるだろうと思ふ。いずれにしても、
私には、古代ギリシア語の原文が読めないので、そこで用ひられて
いる表現を詳しく検討することができず、現時点では、深入りしても
あまり有益ではなさそうだ。

164 名前:訴ふ mailto:sage [2023/02/19(日) 11:54:35.96 ID:y8/Wenpd.net]
>complain (v.)
late 14c., compleinen, "lament, bewail, grieve," also "find fault,
express dissatisfaction, criticize," also "make a formal accusation
or charge to an authority," from stem of Old French complaindre
"to lament" (12c.), from Vulgar Latin *complangere, originally
"to beat the breast," from Latin com-, here perhaps an intensive
prefix (see com-), + plangere "to strike, beat the breast"
(from PIE root *plak- (2) "to strike").<
(出典 etymonline.com/search?q=complain)

このような記述を見ると、いかに語源解釈における"be-〜"、
»be-〜«、《con-〜》の説明が、"perfidious"なものであるかに
気づかされざるを得ないだろう。
>from Latin com-, here perhaps an intensive prefix (see com-)
とされるとおり、表現解釈の都合に合はせて、この場合には、
"com-"も"an intensive prefix"とされるが、この場合には、
"complain"がフランス語の《se plaindre de 〜》に対応する
ように
>plangere "to strike, beat the breast"
として、「たたく」作用、「うつ」作用を自らに及ぼす再帰動詞
と見なすような理解が示されている。要するに、語源により言葉の
意味を解釈する側自らが、"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》という
要素に割り当てた意味を、言葉の解釈を操作的に導き出すための
「たの(頼)み」としていないのである。



165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/19(日) 14:40:16.19 ID:y8/Wenpd.net]
ところで、「記号論」と訳されることが一般的である"semiotics"の
語源説明を参照すると、
> from sēmeion "a sign, mark, token," from sēma "sign" (see semantic).
(出典 etymonline.com/search?q=semiotic)
と記載され、「記号論」/"semiotics"の"semio-"は、「意味論」と訳される
"semantics"の"sema-"と語源的に共通であるとされるだけでなく、
究極的には、日本語の表現として用ひられている「禅(ぜん)」とも共通
であるとされる。
>"to see, look" (source also of Sanskrit dhyati "he meditates;" see zen)
(出典 etymonline.com/word/semantic?ref=etymonline_crossreference)

このような関連付けで語源的に共通であるとすることに「意味がある」と
するのなら、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"は、"mark, sign, token"
を意味していたとされるのだから、日本語の「しま(島)」や、
「標(しめ)ゆ(結)ひ」の「標(しめ)」と語源的に共通であると主張しても
何の無理もなさそうに思える。私には、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"
と「禅(ぜん)」が語源的につながっているというのが確かなことであるの
かどうかさっぱり分からないが、いずれにせよ、単に個々に言葉を拾ひ
出して類似をまとめてみても、実際にはあまり役に立たないだろう
と思ふ。その反面、古代ギリシア語の"σῆμᾰ • (sêma)"と「標(しめ)」
の類似性が単にまったくの偶然に過ぎないとしても、それらの用法に
類似性が見られるなら、その類似性を活用することは、言語表現を
解釈するのに大いに役立つだろうとも思ふ。

166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 09:55:20.42 ID:y09gz2Z1.net]
>>161イスメーネー2023/02/19(日) 09:56:32.18ID:y8/Wenpd
>表現法のパターン認定が文法である。

これを認めるとき、言語系統論を論じることには、「どのような
意味があるのか」を考え直さざるを得ないことになるだろう
(誤解のないように付け加えると、これは、「言語系統論を
論じることには何の意味もない」という結論を導き出すよう
に促そうとする反語的な問ひではない)。

167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 10:25:09.76 ID:y09gz2Z1.net]
例えば、日本語が、大陸側で中国語を形成することになった表現法を
大々的に流用することによって形成されていることは、既に繰り返し
指摘してきたとおりである。流用によって「日本語」となった言葉を
日本語から排除していくなら、日本語そのものが成立しない。
にもかかわらず、日本語は、中国語を形成した規範を無視するように
独自の表現法を編み出すことによって(それ自体が表現の流用に
よるものだが)独立した言語として形成されているので、言葉
の「意味」を基準に対応関係を参照すると、中国語の表現との
発音の規則的な対応関係は成立しなくなるため、「中国語
系統」の言語ではないとされる。その一方で、言語系統論に
おいては、一般に、意味的に互いに対応するとされる「語」
の発音の規則的な対応だけが問題とされ、「文法的」な違い
は不問に付される。すると、言語系統論は、どこまで、
どのように系統の確かさが確保されるのか、もとより、
原理的な問題を抱え込んでいることになるだろう。日本語は、
他方で中国語となった表現を大々的に流用しているのだから、
単音節のレベルでその対応関係を拾い出すことはやさしい。
しかし、単音節は、それによって言語系統論として対応関係
の系統を確かなものとして示すには、表現として操作性が
高すぎるのである。したがって、言語系統論も実のところ、
発音の「『表現法』上のパターン」の対応関係に依拠している
ことになる。

168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 10:49:14.26 ID:y09gz2Z1.net]
インド・ヨーロッパ語族の系統論を論じるために想定される
「印欧祖語」は、もともと、系統を論じるために架空で再構築された
モデルとされるものであり、「印欧祖語」という形で実際に言語と
して使用されていたと考えられているわけではない。すると、
実際に有効性があるのは、表現を系統的に遡るように比較する
ことによって、かなりの程度で表現パターンの規則的な対応関係を
見出すことが可能であり、その場合に言語表現の規範の共有が認め
られるということまでであって、「インド・ヨーロッパ語族」として
分類されるような人々を集団として、 非印欧語族の言語を話す
人々と明確に分けることができるといったようなことではない。

169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 14:13:04.64 ID:y09gz2Z1.net]
>>114
>>ここで»be-〜«が果たしている役割は、"con-〜"にそのまま対応して
いることになる。<
»bestätigen« ⇔ "to confirm"
be-〜«は、英語の"I hereby 〜"と宣言する場合の"hereby"の
"by"がそうであるように、発話遂行的な働きをしている。 <

ここでなにが面白いのかと言へば、それは、言語哲学者のオースティンは、
発話を"perfomative"なものと"constative"なものに分けて対比させたが、
この場合の英語の"constative"の"con-〜"も、ドイツ語の»bestätigen«の
»be-〜«と表現上、同じ役割を果たしていることを見れば、"constative"
とされる発話は、まさしくそれが"con・stative"であることを意図して
発話されることにおいて"perfomative"/「発話遂行的」であることが
はっきりと分かるからである。次に具体例を引用する。

