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もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら



1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 12:05:22 ID:buAV4pyy]
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら、その後の歴史はどうなってたか?
逃げ延びた秀忠の逆襲?
宇喜多執権体制?
三成ら五奉行主導政治?
毛利幕府成立?

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:54:39 ID:BJpPg7ym]
ああ、山内は大河のここ迄の流れで秀吉の時代から試されてきたのに
最後の最後で判断に過ったよね。
もっとも壮絶な最後で講壇師の影響か人気も高いし
もし東軍が勝ったらこの人は大河の主役は張れないだろう。
ある意味よかったのかね。
(あと言ってみたらネタスレだからガチガチでなくてもいいさ。面白かったんで続き待ってる)

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:57:05 ID:BJpPg7ym]
↑は>>98

103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 21:28:44 ID:UhQdPhAd]
いや、論としての合理性に問題がないだけで、逆に言えば
梅毒にかかりながら30年以上生きた例もあるし、
(それで如水の有岡城の一件も実は梅毒の初期症状説がある)
梅毒での死を装って島外に逃れた、て話があったんじゃなかったっけ?

104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 21:57:48 ID:TTIpF5XJ]
>梅毒での死を装って島外に逃れた、て話
を採用しておきましょう。

で、関ヶ原で東西に分かれた九鬼親子の息子の方って、江戸の陣に参戦したっけ?
Wikiにはあまり詳しく書いていないから、よくわからん。
いくらIf小説だからって、あまり史実を無視するわけにもいかないから、
知っているがいたら、教えて。

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 00:53:28 ID:jYkZnFFK]
>>104
ばっかお前
「鬼九鬼の海上封鎖」って言って
その後の海軍の教科書に載るくらい有名なエピソード作ったろ。

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 01:22:35 ID:DjrUeASg]
>>105
すまん、文意が伝わりにくかったかもしれん。
海上封鎖やったのは、豊臣方の、嘉隆四男・主殿助だよね。
俺が聞きたかったのは、関ヶ原では東軍についた守隆の方。
江戸湾をあっさり弟に良いようにされて、そのままで黙っていたのかと思って。
てか、そもそも生きているのかな。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 02:49:47 ID:rcAZUavT]
こうゆう現実と妄想の境目に存在するスレが好き

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/23(月) 03:12:00 ID:mq3MFKsR]
>>106
幽閉先の下田から遁走して江戸城に入っている。
しかし、隠居所から親兄弟に宛てたあの情けないぼやき手紙からは考えられないような奮戦ぶりだったぞ。
圧倒的寡兵でありながら、結局海上決戦では関西方と互角に戦い、浦賀水道を死守し江戸湾に一隻たりとも立ち入らせなかった。
まあ短期戦を諦めた大坂方の海上封鎖を、結局は突破できなかったけどね。

109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:20:13 ID:DtFOu55W]
>>94
五大老には徳川と前田を外し
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の残留に加え石田三成、小西行長
奉行には浅野を外し安国寺恵瓊
三成はともかくなぜこの2名がこの役職についたかは不明
そのため東軍厨が妄想の東軍戦勝関が原では
必ず石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を切腹処分にしている。

 封地については
毛利輝元は大老の筆頭になるのは辞退し加増もなし
上杉景勝が越後一国と山形の一部を加増され150万石
石田三成は近江一国80万石ほど

 ただ毛利の場合、実戦闘に参加した吉川広家、毛利元康、毛利秀元
と輝元が推薦した宍戸、熊谷といった家臣合わせて10名近くが
新たな封地を頂戴して独立大名になっているので
実質毛利一門で100万石以上の加増になっている。
 逆に上杉は加増したが直江を独立大名にして米沢を失っている。





110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:24:01 ID:DtFOu55W]
(↑こんなもんでいいでしょ。)
宇喜多秀家は漏れも詳しく知らない。

ところで>>98
八丈島にいったのは結城秀康と福島正則だろう。
福島正則が漂着してきた宇喜多の酒樽を頂戴した逸話は有名
黒田長政は黒田家廃嫡の上追放処分だろ。

111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:52:20 ID:6ycUiLSp]
小西行長が大老になったのは堺陰謀?説に賛成かな。

配下の水軍、堺の経済力、キリシタンとしてのネットワークを背景に
当時本土における対外貿易関係を仕切ってたのは確かなんだし。
三成は例外として一人石高や地位に劣ってるからそれ以外に理由を
見つけないと苦しい。

後は個人的に五大老内のバランスとりの意味もあったかと思うけど。
元々宇喜多家に仕えてたんじゃないかと言われてるから、
毛利(+一門)、上杉(+直江)+三成?、宇喜多+小西て感じで。

