- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 12:05:22 ID:buAV4pyy]
- もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら、その後の歴史はどうなってたか?
逃げ延びた秀忠の逆襲? 宇喜多執権体制? 三成ら五奉行主導政治? 毛利幕府成立?
- 120 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 21:44:26 ID:fD5NuB0W]
- >>118
ひでぇ…。
- 121 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 21:52:37 ID:DtFOu55W]
- ここはsage進行だぞ。
それはともかく・・>>118 結城秀康といえば 梅毒で鼻が壊死して木で型を作ってたといったな。 江戸城に泳いで入城した際にはティンポコも木で型を作ってたのが 極端にでかすぎて、衆目を浴び、恥ずかしがった秀康が 自分の名を問われた際に「ウタマロだ」と偽称したから その後極端にでかいティンポコを指してウタマロというようになった という俗説があって、それが秀康の江戸入りが単なる 伝説に過ぎないといわれる理由だそうな。
- 122 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/23(月) 22:02:21 ID:DtFOu55W]
- ごめん、ちとマジレスだが、
>>1−5を見るにこのスレのタイトルは「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」 ではなく「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら」だったようだな。 でもそのタイトルだと同じ内容のスレが大量にアルしな。 タイトルを間違った >>1・・よりも、上手く誘導した>>6−7の功績かな。 ここまで面白スレになっているのって
- 123 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 22:08:30 ID:fD5NuB0W]
- 私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。 で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。 五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。 仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。 さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。 で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。 五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。 仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 関ヶ原の合戦に破れた結城秀康と福島正則は、八丈島に流された。 八丈島へは時折、宇喜多家の船が立寄り、正則への酒と、心尽くしの品を置いていくこともあった。 猛将同士気が合ったのか、一掬の酒も一片の肴も、正則は秀康と分かち合った。 慶長19年・晩秋の船は、正則に酒だけでなく驚くべき情報をももたらした。 徳川家あやうし、と。 正則にこの事実を告げられた秀康はためらうことなく言い放った。 「江戸へ行く!」 正則はこの言葉を聞いた瞬間、己もまた江戸へ行くことを決めた。 豊臣家への忠誠も義なら、友を助けるのもまた義。 まして今の豊臣家の意志は、憎き三成の意思。 されば、命を捨てに行く友に殉じるべし。 その翌日、秀康は以前から患っていた梅毒で死に、遺骸は直ちに荼毘に付された。 己の葬儀を掘建て小屋の中から見つめる秀康と、正則は、八丈島からの脱出を話し合った。 島には見張りもいる。目立つ船はつかえない。泳ぐしかない。 二人のいくさ人は腰の大小すら外し、闇に隠れて海の中に飛び込んだ。 海流に逆らい二人は泳ぎ続けた。疲れ果てた秀康が眠ると正則がかかえ、正則が眠ると秀康がだいた。 島伝いに泳ぎ泳いで幾日経ったか、夕闇の浦賀に近づくと、かがり火を焚く多くの軍船が漂っていた。 ひらめく旗の印は、九曜、三つ巴、丸に上…。 そして安宅舟には、五七の桐! 豊臣の紋を懐かしんだ正則は、上ずった声で絞り出すように言った。 「夜の静けさには、我々の泳ぐ水音も聞きとめられよう。 かといって昼を待っても、明るい日の下ではたちまちに見つかるであろう。 さればそれがしが、注意を引く。その間に秀康殿は船の間を泳いで抜けられよ」 正則は船団から離れた一艘の小早に乗り込み、疲れきったはずの体で数人の兵士を瞬時にたたき伏せ、海に投げ込んだ。 「今の水の音で、敵共はこちらに気づいた。早く行かれよ。 それがしが江戸へ行っても将兵はまとまらぬが、秀康殿が行けばまとまる。」 秀康は何もいえぬまま泳ぐしかなかった。 正則は小早に残された銃を放ち、大音声を轟かせた。 「侍従羽柴正則朝臣ここにあり! わしを亡き太閤殿下のもとへ送るものはおらぬか」 捕縛ようと小早に乗り込む武者を、正則は奪った刀で薙ぎ、突き、切り裂いた。 多くの兵が倒れ、やがて挑む敵も現れなくなった。 遠巻きにする安宅船から鉄砲が掃射された。正則は掃射を三度までうけてようやく倒れた。 倒れ伏した正則の顔をあらためようと雑兵が小早に乗り込むと、小早の中にはくるぶしの深さまで血が溜まっていた……。
