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【イスラム哲学】井筒俊彦を読む



1 名前:考える名無しさん [2017/05/24(水) 21:31:52.49 0.net]
井筒俊彦(1914-1993)スレ

790 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 01:27:26.09 0.net]
映画『シャルギー(東洋人)』が観れなかった人には、この本がある程度代わりになる。
著者は、映画の中で井筒の紹介の中心的役割を担っていたイラン人研究者。


“以前、私はテヘラン国際ブックフェアに行き、テヘラン大学出版社の展示室にあった諸々の本を見ていた。
 いきなり、ハーメネイー師がブックフェアにいらっしゃり、視察していることに気付いた。
 ハーメネイー師がテヘラン大学出版社の展示室に至った時、
 井筒が書き、テヘラン大学出版社によって出版された『ザブザワーリーのヒクマ(叡智)の基礎』を彼は見た。
 そして、彼は私に、なぜ井筒氏はイランに戻らないのかと尋ねた。(メヘディー・モハッゲグとの対談より)” 8章

“井筒とナスルは日本と東アジア研究所の設立のために、2,000冊から3,000冊の本を日本から購入し、哲学アカデミーの図書館へと納入させた。” 11章

― 『井筒俊彦の比較哲学:神的なものと社会的なものの争い』 バフマン・ザキプール、知泉書館 (2019)

791 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 01:27:59.78 0.net]
>>790
ハーメネイー師はホメイニー師の後を継いだ現イランの最高指導者。

このナスルという人物は、マギル大学で一緒だった井筒をイラン王立哲学アカデミーへ誘った。
更に、哲学アカデミーでは井筒に東洋思想をやることを勧め、その結果の一つが『老子道徳経』の英訳。

792 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 01:28:40.68 0.net]
S.H.ナスル 『イスラームの哲学者たち』 黒田寿郎、柏木英彦 訳、岩波書店 (1975)

これも良書。

793 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 01:29:42.89 0.net]
“井筒の東洋哲学は哲学の中心を欧州からアジアへ移すのに貢献するでしょう” ロバート・ウィスノスキー (カナダ イスラム学者)

“我々イラン人は日本人以上に井筒を高く評価しています” バフマン・ザキプール (イラン 哲学者)

“井筒の東洋哲学は、根底でいろんな宗教のおおもとのところで鳴り響いている和音みたいなものを取り出そうとした。
 その響きには、構造、論理、論理を超えた何かがある。
 世界中に分かれてお互いに対立し合う宗教も、おおもとまでたどっていくとあらゆる宗教が行き来できる。
 イスラム教も仏教もいろんな宗教が自由に行き来できる領域を探ろうとした。” 中沢新一

― BS1スペシャル 「イスラムに愛された日本人 知の巨人・井筒俊彦」 20191108

794 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 01:31:01.87 0.net]
>>793
『シャルギー(東洋人)』の中では、井筒がムスリムでないことにも言及されていた。
その一歩引いた視点からの考察が、イスラム世界でも高い評価を得ているとのこと。
そのことを踏まえた上で、このザキプールの評はパンチがある。

井筒が何をやったのかという説明としては、この中沢の評が一番的確。

795 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 03:23:26.21 0.net]
『シャルギー(東洋人)』はイラン制作の2時間10分の映画だから、半分ぐらい寝るだろうと思っていたが、とんでもない。

100名以上の知識人によって、井筒の生涯と思想のディテール、イラン人から見た大東亜共栄圏の検証、昨今の国際政治の状況までもが、
神学と言語意味論(セマンティクス)と分析哲学を織り交ぜて語られる。

井筒のテクストと同じぐらい高度で緻密な内容を、毎秒字幕で読まされるわけだから、
メモを取る暇もないどころか、まばたきもしないようにして観なければならなかった。

796 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 03:26:34.41 0.net]
井筒自身は政治を語らない人だったが、出演していた日本人研究者の一人は、
「井筒が政治について言及していてくれていたら、後の人はもっと楽になった」ということを言っていた。

それはそうだろう。哲学の世界で、前人未到の領域へ到達した人だから。

797 名前:考える名無しさん [2020/01/08(水) 05:49:48.26 0.net]
>前人未到の領域へ到達した人
理解できる前人未到=超人
理解できない前人未到=キチガイ
だが超人は、キチガイを自分より遥か上の存在と見ている、おまえらが無能なだけ。

798 名前:考える名無しさん [2020/01/09(木) 01:37:34 ID:0.net]
>>797
日本語でおk



799 名前:考える名無しさん [2020/01/09(木) 02:05:53 ID:0.net]
イブン・アラビー(1165-1240)はムウタズィラ派やアシュアリー派といった思弁神学を批判し、神の名で呼ばれる以前の絶対無分節的無と、そこからの神の自己顕現(タッジャーリ)を策定した。

「思弁は諸存在物と結びついている」ため、その関係を断ち切り、思弁の垢から心を浄めるべく、タッジャーリを観照する場として「心」の機能を重視した。

参考:
相樂悠太 「理性と「理性の限界の向こう」:『マッカ開扉』にみるイブン・アラビーによる他説との知的対話」 『宗教研究 第93巻 396』 日本宗教学会(2019.12)

800 名前:考える名無しさん [2020/01/09(木) 02:07:08 ID:0.net]
カントの理性批判とメイヤスーの切断論を合わせたようなことをやっている

801 名前:考える名無しさん [2020/01/24(金) 15:34:52 ID:0.net]
幸運の恩恵を受けた者が、幸運の恩恵を受けられなかった者をどうバカにすることができよう。

アラー・アクバル!(神は偉大なり)

802 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:02:03 ID:0.net]
「老子」各種翻訳