宇喜多は加増されたといえ、前田が減封されて五大老外れた上に
歴史浅いから一門や類縁も少なくて発言力低くなってたから。

112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 11:57:00 ID:BT++0loJ]
>>96
佐竹は関ヶ原の戦闘自体には参戦してないんで無かった?
当主の義宣と先代の義重が対立したせいで、一応西軍だけど結局動かなかったはず。
義宣自身は上杉景勝や石田三成と親交深かったし、石田三成襲撃事件のときの義理も
あったからか加増を受けたけど、文字通りの恩賞ってわけじゃなかったらしいぞ。

佐竹って関ヶ原後にかなり加増されて100万石(細かい数字は知らん)越えてたけど、
アレは常陸の大大名として、奥羽とか関東の勢力を牽制させる意味合いが強い。
特に奥羽は関ヶ原で消耗してないから、まだまだ不穏な勢力が残ってたし。
佐竹は奥羽の抑えと、関東の後背から睨みを効かす役割をまとめて押し付けられた形だ。
まぁ重要な役だけど負担はどえらいし、かなり貧乏くじだな。
江戸の陣の時なんて、奥羽から江戸城を目指す軍相手に孤軍奮闘する羽目になったし。
それなのに江戸の陣の後はまったく加増されてない。

結局、佐竹義宣は三成らに信用されてた一方で、体良く使い潰された感じだな。
実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。

113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 12:19:04 ID:BT++0loJ]
>>112訂正
×実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
○実際、1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)といわれたり、佐竹義和みたいな名君を
輩出したりもしたけど、初期の莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。

114 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 12:22:20 ID:3Fr9R/Iu]
佐竹は関ヶ原の後に江戸駐留組にちょっかいだして小遣い稼ぎしてるよ
大大名になっても伸びしろがなかったのは、場所が関東だからとしか言いようがない
湊は無いし、経済文化の中心地は京畿だし、どうしようもない

115 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 13:23:10 ID:fD5NuB0W]
>>110
すまん、まちがっていた。
>>48にもあるとおり、
八丈島に流されたのは、結城秀康と福島正則だね。
スマソ。

しかし宇喜田は情に厚いな。
もし東軍が勝って、宇喜田が遠流にでもなったら、
正則も同様に酒を送るような友誼をしめすかな。

116 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 14:27:00 ID:fD5NuB0W]
>>115
しかも 宇喜田 でなく 宇喜多 だな。
シンデクル。

117 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 20:13:27 ID:jTPJLQCX]
福島正則もどこかそういう所あったらしいからやってたかもな。ところで正則と秀康の八丈島での仲はどうだったんだろうな。

118 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/23(月) 21:42:05 ID:N0TVJKia]
梅毒仲間で島中に梅毒を移した。

119 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 21:43:29 ID:fD5NuB0W]
正則と秀康は仲良かったって聞いた記憶はあるのだが、
関ヶ原合戦より前のことなのか、東軍キチの言う関ヶ原合戦の東軍勝利後のIFの話なのか、
俺の頭の中ではっきりしない。
関ヶ原合戦前から仲がいいのなら、八丈島でも仲良しだったと予想されるが。

>>111
そうか、小西の存在も忘れていた。
商業と政治の両面に口出しできる小西家がいなくなったら、
戦火にあわずに発展した堺の経済も停滞していたかも。




120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 21:44:26 ID:fD5NuB0W]
>>118
ひでぇ…。

121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 21:52:37 ID:DtFOu55W]
ここはsage進行だぞ。
それはともかく・・>>118
結城秀康といえば
梅毒で鼻が壊死して木で型を作ってたといったな。
江戸城に泳いで入城した際にはティンポコも木で型を作ってたのが
極端にでかすぎて、衆目を浴び、恥ずかしがった秀康が
自分の名を問われた際に「ウタマロだ」と偽称したから
その後極端にでかいティンポコを指してウタマロというようになった
という俗説があって、それが秀康の江戸入りが単なる
伝説に過ぎないといわれる理由だそうな。

122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/23(月) 22:02:21 ID:DtFOu55W]
ごめん、ちとマジレスだが、

 >>1−5を見るにこのスレのタイトルは「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」
ではなく「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら」だったようだな。
でもそのタイトルだと同じ内容のスレが大量にアルしな。
タイトルを間違った >>1・・よりも、上手く誘導した>>6−7の功績かな。
ここまで面白スレになっているのって

123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 22:08:30 ID:fD5NuB0W]
私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。