- 124 名前:123 mailto:sage [2006/10/23(月) 22:09:37 ID:fD5NuB0W]
- 出だしが重複しているが、気にせんでくれ…。
- 125 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 10:03:19 ID:YJNnTGW5]
- それにしても高台院様も不憫だったよな
大淀様に亡き太閤殿下正室の座を追われ 宇喜多家預かりの身になるとは…
- 126 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 13:08:39 ID:MDzhvE6g]
- ああ、自分に子供ができなかったのを棚にあげて淀様に楯突いたあの裏切り者か
亡くなったとはいえこいつが豊臣を裏切ったから子飼いの将も流れた 最低の裏切りもの。
- 127 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 15:33:57 ID:mZXWpz/i]
- でも、その「子飼いの将」がもし残っていたら、三成と争って、
結局、漁夫の利を得た毛利が完全に政権を奪っちゃうって落ちになったんじゃないの? 逆に「子飼いの将」らが東軍についているおかげで、もし東軍勝利で家康が権力を握ることになっても、 福島、加藤が牽制して、家康も豊臣をつぶすわけには行かなかっただろう。 家中を分けたことで、どちらの結果でも豊臣の安泰につながる(可能性がある)ので、 そういう意味では功労者。 …ひょっとすると家康は、ねね様を正室にして、秀頼の義理の義理の父親になり 実権を掌握したかも。
- 128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:13:34 ID:154jjJs2]
- 高台院はむしろ三成と懇意だった説もあるから、豊臣内部での政権闘争って線もあると思うぞ。
- 129 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:23:21 ID:mZXWpz/i]
- >>128
いまいち言いたいことがわからんのだが、 三成と毛利の対立によって、三成に近い高台院が幽閉されたってこと?
- 130 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:53:09 ID:154jjJs2]
- >>128
うん、そう。 実はこれに関連して昔から一つ疑問があってさ、三成の三女、辰姫の事。 そもそもあの石田三成を父に持ち、秀吉正室高台院の養女になった女性が 北の果て津軽藩に嫁すのはちょっとおかしいと思わないか? 恐らく彼女は本来もっと上位の家へ嫁す予定だったんじゃないかと思うんだ。 当時権勢を誇った石田三成の実娘を、関白を複数人輩出した豊臣の姓を持ち 本人も従一位を授かった高台院の養女にして送り込む先といえば…… 宮中に入れる準備だったとしてもおかしくはない。 それをさすがに豊臣の他派閥は黙過できなかったんじゃないかな、と。
- 131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 16:58:14 ID:mZXWpz/i]
- ねねが近江人の三成と仲が良いというのはぴんと来なかったが(というか考えもしなかったが)、
確かに毛利なんかに比べれば、ずっと近い関係にあっておかしくないな。
- 132 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 19:18:55 ID:8AMq26NK]
- ねねは成人後の加藤、福島らとは意外と疎遠だったって聞く
ところで三成の娘を養女にしたのは何でなんだ? 単に三成と懇意だったからなのか、大淀派の三成を取り込むための政略的なものなのか
- 133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:04:50 ID:JiL9rL5W]
- 三成淀殿のことめっさ嫌ってただろ・・・・・・
淀殿が妹の嫁ぎ先の徳川についたんだからさ 西軍が勝って、高台院さまが淀殿放逐したのに、皆何言ってんのさ
- 134 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:30:48 ID:154jjJs2]
- そこらへんちょっと曖昧なんだよね。
淀殿が一時大坂を追い出されたのも事実、高台院が最終的に宇喜多に行ったのも事実。 その理由に関して、戻った淀殿との権力闘争に負けたとか、秀吉と自分が可愛がってた 養女豪姫と猶子秀家の所へ自分から大坂に嫌気がさして出て行ったとか諸説あるわけで。
- 135 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:39:06 ID:8AMq26NK]
- 大淀派ってなんだ俺orz
そか。 秀頼が、石田三成か大野治長が淀殿と密通して生ませた子とかって俗説があったりするから それなりに親しかったのかと思ってた。 言われてみれば三成は、淀殿が秀頼の母として政治に口出しするの嫌ってたって聞いた希ガス。 勘違いだったらしい。
- 136 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 20:46:53 ID:mZXWpz/i]
- >>134
追い出されたのか、自主的なのかというのは分からないが、 とにかく互いの顔を見たくなかったんだな。 秀家あたりは、近くに義ママがきてうれしかったりするのか?
- 137 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:03:46 ID:O+REVKgN]
- 皆! スレタイ見てみ!
