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もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら



1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 12:05:22 ID:buAV4pyy]
もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら、その後の歴史はどうなってたか?
逃げ延びた秀忠の逆襲?
宇喜多執権体制?
三成ら五奉行主導政治?
毛利幕府成立?

11 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 13:12:53 ID:hD6yyas4]
まあ、島津隊の総突撃で戦況が一変したからな。
もしも大淀様が先陣を切って西軍を率いてなかったらどうなってたか。
近衛牛車隊のまさかの参戦もよかったよね。
まあ、賊康は哀れってことで。

12 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 13:38:07 ID:2RS+plRh]
>>10
しょうがないだろ。どうせ漏れは田舎者
やはり江戸夏の陣の開戦理由が悪辣なだけに徳川への同情をよんでるんだろうな。
こんなスレが立つって言うことは。

豊臣家が徳川に方広寺の造営工事させときながら
鐘の銘文「君臣豊楽」 「国家安康」
を豊臣の名を切って逆にして呪い、家康の世を齎そうとするものだって
いいがかりはひどすぎる。
あのせいで鐘の銘文でいいがかりつけた安国寺恵瓊と
大老・石田三成との人気は悪いからねー。

昔ドラマの『関が原』ってのがあったが
加藤剛が謀略で徳川を追い詰める三成を
森繁が徳川家康の悲惨な末路を熱演してたし
あれで徳川スキーになった香具師多いんでないの?

 他にも司馬遼太郎が徹底した徳川贔屓の小説『関が原』『城塞』で
天下に野心無くただ太閤秀吉の遺命を守ろうとした家康を
三成が謀略で追い詰め戦争に追い込んでいく様が、これでもかってーくらいに
悪辣に書いてたしな。

13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 13:43:23 ID:9DQTzJrR]
まあわいも豊臣の言い掛かりに対して必死で抗議した本多正信は好きやけど・・・
けどあれはそもそも江戸城を立ち退かなかった秀忠が悪いんやで
豊臣家は徳川に仙台60万石を用意してたのにな
時勢が読めない江君の言うことを聞いたばっかりに

14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 13:50:27 ID:6zRgO/FU]
このスレは伸びる

15 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:01:54 ID:7i7svUc1]
上杉軍の判断が良かった。

16 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 14:04:19 ID:2RS+plRh]
仙台60万石
そういや伊達政宗の前の領地だったな、そこ。
直江が伊達の領地安堵を約束して西軍に協力させたのに
戦後処分で南部津軽に転封になっちまったという悲惨な結果だったんだよな。
約束どおり不戦をしたってのに石高4分の1の15万石まで減らされたという・・

17 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:05:26 ID:WWLG7QEu]
いまごろ江戸が首都になってたんじゃないのwww


18 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:20:11 ID:bWDVvue8]
>>7
>あげくのはては静観していた小早川秀秋に
>攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
そうそうそこなんだよね。あの時家康は小早川に対して発砲したけど
実弾は込められてなかったという説がある。ここからは俺の妄想だが、小早川は家康との間に
寝返りの密約を交わしていたのではないだろうか?

>>10
あの時東軍が勝っていたら今ごろ標準語は江戸ことばだよちきしょうめwww

>>11
島津が突撃して本多忠勝隊が孤立して敵中突破したよな。
「本多の退き口」だっけ?

19 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:26:32 ID:bWDVvue8]
>>13
っていうか 江 君 (ゴウギミ)ってwwwwwww



20 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 14:26:58 ID:0ZGa0ZZE]
>>18
僅か五百の手勢で敵中突破カコイイ
たしか義弘はその時の怪我が元で死んでるんだよな。

21 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:40:51 ID:9DQTzJrR]
また本多厨かw
本多の敵中突破なんて講談やねんけどな
実際は旗を巻いて目立たないように宇喜多勢の脇をすり抜けようとした本多勢を義弘が目ざとく見つけ上げただけ
それに死んだのは義弘本人じゃなく影武者である甥の豊久やろ
結局関東まで逃げ帰って娘の嫁ぎ先の真田に命乞いしたへたれ武将に過ぎへん>忠勝
むしろ忠勝を処刑しようとした三成に「戦も辞さぬ」と啖呵を切った真田は男前やで

22 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 14:55:20 ID:bWDVvue8]
おまいら面白すぎwwwww

家康が捕らえられて六条川原に連行されるとき家康は「鯛を食べたい」と言ったらしいが
このエピソードの続きを知ってる人がいたら教えてくれないか?
俺にはここまでしか思い付かな(ゴホンゴホン)思い出せない

23 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 15:33:21 ID:tMyzu4qh]
淀殿の政治手腕は見事の一言につきる
徳川や本多と対等に渡り合った日本が誇る女傑だよ
お江は最悪の悪女だったけど

24 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 16:37:18 ID:bWDVvue8]
織田がつき
羽柴がこねし天下餅
座りしままに食らうは・・・・・・?

