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正史『三国志』 二十七巻



1 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/03/26(月) 16:24:33.23 0]
前スレ
正史『三国志』 二十六巻
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795 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 10:13:54.83 0]
>>792
それも違う。
曹操は焼き払われる前の洛陽へ、総進撃が認められなかったので一部の部隊で前進を試みて徐栄に破れる。
これにより戦力と信望を失ったので袁紹の庇護下に入る。
孫堅は袁術・張バクらとは戦術的には連携してない南陽方面の前線司令官。総司令官は袁術。彼らは二年に渡り継戦する
劉備は当時、一介の県令か、または賊に敗れて公孫サンの庇護下に入った頃。

3人とも全く立場が違う。比べても意味が無い。

796 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 10:17:22.00 0]
ああ、訂正。
曹操が前進したのは洛陽が焼かれた後か。
しかしこれは防御縦深を取るためのもので、
以後翌年まで洛陽周辺に大軍が展開している。

797 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 18:00:21.97 0]
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.8F.8D.E8.91.A3.E5.8D.93.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D


798 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 00:43:02.68 0]
>>795
信望を失ったというのは関係ないんじゃない?
酸棗諸軍は動かないし、あそこにいる意味もないんだから。

799 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 01:07:49.99 0]
それではわざわざ河内に行く理由も無い。エン州を頼りにすればよい。

張バクと袁紹は反董卓連合を境に仲たがいしているが、
曹操は張バクと共に酸棗に集結したにも関わらず、
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けた。

800 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 10:56:39.99 0]
>>799
エン州にいても董卓と戦えないだろ
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けたんなら、曹操が張バクを討伐してるわな


801 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 11:45:39.03 0]
曹操が河内に行って董卓と戦ったとでも言うのかw

曹操は袁紹の後援でエン州に乗り込んで、張バクとの個人的友好から当初は連携したが、
結局彼を圧迫して関係破綻している罠。

802 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 12:37:03.15 0]
わざわざ募兵までしてるんだから、あの時点では戦う気はあったんだろ
募兵もせずに敗北後にそのまま河内にいったんなら別だけど

関係破綻したのは張バクが反乱したからだよ

803 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 12:53:24.04 0]
袁紹ら冀州河内方面軍が、張バクらエン州方面軍より戦意旺盛だったという根拠を出さないと意味の無い主張だぞそれ

張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
袁紹と曹操はそれが信じられる関係だったわけだ。曹操の本心は知らんが。



804 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/05(日) 17:00:43.61 0]
>>802
反乱したのは張バクが悪いってお前、なんでそんなに曹操擁護なのw
民には苛斂誅求、その上外征ばっかりやる馬鹿なんかいらねーよ。

805 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/06(月) 01:51:02.73 0]
>>804
はて?初期の曹操が苛斂誅求だったなんて話はどこから導き出した結論?

806 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/07(火) 23:00:07.76 0]
魏晋以後で劉氏を名乗る人たちの系譜って、
山陽公一族、匈奴系、系譜不明等を除くと、
前漢皇族の末裔を名乗る場合が多いようだけど、
後漢皇族はどうしちゃったんだろう?
魏建国直前でもそれなりの数が居ただろうに。

807 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/08(水) 00:40:04.29 0]
>>806
劉虞、劉曄など、後漢皇族もいるにはいるが。

808 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 06:14:13.37 0]
>>803
すでに一度、酸棗諸侯は曹操の提案を拒否して出撃しなかったろ。
それなら酸棗にいてもしょうがない。

>張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
それは張バクの内心の問題。>>801のような「圧迫した」という事実はないだろう。
最初に袁紹が圧力掛けた時は曹操が明確に拒絶している。

>>804
張バクが悪いのではなく、張バクの反乱以前に、関係の破綻を示す根拠はないと言っている。

809 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 21:54:05.70 0]
>>808
張バクは酸棗に集結してた頃、曹操の提案を蹴ってる
以降曹操は袁紹と行動しててもうこの時点から少し関係危ういよ

