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正史『三国志』 二十七巻



1 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/03/26(月) 16:24:33.23 0]
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正史『三国志』 二十六巻
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727 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 01:05:58.11 0]
>>726
劉邦の父親レベルで功績ないならともかく、曹騰は創業に僅かながら貢献しているからその言い方はどうなんだ?

728 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 01:12:59.58 0]
えっ

729 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 01:26:39.98 0]
>>726
そもそも、なんで功績もないのに追号する必要があるの?
あと司馬懿・師・昭も創業はやってないよね。
曹操みたいに軍閥スタートじゃないし。

730 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 05:22:44.60 0]
>>729
司馬昭は晋王になってる上に、魏のどの王よりも上位の待遇とされた。
司馬懿は九錫の下賜をされたが本人が固辞している。
創業者と言ってよいレベルだろう。

731 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 09:08:19.25 0]
>>729
廟を立てるため。

晋の実質の創業は司馬懿からというのが晋王朝の見解

732 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/14(土) 09:22:59.82 0]
三司馬の「功績」は二つ。魏王朝を実質経営して、天子たりえる「徳」を積み上げたこと。
蜀呉を撃退して統一への道を開いたこと。
王になったばかりでなんの功績も無い司馬炎が禅譲を受ける正統性は、祖父・伯父・父が用意したもの。
特に蜀を撃退・征服した功績は司馬氏のものである、ということは、のちの漢晋交替論でさらに強調される。

733 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 16:34:03.55 O]
司馬懿って本当にキャラが掴めない。
苛烈な性格で、それを隠してて、たまにそれがこぼれたり、
自分の生き方をドヤ顔で子供達に語るあたり、
強いて言えば徳川家康に似た感じ?

734 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 19:29:14.76 0]
別に隠してはいないだろう。
曹操から隠れたり、曹爽相手に仮病を使ったのは単に処世。
最初の約束を反故にして曹爽に罪を被せて殺したのは単にそうしなければ生き残れないから。

735 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 21:01:24.36 0]
>>733
苛烈な性格っつってもそれが表面に現れたのって公孫淵の乱の時とか正始の変くらいだからなー
普段温厚な人なんだけど相手の度が過ぎた振る舞いにはブチ切れるってだけだったんじゃないかと思ってる
兄貴の司馬朗や弟の司馬孚は温厚で人格者なのに司馬懿だけ温厚なのはフリで実際は苛烈ってなんか違和感が


あと曹操に対して仮病使って出仕拒む理由がいまいちわからん
兄貴や弟は普通に仕えてるのになんで司馬懿だけいやいや出仕したんだろ
曹爽相手の「年取ったんで引退する」宣言は半分本気だったと思うんだけどなぁ
曹爽達が暴走する兆しがあったからボケたふりしてカマかけたら案の定…な感じだったんで粛清決意したんじゃないかと




736 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 21:32:12.42 0]
>曹操に対して仮病使って出仕拒む

これは後付けだろうな

超厳格な家父長制の家に生まれた懿が
その家の父がかつて推挙し、なおかつ、長男で兄である朗が仕官してる勢力の長を拒むとか論理的に破綻してる

宦官の孫で簒奪政権の始祖にその才能を見出されたが拒否した、という定型文に近い神格化

737 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 21:48:16.93 0]
別に破綻してない。
司馬家が曹家に恩があるなら応じる義理も生まれるが、事実は逆。
兄が仕えているからといって、家業を放って公務員にならなきゃならない義務も無い。
嫌なら仕えないって選択は世情不安定なら有りふれたもの。

「時流に屈せず」ってのも極めてポピュラーな名士の逸話であって、
創作だとしても神格化なんてほどじゃない。

738 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 21:58:46.76 0]
>>737
魏略の逸話見てると司馬懿が曹操に使えるのが嫌だったっていう話も嘘くさい気はするけどなー