170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 14:17:58.75 ID:y09gz2Z1.net]
>Napoleon Fischer grinste geschmeichelt. „Weil Herr Doktor
sagen, daß ich ein großer Politiker bin… Ich will von dem
Schadenersatz weiter nicht reden. Intimitäten aus den
ersten Kreisen sind für uns doch wichtiger als —
„— als so ein Mädchen“, ergänzte Diederich. „Sie denken immer als Politiker.“

„Immer“, bestätigte Napoleon Fischer. „Mahlzeit, Herr Doktor.“
Er zog sich zurück — indes Diederich feststellte, daß die proletarische
Politik ihre Vorzüge habe. Er schob seine drei Goldstücke wieder in die Tasche.<

(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/292-3)

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 14:55:05.47 ID:y09gz2Z1.net]
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

英語の語源説明を参照すると、英語の"be-〜"は、サンスクリット語を
介して、既に日常の日本語としても用ひられるようになっている
「有(う)無(む)」の「有(う/ゆう)」に語源的につながるものとされる
ようだが、私には、むしろ、これを語源的にも「表現として」
日本語の「〜ふ」につながる可能性を探った方が「意味がある」の
ではないかと思へる。その場合、私にすぐに想起されるのは、
日本語の「〜ふ」が「復」の漢字が当てられる表現の流用であり、
そのこと自体が、「概念」としては、英語の"ambi-"や"bi-"によって
も表現される「双数性」を想起させる(例えば、「ふた・たび」、
「ふた(二)つ」の「ふ」)ことである。これについては、
気が向いたら、時間のあるときにさらに詳しく書き込むことにする。

172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/20(月) 15:04:22.64 ID:y09gz2Z1.net]
ところで、「ふた(蓋)」は、それが「おほ(覆)ふ」ものとわか(分)れる
ことによって「ふた(蓋)」である。

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 09:10:07.24 ID:8PH9oGBN.net]
哲学する者にとって、説明するとは、既に分かっていることを他人に
開示することではなく、現状の自分の理解と無理解をみづからに晒すことである。

174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 09:21:55.44 ID:8PH9oGBN.net]
極めて当たり前のことだが、分からないことを探るのが探求である。



175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 10:26:07.55 ID:8PH9oGBN.net]
口を開いて言ふことが「ことづ(言付)け」であるのなら、それが伝へられる
ことにより用件が済むのなら、それで良いのであって、
それ以上の説明の必要はないのである。

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 10:27:37.43 ID:8PH9oGBN.net]
人が「ことづ(言付)け」以外で口を開くことを排除しようとしているのは誰か

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 10:33:53.33 ID:8PH9oGBN.net]
「ことづ(言付)け」と「つ(告)げぐち(口)」だけが許されるように
人と人との関係が組織化された状態を想像してみるといい。

178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 11:19:22.92 ID:8PH9oGBN.net]
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

"be-〜"は、分離された表現として用ひられる場合には、"by"
となる。それは、"drop by"/「立ちよ(寄)る」、"stand by"/
「よ(寄)りそ(添)って立つ/準備の整った状態で待つ」といった
表現に用ひられているが、より単純には、「〜により」として
手段を示す"by"や、「〜のそば(側)に」という近接性を表現
する"by"でもある。その"by"に対応する表現要素としての
英語の"be-〜"やドイツ語の»be-〜«が、多くの事例で、
ラテン語系の言語においては、《con-〜》に対応していることは、
無論、偶然ではない。ラテン語において《con-〜》は、
分離された表現としては、"cum"として用ひられ、これは、
英語の"with"のような使はれ方をする。これらのことから見ても、
英語の「be動詞」を用ひる存在の表現は、「よ(寄/依)る」という
様態を想起させることを介した表現法であると見ることができる。

179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 11:22:23.49 ID:8PH9oGBN.net]
ただし、ここで私が「be動詞」と呼ぶのは、文字通り"be"を表現として
活用する場合のことであって、文法上の「be動詞」の活用形(語源的に
ばらばらであると考へられている)のことではない。

180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 11:27:36.49 ID:8PH9oGBN.net]
>>175
誤:用件が済むのなら、
正:用件が済めば

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 11:55:57.35 ID:8PH9oGBN.net]
日本語の場合、「ゐ/を(居)る」という存在の仕方が、そこから動かずに
留まっていることを表現しているのに対して、一般に存在することを
表現すると考えられている「あ(或)る」は、これに関連する古語の
「あり(歩)く」という表現にも見てとれるとおり、場所の定まらない
あ(在)り方であり、「あり(歩)き」がちょうど英語の"ambulant"に
対応することは、"be-〜"/»be-〜«と存在の関係について考へるうえ
でも示唆的である。

>ambulant (adj.)
1610s, "walking, moving from place to place," from Latin
ambulantem (nominative ambulans), present participle of ambulare
"to walk, go about" (see amble (v.)). Of diseases, denoting
cases in which the patient may be up and around, by 1913.<
>amble (v.)
[...]from Latin ambulare "to walk, to go about, take a walk,"
perhaps a compound of ambi- "around" (from PIE root *ambhi-
"around") and -ulare, from a Proto-Italic *ala- "to wander,"<
>*ambhi-
also *mbhi-, Proto-Indo-European root meaning "around;"
probably derived from *ant-bhi "from both sides,"
from root *ant- "front, forehead."<
(出典 Online Etymology Dictionary)

私には、この最後の"*ambhi-"の語源説明は、とても不自然に
感じられ、もっとずっと無理のない自然な解釈が可能だろうと思っている。

182 名前:二進法のひととなり mailto:sage [2023/02/21(火) 13:22:10.11 ID:8PH9oGBN.net]
さて、突然ですが、ここで謎かけです。

「ひとり」でいるときは、いつもでもそこに確かにいるのに、
「ふたり」にになったとたん、跡形もなく「ふつり」と消ゆのは誰でしょう。

183 名前:双論賛成・各論反対 mailto:sage [2023/02/21(火) 13:39:02.85 ID:8PH9oGBN.net]
「概念」としての"being"は、それが「よ(寄/依)る」様態によって
存在していることにより、文字通り「人(ひと)」のごと(如)く
(この場合、「文字通り」というのは、その文字の通りその
ようであるという意味である)「双数」的であるが、しかし、
その「双数性」が現れるのは、作用が「よ(寄/依)る」様態で
働くことの効果が再帰的に表出することによってであって、
あらかじめともに存在するとされるの二つのものが互ひに
寄り添ふことによってではない。

184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/21(火) 14:08:48.53 ID:8PH9oGBN.net]
誤:「ふたり」にになった
正:「ふたり」になった



185 名前:知らぬが佛 mailto:sage [2023/02/21(火) 17:06:47.56 ID:8PH9oGBN.net]
>いつもでもそこに確かにいるのに

