- 1 名前:考える名無しさん [2025/04/26(土) 01:41:17.98 0.net]
- 人ひとりずつのOOLについて話し合いましょう
964 名前:考える名無しさん [sage] :2025/04/26(土) 01:13:02.80 0 本気で日本の将来を憂うなら反出生叩きしてる暇にも少子化にも関わらず児童虐待や虐めや子供の自殺数過去最大なのをなんとかするのが先だと思うけど アンチにはその理屈が通じない 増やしさえすればいいと思ってるから 子供各人、人ひとりずつのOOLなんてどうでもいい人間だから 反出生主義について★9 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1742469461/ 反出生主義について★10 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1742663279/ 反出生主義について★11 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1743304113/
- 982 名前:考える名無しさん mailto:sage [2025/05/01(木) 08:24:43.34 0.net]
- >>976
んー相対主義を隠れ蓑にしてないか 批判回避のために相対主義利用して、思想の社会的責任を放棄している感じ。 倫理が相対的であることは確かだが、かといって全ての倫理が等価で批判不可能である訳では無いよね、当然のことだけど。 倫理としての社会的評価つーか、公共的倫理(社会的な合意や制度設計や政策の検討)については、整合性、影響度合い、実効性の観点から批判的に検討しないとだろうし。 相対性を根拠に批判を免除しようとするのは、ぶっちゃけ許されないと思う 苦痛の一般化についても危うい。事例ベースで苦痛の普遍性を主張し、存在否定への倫理的飛躍を正当化しようとしている感じがするけど、 その「絶望的苦痛」のような苦痛の種類は、結局は程度の問題に過ぎず、「苦痛=存在否定」という主張を正当化する根拠にはならないよな。 苦痛の意味や価値なんて、時代の変遷(社会的関係・文化的背景・内的構造)によって変わってくるでしょ、技術の発展や社会の習熟度合いとか考えれば。 てか苦痛は(反出生主義含めて)何らかの共感や変化や創造の切っ掛けにもなるわけじゃん?思ったけど、それすら否定すると、巡り巡って反出生主義の否定にもなってくるんじゃない?知らんけど笑 で、反出生主義は、人類滅亡の切っ掛けというか、その選択や方向性を決定付けようとする立場に加担するわけじゃんか(ベネターが既に組み込んでるわけで)。まあ誰か一人に責任を負わせられるわけではないしそれは難しいだろうけど、加担者は責任持つべきじゃないの? いくら個人の選択とはいえ、その理念を「広め・正当化し・推進する思想や運動」には構造的責任が生じるでしょうよ。 そもそも「静かに滅ぶ」(このスレ然り反出生に肯定否定と騒動してる有様を目にしておきながら、静かに滅べるのか甚だ疑問だが)に至る契機として、個人の選択にしろ社会の選択にしろ「反出生主義」に「舵を切る」あるいは「舵を切らせる」機会があるわけでしょ?
- 983 名前:考える名無しさん mailto:sage [2025/05/01(木) 08:54:40.14 0.net]
- >>982
簡単に応答しておきます ・相対主義を隠れ蓑 してません。言っていません。 「倫理の根源は信念や価値観」と述べただけです。 異なる倫理が対立、拮抗するのは必然です。 ・苦痛の意味や価値 例えば、癌の苦痛が本人にとって悪いものであるということは、文化や社会の変化に伴い変わるものではありません。癌が無くなる可能性はあります。 苦痛を相対化しようとしたようですが、無理があります。 ・合成の誤謬の責任 「舵を切る」の意味が不明瞭です。 仮に、掲示板・SNSなどで反出生主義について発信することだとしても、それを受けた相手が同意し実践したのであれば本人の選択であり、発信者に責任を問うことはできません。 倫理は個人の自律的選択ということをご理解下さい。 ざっと読んだ感じでは、こんなところです。 他にあれば追記します。
- 984 名前:考える名無しさん [2025/05/01(木) 09:02:14.01 0.net]
- >>981
それだと反出生はしょせんは机上の空論に過ぎないと認めた事になり、個人で反出生を実践した人が救われないのでは 哲学を実践する時に体を動かしちゃいけないというルールがあるなら分かるけれども
- 985 名前:考える名無しさん mailto:sage [2025/05/01(木) 09:27:01.49 0.net]
- >>983
「苦痛を相対化しようとしたようですが」 ↑ここ語弊があるので補足 苦痛は基本的には相対的なものですが、一般化できる苦痛もあります。 それら全てを相対化するのは無理があるという意味です。 更に言えば、相対化可能な苦痛の価値や意味が変化したとしても、社会や個人の中に何らかの絶望的苦痛が存在するということに変わりはありません。
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