・『老子』 小川環樹、高木智見、中公クラシックス (2005) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 福永光司、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『老子』 蜂屋邦夫、岩波文庫 (2008) 原文、書き下し、訳文
・『老子道徳経(英文著作翻訳コレクション1)』 井筒俊彦、慶應義塾大学出版会 (2017) 原文、書き下し、訳文
・『老子 無知無欲のすすめ』 金谷治、講談社学術文庫 (1997) 原文、書き下し、訳文
・『エッセンシャルタオ 老子』 加島祥造、ちくま文庫 (2005) 原文、訳文
・『老子<全> 自在に生きる81章』 王明、地湧社 (2005) 原文、訳文

803 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:02:19 ID:0.net]
「荘子」各種翻訳

・『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇』 福永光司、興膳宏、ちくま学芸文庫 (2013) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 内篇 [中国古典選]』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 外篇 [中国古典選] 上中下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 雑篇 [中国古典選] 上下』 吉川幸次郎、福永光司、朝日新聞社 (1978) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 第1冊 内篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第2冊 外篇』 金谷治、岩波文庫 (1979) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第3冊 外篇・雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1982) 原文、書き下し、訳文
・『荘子 第4冊 雑篇』 金谷治、岩波文庫 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全訳注 上下』 池田知久、講談社学術文庫 (2014) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 中国の古典 上下』 藤堂明保、池田知久、学研 (1983) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 全釈漢文大系 上下』 赤塚忠、集英社 (1980) 原文、書き下し、訳文

・『荘子 1・2』 森三樹三郎、中公クラシックス (2001) 書き下し、訳文

・『荘子(中国の古典)』 野村茂夫、講談社 (1987) 抄訳、原文、書き下し、訳文、全体の1/3

・『荘子[中国の思想]』 岸陽子、徳間文庫 (2008) 抄訳、原文、書き下し、訳文

・『荘子 新訳』 岬龍一郎、PHP研究所 (2013) 抄訳、書き下し、訳文

・『荘子 ヒア・ナウ』 加島祥造、パルコエンタテインメント事業局 (2006) 抄訳、訳文

804 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:03:34 ID:0.net]
老荘的な語法は、絶対無、分節化/無分節化論、存在の解体構築論など、
井筒哲学の骨格ともいうべき大きなウェイトを占めているので、早めにやっておくのがいい。

805 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:04:10 ID:0.net]
ハイデガーやデリダの存在解体/再構築にあたる作業を、
荘子は分節化/無分節化(限定/無限定)という形でやっている。


“物を物としてあらしめる道は、物に対して限定を設けないが、物相互の間には限定があり、それを物の区別という。無限定な世界から有限の世界があらわれ、有限の世界がまた無限定の世界へと移ってゆく。”
“物物者。與物無際。而者有際者。所謂物際者也。不際之際。際之不際者也。(知北遊篇第二十二 6)”

― 『荘子 外篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

806 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:04:30 ID:0.net]
次の「畛」は、田のあぜ。そこから転じて、区切り・境界をいう。
ラカンはこれと同じ役割を「クッションの綴じ目 (ポワン・ド・キャピトン)」に例えた。(ラカン『無意識の形成物[上]』)


“そもそも道にはもともと境界などなく、ことばにはもともと固定した意味などない。そこから〔道がことばによって表象されるようになると〕区別が現れるようになった。”
“夫道未始有封。言未始有常。爲是而有畛也。(斉物論篇第二 5)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)

807 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:05:17 ID:0.net]
「無無無」が定立される箇所。


“有ということがあるし、無ということがある。またもともと「無ということ」はないということがある。またもともと「無ということはないということ」はないということがある。”
“有有也者。有無也者。有未始有無也者。有未始有夫未始有無也者。(斉物論篇第二 4)”

― 『荘子 内篇』 福永光司、興膳宏、筑摩書房 (2013)


荘子は有ることと無いことの根源的前提を考えようとした。

解説は以下を参照。
『荘子 内篇(中国古典選 12)』 福永光司、朝日新聞社 (1978)

808 名前:考える名無しさん [2020/01/29(水) 02:59:02 ID:0.net]
>>173などは特に老荘的な表現。


・《老子》第1章に〈玄のまた玄,衆妙の門〉とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。
・微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。
・玄の字は黒い糸を束ねた形で、かすかで見にくいところから天の色とされ、また北方の色とされた。
・赤または黄を含む黒色。



809 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 01:51:09 ID:0.net]
>>173
井筒の「存在-神-論(Onto-Theo-Logie)」は、
老荘+ハイデガーの現象学的存在論+デリダのロゴス中心主義の解体。

810 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 06:02:22 ID:0.net]
かす(微/幽)かで分かりにくい違いを見事に捌いて見せるからこそ玄人なのでわ?

811 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 06:39:29 ID:0.net]
603 :考える名無しさん:2016/01/24(日) 09:45:22.05 0
>>594
構造主義に関連して日本では、一時、ソスュールの「言語には差異しかない」
という発言を引用することが流行ったが、これはとても誤解を招きやすい表現
であり、記号論を理解する妨げにもなっていると思う。記号論としてより妥当
な表現をするなら、「弁別作用の働かない言葉は、物事を区別するのに役立た
ない」というべきだろう。そして、物事を区別するのに役立たない言葉は、
使われなくなるか、「役に立たないことが有用である」限りで使われるのである。
したがって、言葉は、弁別作用を獲得すること/失うことによって絶えず変化しているのである。その変化しつづける弁別作用を、やはり変化しつづけている自らの言葉を用いながら捉えることが、解釈の営みであり、記号論のプロセスなのである。

812 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 08:36:45.74 0.net]
>>808は幽玄の玄

813 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 08:44:05 ID:0.net]
能の翁=神

金春禅竹『明宿集』における翁論(翁wikiより)

> 抑翁ノ妙体 根源ヲ尋ネタテマツレバ 天地開闢ノ初メヨリ出現シマシマシテ [中略] 垂跡ヲ知レバ 歴々分明ニマシマス
>
> (そもそも「翁」という神秘的な存在の根源を探究してみると、宇宙創造のはじまりからすでに出現していたものだということがわかる。 [中略] こういう神としての示現(垂迹)を知れば、ますますいろいろなことがわかってくる。)

814 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 08:45:02 ID:0.net]
>>806
>次の「畛」は、田のあぜ。そこから転じて、区切り・境界をいう。

畛 ピンインzhěn ((文語文[昔の書き言葉])) (田の)畔道.