ここは、「いる」ではなく、きちんと「ゐる」と書くべきでしたね。
また、「ふたり」という表現を使ふとき、当然、私に想起される
のは、「ふ(復)(Middle Chinese: /bɨuH/)たり」なのですが、
それだけではなく、「ふつり」と表現するときも、私に
想起されるのは「ふ(弗)(Middle Chinese: /pɨut̚/)つり 」なのです。
そして、「そこ」がどこであれ、決してそこに「ふたり」が
「ゐる」ことはない。

186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/22(水) 17:01:59.36 ID:9mcIlQgo.net]
偶々、検索していたキーワードと本の題名が合致していて、なおかつ
販売価格があり得ないほど廉価だったという理由だけで入手した
Heinrich Mannの"Der Untertan"だが、文学作品としては滅多に
出合うことがないような名著だと私は思ふ。一生のうちに読める
本の数はそれほどまでに多くない。だから、偶然に出会う名著は
貴重である。よく知られていて、高い評価を受けている本でも、
目を通してみると、手元に置いておきたいと感じるような著作に
出合うことは稀である。

187 名前:アジ演説 mailto:sage [2023/02/22(水) 22:57:17.81 ID:9mcIlQgo.net]
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

誰も言はないので敢へて言ふが、言語表現として見れば(別に私は、
デカルトについて論じようというわけではない)、「コギト」/
"cogito"がもたらすのは、英語から借用されてカタカナ語として
日本語にもなっている「アジテーション」/"agitation"作用の効果
として主体性を再帰的に表出させることである。

>agitation (n.)
1560s, "debate, discussion" (on the notion of "a mental tossing
to and fro"), from French agitation, from Latin agitationem
(nominative agitatio) "motion, agitation," noun of action from
past-participle stem of agitare "move to and fro," frequentative
of agere "to set in motion, drive forward; keep in movement"
(from PIE root *ag- "to drive, draw out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agitation)

188 名前:De quoi s'agit-il? mailto:sage [2023/02/22(水) 22:59:56.05 ID:9mcIlQgo.net]
誤:"agitation"作用
正:"agitation"の作用

189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/22(水) 23:37:26.92 ID:9mcIlQgo.net]
ラテン語の"cogito"をWiktionaryで参照すると、その語源として
>From con- +‎ agitō.
と記載されている。"agitō"は、「作用を働かせる」ことに由来する
表現なので、なぜ"con-・agitō"が「かむか(考)ふ」ことを意味する
表現となるのか少し戸惑うが、むしろ、「かむか(考)ふ」という日本語
の方から"con-・agitō"を捉へ返した方が、この表現法も解釈しやすく
なるのではないかと思ふ。ただし、私が見る限り、「かむか(考)ふ」
という日本語も、「おも(思)ふ」という日本語も表現として、
"con-・agitō"にそれほどうまく対応するものではない。
その一方で、Wiktionaryでそのままリンクをたどって
関連するスペイン語の表現を参照すると、
>From Latin cōgitō, cōgitāre. Doublet of cuidar.
ラテン語の"cōgitāre"から、「注意を払う」、「気を配る」、
「世話をする」などの意味で用ひられるスペイン語の
"cuidar"という表現が派生していることが分かる。
また、さらに注目されるのは、"con-・agitō"の"agitō"と
共通するラテン語の語源からは、フランス語において
《Il s’agit de 〜》という表現法が派生していることだ。
これは、「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現である。これに対応するスペイン語の表現は、
"se trata de 〜"となる。

190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/22(水) 23:45:43.36 ID:9mcIlQgo.net]
「作用が働く」ことを表現する動詞が、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という表現においてなぜ「あつか(扱)はれるのが何であるのか」を示す
ための表現となるのか、これも、最初は、少し捉へにくい印象を受ける
かもしれないが、やはりカタカナ語として既に日本語にもなっている
「アジェンダ」という表現を想起してみれば、この表現を感覚的に
捉へることもそう難しいことではないだろう。

>agenda (n.)
1650s, originally theological, "matters of practice," as opposed
to credenda "things to be believed, matters of faith," from Latin
agenda, literally "things to be done," neuter plural of agendus,
gerundive of agere "to do" (from PIE root *ag- "to drive, draw
out or forth, move").<
(出典 etymonline.com/search?q=agenda)

191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/22(水) 23:59:31.53 ID:9mcIlQgo.net]
ここで、ラテン語の"cōgitāre"が英語に取り込まれて名詞化された
"cogitation"の語源解釈を参照すると、次のように記載される。

>from Latin cogitationem (nominative cogitatio), noun of
action from past participle stem of cogitare "to think, reflect,
consider, turn over in the mind," which is apparently a
contraction of co-agitare, from assimilated form of com
"together" (see co-) + agitare, here in a sense of "to turn
over in the mind," literally "to put in constant motion, drive,
impel," frequentative of agere "to move, drive"<
(出典 etymonline.com/search?q=cogitation&ref=searchbar_searchhint)

しかし、これは、私には、かなりご都合主義的で、整合性のない説明
であるように私には感じられる。というのは、"agitare"が「動かす作用」
を表現しているとしても、それを"to turn over"とするのは、過剰な解釈
であるように思へるからである。さらに、"together"を意味するとされる
"co-"に関しても、きちんと説明がされているようには見えない。

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 00:03:38.56 ID:hZ/rlOwT.net]
まだ途中だが、長くなったので、続きはまた時間のあるときに書き込むことにする。

193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 10:37:30.73 ID:hZ/rlOwT.net]
言おうと思っていたことは、もうそれほど残っているわけではないが、
続きを書き込むことにする。

>>187に引用したとおり、ラテン語の"agitare"は、一般に
>"move to and fro," frequentative of agere
として解釈される表現である。したがって、"agitare"に、例えば、
現代のフランス語で用ひられる《remuer》を当てるなら、
"cōgitāre"≒《remuer les idées》とするなら、そのまま、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」のように
対応させることは容易だろう。しかし、ここには大きな問題がある。
というのは、"agitare"≒《remuer》とするのがそれなりに妥当で
あるとしても、"cō-"は、《les idées》に対応するような表現ではなく、
《les idées》が《remuer》の作用の対象としてあらかじめ存在する
とすること自体が、まず先に「かむか(考)へ」があるとする結論の
先取りになってしまうからである。

194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 10:42:27.10 ID:hZ/rlOwT.net]
誤:《remuer》を当てるなら、
正:《remuer》を当てて、



195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 11:11:14.82 ID:hZ/rlOwT.net]
私は、この問題を解消する「ヒント」は、フランス語の《Il s’agit de 〜》
という慣用句や、カタカナ語として日本語としても使はれる
「アジェンダ」という表現にあると思う。というのも、「アジェンダ」
とは「討議されるべきこと」を意味するように用ひられるのに対して、
《Il s’agit de 〜》において再帰形で用いられている動詞は《agir》
であり、"cōgitāre"の"agitare"は、《agir》の語源であるラテン語の
"agere"の"frequentative"であるとされるからである。フランス語の
《agiter》は、「討議する」こと、つまり、「(互いの間で)検討する」
ことを意味するように用ひられ、《Il s’agit de 〜》という慣用句も、
《s'agiter》が「討議される」ことを意味することと明らかに関連
しているだろう。