810 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 23:25:26.22 0]
>>808
一度「明確に拒絶した」から張バクが安心できるような三者関係だったとは言えないがね。
無論、エン州支配を確立させようとする曹操には曹操なりの思惑があり、張バクを尊重したいのが本音だったかもしれないが、
しかしながら袁紹と張バクのどちらを取るか選択を迫られる事態になれば、曹操の決断は火を見るより明らか。
当時のエン州は夏侯惇以外は曹操より古い各郡太守が半独立の軍事力を持っていた。
曹操は袁紹の支持とご機嫌を必須とする身分だった。

811 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 23:28:19.32 0]
>>808
>それなら酸棗にいてもしょうがない。
そうだね。で、河内に行けば董卓と戦える保証は? と聞いているのだが。
積極的だった王匡が敗れたのは開戦の大分初期で、以後目立った動きをしていないのは
酸棗と同じだぞ、と。

812 名前:世界@名無史さん [2012/08/10(金) 23:45:25.35 0]
プロ野球板では、阪神和田監督がいろんな人物に例えられてる今日この頃。

813 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/12(日) 06:05:02.25 O]
なんの誤爆だ



814 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 12:27:20.89 0]
袁紹袁術の見直し論は飽きた
彼らが「本当はすごかった」という論陣をはればはるほど、実にくらだらなくなる
特に袁術なw

普通に考えればたった10年内で興隆して壊滅した勢力だぞ?


815 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 14:14:57.89 0]
そういえば、PHP文庫で袁紹も袁術も出ないね。董卓とともに発売を期待しているが。

816 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 23:01:22.70 0]
10年隆盛期間があれば国史に名が残るがな。
そういう比較をすると諸葛亮と同等になって逆効果だぞ。

817 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 23:45:53.69 0]
三国時代に限らないんですが、同じ漢民族同士の間では言葉の壁は
あまり問題にならなかったのでしょうか?

818 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/19(日) 00:52:56.96 0]
方言はまったく別物。
ただし教養人同士は全国的な繋がりがあり、
古典朗読、特に詩・楽の習得でその時代なりの「正しい音韻」を身に付けるので
日常会話は問題にならなかった模様。

819 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 16:02:19.60 0]
>>814
官渡の戦いは戦略的には袁紹が優勢だったし、許ユウが裏切らなければ負けてなかったはず
袁紹は人間性はともかく無能ではなかった

820 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 21:05:52.42 0]
人間性では袁紹が圧倒的に曹操に勝ってたぞ
袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力

821 名前:世界@名無史さん [2012/08/21(火) 22:04:24.55 0]
>袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力

重要なところが全部だめじゃん。
曹操は人事面でミスなしやぞ。

822 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 22:41:15.28 0]
袁紹が優れていたのは人望と統治の識見、組織力

823 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 22:46:45.67 0]
若い頃から一族に叱責されながらも宦官支配に抵抗して駆けずり回って人望と人脈を作り、
独立しては他の群雄にいち早く四州支配までいける程度の軍事力と組織力ってのが袁紹だな。

曹操にあったのは一瞬の隙を現実の打開に結びつけた決断力。
それでさえ、打破できたのは戦術レベルにすぎず、
袁紹存命中どころか袁尚と袁譚が結んでいる間は劣勢だったのが袁紹の遺産。




824 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 02:34:41.66 0]
許ユウ親族の不正がばれなきゃよかったのにね

825 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 02:55:19.00 0]
袁紹が官渡で見せた程度の戦場の「隙」なんて、曹操は後にも先にもボロボロ見せてるからね
それを致命傷にしなかったのは、曹操の戦術的な強さ、粘り強さと、
蓄えた国力は一戦の勝敗くらいでそう簡単に逆転しないってこと。
一方袁紹は冀州中心の圧倒的な国力を再活用する前に死んでしまった。

826 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 03:03:30.02 0]
よく言われるけど官渡よりも袁尚袁譚の兄弟喧嘩がターニングポイントなんだよね

