- 434 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/11/30(木) 03:17:36 ID:HGiGV+wv]
- 何故秀頼は江戸の陣まで10年以上も徳川家を放置したのかって論議が
されてるようだけど、やっぱり淀君、千姫といった女衆の意向に さしもの若関白も逆らえなかったというのがホントのトコらしいね。 実際江戸攻めの際、秀頼自身は秀忠・お江を城から救出し竹千代は 仏門に・・って前線の石田砲兵隊には指示を出してたらしいし。 ・・・これはどうみても三成と左近の確信犯だな(笑)。 世間一般には秀頼って「非道関白」とか、ひどいのになると 「十五代関白将軍とならぶ凡庸人」みたいな言われ方をされてるけど この事を考えると意外に秀頼って器量人だった気がする。 大体比較されてる十五代の豊臣秀喜にしたって大坂城を無血開場するなんて 「凡庸」どころか真の勇気が無いと出来ない英断だったろうし・・ とかく後世の評価というのは気まぐれなもんだと思うよ・・もっとも 秀喜の場合、長宗我部の所を脱藩した何とかっていう志士(名前忘れた・・ 誰だっけ?)が実質的な立役者だったんだが・・それを差し引いてもね。 改めて秀頼や秀喜は再評価されてしかるべき武将だと思う。 ただし二人の評価と言っても「我亡き後、必ずイスパニア艦隊を持ってして 豊臣討伐を果たせ!」と遺言した伊達政宗と、300年後ホントにそれを実行 しちゃった伊達藩のスケールには到底及ばないが・・・ さすが「奥州(欧州)飛脚」の国だけの事はある(笑)。
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