- 138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/24(火) 21:08:11 ID:yu/XdRmX]
- 東軍が勝っていたら高台院は長生きしただろう
- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:08:20 ID:CSU8wCe7]
- そりゃ東軍が勝ってたら茶々は大坂城の主に納まったかも知れないけど
西軍が勝って毛利宇喜多上杉体制になっちゃんだから茶々なんて用なしさ 実際戦後の領地配分だって大老たちが決めてるだろ
- 140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 21:12:48 ID:mZXWpz/i]
- だから家康ねねの、熟年夫婦が誕生するんだよ。
- 141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 22:33:50 ID:mGzC+MzJ]
- 淀殿が大阪追放になったのは建前の上では、秀吉の遺言に従って
秀頼の御台所を家康の孫千姫にしようとしたせい。 あまりに政治音痴だったわけだな。空気読めよ淀 実は東軍に愛人の大野治長がいたので東軍に肩入れしたのがばれた為 とも、それを口実にして煩い淀を一時的に隔離したとも。 高台院が最終的に宇喜多にいった。それは多分宇喜多の京都屋敷でしょ。 寺と屋敷の往復生活だったと聞く。 なぜにこんなことをしたのか理由は不明だが、秀吉正室の彼女が宇喜多の 後ろ盾だと明確にしておくことで秀家の立場を応援したんだと思う。 重成は豊臣秀頼の小姓として大坂城にいたが、小姓仲間で津軽為信の嫡男であった津軽信建の案
- 142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 22:37:35 ID:mGzC+MzJ]
- ↑ごめん・・最期の一行は間違いです。
- 143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/24(火) 23:11:54 ID:yu/XdRmX]
- 徳川秀康は家康が生きていたらかえって冷遇されていたかもな
豊臣朝臣を名乗ることも、徳川氏を名乗ることも許されず 結城秀康のまま一生を終えていたかも
- 144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:13:29 ID:mGzC+MzJ]
- ところで豊臣一家についてだが
豊臣秀頼には 正室との間に嫡子、これが豊臣秀仁 身分の低い?侍女なにがしとの間に庶子が一人 この方が幼名国松 豊臣秀文 で最期に娘が一人 清子 彼女は晩年に天秀尼として女人救済の寺を建立したことで著名 で秀仁様は愛妻家か恐妻家かしらないが正室一人だけで 生まれたお子様も愛子という娘がひとり このせいで女性関白容認論議というのが 当時の政権首脳部で激論となっている。 また、そのせいで秀仁は世に名高い悪法生類憐みの令を発布している。 で秀文のほうは奈良に所領を賜り、なぜか豊臣の姓を緩されず 豊篠家の姓を名乗っている。彼の正室は三成の孫娘 こちらも生まれたの娘ばかりでやっと男子を誕生したが この男子に豊臣関白家を継がせるかで揉めたのは 結構有名な話。 秀吉−秀秋−秀頼−秀仁に続く五代関白をどう決めるかで 有栖川宮家から豊臣家に養子をして存続を図るように 主張する連中が揉めている。 最期の清子だが黒田・・・じゃなかったw前田利常に嫁いでいる。 前田清子ね。 こうしてざざっと見ると・・万が一徳川家が勝利していたら あそこは子沢山なだけに、世継ぎの男子が生まれずに 五代目を有栖川宮家から養子にしようとか 男子出生祈願のために生類憐みの令なんて悪法もでなかったろうから その点では西軍が勝ってよかったのやら・・
- 145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:17:36 ID:mGzC+MzJ]
- ・・これでいいのかな(少々タイムリーすぎるか悪のりしすぎたか)?
豊臣一家の構図これでよかっったかな? 漏れも詳しくないので詳しい方の意見欲しい。
- 146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/24(火) 23:23:04 ID:MXiRwePC]
- 来年の大河ドラマは久々に小西行長だったな。楽しみ。ただ主役が気に入らん。
亀梨ってジャニタレかよ。関ジャニの関東訛りで主役が務まるとは思えん。
- 147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 10:42:47 ID:7XppGqT0]
- 大河ドラマねえ・・・
今年は変に家康を律儀の人に仕立てて、変なことになっているからなあ
- 148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 16:29:45 ID:e1xY8O8v]
- >>147
東軍が勝ってれば正しい評価として扱われてたかもしれないぞ? 家康の評価は後年の豊臣マンセーなゴマすり国学者や講談のせいで イメージ定着しちゃってて、どこまで捏造かわけわからんところもあるからな。 まぁそれにしても今年の家康のキャラは無理やりだと思うが。 キャスティングのせいか?ヤツが脚本に注文つけた可能性もある。
- 149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 17:44:23 ID:Hy2vQSU/]
- 大河といえば山岡荘八原作の大河ドラマ『石田三成』は
極端に言えば義に厚い忠義の三成像として褒めすぎのきらいがあったな。 >>148 秀吉死去のあと家康が大阪城西の丸にもう一つの天守閣つくったり 勝手な縁組して前田利家と喧嘩になったりしたのは事実のようだから いくらなんでも、その辺のことを全部スルーして家康は律儀と評価するのもねー。
- 150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 19:20:45 ID:n8wxy1oU]
- 大河つながりで。
11月から葵・徳川三代、時代劇専門チャンネルにて。 あわれなる徳川家の行く末に、涙しましょう。 >>143 家康は、関ヶ原から数年でぽっくり逝ったからね。 家康が生きていたら、多分忠輝も冷遇されっぱなしのままに滅亡。 …って、秀康、徳川姓はどうか知らんが、豊臣姓までは名乗ってないだろ、まず間違いなく。 ネタ?
