- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2010/09/28(火) 23:59:20 ID:gC95IlEA0]
- これは意外とありえると思う
- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/08(金) 17:42:56.27 ID:2A4HNqtU0]
- 佐幕派クーデターを起こすなら、長州藩兵力と薩摩藩の増援部隊がまだ上洛する以前の
1867年11月までだろう、12月になると討幕派の兵力が増加して佐幕派クーデターの成功 の可能性が薄くなる。 慶喜が11月までに決断が付かないのなら翌年の68年の5月まで戦争を始めない方が良い。 ストーンウォール号は4月まで幕府の手に入らないし、元込め式の銃をもっと導入しなければ ならないし、アームストロング砲が手に入らなければ、代わりにクルップ砲を何十門と導入 しなければならない。色々やることがある。 >>136が言うように関東では薩摩藩のテロ活動もあり、騒乱状態なので、幕府陸軍は官軍と戦う前に これらを鎮圧する必要がある。 >家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。 大久保利通が、同じ事を西郷に言っているから、そうなんだろう。 井上勲なんかは、慶喜は早ければ大政奉還と同時に、遅くても王政復古のクーデターの時までに 関東に帰り、江戸城で旗本と譜代を糾合して“関東甲信列藩同盟”の様な朝廷とは別の権威 を打ち立てる“東帰割拠”論が徳川再生の道と言っている(奥羽越列藩同盟からの支援も期待)。 松浦玲も、慶喜は鳥羽伏見の戦いに負けたからと言って大阪城を逃げ出したのが最大の負け要因、 としているし野口武彦なんかも同じで慶喜の桁外れなチキンぶりに呆れている。 特に野口武彦は、大阪城篭城戦では、大阪城の広大さと堅固な堀や壁、大阪城砲台の火力、城内の予備兵力、 膨大な物資、大阪湾での幕府海軍の優性、薩長軍の寡兵と補給の弱さ、などを考慮して幕府軍の優勢を分析 しており、大阪城の戦いが始まれば、土佐藩の裏切り(実際、鳥羽伏見の戦いの時に慶喜と連絡していた) を考慮して官軍の敗退の可能性が大きかったと分析している。 実際に土佐藩が、幕府軍に寝返ると越前・尾張も怪しくなる。
- 140 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/08(金) 19:56:58.74 ID:jo3Ifzxz0]
- いや、籠城は古来内から崩れてきたわけで、
鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。 客観的な状況判断と主観的な状況判断は違う。 家近さんのは結局、外側から見た幕軍情勢の分析じゃないかな。
- 141 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/09(土) 02:54:29.01 ID:zmDqahxD0]
- >籠城は古来内から崩れてきたわけで
崩れネーヨ! もう崩れている奴らは、官軍側に寝返っている。 大阪城に官軍が近づいて来たら、今度は土佐藩が徳川サイドに寝返るかもしれない。 板垣退助は、在国中だし。 >鳥羽伏見で津・淀の両藩が裏切った時点では慶喜は東帰せざるを得なかったよ。 ナンセンス! 客観的には、篭城すべきタイミング。 慶喜は、淀川上流から死体の山を積んだ何隻もの船を見てビビッて逃げ出したのが真相。 4日に淀藩が、6日に津藩が寝返っているのは有名だが、同じ6日に丹波最大の藩で佐幕派の 丹波亀山藩が西園寺公望率いる山陰道鎮撫隊に降伏している。翌7日にはやはり佐幕派の 福知山藩が降伏、大政奉還の頃から勤王派への色彩を強めていた園部藩、篠山藩は、難なく 同日に山陰道鎮撫隊に対して勤王を誓った。 この様に確かに鳥羽伏見の戦いの影響で丹波を中心に諸藩がドミノ倒し的に勤王派へ寝返っている現象はある。 だがこの現象も大阪城で慶喜が徹底抗戦を続ければ、大阪湾の幕府海軍の存在もあり止められる話。 大阪城を官軍が包囲してもナカナカ落城しなければ、畿内の諸藩も勤王派には、そう簡単には寝返れない。 ちなみに官軍が鳥羽伏見の戦いを進めている最中に山陰道鎮撫隊を組織して丹波制圧を進めていたのは、 万が一鳥羽伏見の戦いで官軍が負けた場合に備え天皇を長州や広島に逃す為の退路を確保しておく必要があったからだ。 官軍も少ない貴重な戦力を山陽道鎮撫に割いたのはこの為で、薩摩藩のこの時点での在京兵力は4000人だったが 鳥羽伏見の戦いに拠出した薩摩藩の兵力は3000人で残りの1000人はこの山陰道鎮撫隊に振り向けた。 この様に薩長でさえ貴重な兵力を分散し逃げ道を確保しながらの戦争であり、決して幕府軍撃退に確固たる自信があった訳ではないのだ。
- 142 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/09(土) 04:07:25.41 ID:Wap9CFKe0]
- とすると
@王政復古クーデタの計画を察知し得た段階での挙兵 A討薩表を掲げての上洛 B大坂籠城 いずれも勝つチャンスがあったと言うことか 一般にはAで幕軍が即時開戦に踏み切れる準備をしておればよかったとは言われる所だが、 さすがに紀州藩の動向まで怪しくなっている中で長期戦は難しいだろう