25 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 16:57:05 ID:Uubxv76c]
しかし、あれだな
結果負けはしたものの
江戸の陣で見せた、山ノ内一豊の勇姿は本物だよな

山ノ内一勇士しかり、山ノ内丸しかり・・やっぱ山ノ内一豊が最強だよな

26 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/20(金) 18:16:29 ID:2RS+plRh]
>>18
それはない。小早川秀秋といえば豊臣秀吉の養子で、その才覚から
小早川隆景に請われて小早川家の養子に入ったと(小早川家の公式書類には記載してる)
言われる才将だぞ。関が原の勝利は松尾山にありといわれ
戦後は秀頼を補佐して成人までの間は関白を務めた人物
 何が哀しくて関白という頂天を放棄して狸親父の子分にならねばならんのか?

>>22
敗者への情けとして振舞われた鯛の天ぷらで腹を壊して
護送中に脱糞ではなかったか?


27 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/20(金) 19:09:29 ID:hD6yyas4]
>>23
お江はたとえ徳川が天下をとったとしても評価低そうw
何かお家騒動起こしそうな匂いがプンプンするんだよな
誰だっけ?土井なんちゃらっていう若造といかがわしい噂が絶えなかったらしいし

織田有楽斎は巧く立ち回ったよな
江戸城にお江の叔父として入城してたけど大坂にも情報垂れ流してさ
いざ開戦って時に当たり前のように城を立ち退いてるからな。
まあ、あのくらいの数寄者になるとどっちが勝とうがどうでもいいんだろうな。

28 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 02:35:13 ID:h/dJ0wEA]
>>12
それにしても司馬の秀吉評は酷すぎるわ
「日本人の民族的性格が肥大化され、奇形化された」とか
「日本人が嘗て美徳として持っていた謙虚さを失い、傲慢になったのは豊臣家の責任が大きい」とか
「それらは秀吉自身の個人的性格から出ているところが濃い」とか滅茶苦茶
こんな電波作家が未だに人気あるなんてどうかしてるでホンマ

29 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 03:58:46 ID:OAaDR4Xi]
>>17
それはないだろうな。
確かに関東の市場はよく整備されてはいたが
やはり日本の首都は御所がある京以外からは離れられない、経済の要衝でもある。
歴史がそれを証明している。



30 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 09:28:50 ID:r7iL4UOA]
>17
江戸が首都になっていたら、広大な関東平野がすべてが都市圏だから、
バブルのころの地上げはなかったかも。狭い大阪平野や京都を首都圏
にしたおかげで全部地上げ、もう昔からの住民は住んでいないでしょ。

何よりも大阪大学と東京大学の立場が逆になっていたかも。
あっ、関関同立、日東駒専の立場も逆か。

31 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/21(土) 11:22:48 ID:kDDiI2eO]
やっぱり、早よ、終わったなぁ…。
このスレ…

32 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/21(土) 14:31:10 ID:DGG54AOi]
いくら自身があるからって3倍の大軍に突っ込むなんて
ま、案の定、宇喜多に袋叩きにされたけど

33 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 14:42:28 ID:z6ukGctS]
市松か・・・

34 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 17:26:47 ID:uuj/tizq]
>>30
おいおい。
現代ですら数十万規模の都市が点在してる程度の関東平野に首都だなんて、
よく妄想できるなwww
日本の首都は畿内しかありえないだろ。江戸なんかに幕府作っても仕方ねーって。
もし東軍が勝ってても畿内に乗り込んできてただろーな。

35 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 20:50:31 ID:C9dsi/3D]
東軍オタがよく言う吉川広家公が不戦の約束を反古にしなければ勝てたっていう妄言だけど
本当に不戦の約束をしていたのか?
広家公がそんな口約束を簡単にするとは思えないんだが


36 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/21(土) 22:40:59 ID:ot+p9Juf]
 東軍厨がいうには太閤秀吉の形見分けで石田三成が吉川を無視したとかいう
非常に根拠薄弱な点を誇大解釈して
石田三成と吉川広家は敵対していたと解釈してる。
 それと実際に約束したが相手は黒田長政だったという説がある。
仲は良かったそうだし・・でも、これもどうだかなー
長政がそんな如水ほどの謀才があったとも思えん。

実際吉川広家公は関が原で退却する徳川軍はじめ東軍を殲滅させる
大功労者で、関東征伐の先陣も承ってるし・・そんな軽率な人物じゃないだろ。

 実際のところ家康狸は西軍総大将となった毛利輝元の覚悟と
統率力を甘く見ていたんだろうな。
長政との口約束で不戦の約束をさせりゃ十分だとね。

37 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 22:41:30 ID:IvAUZI41]
だいたい何処にどのくらいが展開してるかなんて解らないだろ
東軍だか何だから知らんけど、あの位置まで入って来られてるんだから慎重になるよ