これを同じ発音の表現と比べて見るとすぐに分かるが、
「畛 ピンインzhěn」が表しているのは、「目が詰まっていること」
だから、境界として高く盛られた土が固められている様子を表して
いるのだろう。

缜(稹)ピンインzhěn
((文語文[昔の書き言葉])) 細かい,緻密である.
鬒(黰)ピンインzhěn
((文語文[昔の書き言葉])) (頭髪が)濃くて黒い.

815 名前:考える名無しさん [2020/02/07(金) 08:53:24 ID:0.net]
さらに、この発音は、「真実」の「真」にも近い
真 ピンインzhēn

すると、「真実」の「真」は、「中実である」こと、すなわち、
「中身が詰まっている」ことを表していたのだろうと推測できる。

816 名前:考える名無しさん [2020/02/13(木) 17:13:06 ID:0.net]
>>808
老荘に限らず中国思想だろうな
玄は「黒」「闇」などの意味を持つ
五行思想では「水」行が五方では「北」、五色では「黒」または「玄」となる
北方を守護する神を玄武という

817 名前:考える名無しさん [2020/02/13(木) 18:05:10 ID:0.net]
「北(きた)」は、日本語では、「きたな(穢/汚)し」の「きた」でもある。
この場合、「〜なし」が表現しているのは、程度の甚だしさであり、
「きた」は、英語で表現するなら"darkness"を表している。

818 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 00:53:30 ID:0.net]
>>814-817
お子様ランチのハンバーグではなく、つけあわせのコーンとパセリの批評かな?



819 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 01:00:50 ID:0.net]
「ぼくが知ってる漢字の話」?

820 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 09:08:23 ID:0.net]
>>816は、別の人ですね
私には、「きた(北)」は、表現としてよく分からないけど、
「ぼくが知ってる漢字」から推測してみると、「きた」の
「き」は、中国語の"qi(ピンイン表記)"に対応しているの
ではないかと思う。"qi(ピンイン表記)"は、「チィー」
と発音されて、「き」とは似ていないように思えるけど、
"qi(チィー)"と発音される漢字の多くは、日本語の発音
では、「き」と読まれている。
https://cjjc.weblio.jp/content/qì

821 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 09:15:39 ID:0.net]
「きた」の「た」が、「ひな・た(日向)」や「かな・た(彼方)」の
ように方向としての「た(手)」を表していると想定してみると、
「きた(なし)」のように、「きた」は"darkness"を表現するように
用いられているのだから、"qi(チィー)"と発音される中国語の
表現のなかでも、「漆黒」の「漆 ピンインqī」辺りが有力候補
に挙がりそうな気がするけど、どうだろう。

822 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 09:17:49 ID:0.net]
ところで、「けた」と読まれる気多(けた)大社の「気多」は、
「きた(北)」とは無関係なのだろうか。

823 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/14(金) 16:55:33 ID:0.net]
https://cjjc.weblio.jp/content/?漆漆的
?漆漆
状態詞

日本語訳真っ暗
対訳の関係部分同義関係
?漆漆の概念の説明
日本語での説明 真っ暗[マックラ]
まったく暗く,何も見えないこと

824 名前:考える名無しさん [2020/02/14(金) 21:49:53 ID:0.net]
>>820-822
邪魔だから語源板でやってこい

825 名前:考える名無しさん [2020/02/18(火) 16:10:56 ID:0.net]
>>820で言っているキの音は「団音」、
>>821で言っている漆の字はシツの音で語頭は「尖音」、tsiツィのような音
中国語で両者の区別がなくなりどちらもqiチになったのは新しく、
ここ数百年の変化だ(尖団の合流と言う)
古代においては別の音として区別されていたので、qiの音で一律に語源を解くのは誤りだ

826 名前:考える名無しさん [2020/02/18(火) 16:29:03 ID:0.net]
>古代においては別の音として区別されていたので、
>qiの音で一律に語源を解くのは誤りだ

『古代の日本語』が音韻変化に基づいて中国語から派生したと想定
するのなら、そのように「明確な誤りを指摘する」ことができるの
でしょう。ところが、現代の日本語を見れば、日本語は、英語の
表現を大々的に流用している。ところで、英語において、"l"と
"r"の発音、「b」と「v」の発音の区別は、はっきりしているが、
日本語において流用される場合、その区別は消失してしまう。

ここで私は、私が単にふと思いついた連想による推測が正しいと
主張しているわけではない。そうではなく、古代において中国語
で区別されていたという事実は、連想によって可能性を探る妨げ
にはまったくならないことを指摘しているまでです。