- 151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 21:26:06 ID:Y1Fvz1j7]
- 武家においては5姓の中で豊源平藤橘の序列順だから
- 152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/25(水) 21:40:55 ID:dg0OJ9gi]
- うーん。あの状況で東軍が勝つなんて、中山道の秀忠隊が
開戦前に到着する意外に考えられんよ。 実際、真田親子がいたから無理なんだろうね。 本多正信ってあの時に捕らえられて、家康を扇動したって 嘘みたいな理由で斬首されるけど、さすがにあれは無いよな。
- 153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 00:02:30 ID:pLO8pePi]
- しかし負け組庶民には人気があるよな家康は。
判官贔屓ってやつかな。
- 154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:24:36 ID:CTRC9tpW]
- 忍耐、苦労の人のイメージで売ってたからな
関ケ原で勝っていたら家康の評価も一変したろう
- 155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:28:33 ID:WHX/uPTy]
- 処刑直前に、柿は痰の毒だからって断る話は、
健康マニアたる家康らしいエピソードだよな。
- 156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/26(木) 00:42:06 ID:fDywx5Nc]
- でも死因は天ぷらの食中毒ってのが、またご愛嬌だよな
それも斬首される河原でのバカ食いだからな・・
- 157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 11:18:16 ID:0LMRetc9]
- 家康って斬首されそうになった?
封地は削られているけれど家は残っているし、軟禁状態でのストレス死な印象もっていたけど。 なんにしても食中毒がきっかけで死んだのは間違いないんだろうけれどね。
- 158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:08:35 ID:VlzklI5A]
- あれだろ? 有名な家康影武者説。
- 159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:21:39 ID:ISvsN5Bg]
- 家康は斬首されてる・・・ただ存命説もあって
三成死没後の豊臣政権に出入りし暗躍した南光坊天海は家康であるという 説が強い。彼が豊国明神に祭った灯篭とかの碑文には 羽柴三河守と刻まれてるのは有名な話だ。 あと江戸の豊国明神を建立したが、ここには桐ではなく葵の紋が使用され てるのも、その説を証明している。
- 160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 12:58:32 ID:jCnhlY28]
- 最近は天海を出家した家康の名前にして普通に出してる時代小説とかもあるからな。
存命説が確定したって学説は知らんが、まぁそれで面白ければおkか。 義経=チンギスハン説よりはましだしw
- 161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 14:52:12 ID:0LMRetc9]
- しかし……首まで切られて、なんで徳川家はのこったんだ?
- 162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 14:56:25 ID:T/0UquDv]
- ノヴァ・イスパニアに逃れたって説もあるけどなぁ
ホントのとこどうなんだろ?
- 163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 15:14:48 ID:VlzklI5A]
- >>161
単純に「250万石いきなり潰したらどうなるか」考えれば良いんじゃないかと。
- 164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 15:40:31 ID:0LMRetc9]
- 戦場で捕らえられたといわれているんだっけ?