神格化っつーか「元々司馬懿は曹家に対して忠誠心なんて持ってない逆臣ですよ」って言いたいんじゃないか>曹操に出仕拒否
光武帝の司馬懿評とか見てると、正直晋書の記述は司馬懿の人格面はわりとボロクソに貶してる印象が

739 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/23(月) 22:45:01.58 0]
>>736>>738
どっちだよ
議論は先ず両極端同士でやってくれw


740 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 03:03:47.81 0]
>>736
まだ袁紹生きてたから下手に曹操に仕えると危険とか思ってたかもよ
官渡で一敗地に塗れたとは言えまだまだ袁家は強勢だったしな


741 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 07:28:47.94 0]
どっちにしろ「後付け」という見方なわけで
劉巴のケースような信憑性・一貫性がないんだよね

742 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 08:24:55.75 O]
>>741
確かに劉巴は一貫してるw
コミュ障やDQNばっかの劉備、孫権陣営に比べて比較的常識人が多い曹操陣営で
司馬懿はひそかに恐れられた感じかな?

743 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 16:57:09.99 0]
>>734
曹爽を殺したのは俺は言い訳出来ないと思う
あと固辞したとはいえ九錫下賜が行われたというのは、司馬懿の野心を物語っていると思う。
もし野心がないなら、固辞する前に介入して、未然に防いだと思うから。

もっとも、幼帝でなかったら、曹爽の専権がなかったら、
野心など見せずに淡々と仕えたとは思うが。

744 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 18:21:04.15 0]
>>743
九錫下賜されたのって司馬懿じゃなくて司馬昭じゃね?
司馬懿が固辞したのは丞相の位だったような

745 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 19:29:10.20 0]
丞相も九爵も公位も漢の忠臣で微塵も帝位への野望を見せなかった曹操が就いてるから問題ないな



746 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 22:32:56.49 0]
>>741
当時河内の名族の息子でしかなかった一青年が、三度も四度も変転した皇帝の推戴者に召されて仕えるのを拒否することに、
歴史や人生に対する一貫性なんかあると思う時点でおかしい。

司馬懿が一旦は曹操に仕えるのを拒否した。この事実が元になって、「漢への忠誠があったから」「曹操を認めてなかったから」
などと後付された、というならわかるが。

747 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 22:48:23.76 0]
>>744
三少帝紀の注の漢魏春秋によると九錫下賜されて固辞してる。
これが元ネタかも知れんが、晋書の宣帝紀だと249年2月に丞相任命、12月に加九錫。どちらも固辞。
漢魏春秋の作者の孔衍はガチの学者なので、信憑性は高いと思う。

748 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 23:13:36.54 0]
魏略の逸文に曹洪に交際を求められたけどそれを恥じて仮病を使って断った。曹洪はそれを恨んで曹操に告げ口した。
曹操は司馬懿の評判を知っていたので出仕を求めると、司馬懿は喜んで杖を捨てて(仮病のふりを辞めて)出仕した。

っていうのが有るらしいんだけど、これホントだったら曹操への出仕全然嫌がってないよね
似たような話が阮うにもあるから信憑性は微妙かもしれんけど

そういや恩人の息子である司馬懿を曹操が冷遇したって本当なのかなー
基本的に曹操は自分の恩人の子供達はかなり優遇して手厚く保護してる印象があるんだけど

749 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 23:30:54.47 0]
冷遇したってどこネタだったっけ?
少なくとも晋書では、
曹丕の遊び相手>黄門侍郎>議郎>丞相東曹屬>主簿>太子中庶子(四友)
皇帝側近で箔を付けてから丞相側近。曹丕が丞相になると長史。
曹操にとっての要人というよりは、次世代の宿臣を期待された若手エリートコースだね。