827 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 05:12:56.27 0]
河北の制圧にぐだぐだ8年以上掛けてた曹操の評価として「電光石火」「戦術的に優れてる」とか違う記するが。

828 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 17:43:10.44 0]
すごい袁紹はすごくない曹操に負けたので
袁紹はすごくないです

829 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 18:10:19.70 O]
劉備はもっとすごくないです
孫権がすごいんです

830 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 19:07:38.44 0]
「すごくない」て、おまえ幼児か

831 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 19:29:34.69 0]
すごい袁紹と袁術はすごくない曹操に負けた
すごくない曹操に劣った劉備はもっとすごくないけど王朝を建てた

すごくない曹操≧もっとすごくない劉備>すごい袁紹袁術

832 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 21:41:03.07 0]
でも、そろそろPHP文庫で誰か出しても良いと思うが、袁紹。

833 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 22:14:08.42 0]
>>830
( ´∀`) オマエモナー



834 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 22:32:33.95 0]
袁紹は曹操よりも短期間で河北をまとめ上げて南下している
袁紹の方が優秀

835 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 02:27:00.10 0]
>>827
それだけ袁氏の戦略縦深が深かったってことだよ。
一方の曹操陣営は、小まめに許都へ戻らなければならない兵站事情と内部情勢。
漢朝廷の基盤固めと劉表対応も並行してやっていた。

836 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 02:34:28.70 0]
>>835
そんなの袁紹だってやってましたけど?

837 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 02:35:40.66 0]
>>836
???
もう少し論理的に

838 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 06:43:46.49 0]
袁紹は、袁術や呂布や陶謙や劉表といった南の敵と戦う曹操を管理しつつ、
同時に河北の制圧作戦もやっていたし、
また朝廷にもいちいち目を配っていたね。
それでいて曹操よりも短期間で河北を抑えて大勢力になった。
曹操が自ら劉表対応したっていうけど、それって劉表への対応を委任できるほど信頼できる部下がいなかっただけじゃないのw

839 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 08:21:52.08 0]
信頼できる部下、夏侯惇送った時は劉備にケチョンケチョンにされましたしおすし

840 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 11:17:47.33 0]
そんなすごい袁紹はすごくない曹操に惨敗したので袁紹はすごくないです

841 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 14:03:06.89 0]
袁紹が曹操に惨敗?
いつどこで惨敗したの?

官渡って曹操の戦果が誇張されてるだけ
実際のところ袁紹の戦略企図であった南下を一回だけかろうじて防いだだけで
史書に書いてあるほどの大戦果なんて出てないからな?
もし数万人も生き埋めにしたら10万くらいしか持ってない袁紹は病死するまで勢力を維持なんてできないから

842 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 14:47:11.31 0]
袁紹患者(重病)の言い分

「袁紹は凄い」
「曹操は凄くない」←重要

「袁紹が凄かった」・・・これは理解できる
たしかに凄い
しかし袁紹患者の知性ではそれに留めることができず、袁紹の凄さに箔をつけようとする誘惑に抗えないらしい
そこでなぜか相対性を求めて「曹操」より上だったことを持ち出す

こういうクズをからかうのは実に楽しいw



843 名前:世界@名無史さん [2012/08/23(木) 16:55:51.85 0]
曹操は不利な状況、劣った勢力で袁紹を破り覇者になった。

袁紹はあらゆる面で曹操に勝った条件が揃ってたのに生かせなかった。

袁紹の何が曹操より優れ、何が凄いと言いたいのだろうか?

そしたら劉備なんてもっと凄いぞ。旗揚げ時点の状況考えたら、

袁紹なんて問題にならんくらい凄い。一国の主にまでなったのだから。



844 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 17:10:02.75 0]
袁紹厨じゃないけど擁護するとするならば、
袁紹は官渡で南下を一度食い止められた段階で病死してしまい、
その後曹操が河北を制覇できたのは息子二人が兄弟喧嘩始めたからであって
曹操は袁紹を破って覇者となったのではなくて袁尚袁譚を破って覇者となっただけとも言える

これで曹操と袁紹に明確な優劣を付けるのは難しいと思うがねえ

845 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 17:20:12.75 0]
袁紹は、有能な参謀の意見を一度も聞かなかったというエピソードがあるじゃない
あれは、どうなの?