で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。

で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
関ヶ原の合戦に破れた結城秀康と福島正則は、八丈島に流された。
八丈島へは時折、宇喜多家の船が立寄り、正則への酒と、心尽くしの品を置いていくこともあった。
猛将同士気が合ったのか、一掬の酒も一片の肴も、正則は秀康と分かち合った。
慶長19年・晩秋の船は、正則に酒だけでなく驚くべき情報をももたらした。
徳川家あやうし、と。
正則にこの事実を告げられた秀康はためらうことなく言い放った。
「江戸へ行く!」
正則はこの言葉を聞いた瞬間、己もまた江戸へ行くことを決めた。
  豊臣家への忠誠も義なら、友を助けるのもまた義。
  まして今の豊臣家の意志は、憎き三成の意思。
  されば、命を捨てに行く友に殉じるべし。

その翌日、秀康は以前から患っていた梅毒で死に、遺骸は直ちに荼毘に付された。
己の葬儀を掘建て小屋の中から見つめる秀康と、正則は、八丈島からの脱出を話し合った。
島には見張りもいる。目立つ船はつかえない。泳ぐしかない。
二人のいくさ人は腰の大小すら外し、闇に隠れて海の中に飛び込んだ。
海流に逆らい二人は泳ぎ続けた。疲れ果てた秀康が眠ると正則がかかえ、正則が眠ると秀康がだいた。
島伝いに泳ぎ泳いで幾日経ったか、夕闇の浦賀に近づくと、かがり火を焚く多くの軍船が漂っていた。
ひらめく旗の印は、九曜、三つ巴、丸に上…。
そして安宅舟には、五七の桐!
豊臣の紋を懐かしんだ正則は、上ずった声で絞り出すように言った。
「夜の静けさには、我々の泳ぐ水音も聞きとめられよう。
かといって昼を待っても、明るい日の下ではたちまちに見つかるであろう。
さればそれがしが、注意を引く。その間に秀康殿は船の間を泳いで抜けられよ」
正則は船団から離れた一艘の小早に乗り込み、疲れきったはずの体で数人の兵士を瞬時にたたき伏せ、海に投げ込んだ。
「今の水の音で、敵共はこちらに気づいた。早く行かれよ。
それがしが江戸へ行っても将兵はまとまらぬが、秀康殿が行けばまとまる。」
秀康は何もいえぬまま泳ぐしかなかった。
正則は小早に残された銃を放ち、大音声を轟かせた。
「侍従羽柴正則朝臣ここにあり! わしを亡き太閤殿下のもとへ送るものはおらぬか」
捕縛ようと小早に乗り込む武者を、正則は奪った刀で薙ぎ、突き、切り裂いた。
多くの兵が倒れ、やがて挑む敵も現れなくなった。
遠巻きにする安宅船から鉄砲が掃射された。正則は掃射を三度までうけてようやく倒れた。
倒れ伏した正則の顔をあらためようと雑兵が小早に乗り込むと、小早の中にはくるぶしの深さまで血が溜まっていた……。


124 名前:123 mailto:sage [2006/10/23(月) 22:09:37 ID:fD5NuB0W]
出だしが重複しているが、気にせんでくれ…。

125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 10:03:19 ID:YJNnTGW5]
それにしても高台院様も不憫だったよな
大淀様に亡き太閤殿下正室の座を追われ
宇喜多家預かりの身になるとは…


126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 13:08:39 ID:MDzhvE6g]
ああ、自分に子供ができなかったのを棚にあげて淀様に楯突いたあの裏切り者か
亡くなったとはいえこいつが豊臣を裏切ったから子飼いの将も流れた
最低の裏切りもの。

127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 15:33:57 ID:mZXWpz/i]
でも、その「子飼いの将」がもし残っていたら、三成と争って、
結局、漁夫の利を得た毛利が完全に政権を奪っちゃうって落ちになったんじゃないの?
逆に「子飼いの将」らが東軍についているおかげで、もし東軍勝利で家康が権力を握ることになっても、
福島、加藤が牽制して、家康も豊臣をつぶすわけには行かなかっただろう。
家中を分けたことで、どちらの結果でも豊臣の安泰につながる(可能性がある)ので、
そういう意味では功労者。

…ひょっとすると家康は、ねね様を正室にして、秀頼の義理の義理の父親になり
実権を掌握したかも。

128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:13:34 ID:154jjJs2]
高台院はむしろ三成と懇意だった説もあるから、豊臣内部での政権闘争って線もあると思うぞ。

129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:23:21 ID:mZXWpz/i]
>>128
いまいち言いたいことがわからんのだが、
三成と毛利の対立によって、三成に近い高台院が幽閉されたってこと?