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 11:26:14.86 ID:hZ/rlOwT.net]
長くなり過ぎたので、何を問題としているのか分かりにくくならない
ように「結論」を急ごう。といっても、それは、既に最初に述べたこと
の繰り返しである。

"cōgitāre"は、《Il s’agit de 〜》や《s'agiter》のように文法的に
再帰形であるわけではない。しかし、"cōgitāre"が、
"cōgitāre"⇔《remuer les idées》⇔「かむか(考)ふ」
のような対応関係をもたらすとすれば、それは、"agitare"
の「作用の効果として再帰的に表出することになる『主体性』」
が《les idées》だからである。したがって、"cōgitāre"の
場合も、"cō-"は、表現法として、英語の"be-〜"やドイツ語の
»be-〜«に対応する働きをしていると言ふことができるだろう。

197 名前:無責任なアジテーション mailto:sage [2023/02/23(木) 11:50:59.12 ID:hZ/rlOwT.net]
さらに、スピノザの議論がどうであろうと関係なく、また私にラテン語の
知識がまったく欠けていることも無視して、いつものとおり、無責任な
ことを言はせてもらえば、用法はよく分からないまま、「概念」として
その表現だけはよく目にする「コナトゥス」/"conatus"についても、
同様の議論が成立するだろうと私は思っている。
>conor, conaris, conari A, conatus sum (Dep.) Verb
1. to try
2. to attempt
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/269/)

Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”). How the verb's
active voice virtually vanished remains unknown. <

私の根拠のない憶測によれば、この語源解釈は完全に誤っている。
私の思ふところでは、"conor"の"co-"も上で検討してきた"co-"
と同様の表現であり、"nor"は、ドイツ語であれば、»nehmen«
に、古代ギリシア語であれば、"νέμω"につながるような語源に由来する。
>Etymology
From Proto-Indo-European *nem- (“to assign, allot; take”).
Cognate with English numb, Dutch nemen, German nehmen,
and Albanian njeh (“count”), nëmë (“curse”). <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/νέμω#Ancient_Greek)

したがって、言葉の「意味」から対応関係を示すなら、"conatus"は、
英語の"undertaking"やフランス語の《entreprise》に近いことになる
だろう。

198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 11:56:08.53 ID:hZ/rlOwT.net]
ひとまず言ひたかったことは言ひ尽くしたので、スッキリした。
しばらくは、発言を控えることにしよう。

199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 14:06:48.95 ID:hZ/rlOwT.net]
書き込もうと思って忘れていたので、付け足しておくが、
ニーチェの»Wille zur Macht«/「できることを」がプラグマティズムに
近いものとして現れるのは、»Wille«に沿ふように行はれるのが
どのような行為であるにしても、その効果としてもたらされる
ものが»die Macht«/「できること」として「先取り」されている
からである。しかし、その»die Macht«/「できること」が
「無に、もしくは無限にみづから(身づ柄/自ら)が解消されること」
であるとすればどうなるのか、というのが禁欲主義的ニヒリズムの
問題である。

200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/23(木) 16:58:32.66 ID:hZ/rlOwT.net]
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働き<

《con-〜》の表現上の利用のされ方としては、ドイツ語の場合、
»be-〜«だけでなく、»mitansehen«のような表現に見られる
"con- (“with, together”) "と意味的にも対応する»mit«の用法も参考になる。

>mitansehen
>Es ist so kläglich, den Untergang einer schönen Entwicklung
mitansehen zu müssen.
[Schalcher, Traugott: Die Reklame der Straße, Wien: C. Barth 1927, S. 57] <
(出典 dwds.de/wb/mitansehen)

201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 08:30:26.29 ID:m9i6LeA4.net]
私は、ドイツ語の辞書を所持していないので(本当は、手元に紙の辞書が
欲しいのだが、それを入手するための金があると、同じ金額で手に入る
ドイツ語の原書の方が魅力的なので、いつまでたっても辞書を購入する
に至らないという奇妙な理由によるw)、ネット検索でヒットした
ドイツ語の分離動詞の用法を引用する。

>Ich kann das nicht mit ansehen.
(それは見るに耐えない。)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-ansehen/)

»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。

次に、»mit・nehmen«という表現について見ると、
>Er fuhr so scharf in die Kurve, dass er einen Teil der Mauer mitnahm.
(彼はカーブに急な角度で突っ込んだため、壁をこすってしまった。
→ 壁の一部を持っていった)<
(出典 rika-museum.com/learning-german-prefix-mit/)

こちらの場合には、»mit・nehmen«の»mit«は、»nehmen«、つまり、
「と(取/獲/採/摂)る」作用を働かせる側の「身体性」を表現している
ことが分かる。

202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 08:43:18.36 ID:m9i6LeA4.net]
したがって、「コナトゥス」/"conatus"に、>>197に示したとおりに
勝手な憶測による独自の語源解釈を施して、この場合の"co-"にドイツ語の
»mit-«を対応させて考えてみるなら、英語の"undertaking"やフランス語
の《entreprise》に対応させることもできる「コナトゥス」/"conatus"
の第三者的な「具体化」/"corporation"が、»das Mitnehmen«としての
「み(身)ど(取/獲)り」/「みどり(緑)」であることになる。

203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 09:26:04.71 ID:m9i6LeA4.net]
>Quae tempestas, di immortales, quae flamma, quae vastitas
quae pestis Graeciae fuisset, nisi incredibilis ac divina virtus furentis
hominis conatum atque audaciam compressisset! <
(出典 latin-is-simple.com/en/library/cicero/philippics/philippica-10/?h=conatum)

204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 10:30:17.73 ID:m9i6LeA4.net]
>„Prost!“ sagte Diederich. „Aber, meine Herren, mögen
die subversiven Tendenzen im Lande noch so stark sein,
wir sind stärker, denn wir haben einen Agitator,
den die Gegner nicht haben, und das ist Seine Majestät.“ <
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_III)



205 名前:Benehmen Sie sich! mailto:sage [2023/02/24(金) 13:43:08.91 ID:m9i6LeA4.net]
「しつけ(身・美)」/"discipline"は、»das Benehmen«をよいものに
することを目的として行はれる。
言い換へるなら、「しつけ(身・美)」/"discipline"とは、
よ(善)き「みどり」がお(生)ひしげ(茂)るようにする一方で、
あ(悪)しき「みどり」が枯れ果てるようにするための「優生学」であり、
だからこそ、「しつけ(身・美)」は、「み(身)にいた(痛/傷)み」を
覚えさせるように行はれる「とが(咎)め」と表裏一体となっている。
それでも、「みどり」のもたらす「みのり」が、「とが(咎)め」に
よって与へられる「いた(痛/傷)み」を上回るなら、「しつけ(身・美)」
は失敗する。