でもなきゃ、首ちょんぱは無理っぽ。
- 165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:18:24 ID:VlzklI5A]
- そのはず。
あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。 捕らえて渡せば大功になる所を、表に出すと取引で生き残る可能性を考え 後の禍根を立つためにあえて曖昧なままその場で始末をつけた、て話。 少なくとも公の面では冷酷官吏だった石田三成が真田関連の始末(信幸や その岳父本多忠勝の件)では奇妙なほど真田側の赦免願を通してるのは 上田城戦だけじゃなくこの件も絡んでるんじゃないかと言われてる。 そのせいか東軍勝利のifだと大坂の陣では今一歩の所で家康を逃してしまう 場面を用意する作者も多いよな。
- 166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:34:02 ID:0LMRetc9]
- >あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
これが京へ送られてさらし首ってことか。 しかし家康処遇に関する史料は、なぜこんなにばらばらなんだろう。 小説では無いが、影武者説って言うのが真実味を帯びてくる? しかし、幸村がやったとすると、秀忠は、はやばやと切り上げずに むしろ上田城に張り付く、またはあえて関ヶ原にすすんでいれば、 家康は生き残ったという可能性もある。 が、とろとろしていたら、関東に帰る前に袋叩きか…。 歴史のすべてを知っている立場でも、振る舞いに迷うところだな。 ベストシナリオはどれだろう。
- 167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 16:57:16 ID:0LMRetc9]
- しかし、幸村がやったとすると
じゃなくて しかし、信繁がやったとすると の間違い
- 168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 17:12:41 ID:93b8NQy9]
- 教科書では本能寺の変は明智と家康の共謀ってことになってるが真偽は分からん。
家康は意外といい奴だったかもな。でないと逃亡説が真実だったとしても、 協力者なしには逃げられないだろうし、そもそも東軍にあれだけの兵力を揃えられんだろ。 ちと判官びいきかな。
- 169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:10:19 ID:0LMRetc9]
- >>168
本能寺云々は、豊臣史観ってやつだな。 でだ。本題だ。 東軍がかったら、どうなったか。 大きく分けると、 1、毛利を中心とした西軍の巻き返し 2、豊臣秀頼のもと、家康による執権政治 3、家康による政権簒奪 だろうか。 勝ち方にもよるし、なんともいえないけれど。
- 170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:34:40 ID:T/0UquDv]
- 謙信と並んで律義者の代名詞の家康だよ?3はねーよ
- 171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 18:55:20 ID:ISvsN5Bg]
- 家康は関が原の敗北後逃走中に捕縛されて六条河原で処刑されている。
が、公式文書には徳川家康ではなく世良田二郎三郎元康なる名前で記載されており これが影武者徳川家康であるといわれる理由だとか・・ >>169 漏れは1だと思う。徳川家康といえば蒲生氏郷に天下を見る器じゃない ケチと酷評されてたからな・・恩賞出し渋って東軍諸侯にも離反され 追い落とされて戦国乱世というのが妥当かと。 歴史家は家康率いる東軍が勝っていたら戦国乱世が続き 天下泰平な豊臣の世は訪れなかったという見方で一致してる。
- 172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/26(木) 20:11:58 ID:0LMRetc9]
- うーん、色々考えてみたけれど、家康の思い通りに行ったとして、家康による執権政治、なのかな?
律儀っていうのもそうだが、組織のナンバー1よりナンバー2の方が安全そうだし、家康の性格にあっていると思う。 豊臣の嫡流が絶えたら、鎌倉幕府を参考にして、摂関家の人物や親王を戴いて、完全に傀儡にしてもいいんだし。
- 173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/27(金) 01:00:43 ID:N+zkxr2K]
- そういや江戸夏の陣で自害した秀忠の生存説もあるよね。
確か忠勝が逃がして、島流しになる前に正則が逃げてた黒田領 にいたって話。 もっとも、後年はアル中になって煙たがられてたらしいがw あと秀忠の息子は島原の代官だかで、善政敷いてた天草時貞 って人らしい。
- 174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:17:40 ID:qUhh+pri]
- 花の様なる秀忠様を、鬼の様なる黒田が連れて、引きも引いたり筑前へ
ってやつね。 本当に生きていても、大勢に何の影響も無いだろうがな。
- 175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:37:08 ID:rttSb7on]
- ごめん、ド忘れしたんだけど姫路宰相って誰だっけ?
- 176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:41:06 ID:inK75Drw]
- たしか立花宗茂だったような
まあ、すぐに改易されるんだけどな
- 177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 02:46:46 ID:qUhh+pri]
- 宗茂って、東軍についていたら(なおかつ勝ったら)、
秀康あたりと気が合って、五奉行クラスにはなっていたような気がする。
- 178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2006/10/28(土) 08:09:12 ID:hZwp3gGj]
- 宇喜多大納言秀家様が
関白になられるそうな
- 179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 12:51:39 ID:IWLPsJ0Y]
- 宇喜多といえば現在でも宇喜多財閥で有名だけど石田公爵家ってどうなっちゃったの?