846 名前:世界@名無史さん [2012/08/23(木) 17:33:11.25 0]
袁紹と曹操の評価は、
諸葛亮の評価が妥当でしょう。

847 名前:世界@名無史さん [2012/08/23(木) 17:38:38.37 0]
劉備は地方の任侠で、関羽は塩梟。
任侠と塩の密売は切っても切れん関係にあるから、この二人が結びつくのは自然。
おそらくは桃園以前、古くからお互いの事は知っていたのではないか。

塩梟は中国全土にまたがるネットワークを持つ一大シンジケートだ。
その影響力は後に塩梟である李自成が明を倒したように、絶大。
劉備はその勢力を代表して台頭した人間だったろう。
そう考えればどこに行っても彼らが優遇され続けたのは合点が行く。

恐らく蜀にはいったのもそのためではないか。
蜀は岩塩の産地、流通路であり、塩梟の根拠地。
唐が滅びた理由も、この地で叛乱があったために塩税収入がなくなったからだ。

そう考えれば、劉備は決して脆弱な政治基盤の勢力ではなかったと言える。

848 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 18:06:58.79 0]
>>843
官渡に限って言うと、攻め始めたのは曹操のほうだから
なぜか兵にも兵糧も不安満載の曹操が「あらゆる面で勝った条件」のはずの袁紹領に攻め込んでる。
実際劉備攻めてる間にカウンター食らって
あんだけ大勝利したはずなのに初期目標の黎陽取るどころか、官渡後に黄河より南の倉亭を取り返してる。
官渡前の状況を袁紹有利にすればするほど、
そんな相手に攻め入った曹操の見通しのなさが問題になると思うが。

曹操の凄さはあんだけ劣勢になったのに、ワンチャンをひたすら耐えて待ち続けられる精神力の強さと
訪れた僅かなチャンスをモノにする驚異的な戦術と手腕だろ。
普通あんなところまで追い詰められたら心が折れるか、自分の動揺が周囲にも感染して終わりだよ。

849 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 18:08:03.94 0]
>>844
息子二人が兄弟喧嘩をしたのは袁紹の責が大きいだろ。

850 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 18:36:41.09 0]
>>842
このスレの誰のこと言ってんの?
架空の相手にシャドーなら三戦ででもやってくれ

851 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 18:39:18.36 0]
>>843
>袁紹の何が曹操より優れ、何が凄いと言いたいのだろうか?
「先に地盤を固めた能力が曹操より優れている」だな。
廷臣、在野時代の実績含めて。

852 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 18:44:58.99 0]
>>849
曹操だって死ぬ時期が違えば曹丕と曹植が兄弟喧嘩した可能性はある
寿命も能力の内だと言えばそれまでだが

853 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 19:09:34.53 0]
>>852
曹丕と曹植で真っ二つに割れようはないだろ。
割れたかもしれない、で曹操を袁紹と同列に貶めるのはおかしい。

袁譚袁尚が割れたことは、政治的に失陥だったと言わざるを得ない。



854 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 19:30:20.72 0]
>>853
失陥だからどうしたって?