38 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 22:47:51 ID:aHfPm/x3]
それだけ吉川広家の智謀が優れてたって事でしょ?偽りの不戦を信じ込ませるくらいに。

39 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 22:54:02 ID:ot+p9Juf]
 しかし返す返すも不思議なのは
なぜ豊臣家は20万石に減封した徳川家を
わざわざ方広寺の一件で故意に挑発して
潰したのかだ。
 なんせあの江戸なんかに全国津々浦々の大名諸侯豪傑武将が勢ぞろい
数十万以上の大軍勢で、あの貧相な城を包囲して
しかも和睦して堀を埋め立てるというセコイ手で
ようやく陥落させたわけだが
大老・三成は本当に戦下手だよな。
実際関が原はよく勝てたといいたいな。



40 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 22:55:23 ID:h/dJ0wEA]
まあ実際に広家が不戦の約束をしてたとしてもそんなの信じる方がアホやろ>家康
毛利は西軍の総大将、戦わずに負けたら良くて改易、悪ければ一族全員六条河原で撫で斬りやぞ
そんな裏切り行為をまともな感覚を持った人間がするわけないわなw

41 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 23:07:53 ID:ot+p9Juf]
>>40
でも黒田長政は本気で信じていたようだが?
逸話では顔を赤らめて「金吾(秀秋公の蔑称)と吉川は許すまじ」
と逆切れしてたというからな。

 ちなみに長政は命は助かったが
どこにも奉公も仕官も出来ず、乞食にまで身を落としたそうだ。
黒田家に使えてた後藤又兵衛基次はが黒田家存続と長政助命を条件に
三成の臣となり、後に豊臣家の直参大名として12万石を拝領したそうな。
器量の違いはここまででるなW

42 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 23:11:48 ID:aHfPm/x3]
あの親父の息子とは思えないよな。

43 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sageこのスレワロタw [2006/10/21(土) 23:20:29 ID:z6ukGctS]
戦国初心者ですが、質問です。
関ヶ原に勝った西軍は、総大将毛利派と首謀者石田派そして関白小早川派に別れて争わなかったんですか?
歴史まったくわからないのでよろしくです!

44 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 23:34:25 ID:h/dJ0wEA]
小早川秀秋は関ヶ原後数年して謎の急死を遂げるんだな
秀頼が成人して邪魔になったから三成に消されたとみる説が有力
徳川家の祟りだという噂もあるけどこっちはホンマかどうかわからん

45 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/21(土) 23:36:06 ID:hUpOwUzZ]
忠勝の奮戦は今でも語り草になってるけどさ、
各地に残る家康や忠勝の生存伝説もあながち嘘だとは言えないだろ。
東軍オタでは無いが、
忠勝の首実検で本人かどうか判断が出来なかったとする人も多いわけだし。




46 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/21(土) 23:54:36 ID:3KC14gkz]
おまえら真田昌幸の事忘れるなよ!真田が徳川秀忠捕虜にして江戸に迫ったからこそ
江戸の攻略が上手くいったんではないか。
真田は信玄の再来とまで言われて甲斐信濃に真田流軍学の活躍は楠木以上の物にだぞ
真田は豊臣に警戒されつつも甲斐信濃に100万石の礎を作ったんじゃないか。

47 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/21(土) 23:56:44 ID:3KC14gkz]
真田が小兵で馬鹿殿秀忠の大軍を打ち破ったのは何度もドラマ化してるしな。
まさに日本一の兵だよな

48 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 00:05:07 ID:ot+p9Juf]
 市松(福島正則)は戦後八丈島に送られて関が原武将の中では
最も長生きしたそうだが
彼の逸話で有名なものがアル。
八丈島に酒好きの大老宇喜多秀家の酒を積んだ船が座礁し
その中の樽をひとつ正則が所望したそうだが、
後にこれを知った秀家は、その船乗りを呼んで
「酒好きに悪い奴はいない。よくやった褒めて取らす」と
言葉を賜ったそうな。
その後八丈島には宇喜多公から正則宛に酒樽が送られるようになったそうな。

49 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 00:05:14 ID:usWpkhu+]
にも関わらず。。鳥居は。。



50 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2006/10/22(日) 00:29:05 ID:BnzOjDGa]
大谷隊を壊滅寸前まで追い込んだが、最期は小早川の側面攻撃にあえなく
自害に追い込まれた虎様は無念。