特に、「時系列」に囚われる考え方は、それ自体が罠に陥る
可能性が高い。というのも、それは、「系統論」的な考え方
を暗黙の規範として前提としているからだ。

827 名前:考える名無しさん [2020/02/18(火) 16:41:21 ID:0.net]
「歴史的な中国語の変化」の研究が規範として存在し、それに照らして
見ると、「中国語から日本語が派生したとは考えられない」というのは
確かでしょう。中国語と日本語の間にもしそのような派生関係を裏付ける
音韻的な関係が存在するのなら、そのような関係はとっくに実証されて
いたはずだ。しかし、私が主張しているのは、そのようなことではない。
私は、日本語が中国語から派生したと言っているのではなく、日本語が
中国語の表現を「流用」することによって、つまり、中国語の規範を
離れて勝手な体系を作り上げることによって成立したと言っている。
その場合、流用された中国語の表現は、規範に則って中国語に合わせる
ように修正力が働くものではなく、もともとの発音がその時代の
権威ある中国語の規範を外れていたとしても、それを使う人々の間で
通用するように使われることによって規範化したことになる。

828 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/18(火) 16:47:24 ID:0.net]
現代の日本語の表現において英語に由来する「外来語」の表現は極めて多いが、
その発音において英語としての弁別性が無視されているだけでなく、英語の発音
の規範どおりにそれが発音されても、英語を母語とする人々にはまったく意味を
成さない「和製英語」も数多く含まれている。



829 名前:考える名無しさん [2020/02/18(火) 16:57:32 ID:0.net]
>tsiツィのような音中国語で両者の区別がなくなり
>どちらもqiチになったのは新しく

例えば、時代的変化、地域差を無視したとても大雑把な見方から、
スペイン語とポルトガル語を比べてみても、いずれの言語に
おいても"l"と"r"の区別は消失していないが、対応する言葉で
"l"と"r"が入れ替わっているものがある。時代的な変化を
研究することは、それ自体で重要でしょう。しかし、そのような
入れ替わりが生じたり、その発音が、それを母語としない人々
によって使われたときに区別が消失してしまうことがある
ことは、それ自体が「流用」について「可能性を探る」場合の
重要な手がかりとなる。

830 名前:考える名無しさん [2020/02/18(火) 17:07:22 ID:0.net]
最初から留保をつけているとおり、
>私には、「きた(北)」は、表現としてよく分からない

しかし、それが「き(=dark)た(=side)」を表している可能性は
十分にあるだろうと思っている。ただし、「きた」が「暗さ」を
表すように用いられている表現は、「きた・なし」の他には
簡単に例が見当たらない。そこで、この「き」という発音の
用法にはどのような由来が考えられるのか、その可能性をオープンに
探っている。

831 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/18(火) 18:21:22 ID:0.net]
「気(qi/チ)」の発音と「漆(tsi/ツィ)」の発音が一緒に
日本語に取り込まれて「き」の発音において混同されて
用いられるようになったという証拠はどこにもない。
したがって、「きた(北)」の「き」が「漆(tsi/ツィ)」
に由来する可能性があるのではないかというのは、連想
によって根拠のない憶測を述べているに過ぎない。

ところで、日本語では、外来語であっても「チ」と「ツィ」
の発音を区別しない。だから、「ツィゴイネルワイゼン」
と書いても、「チゴイネルワイゼン」と発音されるし、
ギリシャ首相を務めた「アレクシス・ツィプラス」の場合
などは、どうせ日本語では発音が区別されないので、新聞
でも「チプラス」と表記していた。

「気(qi/チ)」と「漆(tsi/ツィ)」が同時に日本語に取り込ま
れたのであれば、「気(qi/チ)」は、「き」と発音される
ようになったのだから、「漆(tsi/ツィ)」も同じく「き」と
発音された可能性は排除できないだろうと思う。ただし、
繰り返すが、私は、実際にそうであったと主張しているわけで
はない。

832 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 01:37:43 ID:0.net]
>>826-831
井筒の本は読んだことがあるのか?
井筒がどこでそんな語源や音韻の話をしている?

833 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/19(水) 13:16:44 ID:0.net]
井筒の本は、「意識と本質」とか、全集の一部とかを読んだことがある。
井筒訳のコーランと解説本の「コーランを読む」も読んだことがある。
でも、内容はあまり覚えていないな。

834 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 13:26:41.01 0.net]
>>826-831
中国語から現代日本語への「音の流用」などと言う現象は実際には起こっていない
それは言葉の歴史に反する
あなたの脳内でただ連想が起こったと言うだけ
系統の異なる言語の間の話だから、系統論が関係ないのは当たり前だ

835 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 13:42:22 ID:0.net]
>>831
違う違う、全然違う
「気」は唐代の中古漢語音でキ、日本漢字音でもキ、
「漆」は中古音でツィッtsit、日本漢字音でシツ、
古代日本語のサ行は破擦音だったので、これは唐代の音をかなり忠実に写している
「漆」の音は中国北方では宋〜元頃に後部の詰まる音(入声韻尾)を失いツィtsiとなる
中国北方で「気」キと「漆」ツィが共にチという音になり、区別がなくなったのは、
17世紀頃だろうと言われている。これが尖団の合流。
「気」をキと読む日本語の方が古い中国語の音を保存しているのだ
「気」をチと呼ぶようになった北方中国語の方が、新しく起こった音変化を反映しているのであり、
逆ではない

836 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 14:16:56 ID:0.net]
>中国語から現代日本語への「音の流用」

わざとだろうけど、私は「音の流用」なんてことは
どこにも書いてませんよ。

837 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 14:52:43 ID:0.net]
>>835
中国語は、権威のある言葉として日本に入ってきたのだから、
中国語から直接に取り入れられたことが明らかである表現について、
その中国語と日本における漢語の対応関係があるのは当然のことでしょう。
それについて、中国語の系統学的な研究は重要であるし、
その知見に基づいた見解を明示的に書き込んでくれることは歓迎します。