855 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 19:38:39.83 0]
結局(全てがとは言わないが)敗因は袁紹にあるということ

856 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 19:42:53.32 0]
そりゃ当たり前だよ。負けた事実を分析して原因を求めるんだから。
「袁紹の敗因」と言うよりは「袁氏の敗因」だが

そういう作業もせずに「すごい」「すごくない」とか頭の悪い二元論にしたがるのは
>>814>>828>>842みたいな奴ら。やめてくれよな。


857 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:10:33.06 0]
>>847
劉備を地方の任侠とか言ってる奴はとりあえず世界史板にいる意味はない
三戦行って好きなだけ三国志トークしててくれ

858 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:11:52.57 0]
>>848
曹操は心折れてたけどな
荀ケや郭嘉などの参謀が必死で折れた曹操を立ち直らせて我慢させた

859 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:18:06.72 0]
>>857
現代の一般的なイメージでの「任侠」と、
当時の士人に普及していた「侠」の心性を別物としてそう言っているのなら賛成

860 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:20:46.99 0]
>>852
一時期むちゃくちゃ悩んだのは確からしいが、袁紹んとこみたいにはならなかったと思う
元々曹丕が暫定後継者扱いで、曹植擁立しようとしてたのは一部の奴らだけで殆どの家臣は曹丕を後継者にと考えてたようだし

861 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:21:12.99 0]
袁紹は別に「国盗り」なんてしてないからな
董卓にビビって宴会して
韓馥騙した挙句自殺に追い込んで
その一方で劉虞に媚売って皇帝に仕立て上げようとして全方位から否定フルボッコ食らって
したらしい戦といえばサイコパスのメンヘル公孫?と長年してただけ(一番やっかいな袁術とか陶謙は曹操任せ)

結局官渡の戦いの時の領有四州なんつってもまともな州は騙して乗取った冀州だけ

青州:黄巾の影響で大荒廃して袁譚も受難
并州:張燕と匈奴のオコボレ
幽州:公孫?撃破後からほんの僅か

862 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 20:33:31.85 0]
>>859
中国史を語る上で外せない任侠と「地方の」などという現代日本語的な用法で出る任侠は全く別物だろ
区別してなきゃ文句は言わんって

863 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 21:31:23.84 0]
>>860
まあ曹操が悩んでた時期に死んでたら、丞相位なんて相続できず軍閥解体するしかないので後継者も何も無いからな。
これが地方軍閥なら、群雄の息子を中心にして権益を維持しようとある程度は纏まるが、
許都で中心になるのは当然皇帝。荀ケらを含む後漢廷臣の綱引きに巻き込まれて曹操軍閥の構成員はバラバラになる。



864 名前:863 mailto:sage [2012/08/23(木) 21:38:48.07 0]
いや、失礼。曹丕が太子に正式に落ち着いたのは217年だから、
荀ケが既に死んでいる時期も長いし、魏王廷も安定しているか。
魏公王時代に跡継ぎの準備不足で曹操が急死した場合、魏王廷と許都朝廷に分裂する危険が一番大きいな。

865 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 21:47:45.81 0]
>>861
対する曹操の陣営はエン州・司隷・豫州・徐州。
全てボロボロで青并幽程度の支配力でしたとさ。
ポカの多さで袁紹とこれだけの差がついたのが曹操。
ここから逆転したのも曹操。

866 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 21:50:05.75 0]
もうどっちもすごいでいいじゃん

867 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 21:50:13.10 0]
>>865
何を根拠に「青并幽程度の支配力」と言ってるの?

868 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:00:02.00 0]
>>867
当時の中原や司隷は、并州へ人が避難していくほど長年の飢饉でボロボロだったのだが。
しかも曹操が地盤固めできていたのはエン州と豫州西部くらいで、しかも呂布から奪還して4年以下。
豫州東部はそれこそ袁術が滅びたばかり、徐州は劉備にあっさり叛旗を翻されるほど統治が手についてない。
司隷東部は長安から人を戻して復興途上。司隸校尉の鍾ヨウは并州の高幹に攻め込まれ劣勢の始末。

曹操は袁紹を冀州から駆逐したあと、孤立した袁譚・高幹を滅ぼすのに各一年掛けている。それくらいの地力はそれぞれにあった。
徐州や司隷単独と比べて貧しいと言えるのだろうか?