206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 14:05:56.54 ID:m9i6LeA4.net]
このことからも、「『なにもしない』ことが『できる』」ことは、
誰にとっても、実は、とても好ましい「よ(善/良)い」ことである
ことが分かる。ただし、「そんなことをしても何にもならない」、
「そんなことをすると身のためにならない」と言って親切に
忠告してくれるだけでなく、その忠告を無視して何かをしようと
するなら、それを実力行使で「とが(咎)め」ようとする場合、
たとえ、その本人が自分は倫理的・道徳的に正しいと確信して
いたとしても、その振舞ひが誰の身のためになっているのかは、
定かではない。

207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 14:10:11.86 ID:m9i6LeA4.net]
世の中には、何もしないことと、何もさせないことを専門の職業として
自分の一生をそれに捧げている人々が、一般的な想定で信じられている
よりもはるかに大きな割り合いで存在する。

208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 14:14:40.59 ID:m9i6LeA4.net]
>Dies ist eine harte Zeit. Wer sich nicht wehrt, muß dran glauben
(出典 wikisource.org/wiki/Page:H.M._Der_Untertan.djvu/343)

209 名前:場当たり的な説明の好例 mailto:sage [2023/02/24(金) 17:59:30.81 ID:m9i6LeA4.net]
英語の"to have"と"to behave"の対比も、表現形成において"be-〜"が
担っていた役割をよく示している。しかし、英語においてこれほどまで
に基本的な表現についても、一般に通用している語源解釈は、場当たり
的な説明しかできていない。

>behave (v.)
early 15c., reflexive, "conduct or comport" (oneself, in a specified
manner), from be- intensive prefix + have in sense of "to have
or bear (oneself) in a particular way, comport" (compare German
sich behaben, French se porter). The cognate Old English compound
behabban meant "to contain," and alternatively the modern sense
of behave might have evolved from behabban via a notion of
"self-restraint." In early modern English it also could be transitive,
"to govern, manage, conduct." Related: Behaved; behaving.<
(出典 etymonline.com/search?q=behave)

210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 18:12:17.66 ID:m9i6LeA4.net]
本当にそんなことはどうでもいいと思っているのなら、まだましなのである。
しかし、残念ながら、事態ははるかに深刻である可能性の方がずっと高い。

211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 18:13:42.06 ID:m9i6LeA4.net]
しかも、その深刻な事態については、私のような愚か者でなければ、
口を開こうとさえしないだろう。何の得にもならないのだから、
当たり前と言へば当たり前だが。

212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/24(金) 23:43:37.49 ID:m9i6LeA4.net]
>"be-〜"、»be-〜«、《con-〜》は、"〜"によって表される
作用の効果を再帰的に表出させる働きにおいて、日本語の「〜ふ」
と似通っているのである<

既にしつこいほど自己引用しているが、ここで、一見、意外に
思へるかもしれないが、ひとたび気づいてみれば、ごく自然に
感じられるであろう事例を示そう。それは、「さび(寂)しい」
という表現に見られる「さ(寂/錆)び」という表現により
伝へられる感覚と、「(ある場所に)とどまる, 居続ける」
(ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説)
ことを意味するドイツ語の»bleiben«という動詞が表現して
いる感覚のきれいな対応関係である。

213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 00:03:10.34 ID:VCd/vZLi.net]
「さ(寂/錆)び」の「さ」は、「さ(去)る」の「さ」であり、
「さ(去)る」ことがもたらす「さら(晒)す」ことの「さ」でもある。
「〜び」の方は、「〜ふ」の活用形であり、したがって、
「さ(寂/錆)び」とは、「さ(去)る」こと、および「さら(晒)す」
ことの作用の効果として再帰的に表出する主体性の様態であり、
そのような様態を生じさせることを意味するのが「さび(寂)し」
である。

「さ(寂/錆)び」は、「さ(去)る」作用の効果としてもたらされる
のだから、そこに「さら(晒)さ」れて「残っている」イメージを
想起させる。このことは、万葉集の歌を見ても、容易に確認する
ことができる。

>万葉集 第19巻 4159番
礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神<左>備尓家里
礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
いそのうへの つままをみれば ねをはへて としふかからし かむさびにけり
(出典 万葉集ナビ)

>万葉集 第17巻 4003番
伊尓之邊遊 阿理吉仁家礼婆 許其志可毛 伊波能可牟佐備 多末伎波流 伊久代經尓家牟
古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ
いにしへゆ ありきにければ こごしかも いはのかむさび たまきはる いくよへにけむ
(出典 同上)

214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 00:19:10.19 ID:VCd/vZLi.net]
では、ドイツ語の»bleiben«の方はどうだろうか。Wiktionaryを
参照すると、その語源は、次のように説明されている。

>Etymology
From Middle High German blīben, belīben (“to remain in
the same position, pause, blin”), from Old High German bilīban
(“to remain”), from Proto-Germanic *bilībaną (“to remain”),
from Proto-Indo-European *leyp- (“to stick, glue”).
Cognate with Dutch blijven (“to remain”),
English belive (“to remain, stay”). More at belive. <
(出典 en.wiktionary.org/wiki/bleiben)

現代のドイツ語の»bleiben«からは»be-〜«の"e"が消失している
が、この表現の場合も語頭の"b"は、前綴りの»be-〜«であることが
分かる。さらに、語源的にも、この表現は、"to remain"を意味する
とされるが、"*bilībaną (“to remain”)"のリンクをたどると、
>*lībaną
to remain, to be left<
(出典 en.wiktionary.org/wiki/Reconstruction:Proto-Germanic/lībaną)
と記載され、"to remain"、つまり、「残る」ことが、"to be left"、
「さ(去)られる」こととキアスム的に反転する関係として捉へられて
いることを表現していたものと想定されていることが分かる。さらに、
この想定は、»bleiben«が英語の古語の"belive"と語源的に共通である
と考へられることからも裏付けられる。次に、その語源説明を参照する。



215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 00:26:53.14 ID:VCd/vZLi.net]
>belive (v.)
obsolete verb, Middle English biliven, "remain in a place; be left over,"
from Old English belifan "remain," intransitive form of belæfan
"cause to remain" (see beleave). A general Germanic compound
(cognates: Old Saxon bilibhon, Gothic bileiban, Old High German
biliban, German bleiben, Dutch blijven).