130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:53:09 ID:154jjJs2]
>>128
うん、そう。

実はこれに関連して昔から一つ疑問があってさ、三成の三女、辰姫の事。
そもそもあの石田三成を父に持ち、秀吉正室高台院の養女になった女性が
北の果て津軽藩に嫁すのはちょっとおかしいと思わないか?
恐らく彼女は本来もっと上位の家へ嫁す予定だったんじゃないかと思うんだ。

当時権勢を誇った石田三成の実娘を、関白を複数人輩出した豊臣の姓を持ち
本人も従一位を授かった高台院の養女にして送り込む先といえば……
宮中に入れる準備だったとしてもおかしくはない。

それをさすがに豊臣の他派閥は黙過できなかったんじゃないかな、と。

131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:58:14 ID:mZXWpz/i]
ねねが近江人の三成と仲が良いというのはぴんと来なかったが(というか考えもしなかったが)、
確かに毛利なんかに比べれば、ずっと近い関係にあっておかしくないな。


132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 19:18:55 ID:8AMq26NK]
ねねは成人後の加藤、福島らとは意外と疎遠だったって聞く
ところで三成の娘を養女にしたのは何でなんだ?
単に三成と懇意だったからなのか、大淀派の三成を取り込むための政略的なものなのか

133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:04:50 ID:JiL9rL5W]
三成淀殿のことめっさ嫌ってただろ・・・・・・
淀殿が妹の嫁ぎ先の徳川についたんだからさ
西軍が勝って、高台院さまが淀殿放逐したのに、皆何言ってんのさ

134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:30:48 ID:154jjJs2]
そこらへんちょっと曖昧なんだよね。
淀殿が一時大坂を追い出されたのも事実、高台院が最終的に宇喜多に行ったのも事実。

その理由に関して、戻った淀殿との権力闘争に負けたとか、秀吉と自分が可愛がってた
養女豪姫と猶子秀家の所へ自分から大坂に嫌気がさして出て行ったとか諸説あるわけで。

135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:39:06 ID:8AMq26NK]
大淀派ってなんだ俺orz
そか。
秀頼が、石田三成か大野治長が淀殿と密通して生ませた子とかって俗説があったりするから
それなりに親しかったのかと思ってた。
言われてみれば三成は、淀殿が秀頼の母として政治に口出しするの嫌ってたって聞いた希ガス。
勘違いだったらしい。

136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:46:53 ID:mZXWpz/i]
>>134
追い出されたのか、自主的なのかというのは分からないが、
とにかく互いの顔を見たくなかったんだな。

秀家あたりは、近くに義ママがきてうれしかったりするのか?

137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:03:46 ID:O+REVKgN]
皆! スレタイ見てみ!

138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/24(火) 21:08:11 ID:yu/XdRmX]
東軍が勝っていたら高台院は長生きしただろう

139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:08:20 ID:CSU8wCe7]
そりゃ東軍が勝ってたら茶々は大坂城の主に納まったかも知れないけど
西軍が勝って毛利宇喜多上杉体制になっちゃんだから茶々なんて用なしさ
実際戦後の領地配分だって大老たちが決めてるだろ



140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:12:48 ID:mZXWpz/i]
だから家康ねねの、熟年夫婦が誕生するんだよ。

141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 22:33:50 ID:mGzC+MzJ]
 淀殿が大阪追放になったのは建前の上では、秀吉の遺言に従って
秀頼の御台所を家康の孫千姫にしようとしたせい。
 あまりに政治音痴だったわけだな。空気読めよ淀
実は東軍に愛人の大野治長がいたので東軍に肩入れしたのがばれた為
とも、それを口実にして煩い淀を一時的に隔離したとも。
 
 高台院が最終的に宇喜多にいった。それは多分宇喜多の京都屋敷でしょ。
寺と屋敷の往復生活だったと聞く。
なぜにこんなことをしたのか理由は不明だが、秀吉正室の彼女が宇喜多の
後ろ盾だと明確にしておくことで秀家の立場を応援したんだと思う。

重成は豊臣秀頼の小姓として大坂城にいたが、小姓仲間で津軽為信の嫡男であった津軽信建の案

142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 22:37:35 ID:mGzC+MzJ]
↑ごめん・・最期の一行は間違いです。



143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/24(火) 23:11:54 ID:yu/XdRmX]
徳川秀康は家康が生きていたらかえって冷遇されていたかもな
豊臣朝臣を名乗ることも、徳川氏を名乗ることも許されず
結城秀康のまま一生を終えていたかも