869 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:00:50.66 0]
×曹操は袁紹を冀州から駆逐したあと、
○曹操は袁尚を冀州から駆逐したあと、

870 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:08:09.50 0]
>>868
ボロボロだったというのは理解できる

俺が聞いてるのは「青并幽程度の支配力」と断言する具体的な比較の根拠だ
数字的根拠もなしに「青并幽程度の支配力」と言ってるわけじゃあないよな?

871 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:11:15.62 0]
>>861も、「それに比べて曹操はまとも」って比較を前提に語ってたんだろ?
数字的根拠出してくれよ

872 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:20:39.01 0]
曹操も司隷は李カク郭シのおこぼれだし
徐州は自分で大虐殺やらかしてボロボロな上に劉備撃破して間もないし
豫州は汝南とか支配できてないしでロクなもんじゃないけどなあ

873 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:23:18.61 0]
>>871
いや俺>>861じゃないし

あまりにも自信満々に「青并幽程度の支配力」なんて言ってるから
そんな断言するだけの根拠を問うてるんだよ

どういう根拠で割り出した比較なんだ?



874 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:27:31.96 0]
>>861は後漢末の軍閥の中でも軍事力で北方の諸民族を圧迫してた公孫サンを
大したこと無い扱いしてて三戦板向きというか世界史板向きでない人だからそんなんに対抗意識燃やすなよ

875 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:30:11.41 0]
>>873
じゃあ横レスしてくれても困るなあ。
861に対して同レベルの反論をしただけなんで。
官渡とほぼ独立して行われた徐青州と司并州戦線は互角。ていうか曹操側が攻め込まれている。
それで十分だろ。

876 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:32:02.14 0]
つか冀州だけが飛びぬけてて青并幽エン徐司隷がドングリの背比べなんだよこの時点では
許都と洛陽周辺はその後整備されていくが

877 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:34:06.42 0]
曹操は曹操で袁紹以外の敵が多かったが、実は忘れられがちなのが
袁紹の後方をかく乱していた張燕の存在。ちなみに、官渡の時ではないが
一度袁紹は張燕の部下に?を落とされるという相当恥晒しな真似をされている。

878 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:35:12.10 0]
>>875-876
不思議なこと言うなぁ
支配力と戦争って相関関係にはあるが比例して変動するようなもんでもないだろ

「青并幽程度の支配力」だとどうして戦線が互角になるんだ?
もっともその程度の支配力という結論に至った根拠もまだ提示されてないんだが
横レスすんなっていうならまず掲示板に書き込むべきじゃないな
そういうのがないツールで語り合えばいいさ

879 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:38:42.47 0]
「支配力」には多様な中身があるが、その総合力が供出できる戦力に直結するから。
曹操と袁紹の決戦と優劣の話題なんだからそれでいい。

880 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:40:47.55 0]
>>879
つまり供出できる戦力が同程度であったと主張しているのか?

881 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:42:25.10 0]
>もっともその程度の支配力という結論に至った根拠もまだ提示されてないんだが
あんたの言いようさっぱり中身がないな。
同じような「後出しハードル上げ」されて史料を提出できる人なの?

>>868を読んで、ナニが不足なのか、原典史料なのか、推論過程なのか具体的に言ってくれ。
文献史学の常識の範囲内で頼むよ。絡みたいだけじゃなければな。



882 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:47:06.07 0]
>>881
>対する曹操の陣営はエン州・司隷・豫州・徐州。
>全てボロボロで青并幽程度の支配力でしたとさ。

これの根拠求めてるんだが
同程度だったと主張するからにはちゃんと出典や分析の基本になるデータ示してくれよ

>>868だと「同程度」と推測した数字的根拠がないんだよね
攻め込まれた、戦線が膠着したなんてのは情勢の推移や指揮者の属人的な要素など
様々な理由で支配力と対応しないことなんていくらでもありえることだろ

883 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:49:00.36 0]
無根拠に「このくらい」とか主張してそれ突っ込まれたら
後出しでハードル上げられたからとか言うのは頭オカシイ



884 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:53:20.07 0]
おいおい。この時代の国力やら何やらで「数字的根拠」が出せるケースがどれだけあると思うんだい。
「同じくらい」と言われたときに「数字で出せる」と思った根拠はいったいどこから生えてきたんだい。
出典不明の会戦兵力がなぜか羅列してある歴史群像本とかあの辺から?