- 180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 14:01:03 ID:qUhh+pri]
- 石田「侯」爵家な。
よくしらんけど、二次大戦後の財産税でほとんど傾いたんじゃない? 最大90パーセントの税率だってよ。
- 181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 16:25:22 ID:yPH5RRO+]
- 宇喜多財閥は解体されて宇喜多グループになったんじゃなかったっけ
- 182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 18:29:04 ID:/mXzYU7p]
- そうか、財閥解体後は「財閥」と呼ばずに「グループ」と呼ぶのか。
マジで勉強になった。
- 183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 19:26:43 ID:YNLVemCq]
- >>178
それは当時の俗説だったような。 当時は「石田様には及びもせぬがせめてなりたや関白に」と歌われる 三成全盛の時代だったから。 関白になって秀頼に政治への関心が無かったせいか 関白秀頼に太閤三成ありといわれてる。 処刑直前に鯛の天ぷらを振舞った三成が用意したタイは目白鯛だったといわれ 三成は祝いの席には必ず目白鯛をだした。 あと三成の館の庭には大きな池が用意され高価な鯉が泳いで、これをよく 来客に自慢していたそうな。 ここから「目白の闇関白」といえば影の最高権力者やキングメーカーへの呼び名 となり、権力者は三成にならって屋敷には鯉を泳がせるのがステータスとなった。
- 184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/28(土) 19:43:34 ID:sEvLGe2g]
- 三成は鯉の刺身の食いすぎで寄生虫にやられて死んだんだっけな
- 185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 01:06:15 ID:Wa/a91GY]
- このスレの住人は、東軍が勝つ可能性なんて考えたくも無い、
豊臣派ばっかなのか? 俺は、東軍が勝ったら、家康は世界に先駆けて共産主義国家を設立したと思うぜ。 朝廷からは将軍に任命されて、 家来が家康を呼ぶときは、「われらの同士にして偉大なる家康大将軍さま」ってよぶの。
- 186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 01:09:14 ID:hFHKdlaB]
- >>185
俺は根っからの東軍派だ。 律義者の家康だから東軍が勝っても豊臣家は残りそうな気がするんだよな。 秀吉子飼いの将も健在な訳だしな。 ただ統治者としての家康の能力は未知数。
- 187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 03:47:48 ID:74P/dEmQ]
- >>186
関東入りを調べて貰えればわかるけど結構なものだよ。 前年まで敵国だった北条領を上手く切り盛りしつつ発展させてる。 ただ、家康の関東での功績は全部直江兼続の手柄になっちゃってるけどね。
- 188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 10:02:32 ID:rQY7L0vz]
- 西軍が勝ったおかげで、合議型政権だったけど、どうなんだろうね。
毛利は部下は優秀だけど、大将が優柔不断。 石田は頭が切れるけど、石高少ないし、敵が多いし。 上杉、前田は天下取りの野望がなかったし。 どこか一つでも真面目に天下取りを目指していたら面白かったかも。 東軍が負けたことで多くの武士が海外に逃亡。 いまだに東南アジアでは、武士のよろいと言えば、赤が標準だと思っているらしい。
- 189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 11:11:26 ID:dILkd55o]
- >>186の言うように豊臣が残るとすれば、やはり京都が政治の中心地かな。
古来、京を守る軍勢は負ける、という例も多し、家康は京には定着しないと思う。 その代わり、岡崎・浜松あたりを取り上げて、そこに本拠を移すんじゃないかな。 地元だし、京に比較的近いし。
- 190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/29(日) 21:24:31 ID:t6IAag6d]
- 家康は三河の時代から「三奉行」制を敷いたり、
関東入りのときには伊奈忠次のような能吏を登用したりしている。 家康の政治家としての能力は武将としての力量を上回ってるよ。 ただ、家族的結合の強い譜代の三河武士が家臣に多いのも事実。 その処断を誤れば秀吉政権とたいして変わらなかったかもしれない
- 191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/29(日) 22:58:56 ID:JdCWAV0x]
- 家康を甘く見ないほうがいいのでは?