144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:13:29 ID:mGzC+MzJ]
 ところで豊臣一家についてだが
豊臣秀頼には
正室との間に嫡子、これが豊臣秀仁

身分の低い?侍女なにがしとの間に庶子が一人
この方が幼名国松 豊臣秀文

で最期に娘が一人 清子 
彼女は晩年に天秀尼として女人救済の寺を建立したことで著名

で秀仁様は愛妻家か恐妻家かしらないが正室一人だけで
生まれたお子様も愛子という娘がひとり
このせいで女性関白容認論議というのが
当時の政権首脳部で激論となっている。
また、そのせいで秀仁は世に名高い悪法生類憐みの令を発布している。

で秀文のほうは奈良に所領を賜り、なぜか豊臣の姓を緩されず
豊篠家の姓を名乗っている。彼の正室は三成の孫娘
 こちらも生まれたの娘ばかりでやっと男子を誕生したが
この男子に豊臣関白家を継がせるかで揉めたのは
結構有名な話。
秀吉−秀秋−秀頼−秀仁に続く五代関白をどう決めるかで
有栖川宮家から豊臣家に養子をして存続を図るように
主張する連中が揉めている。

最期の清子だが黒田・・・じゃなかったw前田利常に嫁いでいる。
前田清子ね。


こうしてざざっと見ると・・万が一徳川家が勝利していたら
あそこは子沢山なだけに、世継ぎの男子が生まれずに
五代目を有栖川宮家から養子にしようとか
男子出生祈願のために生類憐みの令なんて悪法もでなかったろうから

その点では西軍が勝ってよかったのやら・・

145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:17:36 ID:mGzC+MzJ]
  ・・これでいいのかな(少々タイムリーすぎるか悪のりしすぎたか)?
豊臣一家の構図これでよかっったかな?
漏れも詳しくないので詳しい方の意見欲しい。

146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:23:04 ID:MXiRwePC]
来年の大河ドラマは久々に小西行長だったな。楽しみ。ただ主役が気に入らん。
亀梨ってジャニタレかよ。関ジャニの関東訛りで主役が務まるとは思えん。


147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 10:42:47 ID:7XppGqT0]
大河ドラマねえ・・・
今年は変に家康を律儀の人に仕立てて、変なことになっているからなあ

148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 16:29:45 ID:e1xY8O8v]
>>147
東軍が勝ってれば正しい評価として扱われてたかもしれないぞ?
家康の評価は後年の豊臣マンセーなゴマすり国学者や講談のせいで
イメージ定着しちゃってて、どこまで捏造かわけわからんところもあるからな。
まぁそれにしても今年の家康のキャラは無理やりだと思うが。
キャスティングのせいか?ヤツが脚本に注文つけた可能性もある。

149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 17:44:23 ID:Hy2vQSU/]
 大河といえば山岡荘八原作の大河ドラマ『石田三成』は
極端に言えば義に厚い忠義の三成像として褒めすぎのきらいがあったな。
>>148
 秀吉死去のあと家康が大阪城西の丸にもう一つの天守閣つくったり
勝手な縁組して前田利家と喧嘩になったりしたのは事実のようだから
いくらなんでも、その辺のことを全部スルーして家康は律儀と評価するのもねー。



150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 19:20:45 ID:n8wxy1oU]
大河つながりで。
11月から葵・徳川三代、時代劇専門チャンネルにて。
あわれなる徳川家の行く末に、涙しましょう。

>>143
家康は、関ヶ原から数年でぽっくり逝ったからね。
家康が生きていたら、多分忠輝も冷遇されっぱなしのままに滅亡。
…って、秀康、徳川姓はどうか知らんが、豊臣姓までは名乗ってないだろ、まず間違いなく。
ネタ?

151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 21:26:06 ID:Y1Fvz1j7]
武家においては5姓の中で豊源平藤橘の序列順だから

152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 21:40:55 ID:dg0OJ9gi]
うーん。あの状況で東軍が勝つなんて、中山道の秀忠隊が
開戦前に到着する意外に考えられんよ。
実際、真田親子がいたから無理なんだろうね。
本多正信ってあの時に捕らえられて、家康を扇動したって
嘘みたいな理由で斬首されるけど、さすがにあれは無いよな。

153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 00:02:30 ID:pLO8pePi]
しかし負け組庶民には人気があるよな家康は。
判官贔屓ってやつかな。

154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:24:36 ID:CTRC9tpW]
忍耐、苦労の人のイメージで売ってたからな
関ケ原で勝っていたら家康の評価も一変したろう


155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:28:33 ID:WHX/uPTy]
処刑直前に、柿は痰の毒だからって断る話は、
健康マニアたる家康らしいエピソードだよな。