その後小早川秀秋は謎の死を遂げたが、これは藤堂高虎の呪いによって殺されたのだ・・・

一方、大谷吉継は高虎を称えて、藤堂家の家臣を末代まで面倒見たという。

51 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2006/10/22(日) 00:36:59 ID:BnzOjDGa]
島左近と激闘の末に敗れた黒田長政。

長政は大津城の門前で晒されたところ、登城中だった宇喜多秀家は、
「自害もせぬとは!恥を知れ!」と罵倒し唾を吹いた。

しかし、石田三成は、長政に
「勝敗は時の運。黒田殿はよく戦いなさった・・・」
と健闘を称え、自身の陣羽織を被せてやった。

しかし、三成が豊臣家文治派を裏でまとめあげ、吉川・小早川を懐柔した張本人であることは
誰も知らない。

52 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:age [2006/10/22(日) 00:44:59 ID:BnzOjDGa]
東西両軍に分かれて戦った真田親子

真田昌幸・幸村は長男・信幸の助命を嘆願する。
敗軍に属した者を容赦なく斬る石田三成だったが、
真田昌幸の「信濃40万石を返還してでも・・・」の言葉にこころ動かされついに助命を受け入れた。

それから数年後の「江戸冬の陣」で豊臣軍をおおいに苦戦させるのは、
紛れもなく、生かしてしまったこの男である。



53 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 00:50:49 ID:qN6iPxnF]
>>52
ああ、劣勢だった西軍に身を投じて(諸説はあるが、俺はどうも当時の状況を考えたら西軍は劣勢だったと考えてる)
抜群の軍功があった大谷吉継が幸村公の岳父だったってだけで、真田信幸の助命を願い出て
「助命嘆願が聞き入れられなかったら豊臣勢と一戦つかまつる」って言って周囲を唖然とさせたんだったよな。


54 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 01:15:33 ID:ehmV0N/G]
>>53
真田昌幸と石田三成も親類だぞ。
>>劣勢だった西軍
ああなんとなく納得できるな。でもなきゃ病身でまともな戦働きが無理そうだった
大谷吉継が越前100万石なんて大封になるわきゃ無い罠。
いくら三成タソの心の友だったとはいえ
東軍厨に言わせれば、東軍が勝ってたら加賀百万石のはずだった
と騒ぐ某北陸県民が多いが・・これもどうだか
徳川も前田ごときに100万石もやらんやろ。
 西軍に献身的な働きを見せた義将吉継と三成の信頼と友情あったればこそ
大谷100万石はあったと見る。

55 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 02:07:38 ID:BJpPg7ym]
島家が最終的には岡崎5万国ってのは納得いかんな。
まあ倅の代の不祥事ではあるが

56 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 02:58:01 ID:GYnRVqdz]
このスレ、なかなかスリリングなテーマだな。

>>55
左近のせがれって、冗談で「謀反するじょ〜」って言って、それで潰されたってやつ?
島家って、潰されていたと、勘違いしていた。
ん? 別人か? だれかフォロー頼む。

西軍が劣勢とか言っているやつもいるが、西軍圧倒的。
東海道沿いの諸将の寝返り・日和見続出で、東軍が関が原に着いただけでも立派だよ。
掛川城を早まって家康に渡した一豊は、呆然としたろうな。
ってか、そう発言させた堀尾の智略に恐れ入る。

57 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 04:05:57 ID:ocILO2fA]
す、すげえ… このスレは歴史に残るで

58 名前:56 mailto:sage [2006/10/22(日) 04:13:30 ID:GYnRVqdz]
掛川城云々の補足。
山内が掛川城を徳川に提供しなかったら、慎重居士の家康は、
関東から出てこなかったのは明白。
おそらく小田原あたりに留まり続けただろう。
他人に城を提供させて家康を油断させ、本拠地から関が原までおびき出したのが
光成−堀尾ラインの成功。

59 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 04:52:58 ID:BJpPg7ym]
謀臣梶尾の知略も見事だがやはり大老石田光秀だろ
日本の曹孟徳と呼ばれる知略こそが語られるべきだろう
上杉の陽動から始まる壮大な戦略に軍を分けた徳川別動隊を足止めさせ
各個撃破の軍を鶴翼の包囲下に置き繊滅
こんな壮大な戦略みたことない、人気ないのが疑問だわ



60 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 05:18:38 ID:ixu9b1zs]
このタイトルを見てなんて間の抜けたタイトルなんだ?と思った。

このスレをクリックしたら、

「や〜い、騙されちゃったんですね!
歴史の知らないオタクは去ってください。ば〜か!」

ってAAを期待していた。

ごく普通のスレだったので、100倍がっかりした。実話。




61 名前:ななしさん [2006/10/22(日) 05:24:13 ID:IbIxv6b0]
西軍が勝っていたら毛利家が第2期室町幕府のような脆弱政権を
作ってたんじゃないかな
また世は乱れ戦争ばかり起きてたかもね