私は、別に自分の連想によるちょっとした思い付きが間違っていない
などとは思っていないのです。ただし、中国大陸から入ってきた言葉
の日本語形成における利用の可能性を探る際に、中国語の系統学的な
研究は、探求の道を塞ぐ妨げとして用いられるべきではない。
というのは、古代において大陸から入ってきた「中国語」は、
現代に系統学的な研究において対象とされる「中国語」よりも
はるかに多様であったと考えられるからです。大陸からの言葉の
表現の流用として広く通用するようになっても、それが中国
大陸において中国語として通用しないなら、それが、大陸から
の言葉の流用であったことは忘れられ、権威のある「中国語」
として用いられる漢語との対比において、日本の現地の言葉
となる。そのような流用が生じることは、人々の接触において
自然なことであり、それについて、系統学的な研究は、あまりにも
盲目なのです。

838 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/19(水) 15:12:25 ID:0.net]
発音の変化の系統学的な研究は、発音の変化をあたかも物理学的な
変化であるかのように扱いがちだが、発音は、表現のために用いら
れるので、どのように発音が変更されるかは、表現の意図と結び
ついている。

例えば、英語でもポルトガル語でも"l"によって表記される発音
が、日本語に移せば「ウ」または「オ」で表記される場合が
多くある。一時流行った、「アンビリバボー」というのが
一例である。もともとは、日本語において「アンビリーバブル」
と発音されるものとされていたが、語末の「ル」の発音が
英語を母語とする米国人の発音とかけ離れており、より
近い発音に聞こえるようにそのように変更されたのだろう。
では、日本語において、「ウ」または「オ」の発音は、"l"が
「ル」で表記される場合のような「ル」の発音に変化しうる
だろうか。そのように問うなら、普通は否定的な答えが
返ってくるだろう。



839 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/19(水) 15:26:21 ID:0.net]
最近テレビで流れている不動産仲介会社のCMで、ブタのぬいぐるみが、
「エイブル」という社名を「エイブー」と発音し、それを女性が
「エイブル」と「きちんと発音する」ように訂正する内容のものがある。
これは、「アンビリバボー」をはじめ、英語から取り入れられた
外来語において「〜ブル」という発音は誤りで、「〜ブー」または
「〜ボー」と発音するのが「正しい」とする風潮に抵抗するものだろう。

人は通用する規範が与えられると、それに過剰適応することがしばしば
あり、「エイブル」という固有の社名でも「エイボー」または「エイブー」
の方が正しいはずだと感じてしまう。だが、企業にとっては、自社の
社名は固有の名称なのだから、日本国内で営業している以上、英語として
の発音の一般的な正しさに適応しようとする必要などないのである。
だから、「エイブー」は誤った発音であり、「エイブル」が正しい
ことになる。ところで、逆に日本語は日本語としてきちんと発音しま
しょうという風潮になれば、「〜ブー」または「〜ボー」は、
「〜ブル」だったのではないかという類推が働いて、もともと、
「〜ブー」または「〜ボー」であったものが、「〜ブル」に訂正
されるという過剰適応が行われるようなことも、言葉の使用の変化
においては、常に生じる可能性があるのである。

840 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 17:08:04 ID:0.net]
>>837
意味不明。あなたはせいぜいここ数百年の間に起こった音変化を連想の素材にしているだけ
それを古代の多様な中国語と考えるのは事実に反する
事実を思考の妨げと考えるのなら、古代だのより古いだの言わなければいい
時系列に沿った事実の探求には、それなりの先人の科学的思考の蓄積があるのです
連想に基づいたポエムを書きちらしたいだけなら、科学と衝突するような言葉を使わなければいい

841 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/02/19(水) 18:52:16.44 0.net]
>時系列に沿った事実の探求には

それは、残された資料に見られる事実を推測により時系列で
互いに関係づけたものであって、それとは別の関係を排除する
ために利用できるようなものではないでしょう

842 名前:考える名無しさん [2020/02/19(水) 23:15:16.73 0.net]
>>833
読んでいる内に入らない

843 名前:考える名無しさん [2020/02/20(木) 01:14:50.40 0.net]
>>775のデブは、ルーミーを開いたこともないし、
学術に至っては、何を批判したらいいのか検討もつかない

844 名前:考える名無しさん [2020/02/24(月) 09:55:18.96 0.net]
人はよく「ま(目)ちが(違)ふ」から、手で触って「た(手)しかめ」ようとする。

845 名前:考える名無しさん [2020/02/24(月) 10:06:59 ID:0.net]
「うたが(疑)ふ」という表現は、「うた+か(交)ふ」と分解して解釈する
ことができ、岩波古語辞典においてもそのように説明されている。
この「うた」が、「うた(歌)」や「うたた(転)」と共通していることも
岩波古語辞典で指摘されるとおりだろう。だが、そのことから、
「うたがひ」が「自分の気持ちをまっするに表現する意」を表して
いるとする同辞典の解釈は完全に誤っている。というのも、
既に別の機会に指摘したとおり、「うた(歌)」や「うたた(転)」の
「うた」自体が「う(≒表面)+た(≒(手などで)触れる)」として
さらに分解されるからである。

846 名前:考える名無しさん [2020/02/24(月) 10:12:17 ID:0.net]
「う(≒表面)+た(≒(手などで)触れる)+か(交)ひ」は全体として、
フランス語で表現するなら、試行錯誤としての《tâtonnement》
を表している。実際、「うたがふ」という動詞の意味は、
フランス語の再帰表現、"se tâter"にほぼそのまま対応する
だけでなく、発音のイメージにも共通性を見ることができる。
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/se_tâter/76821
se tâter
Être indécis, s'interroger sur la conduite à tenir.