750 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/24(火) 23:41:07.32 0]
>>749
晋書によると曹操が狼顧の相とか不吉な夢とかで司馬懿が危険だと思って曹丕に忠告したけど、曹丕は司馬懿と仲が良くてむしろ司馬懿をかばっていた
司馬懿も疑いが解けるように身を謹んだ結果ようやく曹操は疑いを解いたとか
書いてて思ったけど、冷遇というか嫌われていたって感じかな
どうもこの内容が丁沖や鮑信の恩に報いるために息子たちを召し寄せてわりとかわいがってた曹操の姿とギャップを感じる

751 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/25(水) 00:01:36.50 0]
>>750
曹操は嫌った奴を殺したりもしてるから別にギャップは感じないな

752 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/25(水) 02:20:54.68 0]
司馬防は当時の人事担当官だったってだけで、
孝廉出身の郎官を県尉にするのは普通のことであって抜擢とも言えないのだから
恩人と言うには弱い。

曹操は陳寿に「嫌いな相手を許せない人柄で」と明記されるくらい好悪の情が激しかった。
「度量の幅は広いが嫌った相手はとことん駄目」と言うべきか。
まあ司馬懿は許しているんだけど。

そもそも>>750が司馬懿の青年時代で一番後付け臭い逸話じゃないかw
晩年の専横と晋成立の後でなければ価値が無い話だぞ。

753 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/25(水) 10:10:55.14 0]
では朱霊に対しての感情はなんだったのか、という疑問が常に消えない

754 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/26(木) 09:37:56.51 0]
気に食わないことがあったんだろ

755 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/26(木) 19:52:59.05 0]
元は袁紹配下だったから警戒してたとか?



756 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/26(木) 21:41:35.82 0]
張コウに比べればよっぽどマシな移籍経緯だが。

757 名前:世界@名無史さん [2012/07/26(木) 23:12:38.68 0]
魏晋の場合、一字王ってのは特に意味はないの?

758 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/26(木) 23:57:58.77 0]
なにそれ

759 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/26(木) 23:59:45.28 0]
>>757
日本語でおk

760 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/27(金) 05:01:33.21 0]
エスパーすると、
南朝に朝貢した「讃・珍・済・興・武」の倭王じゃまいか

761 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/27(金) 11:37:44.76 0]
>>760
それはたぶん違うだろww
楚王みたいのと豫章王みたいのの差って意味じゃないの?

762 名前:761 mailto:sage [2012/07/27(金) 11:40:26.66 0]
あーごめん補足しとくわ
楚王とか趙王とか斉王とかみたいな国名が一文字なところと
豫章王とか長沙王とか東海王みたいな国名が二文字なところで何か差があるのかってことでしょ?

時代が下ると実際この両者で待遇に差がある時代もあったはず

763 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/27(金) 12:24:55.37 0]
ただの地名でショ?

764 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/27(金) 17:41:00.86 0]
晋の2代目恵帝が即位すると、扶風郡を秦国と改称した上で、
同母弟の南陽王柬を秦王に移封するということはあったけど
これも多分関係ないっぽい。
その後、成都王潁が皇太弟になっても改称しないし、吳王晏の扱いも悪い。

765 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/27(金) 19:54:17.35 0]
自己レスだが、皇太弟になってから改称はありえないか。
ただ、皇太弟になる前に改称はなかった。
皇太弟になりかけた淮南王允も、改称されてないし、
一時政権を掌握した汝南王亮やら長沙王乂その他も、改称はなかった。



766 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/28(土) 13:48:49.69 0]
呉王ってのは考えてみると微妙命名のような。
魏王・漢王・漢中王とかは、やっぱり避けてたのかな?
禅譲直前が、一文字ってのはまあ様式美とかお約束にしても。
って言うか先例主義。

767 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/28(土) 21:24:04.48 0]
呉王が微妙ってイミフ。
魏王・漢王・漢中王が何を避けてたのかさっぱり判らない。
禅譲直前に一文字ってなにそれ?

