- 1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/03/17(金) 22:00:17.80 ID:4YKgt8yC.net]
- 慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を 糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、 豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。 俗に「天下分け目の戦い」という。 次スレは>>980でお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください 前スレ 関ヶ原合戦の真実 Part6 [無断転載禁止]©2ch.net hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1477565218/
- 790 名前:人間七七四年 [2017/10/29(日) 12:06:45.22 ID:JdygApsz.net]
- 輝元の西軍参加は元就や元春隆景らに押さえられてた時代の劣等感の反動とかあったのかな
- 791 名前:人間七七四年 mailto:sage [2017/10/29(日) 12:35:20.53 ID:wYQ1hwwT.net]
- >>790
それが全てではないだろうが、西軍参加(輝元的には利用)理由の一部ではありそう。 特に北九州に大友を派遣したのはそうだろうね。 北九州はかつて旧大内領の帰属をめぐって毛利家と大友家が激しく争った場所。 そして結局は北九州は大友の手に落ちた。 もし、ここで輝元が北九州を手に入れれば、輝元は偉大なる祖父や輝かしい実績をもつ父や叔父が 達成できなかった事を達成した事になる。しかも、彼らに辛酸を舐めさせた大友を利用して。 そうなれば、自分は父や叔父、あるいは祖父をも超える声望と実績を手に入れられる。 ・・・とか考えてたかもしれないね、輝元は
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