- 143 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/09(土) 09:29:36.80 ID:zmDqahxD0]
- >紀州藩の動向まで怪しくなっている中
怪しくネーヨ! 立派に佐幕派している。 次の将軍職は、紀州出身の田安亀之助だから必至に佐幕派している。 勝つ最大のチャンスは、開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに… @元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事、 A幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦を覚える事。 B関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動、打壊しなどを鎮圧する事。 などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。
- 144 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/09(土) 09:36:49.22 ID:QNNiNwiZ0]
- >>139
いや、鳥羽伏見のときに幕軍が京に乱入できていれば土佐が幕府側に付いた可能性が高いが、 正式な勅命が下った後である大阪城攻防戦の頃じゃ、それも難しいだろう。 土佐藩の軍には勤皇派が多いし、一度は差し止めたそれを戦線に出しちゃってるからね。下手すれば藩内で割れる。 あと大坂城内の予備兵力は旗本主体の歩兵隊で、野口もこいつらは使えねーっつってた気がするがw >>141 いや、篭城って案外難しいのよ。 囲まれた後から敵の警戒線突破して能動的に作戦するのは極めて困難だから 時間とともに士気は落ちていくし、余程の信頼関係がないと城内に疑心暗鬼が蔓延るのは止められない。 小田原城なんかもそうだが、古来内応で落ちた城が数多あるのはこのせい。 まぁ幕府歩兵隊・会桑辺りだけで篭ればその心配はないかもしれんが、他を追い出したら追い出したで不安要素が増えるしなw 敗走の後だから元々士気が低い連中は信用できないし、武器兵器特に最新装備の喪失はかなり痛い。 何にせよ、出来るだけ早い段階で江戸から軍を上らせることが必要。 まぁ幕閣はやる気満々だからすぐ軍を出すだろうけど、問題はその兵と指揮官の質だろうな。 幕府歩兵隊の主力は大阪城だし、援軍の指揮官が小笠原みたいなのになったら悲惨な結果しか見えないw どうなるにせよ、その軍で阻止に来るであろう薩長の軍に勝てるかどうかが戦局の分かれ目かな。 幕府海軍の威力は大いに認めるが、内陸部に対する影響は極めて限定的なので内陸の藩の寝返りは止められないだろう。 艦隊の取れる陸上作戦には厳しい制約があるから、大阪湾封鎖が最も重要な任務になると思われる。 あと忘れてるかもしれないが、山陽道は鳥羽伏見やってる頃から長州軍が駆け上がってる最中だぞ。 それと山陽道屈指の大藩である広島藩と岡山藩が、都落ちの際の朝廷疎開先候補に挙がるぐらいガチガチの勤皇藩であるのも痛い。 近畿地方で言えば、紀州に次ぐ石高を持つ彦根と津がさっさと寝返ってるのが不安要因。 ぶっちゃけ、有能な奴を司令官に据えて鳥羽伏見やってた方がかなり勝算が高いと思う。
- 145 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/09(土) 11:06:03.19 ID:3L5TI6J6O]
- 籠城ってw
鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利 大阪城を拠点に海軍で海上閉鎖 陸軍で陸路閉鎖 京都は補給線を絶たれ孤立 普通に戦えば幕軍が負ける戦ではないから
- 146 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/09(土) 11:22:22.14 ID:pbHTvJiA0]
- >>145
>鳥羽伏見は客観的に見れば軍事力は幕軍有利 それが負けたのだから、指揮者の松平容保らがよっぽど阿呆ということなので、 なら他の旧幕府軍も信用できないという話になってしまう
- 147 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/09(土) 13:29:07.64 ID:ne+8Ar4tO]
- どんなに大軍を擁しても
どんなに精強な兵を揃えようと どんなに優秀な装備を持っていようと 指揮官が無能だと負けます
- 148 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/09(土) 13:53:30.05 ID:SvPwvGOX0]
- 竹中半兵衛の子孫、竹中丹後守のことか。
- 149 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/10(日) 07:27:38.54 ID:C2YYtrV30]
- 勝つ最大のチャンスは、慶喜が東帰して開戦を68年5月まで引き伸ばして、それまでに…