156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:42:06 ID:fDywx5Nc]
でも死因は天ぷらの食中毒ってのが、またご愛嬌だよな

それも斬首される河原でのバカ食いだからな・・

157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 11:18:16 ID:0LMRetc9]
家康って斬首されそうになった?
封地は削られているけれど家は残っているし、軟禁状態でのストレス死な印象もっていたけど。
なんにしても食中毒がきっかけで死んだのは間違いないんだろうけれどね。

158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:08:35 ID:VlzklI5A]
あれだろ? 有名な家康影武者説。

159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:21:39 ID:ISvsN5Bg]
家康は斬首されてる・・・ただ存命説もあって
 三成死没後の豊臣政権に出入りし暗躍した南光坊天海は家康であるという
説が強い。彼が豊国明神に祭った灯篭とかの碑文には
羽柴三河守と刻まれてるのは有名な話だ。
あと江戸の豊国明神を建立したが、ここには桐ではなく葵の紋が使用され
てるのも、その説を証明している。




160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:58:32 ID:jCnhlY28]
最近は天海を出家した家康の名前にして普通に出してる時代小説とかもあるからな。
存命説が確定したって学説は知らんが、まぁそれで面白ければおkか。
義経=チンギスハン説よりはましだしw

161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 14:52:12 ID:0LMRetc9]
しかし……首まで切られて、なんで徳川家はのこったんだ?

162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 14:56:25 ID:T/0UquDv]
ノヴァ・イスパニアに逃れたって説もあるけどなぁ
ホントのとこどうなんだろ?

163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 15:14:48 ID:VlzklI5A]
>>161
単純に「250万石いきなり潰したらどうなるか」考えれば良いんじゃないかと。

164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 15:40:31 ID:0LMRetc9]
戦場で捕らえられたといわれているんだっけ?
でもなきゃ、首ちょんぱは無理っぽ。

165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:18:24 ID:VlzklI5A]
そのはず。

あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
捕らえて渡せば大功になる所を、表に出すと取引で生き残る可能性を考え
後の禍根を立つためにあえて曖昧なままその場で始末をつけた、て話。

少なくとも公の面では冷酷官吏だった石田三成が真田関連の始末(信幸や
その岳父本多忠勝の件)では奇妙なほど真田側の赦免願を通してるのは
上田城戦だけじゃなくこの件も絡んでるんじゃないかと言われてる。

そのせいか東軍勝利のifだと大坂の陣では今一歩の所で家康を逃してしまう
場面を用意する作者も多いよな。

166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:34:02 ID:0LMRetc9]
>あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。

これが京へ送られてさらし首ってことか。
しかし家康処遇に関する史料は、なぜこんなにばらばらなんだろう。
小説では無いが、影武者説って言うのが真実味を帯びてくる?

しかし、幸村がやったとすると、秀忠は、はやばやと切り上げずに
むしろ上田城に張り付く、またはあえて関ヶ原にすすんでいれば、
家康は生き残ったという可能性もある。
が、とろとろしていたら、関東に帰る前に袋叩きか…。
歴史のすべてを知っている立場でも、振る舞いに迷うところだな。

ベストシナリオはどれだろう。

167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:57:16 ID:0LMRetc9]
しかし、幸村がやったとすると
じゃなくて
しかし、信繁がやったとすると
の間違い

168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 17:12:41 ID:93b8NQy9]
教科書では本能寺の変は明智と家康の共謀ってことになってるが真偽は分からん。

家康は意外といい奴だったかもな。でないと逃亡説が真実だったとしても、
協力者なしには逃げられないだろうし、そもそも東軍にあれだけの兵力を揃えられんだろ。

ちと判官びいきかな。

169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:10:19 ID:0LMRetc9]
>>168
本能寺云々は、豊臣史観ってやつだな。

でだ。本題だ。
東軍がかったら、どうなったか。
大きく分けると、
1、毛利を中心とした西軍の巻き返し
2、豊臣秀頼のもと、家康による執権政治
3、家康による政権簒奪
だろうか。
勝ち方にもよるし、なんともいえないけれど。



170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:34:40 ID:T/0UquDv]
謙信と並んで律義者の代名詞の家康だよ?3はねーよ

171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:55:20 ID:ISvsN5Bg]
 家康は関が原の敗北後逃走中に捕縛されて六条河原で処刑されている。
が、公式文書には徳川家康ではなく世良田二郎三郎元康なる名前で記載されており
これが影武者徳川家康であるといわれる理由だとか・・