62 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 07:33:13 ID:iUsk0ycg]
空気よめ

63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 09:49:06 ID:84u8xr0j]
>>61
いや、実際そうなったから。
ただ、関が原合戦後も、秀頼の生きている間は
名目上は豊臣家の天下だったってことはお忘れなく。

64 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 10:18:01 ID:UhQdPhAd]
でもまぁそうやって長く乱れてくれたからこそ今の俺たちが何百年分も
戦国を楽しめるって事だしな。同時代人じゃないから気楽なものさ。

関ヶ原で終わってたら政宗なんか「生まれるのが10年遅かった」とか
言われてたに違いない。

65 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 11:28:35 ID:ehmV0N/G]
 >>61>>63
そうなって原因は豊臣政権の飽きない海外進出政策だろ。
秀吉の文禄慶長の役でやめときゃいいのに・・今度は
不足する恩賞の代わりに「異地切り取り自由」のお墨付きまで
三成が出した為だな。
大陸沿岸から東南アジアからインドまで進出していく状態が続いて
世界中に植民地が出来たはいいけど人材が流出しまくって
本国では豊臣家とか、ろくな人材いなくなって海外出遅れ組みの諸侯が覇権争いしだしたんだろ。

秀吉没後の豊臣政権も人材は独立大名にしていた性で家中にろくな人材がいなくて
家康につけ込まれが・・同じ失敗何度も繰り返すかねー。


66 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 11:40:52 ID:8YcXwVtp]
結局、日本人としてアイデンティティを確立する前に世界に散ったのがまずかった。
海外組も軍閥化や半独立、海外諸侯同士の宗教戦争など、もうぐちゃぐちゃ。
秀頼は秀頼でなにもしないから、五奉行派の独走を許しちゃうし。
ぶっちゃけ、家康が政権を取っていたら、と思うよ。

67 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 11:54:02 ID:ehmV0N/G]
秀頼の後半生では天下は乱れてたしね。
大老筆頭の毛利は、はなから日本の内輪は無視して輝元晩年には
「戦争は他の連中に任せておけ。幸運な毛利よ、汝は結婚せよ」
て言葉を残してるな。
で海外諸侯との婚姻で領土拡大、おまえはハプスブルグ家かと。

68 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 11:56:40 ID:vH9vzSYo]
>>66
海外進出の結果、東アジアの揉め事には必ず巻き込まれてきたからね。
国内外で戦争が絶えなかったし、日本人意識が育たなかったのは悔やまれる。
インド人の謝罪と賠償要求にもいい加減うんざりだし。

ありえない話だけど、もし300年くらい引きこもり外交してたら、
今の日本も少しは豊かな国になってたりしてね。

69 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 11:58:47 ID:c62fGDxH]
拡散も何も鎖国をすべきだったのは明白。あの時代貿易で
日本が輸出してたのは奴隷と銀だけで単に資本流出してただけ。
もうけたのは大商人と大名ぐらいで下々は悲惨だった。
毛利はそのうまい汁にしがみついて、国家戦略は皆無。

毛利の合議政権でなく、早く強力な中央政権ができるべきだった。
もしを語れば切りが無いが徳川政権ならば植民地の憂き目を見ずに
済んだ可能性が高いし、うまく行けば先進国になれたかもしれない。



70 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 12:05:48 ID:UhQdPhAd]
でもまぁこうやってネットに繋いで昼間っから2ch出来てる時点で
さほど現代の日本を悲観する気にもならないんだよなぁ。

逆にあの時海外に拡散したお陰で華僑と日系は世界中どこにでも
居るって状況になったわけだし。

71 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 12:06:34 ID:c62fGDxH]
まだ金、銀がとれている間はみんなが言う通り東アジア進出も
できたが、取り尽くした後の悲惨な近代を忘れてるんじゃないか。

まだ鎖国をしようとした明の方がましだよ。今漸く成長してるからな。

それに引き替え日本はアフリカ並だぜ。どうするんだよ今から。

72 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 12:12:22 ID:ehmV0N/G]
>>69
 一応新大陸とか海外に日本が建国したり独立した国は発展して
先進国の仲間入りしたりしてるから
日本も先進国になれたかもしれない可能性はあるな。
 でも日本は昔からろくな資源もないしねー徳川でも大差ないかもしれん。
狭い日本に閉じ込められてたぶん外交音痴になってた可能性も高い。

現実といえば九州や琉球あげくは蝦夷地まで北海道として独立してしまったし・・
琉球の“百万両の夜景とか”九州の魔都博多とかのメガロポリスを見てると
 日本本国だけNIESにもなれない発展途上国なんていう
笑えない状況だしね。