It was confused in early Middle English with beleave and merged
into it, which gave beleave two clashing senses ("to leave,"
also "to remain") which might be why the compound word,
the cognate of important verbs in other Germanic languages,
was abandoned in English and only leave (v.) remains.<

ここまできれいに説明できるのに、"be-〜"/»be-〜«の用法に
ついてメタ言語的に記述する段になると、場当たり的に一貫性の
ない説明になるというのは、むしろ、極めて不自然である
(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを得ない
のではないか。

216 名前:残り物には福がある/古典の効用 mailto:sage [2023/02/25(土) 10:11:23.19 ID:VCd/vZLi.net]
"to be left"、「さ(去)られて残る」ことの効果が再帰的に表出して、
「かむ(神)さび」となり、"to leave"、「そのままにする」ことの
効果が再帰的に表出して、「(神仏を)たの(頼)む」こと、すなわち、
"belief"となるという関係性は、とても面白くないだろうか。

217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 11:39:41.82 ID:VCd/vZLi.net]
「残り物には福がある」、これは、書籍の場合にはよく当てはまることが
多い。偶々、格安だったので最近、入手したHeinrich Mannの
"Der Untertan"もその典型だろう。この小説が滅多に出会ふことのない
名著であると感じられるのは、そこで語られているのが他に例のない
ような特別な「ストーリー」であるからではない。魅力を感じさせる
ような人物がそこに描かれているからでもない。そうではなく、
Heinrich Mannの言語表現が、誰でもが容易に気づいて「ゐ」ながらも、
メタ言語的に記述することのない、したがって、それ自体を対象と
して語ることのない、ここでも論じてきたような関係性を極めて
巧みに言葉として捉へて、それを読む側に(私のようにドイツ語の
教育を受けたことのない者にさえ)うまく伝はるようにすることに
成功しているからである。

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 11:46:16.25 ID:VCd/vZLi.net]
一般に、極めて「雄弁な」人々、「多弁な」人々も、気づくはずのこと
に気づかされて、その「気づき」について語ることを迫られると、
とたんに黙り込むのである。

219 名前:かむ(神)さび mailto:sage [2023/02/25(土) 12:01:17.70 ID:VCd/vZLi.net]
>relic (n.)
c. 1200, relik, "a body part or other object held in reverence or
affection due to its connection with a holy person," from Old French
relique, relike (11c., plural reliques), from Late Latin
reliquiæ (plural) "the remains of a martyr," in classical Latin
"remains, remnants," noun use of the fem. plural of reliquus
"remaining, that which remains."

This is related to relinquere (perfective reliqui) "to leave behind,
forsake, abandon, give up," from re- "back" (see re-) + linquere
"to leave" (from PIE *linkw-, nasalized form of root *leikw- "to leave").
Old English used reliquias, directly from Latin.
(出典 etymonline.com/search?q=relic&ref=searchbar_searchhint)

220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 13:42:10.77 ID:VCd/vZLi.net]
>beteiligen
ポケットプログレッシブ独和・和独辞典(独和の部)の解説
❶ [再]([英] participate in) ⸨sich4 an et3⸩ (…に)参加する, 関与する; 出資する
an et3 beteiligt sein|…に参加〈関与〉している.
❷ [他] ⸨j4 an et3⸩ (人に…を)分け与える, 参加させる.<

民主主義の政治とは、個人がまつりごとに出資者として参加することなのか?
これについては、»beteiligen«という表現とは関係なしに既に別の機会に
掲示板の別のスレッドで十分に論じたので、もはや言ひ残したことはほとんどない。
»beteiligen«のあり方の正しさを規範化しようとすればするほど、
まつりごとへの出資者として正当な「配分」/"share"について「調整」
するために集会に参加しているつもりの個人は、「分け前」ではなく、
「あ(当)てが(交)ひ」を競い合ふように「調教」されることになるだろう。

221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 13:43:28.60 ID:VCd/vZLi.net]
誤:競い合ふ
正:競ひ合ふ

222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 20:45:35.65 ID:VCd/vZLi.net]
ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。

223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/25(土) 20:51:28.42 ID:VCd/vZLi.net]
尺度の問題を相対的な数量の問題にすり替えてはいけない。

224 名前:ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度 mailto:sage [2023/02/26(日) 09:55:21.84 ID:r5TThqWY.net]
ひと(人/一/等)が万物をはか(測/量/諮/謀)る尺度であるとしても、
その尺度は、あらかじめ与へられているわけではない。

統治において、「ひと(人/一/等)をはか(測/量/諮/謀)る尺度」は、
「蛇に睨まれた蛙」(G.E.Lessing, "Fabeln", '13. Die Wasserschlange"
参照)の臆病さ/愚かさと、「そば(側)か(離)り/そ・ばかり(曾婆訶理)」
(『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171参照)の勇気/賢さの
間にある。



225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 09:59:56.65 ID:r5TThqWY.net]
>Die Wasserschlange  ― Gotthold Ephraim Lessing

Zeus hatte nunmehr den Fröschen einen andern König gegeben;
anstatt eines friedlichen Klotzes eine gefräßige Wasserschlange.

"Willst du unser König sein", schrien die Frösche, "warum
verschlingst du uns?"
"Darum", antwortete die Schlange, "weil ihr um mich gebeten habt."
"Ich habe nicht um dich gebeten!" rief einer von den Fröschen,
den sie schon mit den Augen verschlang.
"Nicht?" sagte die Wasserschlange. "Desto schlimmer!
So muss ich dich verschlingen, weil du nicht um mich gebeten hast."<

(出典 deutschland-lese.de/streifzuege/fabeln/gotthold-e-lessing/die-wasserschlange/)

>曾婆訶理、吾が爲に大き功あれども、既に己が君を殺せし、これ義ならず。
然れどもその功を賽(むく)いぬは、信(まこと)無しと謂いつべし。
既にその信(まこと)を行はば、還りてその情(こころ)に惶(かしこ)けれ。
故、その功を報(むく)ゆれども、その正身を滅してむとおもほしき。<
(出典 『古事記』、岩波文庫、倉野憲司校注、p.171)

226 名前:蛇に睨まれた蛙 mailto:sage [2023/02/26(日) 10:05:56.16 ID:r5TThqWY.net]
>>215
>"be-〜"/»be-〜«の用法についてメタ言語的に記述する段になると、
場当たり的に一貫性のない説明になるというのは、むしろ、極めて
不自然である(つまり、「自虐的」に何か無理をしている)と言はざるを
得ないのではないか。 <

227 名前:似非数学ポエム mailto:sage [2023/02/26(日) 10:18:48.85 ID:r5TThqWY.net]
この"be-〜"/»be-〜«/"con-〜"(すなはち、英語の"to be"および"by"
でもある)によって伝はる「存在感」が、ユークリッドの互除法である。

228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 10:30:30.72 ID:r5TThqWY.net]
>「人(ひと)」のごと(如)く(この場合、「文字通り」というのは、
その文字の通りそのようであるという意味である)「双数」的である