>>169 漏れは1だと思う。徳川家康といえば蒲生氏郷に天下を見る器じゃない
ケチと酷評されてたからな・・恩賞出し渋って東軍諸侯にも離反され
追い落とされて戦国乱世というのが妥当かと。
歴史家は家康率いる東軍が勝っていたら戦国乱世が続き
天下泰平な豊臣の世は訪れなかったという見方で一致してる。

172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 20:11:58 ID:0LMRetc9]
うーん、色々考えてみたけれど、家康の思い通りに行ったとして、家康による執権政治、なのかな?
律儀っていうのもそうだが、組織のナンバー1よりナンバー2の方が安全そうだし、家康の性格にあっていると思う。
豊臣の嫡流が絶えたら、鎌倉幕府を参考にして、摂関家の人物や親王を戴いて、完全に傀儡にしてもいいんだし。

173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/27(金) 01:00:43 ID:N+zkxr2K]
そういや江戸夏の陣で自害した秀忠の生存説もあるよね。
確か忠勝が逃がして、島流しになる前に正則が逃げてた黒田領
にいたって話。

もっとも、後年はアル中になって煙たがられてたらしいがw

あと秀忠の息子は島原の代官だかで、善政敷いてた天草時貞
って人らしい。

174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:17:40 ID:qUhh+pri]
花の様なる秀忠様を、鬼の様なる黒田が連れて、引きも引いたり筑前へ
ってやつね。

本当に生きていても、大勢に何の影響も無いだろうがな。


175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:37:08 ID:rttSb7on]
ごめん、ド忘れしたんだけど姫路宰相って誰だっけ?

176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:41:06 ID:inK75Drw]
たしか立花宗茂だったような
まあ、すぐに改易されるんだけどな

177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:46:46 ID:qUhh+pri]
宗茂って、東軍についていたら(なおかつ勝ったら)、
秀康あたりと気が合って、五奉行クラスにはなっていたような気がする。


178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2006/10/28(土) 08:09:12 ID:hZwp3gGj]
宇喜多大納言秀家様が
関白になられるそうな

179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 12:51:39 ID:IWLPsJ0Y]
宇喜多といえば現在でも宇喜多財閥で有名だけど石田公爵家ってどうなっちゃったの?



180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 14:01:03 ID:qUhh+pri]
石田「侯」爵家な。
よくしらんけど、二次大戦後の財産税でほとんど傾いたんじゃない?
最大90パーセントの税率だってよ。

181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 16:25:22 ID:yPH5RRO+]
宇喜多財閥は解体されて宇喜多グループになったんじゃなかったっけ

182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 18:29:04 ID:/mXzYU7p]
そうか、財閥解体後は「財閥」と呼ばずに「グループ」と呼ぶのか。
マジで勉強になった。

183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 19:26:43 ID:YNLVemCq]
>>178
 それは当時の俗説だったような。
当時は「石田様には及びもせぬがせめてなりたや関白に」と歌われる
三成全盛の時代だったから。
関白になって秀頼に政治への関心が無かったせいか
関白秀頼に太閤三成ありといわれてる。
 
 処刑直前に鯛の天ぷらを振舞った三成が用意したタイは目白鯛だったといわれ
三成は祝いの席には必ず目白鯛をだした。
あと三成の館の庭には大きな池が用意され高価な鯉が泳いで、これをよく
来客に自慢していたそうな。

ここから「目白の闇関白」といえば影の最高権力者やキングメーカーへの呼び名
となり、権力者は三成にならって屋敷には鯉を泳がせるのがステータスとなった。




184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 19:43:34 ID:sEvLGe2g]
三成は鯉の刺身の食いすぎで寄生虫にやられて死んだんだっけな

185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 01:06:15 ID:Wa/a91GY]
このスレの住人は、東軍が勝つ可能性なんて考えたくも無い、
豊臣派ばっかなのか?

俺は、東軍が勝ったら、家康は世界に先駆けて共産主義国家を設立したと思うぜ。
朝廷からは将軍に任命されて、
家来が家康を呼ぶときは、「われらの同士にして偉大なる家康大将軍さま」ってよぶの。


186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 01:09:14 ID:hFHKdlaB]
>>185
俺は根っからの東軍派だ。
律義者の家康だから東軍が勝っても豊臣家は残りそうな気がするんだよな。
秀吉子飼いの将も健在な訳だしな。
ただ統治者としての家康の能力は未知数。

187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 03:47:48 ID:74P/dEmQ]
>>186
関東入りを調べて貰えればわかるけど結構なものだよ。
前年まで敵国だった北条領を上手く切り盛りしつつ発展させてる。
ただ、家康の関東での功績は全部直江兼続の手柄になっちゃってるけどね。

