- 640 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2023/02/03(金) 23:24:30.79 ID:2SMSKS7u.net]
- >>617
>>618 なるほど、理解しました wikiを前提とした定義に基けば、「いかにして神と合一し、神を賛美するべきか」が目的であって、神の属性をどのように述べられるか(述語づけるか)ということは副次的に派生して「しまっている」だけであって、目的としてはいないということみたいですね 定義されている否定神学では、論理的背反は問題としてはいないようです 否定的な側面を明るみにだすことで、語りえない肯定的な側面を示すことがこの神学のポイントであって、総合判断を必要とするような命題的対立は意図していないし述べているわけでもない あくまで排中律の否定も文脈として読み取れるというだけで、故意にしているわけでもない ただ語りえない神の賛美をどうにしかして示すということこそが目的である、という前提を守れば、否定詞の論理的排他性が問題を見ないようにすることも可能かもしれません だけどこれはただ示す先を予め用意した弁証法というだけのことではないでしょうか ぼくは演繹癖があるので、対話の前に、そもそも否定神学の「否定」の語の使い方を最初に話し合うべきだったと反省しています 定立命題に対する否定という意味ではなくて、「他のものである」という意味の否定をとっているように思います 二律背反から何でもありな矛盾領域をつくりだして、そこに当てはめることで、語りえない神の存在を語ろうとするのが否定神学のやり方だと思っていました それなら排中律を否定して矛盾作ることから始めなければならないのは必然でした そこを誤解して演繹したようです 神の視点の話をしたことを全面的に訂正します、そもそも排中律とは関係ない神の賛美の神学的なやり方の一つだったようです いつもの余談ですが、キリスト教の否定神学者たちが否定神学をこんな感じで考えていたのならば、正統的なキリスト教の教義からは外れていないように思います 神は(存在とは言えないくらい)存在である、(光と言えないくらい)光である、(愛とは言えないくらい)愛である、と言いたいだけだよ、と言えばキリスト教の教義内の枠からでないですみそうです(でないとは言えなくはないってことです) ただぼくように「否定」という言葉と最後の帰着点である前提の目的を見誤って穴に落ちる人もいただろうけどw
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