@元込め式銃とクルップ砲を更に買い込んで幕府陸軍に配備する事。 A幕府海軍は、ストーンウォール号を手に入れて操縦訓練。 B関東の幕府陸軍は、演習を兼ねて関東一円に治安出動を繰り返し、暴動・打壊しなどを鎮圧する事。 C徳川宗家は、関東甲信列藩同盟、東海道列藩同盟、奥羽越列藩同盟を結成し東日本の支配権をアピール。 D幕府陸軍2万4000人の西上作戦の準備。 E薩摩藩と長州藩の船舶への継続的攻撃による畿内での薩長軍増強の阻止。 などかな、必要な処置は、その上で薩長と開戦すればよい。
- 150 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/10(日) 08:57:19.37 ID:E+TB+6HY0]
- >>149
それを言っちゃうと洋式軍の絶対的な不足や指揮系統の不備という幕府軍の欠陥がなくなるなw もはや幕府軍とは別物だ。
- 151 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/10(日) 10:48:08.38 ID:dRiDKZg60]
- 志茂田景樹か星亮一の戦記小説を見るようだ。
実際は、事前に最新戦術教練と最新武器の配備に余念がなかったのは薩摩だったわけで、 実戦に堪える最新戦術という点では長州が抜きん出ていた。 会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。 幕府歩兵は武器は最新だったはずだが、戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、 追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。
- 152 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/11(月) 03:58:17.70 ID:CkdgmDTY0]
- 幕府にも島津斉彬みたいな人がいればよかったのに
- 153 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/11(月) 08:04:01.21 ID:FdofPEkg0]
- >会津をはじめとする佐幕派諸藩は、戦術や武器の遅れは精神性で補えると勝手に自負していた。
思ってネーヨ! 特に庄内藩と長岡藩は、もう全軍銃兵化を計画している。 藩士、郷士の身分は関係ナシの片っ端の銃兵化計画。 しかも最終的には、後装式銃での全軍銃兵化だ。 会津?シラネ でも鳥羽伏見の戦いでは、白刃を抜いての万歳反復突撃は、物凄い物があった。 死者数も物凄いが… >戦術に無駄な密集突撃が多く狙撃で指揮官を失い自滅し、 >追い散らされると指揮が更に乱れて撤退を重ねた。 まさか戦闘になると思っていないから、兵隊に弾を込める命令を出していないし、 丹波口からの山陰街道を下っている山陰鎮撫隊への攻撃もしていない。 最大のミスは、西国街道に幕府兵を配備しなかった事だろう。 西国街道を北上すれば、鳥羽街道の薩摩軍を迂回して薩摩軍の補給基地である東寺を攻撃出来たのだが、 幕府軍の西国街道無視で津藩は裏切ってしまった。
- 154 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/11(月) 08:11:42.01 ID:fkgg+sZf0]
- >>153
文が矛盾していることに気付いていないのだろうか。
- 155 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/11(月) 11:42:17.29 ID:XrjN6Pq3O]
- 近代歩兵戦の経験値と金の問題で幕府が直接抱えてる歩兵隊とその他の藩兵の装備は差があるからな。
政治的な駆け引きとしても薩長髪
- 156 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/11(月) 18:45:27.74 ID:RDywkV490]
- いや錬度はダメだけど装備は大して変わらんだろ。
歩兵隊も前装式ライフル。 江戸には後装式も多少あったし。
- 157 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 14:45:13.69 ID:YRaPQSx20]
- 幕府歩兵隊の問題は、装備や練度よりも下士官の不足じゃなかったっけ。
伏見なんか奉行所から撤退した後最高指揮官がさっさと逃げ出して、 部隊は当てもなく一晩明かした後三々五々撤退とかお粗末すぎる。
- 158 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 18:54:52.63 ID:oa6+3tYd0]
- >>154
銃だけで戦争を戦うわけじゃないから、べつに白兵戦における会津藩の戦力を評価するのは矛盾ではない
- 159 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 18:57:00.37 ID:XzjYQGOn0]
- 下士官(軍曹級)よりも下級士官の経験不足は大きく影響しただろうね。
歩兵自体は士分ですらないから下士官程度までで指揮はできない。 中隊長クラスは士分を当てるから当たり外れが大きい。 まあそれより上のクラスでも近代戦を理解してた将校は何人いるか・・・ 大鳥くらいじゃないのかね?