768 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/28(土) 23:29:12.70 0]
>>767
アホか

本当に判ってないのか判ってて否定してるのか知らんが
判ってないんだとしたら中国史に首突っ込むのやめた方がいいでしょ
ちなみに俺は766じゃないぞ

魏王と漢王は「二王乃後」的な意味合いもあるだろうから避けられたのだろうか

769 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/29(日) 00:10:31.50 0]
ああ、晋代諸王の話の続きしてたのか。そりゃすまんかった。

770 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/29(日) 00:22:29.86 0]
一字二字であることに格差があるというより、元々は
一字の国は普通周代からの古国名で、
二字の国は後代に出来た単なる「地名」だからってことだろう。
侯王としてなら淮南王や長沙王でも構わないが、
独立や禅譲を企図するなら古国の由緒が必要となる。

この由緒の差が、徐々に封爵の格差として制度化されると。

771 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/29(日) 18:14:36.53 0]
独立や禅譲を企図する場合は、由緒以上に藩国の大きさが重要なんじゃない?
それだけ権力を握るようになっていたなら、郡国以上の封土を得るだろうから、
自然と古国由来の王号となる。

同じ王朝の中で帝位を継ぐ場合は、郡国王であっても問題ないと。

司馬懿の息子だと、趙王とか梁王とかいるけど、これはただの郡国王であって、
兄の汝南王、瑯邪王、扶風王、平原王より格上ということではないと。

772 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/29(日) 23:54:59.98 0]
曹操や五胡十六国代の軍閥上がりの場合は、乱世で自分の軍事力を維持するために大きな封地を必要としただろうが、
司馬氏のように宮廷秩序と自分の権勢を一体化させたうえでの禅譲なら外にそんな巨大な封地を得ても使い道が無い。

>同じ王朝の中で帝位を継ぐ場合は、郡国王であっても問題ないと。
そりゃそうだよ。王どころか亭侯から皇帝になったのが漢には普通にいる。
帝位を世襲するのに直前の爵位に由緒など必要としない。

773 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/30(月) 01:11:04.07 0]
でも司馬昭は巨大な封地を得たわけで、
巨大な封地を得た王であるというのは皇帝即位の前段階としては意味あることなんじゃないの?

>帝位を世襲するのに直前の爵位に由緒など必要としない。
もともと「一字王」に意味はあるのかって話だったからさ。
趙王の司馬倫は世襲というか、簒奪して即位したわけだけど
そこに一字王というのが影響あったかというと違う。
でも亭侯だったら無理だろう。

774 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/07/30(月) 09:18:28.65 0]
漢の場合は世代順とか親疎関係とかの関係?儒教がらみで。
別にその時期に王がいないわけじゃないよね。
なるべく幼少を選びたかったんだろうってのはともかく。

晋はかなり盛大に王号ばらまいたから、
即位できそうな人は大概王だよね。
傍系でしかも兄を差し置いてってのは難易度高くなるし。
その上継承権が上のライバルが多すぎる。

775 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/01(水) 23:51:22.34 0]
ふと気になって調べたが、曹宇って息子の曹奐が即位したあとも生きてるのか。
三少帝紀に出てくる。
と思ったが、燕王と記されるだけで、ちくまはカッコして曹宇としているが
もしかしたら燕王を継いだ兄という可能性もあるのかな?



776 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 00:00:02.37 0]
曹操、孫堅は董卓討伐の際長安に到着してからも追撃に出た。
董卓は羌族を味方につけてたんでヘタレ漢民族ではやられるの必須。
死ぬつもりで追撃したと思われる。自称皇族劉備様は帰ったwww。

漢王朝復興に積極的だったのが上のお二方。劉備は詐欺師。


777 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 00:36:31.91 0]
どこの漫画…いやネット小説の話ですか

778 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 00:39:31.47 0]
>>776
それ演義の話だろ?
先主伝読む限り劉備は董卓討伐に参加してないはずだけど

