- 618 名前:atheist mailto:sage [2023/02/03(金) 01:14:32.66 ID:RcJmsVoB.net]
- >>617
続き ですから彼らが論理の法則としての排中律を全面的に否定しているだとか、神の視点での絶対的基準を 認めないとかいったことではそもそもないであろう、ということです ただ神について語るときこの否定表現を徹底していけば、 必然的に排中律の否定が見えてくるということです つまりこの方法論を徹底すれば、「神は非存在ではなく、また存在でもない」といった表現に 行き着かざるをえなくなるだろう、ということです 実際に彼らが明示的に、あるいは意識的に排中律そのものを否定していたかは分かりません わたしが鹿野園さんとの議論のときに主張したことは、否定神学が正統キリスト教の枠内にある限り 最後は公理的前提によって歯止めがかかる、すなわち「神は愛である」とか 「神は新旧訳聖書で同一である」などといった正統キリスト教で大前提とされることについては 否定されないであろう、ということです 仮にこういった大前提すら否定されているとすれば、否定神学は正統教義の枠を逸脱して 異端の領域に入ってしまう、ということです そして仮にそのような表現を取っていたとすれば、それは神の愛や同一性を否定するためではなく 神と合一するための、一つの神秘主義的な秘術のようなものであろう、ということです > 欲望しない神が世界つくろうと思った、もうこれだけで矛盾に導けるような気がしますがどーすか そう思います 言い方を変えれば完全である神がなぜ不完全な被造物を造ったのか、とも言えると思います 他にも神の予定と自由意志の問題など、人間の理性の枠内では解決困難な問題が出てきてしまいます わたしの理解では、キリスト教ではこういった理性の枠に収まらない問題群は、神秘として つまりは人知を超えたものとして了承されるのだと思います
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