847 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:35:47 ID:0.net]
井筒は「ポスト構造主義の乗り越え」の必要性を説き、
自身もいくつかの例を断片的に示してはいたが、生前にその次のパラダイムを目にすることはなかった。


“構造主義(Structuralism)勃興以来、いわゆるポスト構造主義を経て、
 今やそのポスト構造主義の彼方への乗り越えすら云々されております”

― 井筒俊彦 「言語哲学としての真言」 (1984年、高野山での講演)

848 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:36:09 ID:0.net]
今読み返してみると、『ルーミー語録』(1978)にはそのヒントがあるように思える。

井筒はルーミーの言語哲学を、そのピークにおいて行われる「ファナー(自我消融)」を通じた原始の実在体験と形象体験が再結晶化したものと説く。

このことには、ポスト構造主義(言語的転回)のピークからの実在論的転回(ポスト・ポスト構造主義)という、その後の哲学史的展開と重なるからだ。



849 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:36:34 ID:0.net]
『ルーミー語録』を軸に、井筒を原=ポストポスト構造主義者として読み直すことができる。

850 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:37:51 ID:0.net]
ルーミー語録

・『ルーミー語録 (イスラーム古典叢書)』 井筒俊彦、岩波書店 (1978) 訳と解説
・『井筒俊彦著作集 11 ルーミー語録』 中央公論社 (1993) 訳と解説
・『井筒俊彦全集 5』 慶應義塾大学出版会 (2014) 解説のみ

851 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:39:14 ID:0.net]
この中では、ルーミー自身がハッラージュの「アナ・ル・ハック」(我こそは神)>>463>>338
の解説をしているのだが、その真相というのがすごい。

一般的な一神教には二神は存在しないにしても、まだ神とそれ以外のもの(世界と人)が存在する。
スーフィズムの立場からすれば、これではまだ生ぬるいらしく、
神と我の対立状態すらも撤去して、神の絶対的な一者性を完成させるだという。謙虚さの極致として。

852 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:51:50 ID:0.net]
地球人の視点を持てば、木は命の源だ。クルアーンにもイチジクが出て来る。
不老長寿の実だそうだ。エデンの園で二人があそこを隠したのもイチジクの葉だ。
仏が悟りを開いたインド菩提樹も、クワ科イチジク属だ。
だから実はイチジクも剪定しないと、巨大な高木になる。
世界に広めよう、イチジクの実だ。

853 名前:考える名無しさん [2020/03/06(金) 23:59:33 ID:0.net]
ちなみにイチジクの敵はカミキリムシだ。カミキリムシを寄せ付けない、コンパニオンプランツはビワだ。ビワの木は日本の木刀になる。世界にイチジクの実を広めたら、日本のビワの木の話も加えたい。そんなクルアーンが本当は必要なのだ。

854 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:29:11 ID:0.net]
>>852-853
邪魔

855 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:33:47 ID:0.net]
>>851
そうすると、この瞬間、外在的超越から内在的超越になるのかもしれない。

856 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:36:05 ID:0.net]
他には、イブン・アラビーも内在的超越。存在一性論。


“絶対者そのものが絶対者〈超越者〉であるばかりでなく、絶対者自身が世界に対して世界のなかで〈自己開示〉する”

― 井筒俊彦 『スーフィズムと老荘思想(上)』 4章1部 (2019)

857 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:36:30 ID:0.net]
【外在的超越】
ユダヤ教、キリスト教、イスラム

【内在的超越】
スーフィズム
・アル・ハッラージュ(858-922)

・イブン・アラビー(1165-1240)

858 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:37:20 ID:0.net]
すぐに良い例が見つからないのだが、外在的超越の神のイメージというのは、こういうもの。
神≠被造物であり、地球外生命体に例えられる。(もっと言えば宇宙外)


“Godは、人間と、血のつながりがない。全知全能で絶対的な存在。
 これって、エイリアンみたいだと思う。
 だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。”

― 『ふしぎなキリスト教』 橋爪大三郎、大澤真幸、講談社現代新書(2011)



859 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:37:26 ID:0.net]
>>851 神は母なる地球だ。地球の映像を見た事の無いボケの話は読まぬ様に気を付けたい。

860 名前:考える名無しさん [2020/03/07(土) 00:38:07 ID:0.net]
>>858
それに対して、内在的超越は汎神論のイメージに近くなる。

861 名前:考える名無しさん [2020/03/09(月) 02:46:14 ID:0.net]
>>857を拡張

内在的超越から汎神論への影響

【外在的超越】
ユダヤ教、キリスト教、イスラム

【内在的超越】
スーフィズム
・アル・ハッラージュ(858-922)「アナ・ル・ハック(我こそは神)神と被造物の対立の撤去」
・イブン・アラビー(1165-1240)「存在一性論」

スコラ学
・アッシジのフランチェスコ(1182-1226)「万物兄弟の思想」
・トマス・アクィナス(1225-1274)「神の世界内在」
・ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)「極大と極小(神と被造物)の一致」

ユダヤ哲学
・スピノザ(1632-1677)「神即自然」

862 名前:考える名無しさん [2020/03/09(月) 03:21:01 ID:0.net]
内在 

② [哲] 〔ドイツ Immanenz〕㋐ 神やイデアが現象(世界・個物)の内に本質として存在すること。 (大辞林 第三版の解説)


外在 

[名](スル)外界に存在すること。また、ある事象の原因・理由などが、その事象の外にあること。「外在する原因」(デジタル大辞泉の解説)

863 名前:考える名無しさん [2020/03/10(火) 01:45:41 ID:0.net]
キリスト教の場合は複雑で、聖書の神は外在的だが、イエスの受肉は、内在へ向かって降りてきている。

864 名前:考える名無しさん [2020/03/11(水) 16:56:31 ID:0.net]
>>845-846
>Mais ce qu'il avait de bizarre, c'est que, de temps en temps,
il tâtonnait, se reprenait comme s'il eût manqué, et se dépitait
de n'a- voir plus la mème peine dans les doigts.<
Denis Diderot, "Le neveu de Rameau", p.49