779 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 00:50:09.85 0]
董卓と戦ったっていうことで評判が良くなったのは確かだろうが
どこまで本気での漢王朝復興だったのかはわからんな、特に孫堅

780 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 00:51:42.88 0]
>>778
ヒント:長安に到着

演義の話でさえない。
演義なら劉備どころか諸侯軍全てが洛陽まで到達してそこで解散している。

781 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 01:18:54.28 0]
孫堅が漢王朝復興?
そんなの「祖父の代から後漢の忠臣」をアピールしたい孫権たちの捏造だろw
独断で越境しまくり、後漢が任じた太守や刺吏をぶっ殺しまくってるし、
その上反逆者袁術の第一の部下だしw

782 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 03:27:41.96 0]
>>778
先主伝読む限りでは註釈の英雄記の方で曹操の募兵に応じて参加してること書かれてるわけだが

783 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 03:37:35.91 0]
>>782
じゃあ曹操と一緒に追撃かましてるかもしれないわけですね

784 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 03:57:33.06 0]
>>781
後漢が任じた、じゃなくて、董卓が任じた、だろ。
それとも後漢朝廷は董卓を忠臣と認めてると言いたいの?
袁術の皇帝僭称は孫堅の死からずっと後だけどな。

785 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 05:25:09.76 0]
>>784
君側の奸って便利な言葉だよね
これ使えば朝廷に反旗翻しても正当化できるもんね
ただ実力が伴ってないと討伐されるだけだが



786 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 16:35:39.44 0]
>>784
王叡は董卓が任じたわけじゃないんじゃ。

787 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 17:44:45.85 0]
>>783
可能性だけならね

788 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 18:00:55.18 0]
孫皓の帰命侯は名号侯って説もあるみたいだけど、
それだと劉禅の安楽公に比べてあまりにも低いな。
開国爵の郡侯ないし県侯ならさほど差はないけど、
旧列侯の県侯でもかなり落ちる。
もう敵が居ないから厚遇する必要が無いって言う、
一種の実利主義なのだろうか?
後に前秦に降伏した前涼の張天錫が帰義侯かなにか、
その前に前涼に謀反起こして前秦に通じたけど、
失敗して前秦に逃亡した将軍がやはり帰○侯。
孫皓が先例なんだろうけど、これも名号侯なのかなあ。

789 名前:世界@名無史さん [2012/08/02(木) 19:59:59.14 0]
ところでさ、蜀で大尉に任命された人はいたっけ?

790 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 21:19:09.38 0]
上官勝

791 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/02(木) 22:44:49.82 0]
>>785
君側どころか一度は仕えた同族の皇帝の武装解除令を拒否して皇帝名乗って
再興200年の礎を築いた中興の祖がいるわけだが。

792 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 03:08:28.67 0]
>>777-785
ごめん。洛陽焼き払った董卓が長安に逃げ始めたので、追撃するよう袁紹にいったが聞き入れられず、
しかたなく曹操と孫堅の部隊が追撃したが敗れた。戦争に強い異民族に二人だけとは無謀。
漢王朝復興なんて情熱なければ宴会して遊んでる。感王室復興に熱心だったのはその二人ではないか
というのが言いたかったこと。




793 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 06:08:20.93 0]
本気で漢王室復興を目指してたのは劉備だけ

794 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 09:53:23.81 0]
吉本:・・・・

795 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 10:13:54.83 0]
>>792
それも違う。
曹操は焼き払われる前の洛陽へ、総進撃が認められなかったので一部の部隊で前進を試みて徐栄に破れる。
これにより戦力と信望を失ったので袁紹の庇護下に入る。
孫堅は袁術・張バクらとは戦術的には連携してない南陽方面の前線司令官。総司令官は袁術。彼らは二年に渡り継戦する
劉備は当時、一介の県令か、または賊に敗れて公孫サンの庇護下に入った頃。

