- 88 名前:人間七七四年 [2017/04/14(金) 10:40:19.09 ID:YMSY66qV.net]
- 石田三成を西軍の総大将と見ると、三成は秀秋から見たら家来筋の人なので【裏切る】のも変な気が。
というか、石田が「総大将」ってありえただろうか?(首謀者とは全然違う) 毛利を西軍総大将としても、小早川は同族の親戚か、秀吉親類なので小早川のほうが格上になる。 となると、小早川がかなりの軍を擁してたのも当然と言えば当然で、大将レベルで【離反】したことになる。 毛利と小早川はもともと別の家で、一代だけ隆景が養子に入っただけで、隆景没後は主筋面されるいわれはない。 【謀叛】としちゃうと、東軍全部が謀叛ということになってしまう(誰に対して謀叛だ?という問題が)。 そもそも、そこまで豊臣秀頼に忠誠を誓ういわれがあったかも疑問だ(cf.信長没後の織田の扱い)。 武田信玄の信州攻めで、高梨氏は最初武田についたが、離反して武田が大敗したことがある。 この高梨を批判するのは、ハッキリ言って信玄びいきの崇拝者だけだろう。 戦いの途中で攻防軍が分裂するのは乱世の習いで、武士の感覚では「やられるほうが悪い」だろう。 上杉謙信の小田原城攻めも、攻め手が分裂して敗れたとも言える。 信長崇拝者は明智光秀を裏切者、謀叛人とののしるけど、 信長が足利義昭・斯波義銀を追放したことを批判することはない。 信長は死ぬまで義昭を主君と奉ってたと神田千里(歴史学者)は説く。 旧主追放も、NHKがいうような辱めではなく、さすがに主君を弑するのは気が引けたのかも知れない。 下剋上が強調されてきたせいで誤解されてるかも知れないけど、当時の人だって下剋上を称賛してたわけじゃなく、悪と考えていたわけで、 織田は足利の引き立てで大きくなった家でもあり、恩義の念は豊臣恩顧以上だったかも知れないよ?
|
|