865 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/03/11(水) 16:57:59 ID:0.net]
誤:n'a- voir
正:n'avoir

866 名前:考える名無しさん [2020/03/11(水) 17:53:28.76 0.net]
遠くの雷はズドーンと落ちる感じがするが、近くの雷はドカンと落ちる
感じがする。英語の"thunder"とドイツ語の"Donner"の発音の違いには、
そのようなイメージの違いが反映されているだろうか。

ところで、フランス語で驚かすを意味する"étonner"も本来は、雷が
落ちる音と結び付いていたとのことである。その場合の雷の音は、
日本語の「ドーン」に相当するようなものだろうか。次のような
表現は、「壁ドン」(ネットよく見かける表現だだが、今回、検索して
みるまで、私はその用法を知らなかった)を連想させる。

>[...] au lieu qu'un financier fait retentir son appartement
et étonne toute sa rue.
Denis Diderot, "Le neveu de Rameau", p.37

この"étonner"の用法については、注に次のように記載されている。
>Le terme a encore le sens fort de《frapper comme un coup
de tonnerre》.<

867 名前:考える名無しさん [2020/03/11(水) 17:56:05.52 0.net]
ちなみに、日本語の古語では、現代の日本語の「ドカン」、「ドスン」、
「ドドーン」のような表現の「ド」に相当するのは、「ののしる」や
「の(宣)る」という表現に見られる「の」によって表記される発音である。

868 名前:考える名無しさん [2020/03/11(水) 17:59:24.60 0.net]
https://www.etymonline.com/search?q=thunder
thunder (n.)
mid-13c., from Old English þunor "thunder, thunderclap; the god Thor,
" from Proto-Germanic *thunraz (source also of Old Norse þorr, Old Frisian
thuner, Middle Dutch donre, Dutch donder, Old High German donar,
German Donner "thunder"), from PIE *(s)tene- "to resound, thunder"
(source also of Sanskrit tanayitnuh "thundering," Persian tundar
"thunder," Latin tonare "to thunder"). Swedish tordön is literally
"Thor's din." The unetymological -d- also is found in Dutch and
Icelandic versions of the word (compare sound (n.1)). Thunder-stick,
imagined word used by primitive peoples for "gun," attested from 1904.



869 名前:考える名無しさん [2020/03/12(木) 00:30:34.90 0.net]
千葉の『デッドライン』は現代の『ルーミー語録』といってもいい。

ルーミーの「ファナー(自我消融)」に対し、
千葉の場合は「偶然性」や「絶滅」がその自己解体や無化に相当する。
そうして経た実在体験を結晶化させたルーミーのテキストは「根源的形象世界」のものと呼ばれる。

870 名前:考える名無しさん [2020/03/12(木) 00:30:50.73 0.net]
『デッドライン』の読みどころ

千葉雅也@masayachiba

外在的な言語から内在的な言語へ。文学の言葉は内在的な言語。
午後3:14 ・ 2020年1月18日

哲学の概念を形象として、フィギュアとして取り扱うというのは『動きすぎてはいけない』から一貫する僕の思考スタイルで、その意味で、実は僕の哲学の仕事は不純なのです。だからこそ、阿部和重さんは『動きすぎてはいけない』はすでに小説的だと評してくださったのだと思う。
午後9:22 ・ 2020年2月7日

871 名前:考える名無しさん [2020/03/12(木) 00:31:20.24 0.net]
【形象】けいしょう

  かたち。すがた。美学で、対象を観照(想像)して心の中に浮かび上がる、その対象のすがた。

872 名前:考える名無しさん [2020/03/12(木) 00:34:07.75 0.net]
『思想としての言語』 中島隆博、岩波書店 (2017)

小説にも出てくる千葉の先生で中国学の中島隆博が、この中で
重要な井筒論を書いていたいたりもする。

873 名前:考える名無しさん [2020/03/15(日) 08:59:36 ID:0.net]
>Old High German donar, German Donner "thunder")

現代の日本語でも、叱るために大声で「どなり」つけることを
「雷を落とす」と表現するのだから、この例では、日本語とドイツ語は
発音においても、それが想起するイメージにおいてもとてもよく似ている。

874 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/03/15(日) 14:08:42 ID:0.net]
ちばまさや?おはなしにならない

875 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:16:11.96 0.net]
>>861の補足

・新プラトン主義(プロティノスの流出論)
・東方キリスト教


・スーフィズム


汎神論
・スピノザ(1632-1677)「神即自然」
・ゲーテ(1749-1832)ハーフェズの影響
・シェリング(1775-1854)

876 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:16:55.11 0.net]
>>858>>856

創世神話の外在と内在

[外在] 天地(=世界、宇宙)を創る神
[内在] 天地から成る神、天地に成る神

“1:1 初めに、神は天地を創造された。
 1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 1:3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 1:4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 1:5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
 1:16 神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。”

― 旧約 「創世記」 1:1-5、16

“天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、
 天之御中主神(アメノナカヌシノカミ)、次にタカミムスヒノ神、次にカムムスヒノ神である。
 この三柱の神は、皆単独の神として成り出でた神で、姿形を現されなかった。
 次に国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、水母のように漂っているとき、
 葦の芽が泥沼の中から萌え出るように、萌えあがる力がやがて神と成ったのが、
 ウマシアシカビヒコヂノ神であり、次にアメノトコタチノ神である。”

― 『古事記(上)』 「天地の初め」 次田真幸、講談社学術文庫 (1977)

877 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:17:26.49 0.net]
このスレで特に関心を集めたのが>>645だったが、
井筒自身はそれほど頻繁には「外在/内在」という語を使っていない。