3人とも全く立場が違う。比べても意味が無い。



796 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 10:17:22.00 0]
ああ、訂正。
曹操が前進したのは洛陽が焼かれた後か。
しかしこれは防御縦深を取るためのもので、
以後翌年まで洛陽周辺に大軍が展開している。

797 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/03(金) 18:00:21.97 0]
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.8F.8D.E8.91.A3.E5.8D.93.E9.80.A3.E5.90.88.E8.BB.8D


798 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 00:43:02.68 0]
>>795
信望を失ったというのは関係ないんじゃない?
酸棗諸軍は動かないし、あそこにいる意味もないんだから。

799 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 01:07:49.99 0]
それではわざわざ河内に行く理由も無い。エン州を頼りにすればよい。

張バクと袁紹は反董卓連合を境に仲たがいしているが、
曹操は張バクと共に酸棗に集結したにも関わらず、
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けた。

800 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 10:56:39.99 0]
>>799
エン州にいても董卓と戦えないだろ
敗戦後明確に袁紹派閥として数年動き続けたんなら、曹操が張バクを討伐してるわな


801 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 11:45:39.03 0]
曹操が河内に行って董卓と戦ったとでも言うのかw

曹操は袁紹の後援でエン州に乗り込んで、張バクとの個人的友好から当初は連携したが、
結局彼を圧迫して関係破綻している罠。

802 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 12:37:03.15 0]
わざわざ募兵までしてるんだから、あの時点では戦う気はあったんだろ
募兵もせずに敗北後にそのまま河内にいったんなら別だけど

関係破綻したのは張バクが反乱したからだよ

803 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/04(土) 12:53:24.04 0]
袁紹ら冀州河内方面軍が、張バクらエン州方面軍より戦意旺盛だったという根拠を出さないと意味の無い主張だぞそれ

張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
袁紹と曹操はそれが信じられる関係だったわけだ。曹操の本心は知らんが。

804 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/05(日) 17:00:43.61 0]
>>802
反乱したのは張バクが悪いってお前、なんでそんなに曹操擁護なのw
民には苛斂誅求、その上外征ばっかりやる馬鹿なんかいらねーよ。

805 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/06(月) 01:51:02.73 0]
>>804
はて?初期の曹操が苛斂誅求だったなんて話はどこから導き出した結論?



806 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/07(火) 23:00:07.76 0]
魏晋以後で劉氏を名乗る人たちの系譜って、
山陽公一族、匈奴系、系譜不明等を除くと、
前漢皇族の末裔を名乗る場合が多いようだけど、
後漢皇族はどうしちゃったんだろう?
魏建国直前でもそれなりの数が居ただろうに。

807 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/08(水) 00:40:04.29 0]
>>806
劉虞、劉曄など、後漢皇族もいるにはいるが。

808 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 06:14:13.37 0]
>>803
すでに一度、酸棗諸侯は曹操の提案を拒否して出撃しなかったろ。
それなら酸棗にいてもしょうがない。

>張バクが曹操から離反したのは、袁紹からの「殺せ」という圧力を曹操が実行すると信じたから。
それは張バクの内心の問題。>>801のような「圧迫した」という事実はないだろう。
最初に袁紹が圧力掛けた時は曹操が明確に拒絶している。

>>804
張バクが悪いのではなく、張バクの反乱以前に、関係の破綻を示す根拠はないと言っている。

809 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 21:54:05.70 0]
>>808
張バクは酸棗に集結してた頃、曹操の提案を蹴ってる
以降曹操は袁紹と行動しててもうこの時点から少し関係危ういよ

810 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 23:25:26.22 0]
>>808
一度「明確に拒絶した」から張バクが安心できるような三者関係だったとは言えないがね。
無論、エン州支配を確立させようとする曹操には曹操なりの思惑があり、張バクを尊重したいのが本音だったかもしれないが、
しかしながら袁紹と張バクのどちらを取るか選択を迫られる事態になれば、曹操の決断は火を見るより明らか。
当時のエン州は夏侯惇以外は曹操より古い各郡太守が半独立の軍事力を持っていた。
曹操は袁紹の支持とご機嫌を必須とする身分だった。