彼の模範としたのは鎌倉幕府だぞ? 鎌倉幕府の執権北条氏みたいに徳川が執権となって 豊臣家を謀殺してしまうのは目に見えてる気がする。 あの狸は結構したたか、実の息子殺すくらいだぞ。 ただあの家康は全国の仕置きは無理なのは自明だろ。 今でいう農本主義っていうのか 米とか田畑のことには精通していても、商業とか興味ないと思うので 西国とか到底治めきれないと思う。 家康の代は何とかなっても苦労知らずな秀忠か、その子の代には 毛利とか島津や小西とかの連中が商業資本や朝廷と結託して 時代錯誤な徳川を追い落とすようになると思うな。
- 192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 01:21:25 ID:QYvHAPNE]
- 秀康、代わりに頑張れ。反徳川はみんな打ち殺せ。
忠輝、おまえも頑張れ。反徳川はみんな叩き潰せ。
- 193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 01:29:43 ID:E1biS4yn]
- >>191
タヌキはしたたかですか。 どうもアンチ西軍という訳ではないですが豊臣家の実権支配を明確にする為に 立ち上がり破れ滅んだという鮮烈なイメージが頭にあって どうしても家康は律義者って意識が脳内補完されがちでしてね。
- 194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/30(月) 04:00:40 ID:tnibKoJm]
- そろそろ豊臣史観から抜け出してもいい頃だな
- 195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 08:41:07 ID:EgDM0xQp]
- 東軍が勝ってたら、徳川氏の本拠地の江戸が発展しただろう。
今頃、100万人を超える大都市になってたかも。
- 196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 09:49:03 ID:bD49R1dw]
- >>195
江戸市もこのたび浜松市とともにめでたく政令指定都市になりましたが
- 197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 12:21:27 ID:CpuuKXe2]
- 江戸が大規模都市になってたかもって関東人は夢見すぎだろ
あんな京から遠い僻地に今以上の人が住み着くとは思えないんだけど
- 198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 16:54:20 ID:8tTYPQe7]
- 関ヶ原のIFネタは、関東人は夢見ちゃうからね。
いくら関東入り以後それなりに発展し始めていたとはいえ 当時政治の中枢を移すだけのキャパシティは江戸には無かったんじゃないか? 田中角栄が日本の首都を新潟に移すって言い出すようなもんだと思うぞ。 もし当時の関東に十分なキャパシティがあったなら、関ヶ原以後関東に入封した大名は 後々あんなに苦労しなかったと思う。
- 199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 18:07:40 ID:dei1J8hm]
- >>198
関東が首都圏になると、京洛から江戸にいたる旧徳川系の地域が 東海道メガロポリスとかになっていたかもね。 そのほうが太平洋に面していた分利便性はよかったかもしれない、 関東なら広いしね。 でも現実にはいまだに 会津越後から京洛にいたる旧上杉系と前田系の北陸道地域から そのまま宇喜多 毛利系の地域である中国筋から北九州にわたる 北越―山陽メガロポリスになってるわけで 大きな影響を及ぼしたのかもな関が原ってのは。
- 200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 18:09:53 ID:HaJLMER+]
- 確かに田んぼしかない静岡にも、大都市が形成されたかも。
- 201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 18:35:25 ID:WxQi+2yA]
- 関東平野の広大な農地のおかげで我が国は食物自給率100%を優に超える米輸出国だからな
あれが農地じゃなくて人口ぎっしりのメガロポリスだったら日本人は何を食えばいいのか 想像するだに恐ろしい
- 202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 19:48:56 ID:HaJLMER+]
- >>食料自給率100%
米と一部の農作物だけ。
- 203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 20:13:26 ID:rzeAhYqU]
- オレ、山形生まれなんだけど、上杉が最上を追い出して越後と羽前
を治めてくれたからすげー良いよ。 京からは遠いが、今じゃ東北一の大都市だぜ。 もし東軍が勝ってても、最上は陰湿だからすぐ改易か取り潰し だったろうな。 さらに北の横手に押し込められた最上ざまーみろw
- 204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 20:17:22 ID:RlSVySat]
- 横手は小野寺だろ
- 205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 21:46:37 ID:rzeAhYqU]
- >>204
結局取り潰されて、後から小野寺入ったんだよ。 関ヶ原直後は最上。 で、子孫はお情けで大坂の旗本。確か五千石だったかな。 三男の山野辺家は上杉で一万石貰って山野辺城主させられてた。
- 206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 22:23:27 ID:RlSVySat]
- 元から横手の小野寺は何処に行った?
- 207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 22:35:08 ID:1C6RIS+T]
- 小野寺は最上憎しで西軍についたから
旧結城領に加増転封になったんだっけ
- 208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/30(月) 23:17:40 ID:MVfTJpr+]
- お前ら記憶が曖昧になってきてるぞw
- 209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 00:22:08 ID:ebiPd9Uj]