73 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 12:21:04 ID:WNOs2IJ3]
必死な徳川ヲタが来てから急に糞スレになったな

74 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 12:21:35 ID:84u8xr0j]
>>72
九州は日本連邦構成地域。強い自治権が認められているだけ。
小学校からやり直せ。

しかし、Ifだけで近代以降の現象を論ずるのは無茶。
近世までの話しか議論対象にならんと思われ。


75 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 12:29:21 ID:QfKG3NjH]
でも結局豊臣幕府は維新の時伊達と山内と最上の連合軍に滅ぼされちゃったからね・・・
関が原で取り潰しておけばよかったのに。
薩摩や長州の人間はまだ仙台の人を嫌ってるらしいからね・・・

76 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 12:42:00 ID:c62fGDxH]
別に徳川はどうでもいいが、ifを語るにしても都合の悪いところは
全部無視はひど過ぎる。って思っただけだが。

毛利オタには都合の悪い指摘があれば糞スレと感じるのは
仕方の無いことだろうけどな。

77 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 13:01:24 ID:84u8xr0j]
>>76
いや、言いたいことはわかる。
ただ話を近現代までもってくると、スレの性格が変わってしまうかと。
また豊臣・毛利は朝敵だとひたすら叫び続けるやつが出てきかねない。
そんな荒らしがくる恐れがあるので、下げ進行が井伊と思う。

>>75
土壇場の土壇場で肥前が維新側についたのが笑える。
豊臣(ってか実権を握っていた毛利)のためには、肥前も潰すべきだった。
鍋島は、家康にも通じていたって話もあったみたいだし、口実にはなると思う。
いや、俺、本当に鍋島家来の末だから、残されてよかったんだが。

78 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/22(日) 13:03:25 ID:c62fGDxH]
第一、毛利では合議政権になるのはその通りで、合議政権では
強力な全国的な政策は難しいし、毛利は貿易で利益を得ていた
事を考えれば鎖国の可能性は低い。
後はその当時の貿易がどんなものかってだけの話で徳川は
殆ど関係ない。

79 名前:77 mailto:sage [2006/10/22(日) 13:03:52 ID:84u8xr0j]
誤:下げ進行が井伊と思う。
正:下げ進行が良いと思う。

俺のパソの変換、変なバイアスがかかっているな…。



80 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 13:27:24 ID:16aGEryb]
>>73
同意

81 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 14:00:21 ID:SvcFbFMA]
>>79
ああ、井伊直政か。俺も好きだよ。
島津鉄砲隊に蜂の巣にされても家康のせがれを逃げさせたんだったよな。
そのせがれが樺太に渡ったったって伝説があるよな。

82 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 15:42:28 ID:TTIpF5XJ]
>>81
樺太に行ったのは、江戸の陣の後だがな。
実際には蝦夷地で病死したって噂。

家康が死に、徳川四天王も代替わりしたあとの徳川が、
豊臣とやって勝てるわけが無い。
どうしても生き延びたいんだったら、素直に秀忠は隠岐に転封されるべきだった。
事実上島流しだとお江に反対されようとも。

>>73 >>80
「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」だから、
徳川びいき気味になるのは仕方ないので、勘弁してほしい。

83 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 18:25:12 ID:6KWXdATE]
三成が伏見の徳川屋敷に逃げてきた時に殺しておかなかったのが家康の最大の失敗ですよね。
敵でも自分を頼ってきた人間は助けるというのは優しい家康らしい話で好きなんですけど。
ここで三成を殺さなかったことが本当に悔やまれますよね。
後の歴史を知っているから言える後知恵ですけど。

84 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 18:41:38 ID:TTIpF5XJ]
↓これで江戸の陣は乗り切れる?

慶長14年、関ヶ原の勝者秀頼は天下統一の仕上げとして徳川に戦を仕掛ける
故・右大臣家康が縄張りをするも完成の日はこなかった居城江戸城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、秀忠のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては掛川6万石の主 山内一豊
西軍を田辺城に釘付けにした幽斎の子 細川忠興
秀忠の兄・結城秀康の息子 結城忠直
小早川家では1万6千石を拝領した男 稲葉正成
信義のため1千石の捨扶持をなげうち馳せ参じた 真田信之
徳川家臣筆頭井伊直勝の弟 井伊直孝
家光の乳母の義理の孫、弱冠17の美男子 堀田正盛
かれら七将の他、本多忠次、大久保忠教等の歴戦の強者達
しかし、江戸城の最高権力者は秀忠の妻・江とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に徳川の為に戦うは、井伊、堀田、結城くらいか…
その時、浪人で溢れかえる江戸城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、細川殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、家康の遺児、秀忠に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
――バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き家光の忠臣、堀田正盛
しかし、彼の後ろの江や秀忠、いや、彼らだけでなく細川や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「父上……」
結城忠直がようやくといった感じで放った言葉に、正盛を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「結城宰相秀康、徳川家の御危機を聞き、八丈島より  泳  い  で  参  っ  た  !!!」
家康の外様の家来、いやそれ以上の疎外を受け育ち、一時は豊臣秀吉の猶子であった男が再び徳川の為に戦うため帰った来た…