229 名前:犬も歩けば棒に当たる mailto:sage [2023/02/26(日) 11:05:41.58 ID:r5TThqWY.net]
>Da knurrte der Wulckowsche Hund, unter dem Präsidenten
hervor aber kam ein donnerndes Geräusch, ein lang hinrollendes
Geknatter — und Diederich erschrak tief. Er verstand nicht,
was dies für ein Anfall gewesen war. Das Gebäude der Ordnung,
wieder aufgerichtet in seiner Brust, zitterte nur noch leise.
Der Herr Regierungspräsident hatte wichtige Staatsgeschäfte.
Man wartete eben, bis er einen bemerkte; dann bekundete
man gute Gesinnung und sorgte für gute Geschäfte…<
(出典 wikisource.org/wiki/Der_Untertan/Kapitel_V)

230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 12:19:49.74 ID:r5TThqWY.net]
>ところで、古語の「わりなし」が表現しているのは、"irrational"でも、
"unreasonable"でもなく、フランス語であれば、《sans mesure》、
ドイツ語であれば、»ohne Maß«である。<

これに対応する英語の表現は、"without moderation"であり、
「『わり(割)』なし」の「わり(割)」、「『わり(割)』にあ(合)ふ/
あ(合)はない」、「『わり(割)』をく(食)ふ」、「『わり(割)』と良い」
などの表現において用ひられる「わり(割)」を孤立させて、名詞化
するならそれがドイツ語において対応するのは、英語では、
"modesty"や"moderation"として訳される»Bescheidenheit«
である。この「わり(割)」を、数量化された「あたひ(価/値)」の
与へられた「比」/"ratio"になぞら(準)へて捉へてしまう思想や
哲学は、「ひと(人/一/等)」について決定的に誤った考へ方を
して「ゐ」る。

231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 12:21:07.24 ID:r5TThqWY.net]
誤:名詞化するならそれがドイツ語において対応するのは
正:名詞化するならそれにドイツ語において対応するのは

232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 17:04:20.44 ID:r5TThqWY.net]
>>200-201
>»mit・an・sehen«または»mit an・sehen«という表現において、
»mit«はちょうど、「見て『ゐ/を(居)』られない」と表現される
場合の『ゐ/を(居)』に対応する表現となっていることが分かる。<

この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。
母語の日本語として普段から慣れ親しんでいる表現が、どのような
表現法であるのかについて、私自身は、をそ(教)はったことのない
ドイツ語の表現に接して、誰にをそ(教)はるでもなく初めて意識される
のは、とても面白いことだ。

>精選版 日本国語大辞典「いたたまらない」の解説
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)三「わたしが初ての座敷の時、
がうぎといぢめたはな〈略〉それから居溜(ヰタタマ)らねへから演コらうと云たらbフ」<

233 名前:名無bオさん@お腹いbチぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 17:09:19.77 ID:r5TThqWY.net]
コピペしたらなぜか文字化けした。

誤:演コらうと云たらbフ
正:下らうと云たらの

234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/26(日) 23:26:55.00 ID:r5TThqWY.net]
>>197
>Wiktionaryで"conor"の語源を参照すると、次のように記載される。
>From Proto-Italic *kōnāō, from Proto-Indo-European *kona,
from root *ken- (“to set oneself in motion”).<

"conatus"/「コナトゥス」のこの語源解釈に誰も文句をつけないのも、
かなり「自虐的に無理をしている」ように私には思へる。なぜなら、
ラテン語で"conor"の前に"prae"を付けただけの"praeconor"は、
英語の"to proclaim"に対応するような意味となるからだ。
(出典 latin-is-simple.com/en/vocabulary/verb/5569/)
そして、この"praeconor"という表現は、ラテン語から派生した
現代のスペイン語の"pretender"という表現に似ている。この
"pretender"と語源を同じくする英語の"to pretend"は、現代では、
「見せかける」という意味で使われるが、英語においても古くは、
そのように用ひられていたわけではない。
>pretend (v.)
late 14c., pretenden, "to profess, put forward as a statement or assertion,
maintain" (a claim, etc.), "to direct (one's) efforts," from Old French
pretendre "to lay claim," from Latin praetendere "stretch in front,
spread before, put forward; put forward as an excuse, allege,
"from prae "before" (see pre-) + tendere "to stretch" (from PIE root
*ten- "to stretch").
(出典 etymonline.com/search?q=pretend)



235 名前:を(終)はりなき数学ポエム mailto:sage [2023/02/27(月) 09:36:49.71 ID:KoqPzC2N.net]
「まるくをさ(収/治)める」とは「を(折)りあ(合)ひ」がつくように
することだろう。もともとは法制度の用語に由来するとされ、
「通達」の意味で用ひられるとともに、日常語としては、
»Bescheid sagen«で「(どうするかを)知らせる」、
»Bescheid wissen«で「事情に通じている」などの表現で
よく使われ、その場合は「情況」に相当すると考へることができる
»Bescheid«も、語源的には、「を(折)りあ(合)ひ」に相当するような
表現ではないかと私には思へる。
ところで、「まるくをさ(収/治)める」ように「を(折)りあ(合)ひ」が
つくようにすることは、円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられた
あたひ(価/値/能)の比により近似して求めることになぞら(擬)へる
ことができるだろう。

236 名前:を(終)はりなき数学ポエム mailto:sage [2023/02/27(月) 10:01:59.34 ID:KoqPzC2N.net]
円周率を、かぞ(数)へ/か(仮)ぞ(添)へられたあたひ(価/値/能)の比と
して求めることは、連分数計算の形式で表現してみれば、はっきりと
分かるとおり、究極的に数へられた数の比として決して収束すること
のない円周率を、既に定まった数の比として近似するたびに、
その都度、単位(たん・ゐ)としての1(「ひと/一/人/等」)の
方が精度として規定されることになる。これを、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』が
つくようにすること」に合はせて考へてみるなら、何か角
の立つ事情が生じた場合、それが「まるくをさ(収/治)まる」
ように「ひと/一/人/等」の規定の方が「を(折)りあ(合)ひ」
をつけること/"modification"もしくは"moderation"/
»Bescheidenheit«を求められるようになることを意味して
いるだろう。

237 名前:を(終)はりなき数学ポエム mailto:sage [2023/02/27(月) 10:31:33.46 ID:KoqPzC2N.net]
ところが、である。そのようにして「『まるくをさ(収/治)める』ように
『を(折)りあ(合)ひ』がつくようにすること」をすべての人々、あるいは
世界全体としての原理原則/倫(=人・侖)理としてしまうなら、
「を(折)りあ(合)ひ」をつけようとすることは、「究極的に数へられた
数の比として決して収束することのない円周率」を無限の精度で
追求するために、「ひと/一/人/等」が「を(折)りあ(合)ひ」をつける
ことを無限に絶え間なく求められるようなことになる。