- 上杉は旧徳川領に移封。
ま、関ヶ原直後ではなく、徳川滅亡後にだけどね。
- 210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 01:38:40 ID:ghMn90Eq]
- で、会津には加藤清正が入ったと
体よく追い出したな、ホント
- 211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 02:22:21 ID:2hYR5n+8]
- 清正も関ヶ原後はどうなる事かと思ったが
一説には三成に土下座までして許しを請い、会津35万石に返り咲きだからすげえもんだ 江戸の陣での働きもかなりのもんだったけどな
- 212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 02:48:26 ID:eMYBnSWJ]
- 関ヶ原で浪人になって唯一大名に返り咲いた武将なんだよな>加藤清正
- 213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 09:21:22 ID:ZAmPea35]
- 意外に伊達政宗が天下取ったかも
江戸夏の陣では真田を叩きのめし、三成をけっ散らかして秀頼に自害覚悟させたほどだし。 まあ後藤と薄田に討たれてしまったが・・・ やっぱり野心がないから駄目か? 親父の輝宗は野心家だったんだけどな
- 214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 09:38:20 ID:+Ame8dEh]
- >>212
似たような立場だった市松は改易後島流しだし 関ヶ原で東軍として出陣していなかったのも大きかったのかな 会津もうまく統治してたみたいだし、凄い人だよね
- 215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 10:18:20 ID:OH5l2/Po]
- >>209
上杉は関東には移っていないぞ。 上杉は関東管領の職責の追認と関東の総取次になったんだ。 佐渡もあり越後羽前で実高200万石といわれ 日本海交易も盛んで旨みのある場所を わざわざ移るわけ無いよ。 関東移封は当初は宇喜多が希望していた。が京洛の防備の観点から 宇喜多が加賀に移って120万石 当初関が原において東軍だった為、減封されていた前田を 江戸の陣の戦功と合わせて江戸120万石に据えた。 ただ関東の小大名は全て上杉の軍令下に入るので、その辺は 関が原の東軍参加の影響が後々まで残した禍根だな。
- 216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 12:36:40 ID:wr132lDs]
- おまいら意外に憶え違いが多いですね・・・学校でちゃんと日本史履修したか?w
- 217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 14:07:44 ID:Sro662/t]
- まあ、高校ではここまで細かくはやらないからな。
資料集なんかには微妙に載っているけれど。 >>213 関ヶ原以後、豊臣と徳川を除けば、伊達と前田が二巨頭。 伊達は米沢や他の領地を得て、いくらか関東に近づくだろう。 徳川はおそらく本拠を尾張〜駿河に移すだろうから、関東は手薄に。 ここまでは多分確実。 家康の死後、伊達が前田と結ぶか、徳川を君側の奸に仕立て上げるのに成功すれば、 関東領有→東海を上るのも可能になると思う。
- 218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 16:07:07 ID:OH5l2/Po]
-
>>217 どうだろうね。前田は関が原に参戦できないわけだし、母親人質にしてる段階で 徳川に対する巨頭なりえない。伊達に至っては上杉と和睦し南部を攻めてる。 これは関が原の勃発前からの行動だから東軍が勝っていても 伊達は潰されたんで無いの? >>216 そもそも関が原がマニアックなんだから仕方ないわなw 学研の「異説関が原」でちょっと2ちゃんねらーの歴オタに 注目されただけだしなwww 本能寺の変でならイフの歴史も成り立つが 関が原は「西軍が勝つべくして勝った戦」東軍の勝つ要素が低すぎる。 万一東軍が勝っても、豊臣恩顧と家康はギクシャクしてたようだし まして家康とその周辺は商業とか上方に疎い田舎侍ばっかだw まず天下を治めること不可能 蒲生氏郷が家康はケチと看破したように恩賞ケチってブーイングの末に 失脚したのは確実だろう。 そして戦国が続いて西欧列強の植民地がオチだろうな。 大概関が原で歴史に詳しいものがイフを語れば 東軍が勝ったら日本は戦国で疲弊した末に西欧の植民地ってのが お決まりのパターンだ。 学研の「異説関が原」のように 家康が三国志のトウタク、秀康がリョフの役どころとなったのと 同様の結末を辿ってってのはちょっと笑えるが・・ 淀殿を二人を離反させるチョウセンにするのは無理ありすぎだろうww
- 219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 16:24:52 ID:betcpCJB]
- 関ヶ原で東軍が勝ってたら、東軍の逆転劇とかで大注目されたのかな?
確かに東軍が勝てば面白いことは面白いが、現実的に難しいんだよな 後世には「布陣の段階で勝負は付いていた面白みの無い戦」とか言われるし 戦国時代の幕切れとしてはちょっと物足りない感じはある だからIFを考える人もいるんだろうが
- 220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/31(火) 16:49:34 ID:OH5l2/Po]
- 戦国時代の幕切れは
ずばり江戸の陣でしょう。 徳川家に改修を命じた方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」 を豊臣の姓を切って逆にして呪い奸臣家康の名を祝うものと 安国寺恵瓊長老の難癖同然の横槍が入り 方広寺の鐘銘問題で、なぜか本多正純と秀忠嫡子竹千代の乳母お福を 別に大阪に下向させる。しかも本多を応対した片桐且元が 厳しい叱責を、お福を応対した大蔵卿局が甘い対応をしただけで 本多正純は内応した裏切り者扱いされ追い出され・・開戦。 江戸城では家康の正統と三成こそ君側の奸ゆえ討つという檄文を かつての東軍諸侯に送ったが 前田、黒田、藤堂、浅野、最上、堀尾・・いずれもこれを拒絶 参加したのは関が原で国を失った浪人大名(有名どころで黒田長政)と 西軍に遺恨を持つ無数の浪人が集まった。 総勢10万弱
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