85 名前:84 mailto:sage [2006/10/22(日) 18:43:44 ID:TTIpF5XJ]
一箇所、関係無い奴の名前が混じっているな…。

86 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 18:46:01 ID:EFmxNV/i]
井伊の赤備え、所詮は猿真似だな。

後に、真田が家康の本陣を粉砕した際に、
赤備えの真の実力を見せ付けてましたね。

87 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:08:01 ID:GsgyiblB]
>>84
いつか誰か書くと思ってたw
結城秀康かwwwwwww
適役wwwwwwwwwww

88 名前:84 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:12:45 ID:TTIpF5XJ]
>>87サンクス
実はこの文章(の配役)を、半日考えていた。
せっかくの休日が…。

89 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:20:34 ID:SvcFbFMA]
>>84
それ、仮想戦記・関が原東軍勝利シリーズの『大坂の陣宇喜多秀家公大遠泳大坂御入城』の場面の改変だね




90 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:20:43 ID:GsgyiblB]
>>88
しかし史実(このスレ内の史実ではなくリアルの史実)では大阪冬の陣の前に死んでるからなあ
キチガイ忠直卿と猪武者秀康父子の奮戦が実現してれば面白かっただろうな・・・
ぜひ続きを書いてくれ!

91 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:31:46 ID:UhQdPhAd]
>>83
マジレスすると、逃げ込んだのは伏見城内の自分の屋敷というのが現在優勢。


関ヶ原前に関しては史実通りで良いんだよな?
それとも徳川信者を装うネタレスだったのか……線引きが良く分からん。

92 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 19:36:27 ID:GsgyiblB]
(関ヶ原で桃配山の家康本陣から松尾山の金吾に鉄砲を撃ちかけるまでは史実と同じでいいと思うよ。)

93 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:10:00 ID:jP12D1k5]
2007年のクリスマスは、サンタクロースの大井競馬場での騎乗のため
中止となります。また、それに伴いましてクリスマスイヴやプレゼント交換会
も中止となります。ご了承下さい
2chart.fc2web.com/2chart/2007kurichuusi.html
また、昨年お伝えしましたように、2006年のクリスマスも中止です。
2chart.fc2web.com/2chart/2006kurisumasuchuushi.html

毎年、各所でこのような楽しいクリスマスの風景が見られましたが
自粛でお願いします。
2chart.fc2web.com/2chart/tanosiikurisumsu.html

94 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:21:18 ID:BJpPg7ym]
徳川事変後の新五大老と封地ってどれくらいだったっけ?

95 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:26:59 ID:GsgyiblB]
関白が小早川改め豊臣秀秋
毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家が領地を増やし
前田利長は家康との関係があって減封の上に5大老から外され・・・
あれ?新しく増えた二人の大老って誰だっけ?

96 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:37:48 ID:IOfWhwEk]
佐竹

97 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:39:35 ID:BJpPg7ym]
筆頭大老の石田三成は当然解るんだけどもう一人がね

98 名前:84 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:44:47 ID:TTIpF5XJ]
>>90
だーかーらー、小説と史実の区別はしようね(笑)。
しかも架空戦記物でしょ。

私の知っている史実では、秀康はちょうどそのころ八丈島で行方不明になっているが、あくまで生死は不明。
そもそも死亡説のひとつは梅毒説で、もうひとつは暗殺説だけど、
八丈島で梅毒にかかる機会はあるのかな?と。(当然すでに流行している可能性もあるが)
もうひとつの暗殺説は、秀忠がすでに流罪となった結城家当主を暗殺する必要があるのか?と。
よって、両説を含む死亡説は不確実。
一緒に流された黒田長政ほどではないにしろ、
秀康もそれなりに生きていると思いたい。

それはともかく、励ましの言葉、ありがとう。
仕事があるし、資料も集めなきゃなんないので、書けるにしても一週間はかかるだろう。
ってか、あのクオリティーで書く自信ない…。

功名が辻、来週、一豊は掛川城の提供を宣言してしまうよ。
馬鹿だなあ、これで毛利や石田への言い訳ができなくなるのに。

99 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:50:06 ID:UhQdPhAd]
梅毒は罹病してから十年以上生きる事もあるから梅毒説にも特に問題はないと思うのだが。