当事者の間で物事に何らかの角が立つ状況であれば、「を(折)り
あ(合)ひ」をつけることが求められるのは、それが頻繁に生じて
煩わしいと感じられるとしても、「や(止)むを得ない」(原理原則
としての「を(終)はりなき」無限ではない)こととして受け容れ
られるだろう。しかし、もはや、みづから(身づ柄/自ら)が
関与することによって初めて成立する当事者の間では、
どのように角が立っているのかまったく不明でありながら、
「すべての人々、あるいは世界全体」という「究極的に数値
として求められた円周率」に喩えられる、決して「そこ」に
はあり得ない存在のために際限なく「を(折)りあ(合)ひ」を
つけることを求められるならば、それは、あらかじめ徒労
に過ぎないことと分かっていることを一方的に強制されて
いると感じられるようになる。にもかかわらず、一般的に
広く通用している哲学や思想は、明示的にであれ、暗黙裡
にであれ、そのような「『無限』の追求」を理想としている
のである。

238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 10:40:58.59 ID:KoqPzC2N.net]
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」をすべての人々、あるいは世界全体としての
原理原則/倫(=人・侖)理として、あらかじめ定めて、その原理
原則/倫理に従ふように個々の人々を誘導すべきだという考へ方
は、一見、まともで、正しいものであるように見えながら、
それ自体、まったく»Bescheidenheit«を欠いている。

239 名前:統治者目線で全体のことを考へるようになった蛙 mailto:sage [2023/02/27(月) 10:44:25.94 ID:KoqPzC2N.net]
>「イソポ、アテナスの人々に述󠄁べたる譬の事」

240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 11:13:55.78 ID:KoqPzC2N.net]
>この»mit・an・sehen«における»mit«の用法から、現代の日本語でも
普通に使はれる「いたたまれない」という表現が、「『ゐ(居)た(立)ち』
が『た(堪)えられない/たま(溜)らない』」という表現であることが分かる。

とても意外なことに、これに関連して「獺(カワウソ)」が、語源的に
どのような表現であったかを、連想により導き出すことができる。
なぜなら、「獺(カワウソ)」は、古語では、「かはうそ」ではなく、
「かはをそ」だからである。「かはをそ」が水辺に棲むイタチ科の
動物であることから、「かは」が「かは(河/川)」であることに
疑いの余地はない。では、「をそ」は何かと言へば、「を(居)そ(且)」
である。さらに、「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった
様子であり、したがって、「を(居)そ(且)」は、「ゐ(居)た(立)ち」、
つまり、「イタチ」の別表現であることになる。

241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 11:15:17.37 ID:KoqPzC2N.net]
>Derived characters
咀, , 姐, 狙, 阻, 䏣, 柤, 𤇅, 祖, 租, 粗, 組(组), 蛆, 袓, 䱉, 助, 䢸, 䪶, 宜, 㡹, 査, 𤇙, 䯶, 跙, 徂
(出典 en.wiktionary.org/wiki/且)

242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 11:26:53.19 ID:KoqPzC2N.net]
日本語の「ゐ(居)る」に対応して、英語の"to be"が本来的に
表現しているのは、「存在」とういよりも、「臨場感」だろう。

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 11:31:57.00 ID:KoqPzC2N.net]
ただし、あらかじめ非対称な関係がそこにあることを前提としている
ように感じられる「『臨床』哲学」という言葉は、私は好きではない。
「臨床」は"bedside"以外ではあり得ないだろう。

244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/27(月) 22:29:15.66 ID:KoqPzC2N.net]
臨場性/ライブとしての"being"



245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/28(火) 10:52:43.80 ID:5iWWGne4.net]
>「そ(且)」が何かと言へば、それは立ち上がった様子であり

「立ち上がった様子」を単に"standing"という状態に対応するものと
イメージしてしまうとすれば、この説明を適切に理解していない。
「そ(且)」によって表現されているのは、"standing"ではなく、
"to stand up"であり("to help"に対応する「助」という漢字が、
"to help (stand) up"をイメージさせるものであることを想起して
みるのもいいだろう)、さらには「『そ』び(聳)ゆ」の「そ」に
対応するように"rising up"であり(「阻」がどのような形象文字
としてどのような様態をイメージさせるものであるかを考へて
みるとよい)、その作用が概念化して捉へられた"uprising"である。

ただし、日本語の表現としてこの「そ」の用法は、「且」という
漢字によって縛られるものではなく、この漢字の象形がその様態の
イメージを想起させるのに好都合であるために利用したまでである。
例えば、以前に牛頭天王に関連して、
「曽尸茂梨(そしもり)」⇔「蘇志摩利(そしまり)」の互いに反転した
関係について説明したとき、「曽尸茂梨(そしもり)」は、死体が
うず高く重なる「死屍累々」であり、「蘇志摩利(そしまり)」は、
「復興の志」であるといったような説明をした憶えがあるが、
この場合の「そ(曽/蘇)」も、"rising up"に対応している。
他にも、「蝦夷(えぞ)」、「熊襲(くまそ)」「阿蘇(あそ)山」、
「味噌(みそ)」(てまえ・みそ(三十・一文字/みそ・ひともじ))など
における「そ」の用法がすぐに想起される(「そ/ぞ」は、「増」
や「層」などの漢字に関連付けられる場合も多く見られること
から、「そ(且)」と「そ(曽)」のイメージは複合化している)。

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2023/02/28(火) 11:21:13.46 ID:5iWWGne4.net]
このような連想による推論のプロセスは、
「『まるくをさ(収/治)める』ように『を(折)りあ(合)ひ』がつく
ようにすること」は、その都度、暫定的に単位の精度を「都合に
合はせて」定めて、近似としてまるく(収/治)まるようにこた(応)へ
を求めることに喩えることができるが、それを何らかの権威によって
たし(確)かなことがあらかじめ保証され根拠に基づく演繹、または
「全体的な結果」として最終的に到達されるはずであると信じ込まれ
た絶対的な予定調和からの逆算のようなものと思ひ違ひをするなら、
推論の根拠がまったく不確かなことや、導き出される近似の
こた(応)への精度(誤差が大きすぎて、まったく使ひものにならない
場合も含めて)に大きなばらつきが生じることに気づいて、
期待を裏切られることになるだろう。しかし、それは、そもそも、
勝手な思ひ違ひである。というのも、私は、他の誰かが私の
推論によって導き出されたこた(応)へをたの(頼)みにしなければ
ならないなどということは、まったく要求していないからだ。
利用するのも、利用しないのも各々の勝手であり、たの(頼)みに
できるかどうかは、その都度、各自が自分で確かめればよいこと
であって、私の知ったことではない。






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