- 294 名前:フロイト、ニーチェ mailto:sage [2022/02/08(火) 23:48:42.15 0.net]
- フロイトのエロスとタナトス・・だとか。
自我や超自我、いろいろ言っている・・が これは規定されたものと、未規定なものの存在を言う。 規定されたものは、それゆえに多少具体性を持ち、エロスなどと呼ばれる、。 無規定なものは、タナトス、死の本能などと呼ばれる。 そして現前するときには、快楽やエロス、もしくは苦痛となっている。つまり規定されたものとなっている。 快楽も苦痛も「同じ」を意味を持つ。それは異なる意味を持つと言うのと同じだ、そこにおいても 「差異」が肯定されるのが分かる。そこにおいて認識と存在が重なる。 自我(未規定)は超自我(規定=道徳や法)になり 超自我(やはり道徳のことだ)は自我になることが・・・できうる。自我の意味を「エス」という抽象的な量と見た場合。、 ハイデガー風に言うと存在(無規定)は現存在(規定しされたもの)というしかかたちでしか現れない。隠されてないものとしての現存在、。 そして・・。アンチキリスト方向の暴力的ニーチェ(というのはツゥラトゥストラ、永劫回帰としてのニーチェもあるから)が言っているのは、 現存在の程度、「在り方」のことである。緩い道徳か、キツいかの事柄である。 ・・プロテスタントが「より偽善」であるという・・ことである。「自由」を」「人権」を、重戦車のように掲げて襲い来るやつらのこと。これは「リベラル」に似ているが ニーチェは党派的なものを警戒していた。組織はセクト化するのだから。盛者必衰の理・・。組織は壊れる、時間の程度問題だが。
|
|