100 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:54:17 ID:TTIpF5XJ]
>>99
そうなのか…。やっぱり死んだのかな。

101 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:54:39 ID:BJpPg7ym]
ああ、山内は大河のここ迄の流れで秀吉の時代から試されてきたのに
最後の最後で判断に過ったよね。
もっとも壮絶な最後で講壇師の影響か人気も高いし
もし東軍が勝ったらこの人は大河の主役は張れないだろう。
ある意味よかったのかね。
(あと言ってみたらネタスレだからガチガチでなくてもいいさ。面白かったんで続き待ってる)

102 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 20:57:05 ID:BJpPg7ym]
↑は>>98

103 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 21:28:44 ID:UhQdPhAd]
いや、論としての合理性に問題がないだけで、逆に言えば
梅毒にかかりながら30年以上生きた例もあるし、
(それで如水の有岡城の一件も実は梅毒の初期症状説がある)
梅毒での死を装って島外に逃れた、て話があったんじゃなかったっけ?

104 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/22(日) 21:57:48 ID:TTIpF5XJ]
>梅毒での死を装って島外に逃れた、て話
を採用しておきましょう。

で、関ヶ原で東西に分かれた九鬼親子の息子の方って、江戸の陣に参戦したっけ?
Wikiにはあまり詳しく書いていないから、よくわからん。
いくらIf小説だからって、あまり史実を無視するわけにもいかないから、
知っているがいたら、教えて。

105 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 00:53:28 ID:jYkZnFFK]
>>104
ばっかお前
「鬼九鬼の海上封鎖」って言って
その後の海軍の教科書に載るくらい有名なエピソード作ったろ。

106 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 01:22:35 ID:DjrUeASg]
>>105
すまん、文意が伝わりにくかったかもしれん。
海上封鎖やったのは、豊臣方の、嘉隆四男・主殿助だよね。
俺が聞きたかったのは、関ヶ原では東軍についた守隆の方。
江戸湾をあっさり弟に良いようにされて、そのままで黙っていたのかと思って。
てか、そもそも生きているのかな。

107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 02:49:47 ID:rcAZUavT]
こうゆう現実と妄想の境目に存在するスレが好き

108 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2006/10/23(月) 03:12:00 ID:mq3MFKsR]
>>106
幽閉先の下田から遁走して江戸城に入っている。
しかし、隠居所から親兄弟に宛てたあの情けないぼやき手紙からは考えられないような奮戦ぶりだったぞ。
圧倒的寡兵でありながら、結局海上決戦では関西方と互角に戦い、浦賀水道を死守し江戸湾に一隻たりとも立ち入らせなかった。
まあ短期戦を諦めた大坂方の海上封鎖を、結局は突破できなかったけどね。

109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:20:13 ID:DtFOu55W]
>>94
五大老には徳川と前田を外し
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の残留に加え石田三成、小西行長
奉行には浅野を外し安国寺恵瓊
三成はともかくなぜこの2名がこの役職についたかは不明
そのため東軍厨が妄想の東軍戦勝関が原では
必ず石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を切腹処分にしている。

 封地については
毛利輝元は大老の筆頭になるのは辞退し加増もなし
上杉景勝が越後一国と山形の一部を加増され150万石
石田三成は近江一国80万石ほど

 ただ毛利の場合、実戦闘に参加した吉川広家、毛利元康、毛利秀元
と輝元が推薦した宍戸、熊谷といった家臣合わせて10名近くが
新たな封地を頂戴して独立大名になっているので
実質毛利一門で100万石以上の加増になっている。
 逆に上杉は加増したが直江を独立大名にして米沢を失っている。





110 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:24:01 ID:DtFOu55W]
(↑こんなもんでいいでしょ。)
宇喜多秀家は漏れも詳しく知らない。

ところで>>98
八丈島にいったのは結城秀康と福島正則だろう。
福島正則が漂着してきた宇喜多の酒樽を頂戴した逸話は有名
黒田長政は黒田家廃嫡の上追放処分だろ。

111 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/10/23(月) 10:52:20 ID:6ycUiLSp]
小西行長が大老になったのは堺陰謀?説に賛成かな。

配下の水軍、堺の経済力、キリシタンとしてのネットワークを背景に
当時本土における対外貿易関係を仕切ってたのは確かなんだし。
三成は例外として一人石高や地位に劣ってるからそれ以外に理由を
見つけないと苦しい。

後は個人的に五大老内のバランスとりの意味もあったかと思うけど。
元々宇喜多家に仕えてたんじゃないかと言われてるから、
毛利(+一門)、上杉(+直江)+三成?、宇喜多+小西て感じで。

宇喜多は加増されたといえ、前田が減封されて五大老外れた上に
歴史浅いから一門や類縁も少なくて発言力低くなってたから。






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