188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 10:02:32 ID:rQY7L0vz]
西軍が勝ったおかげで、合議型政権だったけど、どうなんだろうね。
毛利は部下は優秀だけど、大将が優柔不断。
石田は頭が切れるけど、石高少ないし、敵が多いし。
上杉、前田は天下取りの野望がなかったし。
どこか一つでも真面目に天下取りを目指していたら面白かったかも。

東軍が負けたことで多くの武士が海外に逃亡。
いまだに東南アジアでは、武士のよろいと言えば、赤が標準だと思っているらしい。



189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 11:11:26 ID:dILkd55o]
>>186の言うように豊臣が残るとすれば、やはり京都が政治の中心地かな。
古来、京を守る軍勢は負ける、という例も多し、家康は京には定着しないと思う。
その代わり、岡崎・浜松あたりを取り上げて、そこに本拠を移すんじゃないかな。
地元だし、京に比較的近いし。




190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/29(日) 21:24:31 ID:t6IAag6d]
家康は三河の時代から「三奉行」制を敷いたり、
関東入りのときには伊奈忠次のような能吏を登用したりしている。
家康の政治家としての能力は武将としての力量を上回ってるよ。

ただ、家族的結合の強い譜代の三河武士が家臣に多いのも事実。
その処断を誤れば秀吉政権とたいして変わらなかったかもしれない

191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 22:58:56 ID:JdCWAV0x]
家康を甘く見ないほうがいいのでは?
彼の模範としたのは鎌倉幕府だぞ?
鎌倉幕府の執権北条氏みたいに徳川が執権となって
豊臣家を謀殺してしまうのは目に見えてる気がする。
 あの狸は結構したたか、実の息子殺すくらいだぞ。

 ただあの家康は全国の仕置きは無理なのは自明だろ。
今でいう農本主義っていうのか
米とか田畑のことには精通していても、商業とか興味ないと思うので
西国とか到底治めきれないと思う。
家康の代は何とかなっても苦労知らずな秀忠か、その子の代には
毛利とか島津や小西とかの連中が商業資本や朝廷と結託して
時代錯誤な徳川を追い落とすようになると思うな。

192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 01:21:25 ID:QYvHAPNE]
秀康、代わりに頑張れ。反徳川はみんな打ち殺せ。
忠輝、おまえも頑張れ。反徳川はみんな叩き潰せ。

193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 01:29:43 ID:E1biS4yn]
>>191
タヌキはしたたかですか。
どうもアンチ西軍という訳ではないですが豊臣家の実権支配を明確にする為に
立ち上がり破れ滅んだという鮮烈なイメージが頭にあって
どうしても家康は律義者って意識が脳内補完されがちでしてね。


194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/30(月) 04:00:40 ID:tnibKoJm]
そろそろ豊臣史観から抜け出してもいい頃だな

195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 08:41:07 ID:EgDM0xQp]
東軍が勝ってたら、徳川氏の本拠地の江戸が発展しただろう。
今頃、100万人を超える大都市になってたかも。

196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 09:49:03 ID:bD49R1dw]
>>195
江戸市もこのたび浜松市とともにめでたく政令指定都市になりましたが

197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 12:21:27 ID:CpuuKXe2]
江戸が大規模都市になってたかもって関東人は夢見すぎだろ
あんな京から遠い僻地に今以上の人が住み着くとは思えないんだけど

198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 16:54:20 ID:8tTYPQe7]
関ヶ原のIFネタは、関東人は夢見ちゃうからね。
いくら関東入り以後それなりに発展し始めていたとはいえ
当時政治の中枢を移すだけのキャパシティは江戸には無かったんじゃないか?
田中角栄が日本の首都を新潟に移すって言い出すようなもんだと思うぞ。
もし当時の関東に十分なキャパシティがあったなら、関ヶ原以後関東に入封した大名は
後々あんなに苦労しなかったと思う。

199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 18:07:40 ID:dei1J8hm]
>>198
関東が首都圏になると、京洛から江戸にいたる旧徳川系の地域が
東海道メガロポリスとかになっていたかもね。
そのほうが太平洋に面していた分利便性はよかったかもしれない、
関東なら広いしね。

 でも現実にはいまだに
会津越後から京洛にいたる旧上杉系と前田系の北陸道地域から
 そのまま宇喜多 毛利系の地域である中国筋から北九州にわたる
北越―山陽メガロポリスになってるわけで
大きな影響を及ぼしたのかもな関が原ってのは。



200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 18:09:53 ID:HaJLMER+]
確かに田んぼしかない静岡にも、大都市が形成されたかも。






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