811 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/09(木) 23:28:19.32 0]
>>808
>それなら酸棗にいてもしょうがない。
そうだね。で、河内に行けば董卓と戦える保証は? と聞いているのだが。
積極的だった王匡が敗れたのは開戦の大分初期で、以後目立った動きをしていないのは
酸棗と同じだぞ、と。

812 名前:世界@名無史さん [2012/08/10(金) 23:45:25.35 0]
プロ野球板では、阪神和田監督がいろんな人物に例えられてる今日この頃。

813 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/12(日) 06:05:02.25 O]
なんの誤爆だ

814 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 12:27:20.89 0]
袁紹袁術の見直し論は飽きた
彼らが「本当はすごかった」という論陣をはればはるほど、実にくらだらなくなる
特に袁術なw

普通に考えればたった10年内で興隆して壊滅した勢力だぞ?


815 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 14:14:57.89 0]
そういえば、PHP文庫で袁紹も袁術も出ないね。董卓とともに発売を期待しているが。



816 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 23:01:22.70 0]
10年隆盛期間があれば国史に名が残るがな。
そういう比較をすると諸葛亮と同等になって逆効果だぞ。

817 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/18(土) 23:45:53.69 0]
三国時代に限らないんですが、同じ漢民族同士の間では言葉の壁は
あまり問題にならなかったのでしょうか?

818 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/19(日) 00:52:56.96 0]
方言はまったく別物。
ただし教養人同士は全国的な繋がりがあり、
古典朗読、特に詩・楽の習得でその時代なりの「正しい音韻」を身に付けるので
日常会話は問題にならなかった模様。

819 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 16:02:19.60 0]
>>814
官渡の戦いは戦略的には袁紹が優勢だったし、許ユウが裏切らなければ負けてなかったはず
袁紹は人間性はともかく無能ではなかった

820 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 21:05:52.42 0]
人間性では袁紹が圧倒的に曹操に勝ってたぞ
袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力

821 名前:世界@名無史さん [2012/08/21(火) 22:04:24.55 0]
>袁紹が負けていたのは軍事と人事(後継者含む)の識見と決断力

重要なところが全部だめじゃん。
曹操は人事面でミスなしやぞ。

822 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 22:41:15.28 0]
袁紹が優れていたのは人望と統治の識見、組織力

823 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/21(火) 22:46:45.67 0]
若い頃から一族に叱責されながらも宦官支配に抵抗して駆けずり回って人望と人脈を作り、
独立しては他の群雄にいち早く四州支配までいける程度の軍事力と組織力ってのが袁紹だな。

曹操にあったのは一瞬の隙を現実の打開に結びつけた決断力。
それでさえ、打破できたのは戦術レベルにすぎず、
袁紹存命中どころか袁尚と袁譚が結んでいる間は劣勢だったのが袁紹の遺産。


824 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 02:34:41.66 0]
許ユウ親族の不正がばれなきゃよかったのにね

825 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 02:55:19.00 0]
袁紹が官渡で見せた程度の戦場の「隙」なんて、曹操は後にも先にもボロボロ見せてるからね
それを致命傷にしなかったのは、曹操の戦術的な強さ、粘り強さと、
蓄えた国力は一戦の勝敗くらいでそう簡単に逆転しないってこと。
一方袁紹は冀州中心の圧倒的な国力を再活用する前に死んでしまった。



826 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 03:03:30.02 0]
よく言われるけど官渡よりも袁尚袁譚の兄弟喧嘩がターニングポイントなんだよね

827 名前:世界@名無史さん mailto:sage [2012/08/22(水) 05:12:56.27 0]
河北の制圧にぐだぐだ8年以上掛けてた曹操の評価として「電光石火」「戦術的に優れてる」とか違う記するが。






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