885 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 22:54:55.16 0]
で。>>879-880
そうだね。それでいいよ。


886 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 23:00:51.53 0]
>>884
じゃあ不明だが戦線はどうこうだった、で終了だろ
「青并幽程度の支配力」というのは史料に基かない希望にしかなってない
数字的根拠もなく同程度とかあたかも比較して判明したかのように言い出すのはおかしいだろ

曹操の支配してる領域には黄巾の乱や董卓の攻撃他でボロボロになった地域はあるけど
どの程度の疲弊具合かというのはわからない
袁紹の支配領域もどうなってるかってのはわからない
それをどうして比較して同程度と言うことができるかね?

887 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 23:01:58.39 0]
後漢盛期から晋盛期の人口分布と、この間行われたギョウ、洛陽、許都などへの徙民や開拓政策の影響を差し引けば、
「冀州だけ飛びぬけてあとはドングリ」の数字的根拠は出せるな。ただ、エン州はその中でも頭半分高いドングリになるが。

888 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 23:02:30.66 0]
>>886
 >>887

889 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/23(木) 23:48:46.01 0]
>>887
後漢の豫州って冀州を越える人口のある州だぞ
豫州人は官渡以前には激減してたのか?

冀州だけ飛びぬけて後はドングリってちょっとおかしいだろ
冀州なんて黄巾賊の張角がいた激戦地の一つで兵難を少なからず被ってる土地なんだが

890 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 00:38:15.93 0]
人口は晋書開けば判るよ。

漢魏間の大規模な人口移動と逃避が起きたのは、後漢中後期から董卓の乱辺りまで。
州単位で群雄が支配している官渡の時期には既に安定している。
その後の大規模移動は淮南とか漢中とか、徙民や統治失敗のあった部分だけ。

891 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 01:12:00.47 0]
>>890
豫州の人口が官渡前に冀州と逆転していたいたと主張するならちゃんと証拠を出しなよ
冀州だけが頭抜けて良い土地だって言うのは官渡時点での人口統計とか
それに言及した人物の逸話とかないと難しい

それに官渡前の袁譚の青州じゃ担税力が低下して上手く税金を取れてない話があったり
并州は曹操が後に放棄したように元々支配できてない地が多くあった
こういう不確定要素で変動しているから具体的な数字がわからない現状では
冀州だけが優れた州であって他は支配していてもそれ程変らないという主張はおかしいぞ

わからんもんはちゃんとわからないと言うのが誠実さってもんだ

892 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 02:33:25.94 0]
後漢書と三国志の至るところに散りばめられている大量の流民の記録を読みなさい。
荀ケの避難に代表されるように、この時期の大きな人口移動は動乱初期まで。


893 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 08:14:26.93 0]
>>892
移動の記録は読んでるが冀州と豫州の人口差がどこで逆転したかなんてわからんし
そもそもその流民の記録が残ってないところでも着々と移動してるから後漢と晋で偏り方が大分変ってるんだよ
初期の動乱除けば後は王朝の中核部やってた冀州と
呉との策源地兼国境やってた豫州では官渡以後の待遇も全く違うし
人口なんてどう流れるかさっぱり計算できんぞ



894 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 11:21:23.71 0]
日本の戦国時代とか戦乱やってんのに人口伸びてたとか聞いたことあるしねえ
ほんと人口はどう動くかわからんよね

しかも中華王朝が作成した史書に残る人口は前近代の未熟な調査能力・統計技術によって
王朝が把握した人口に過ぎないのでその数字自体にも疑問が残ると言うものだし
まあ把握していた人口によって政府の動員できる国力は測れるのは確かなんだが

895 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/24(金) 23:20:15.51 0]
人口人口うるさいね
蜀の人口180万と捏造した奴を思い出したじゃねーか






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