東西の神学のこうした整理は、大川の時代には既に確立されていて、
井筒にとっては自明のことだったのかもしれない。

井筒がよく使う「絶対一者からの自己展開」という表現は、内在型神学の特徴であり、
イブン・アラビーの先には、プロティノスの流出論にまで遡る。

878 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:17:53.08 0.net]
>>876
大川の解釈では、古事記は混沌から宇宙の生成へ、天地が自己展開していくものであり、
宇宙に内在する生命と力とが神として顕現するのだという。(cf.丸山眞男、本居宣長)

“この〔古事記本文冒頭の〕意味多き一節は、混沌Chaosが宇宙Cosmosに成り往く道筋を述べたものである。
 古事記の世界観に就て注意すべき一事は、そが天地の創造を説かずして、天地の啓発、天地の開展を説く事である。
 天御中主神は宇宙の根本生命、高皇産霊・神産霊〔高御産巣日・神産巣日〕の両神は宇宙の生成力の神格化である。
 そは決して宇宙に超在する神にあらで、内在せる生命と力とが、神として顕現したのである。”

― 大川周明 『日本文明史』 p25 (臼杵陽『大川周明』青土社、2010、p220より孫引き)



879 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:19:27.36 0.net]
この本には、井筒の話もよく出てくる。


臼杵陽 『大川周明』 青土社 (2010) p8

“竹内好「イスラム研究だけをとってみても、大川〔周明〕の業績は無視できないはずです。
 かれの『回教概論』は、純粋の学術論文であって、日本のイスラム研究の最高水準だと思います。
 日本帝国主義のアジア侵略と直接には何の関係もありません。」”

880 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:20:52.21 0.net]
大橋良介 『京都学派と日本海軍:新史料「大島メモ」をめぐって』 PHP新書 (2001)

侵略戦争的性格が決定的で、反省されなければならないのは、この「大島メモ」周辺。

881 名前:考える名無しさん [2020/03/20(金) 00:49:01 ID:0.net]
井筒俊彦×司馬遼太郎「二十世紀末の闇と光」より

<司馬>

大川周明というのは日本的右翼というよりも、
十九世紀のドイツ・ローマン派の日本的なあらわれの人だったのかもしれませんね。
サンスクリット語を勉強するうちに英国支配のインドに同化してゆく。イスラームも学んだそうですね。

<井筒>

そうです。大川周明が私に近づいてきて、私自身も彼に興味をもったのは、
彼がイスラームに対して本当に主体的な興味をもったひとだったからなんです。
知り合いになった頃、これからの日本はイスラームをやらなきゃ話にならない、
その便宜をはかるために自分はなんでもすると、私にはいっていました。
それで、オランダから『イスラミカ』という大業書と『アラビカ』という大業書、
つまりアラビア語基礎テクスト全部とイスラーム研究の手に入る限りの文献は全部集めて、
それをものすごいお金で買ったんです。それを東亜経済調査局の図書館に入れておいた。
ところが、誰も使う人がいないし、アラビア語のテクストを整理する人がいない。
私に「やってくれないか」というありがたい話で、アラビア語の本なんてあの頃は買えませんから、
倉庫に入り込んで毎日のように「整理」と称して、自分で読んでいたんです。

882 名前:考える名無しさん [2020/03/21(土) 22:11:42.99 0.net]
>>876>>878
古事記の更に先
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1433071319/479-480

日本創世神話の原型『淮南子(えなんじ)』

・『淮南子:知の百科(中国の古典)』 池田知久 、講談社 (1989) 原文、書き下し、訳文
・『淮南子の思想:老荘的世界』 金谷治 、講談社学術文庫 (1992) 解説と部分訳

中国四川省イ族の創世神話「勒俄特依(ネウォテイ)」を全文紹介。

・『古事記以前』 工藤隆、大修館書店 (2011)

883 名前:考える名無しさん mailto:sage [2020/03/21(土) 23:34:45 ID:0.net]
大川周明?wwwきもちわりいの読むな老害。

884 名前:考える名無しさん [2020/03/22(日) 23:31:04 ID:0.net]
丸山眞男「大川周明は右翼の中でも最も西洋的教養の濃い、いわばバタ臭い方なのです」

885 名前:考える名無しさん [2020/03/22(日) 23:41:21 ID:0.net]
工藤は>>882の中で、神話の強度を8段階のレベルに分けて説明している。
共同体の祭式の中での生きた神話のあり方を最高レベルの第1段階とすると、
原型性が薄まった『古事記』は第7段階、
文字と国家意思によって権威づけられる『日本書紀』などは第8段階のものだという。

886 名前:考える名無しさん [2020/03/23(月) 00:53:15 ID:0.net]
馬鹿程
格付けがすき

887 名前:考える名無しさん [2020/05/11(月) 00:21:13.21 0.net]
>>820-822,826-831,845-846
二つの言語の間に見られるとんでもない発音の似寄りを持ってきて
それを自分の居場所にする人というのは、
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの本にも出てくる。
いつの時代にもいるんだよ。

888 名前:考える名無しさん [2020/06/13(土) 18:14:26 ID:0.net]
> 630 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2020/06/12(金) 00:16:44.20 0
> >>582
> 出たなピンイン太郎


カール・マルクス32
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1584534246/630-



889 名前:考える名無しさん [2020/06/14(日) 00:33:27 ID:0.net]
>いつの時代にもいるんだよ。

どこでもいつでもいるのなら、それが人の常になるということでわ

890 名前:考える名無しさん [2020/06/14(日) 00:43:18 ID:0.net]
大辞林 第三版の解説
〘仏〙 密教の根本教義の一。阿字は宇宙の根源であり、本来不生不滅すなわち永遠に存在するということ。この真理を体得する時、人は大日如来と一体化すると説く。 → 阿字






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