- 108 名前:右や左の名無し様 mailto:sage [2020/11/28(土) 03:10:10.39 ID:zK6+NvNj0.net]
- >>99
藤井さんが大衆社会の処方箋だったか名前忘れたけど、身近な人の死に接すると現実認識が高まるというようなことを論じてた。 そこでなんとなく思ったのが、たとえば西部さんも投獄や病気や、もう一つなんだったかな、いずれにせよ、 自分ではどうにもならないような状況を体験しないとなかなか直「観」としてのそこに人の生き死にがあるんだという感覚が 養われないというようなそういうことって大切だなぁと思う。 多重な共同体の中での経験というようなことにも繋がるのだろうけども。 自分の感覚がどうなのかということで考えてもやっぱり身近な人を亡くしたショックとか、 幸い足元で死には至らないにしても元には戻らないことが確定している病とか、そういうのは半ば強制的という感じで、 何か想うものが出てくるよね。正しい方向に向かうのか自分を絞め殺すようなきつい感覚の縛りになるのか、 正しいといっても公の問題になるから、私的経験が広く公に生きるというのは大変難しいことだし、 死生観云々となったら哲学なり宗教なり話は尽きないのだけど、ともかく「ひとつの死」は万死に通じるものでありながら、 しかしやはりそれは個別の死であって、しかしまったくの個別ということもあり得ないから万死に通じると、 ぐるぐる循環し続ける永遠の記憶の中で、死もまた生き続けるということなのだと思う。 そこの問題意識というのはコロナ禍における文化論なり社交論なり、あるいは不条理文学なりということで、 森田さんの議論も医学神話に対する文化論だし、そういったものを掬い上げる気がまったくないのであろう、 たとえば今回の中野さんの姿勢に俺は大変びっくりしたね。単に間違ってるという部分も相当に大きいということもあるし。
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