- 160 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 20:57:48.42 ID:6Py8FKGIO]
- >>159
大鳥も長州征伐でようやく基本を理解したってぐらいだからな。 少数のゲリラ的な戦いならある程度勘でやれたみたいだが、大兵力の火力展開から白兵突撃や後退の指揮までやれたのは寛永寺以降だったようで。 フランスやイギリスの教官から習った事だけではどうにもならなかった。
- 161 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 23:18:27.69 ID:Q8T4FYRi0]
- 先見性がある藩だからこそ新政府側へ寝返ったり日和見ったりするんだよな。
これらの藩を幕府側につけることが重要だったかも。
- 162 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/12(火) 23:50:06.89 ID:6Py8FKGIO]
- >>161
味方は多いにこしたことはないからな。 ただ、どうやったら味方につくかって話で。 諸藩に分かりやすいビジョンとエサを与えるにはやっぱり天皇っていうカードは大きいかなぁ
- 163 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/13(水) 03:56:17.77 ID:E0r9BtIa0]
- >>158
だが、旧幕府軍の戦力は優秀だったと宣言するときには、 鳥羽伏見の戦いに出てこない庄内・長岡を挙げ、 資料では討ち減らされるだけだった会津兵が勇猛だったかのように語るのは、鳥羽伏見の戦いにおける史実に反する。
- 164 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/13(水) 07:34:36.37 ID:D+YNLlmN0]
- 大阪から京に直接行くのに、西国街道、鳥羽街道、竹田街道、伏見街道の4つがあり、
幕府と佐幕派諸藩の兵15000人が鳥羽街道と伏見街道にしか進撃しなかった。 これは大失敗。 西国街道と竹田街道には、薩長軍はほとんど居ない。 ここを進撃すれば、幕府軍も佐幕派諸藩も下京に突入できたし、 そうなれば鳥羽伏見で戦っている薩摩と長州の部隊の一部を撤退させて 下京防衛に回さなければならない。 そうなると鳥羽伏見の幕府軍は楽になる。 それに下京に幕府軍や佐幕派諸藩が突入すると、元々本音では徳川家よりの 土佐藩の寝返りが起きるし、それに釣られて越前、尾張も寝返るかも 大阪に留まっている姫路藩と京への進撃に出遅れた紀州藩には、 山陰街道に回り込んで進撃する命令を出しても良い。 薩摩軍1千人と決戦になるが、一部洋式化されている紀州藩兵相手なら面白い対戦になる。 まあ、実際のところ幕府軍は、戦闘になると思っていなかったんだろう。 兵士は弾丸も銃に込めていなかったぐらいだし、不意を付かれた訳だ。
- 165 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/14(木) 07:02:24.69 ID:LLx6qi7R0]
- >>164
戦術的には良いんだが…無理じゃね? 幕府軍の指揮官は「朝廷の命令により、通過させる事は出来ない」と関所で止められると、 「関所で止められたが、でどうしたら良いか?」と馬を大坂城へ走らせ、将軍様に一々お伺いを立てる。 多方面から進撃しても、この状況は変わらないだろう。結局、多方面で「通行出来ず、進撃不能」という報告が大坂に行くだけ。 この間に薩長に錦旗渡っちゃうよw。 最初から武力で突破して薩長に戦争準備させないのであれば、鳥羽伏見二方向からの進撃(史実通りの)で兵力は集中されているんだから、 余裕で勝てたはず。
- 166 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/14(木) 08:26:09.51 ID:tu6nDNA/0]
- 西国街道、竹田街道では、幕府軍は止められないでしょう。
薩長軍が居ないんだから。 丹波街道の戦いでも、嵯峨で決戦となると天竜寺が焼けてしまうなw
- 167 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/14(木) 09:01:10.62 ID:LLx6qi7R0]
- たまたま居なかっただけでしょ
朝廷命令として「幕府軍の通過を阻止しろ」と出されているので、薩長兵だけでなく大垣藩だろうがどこの藩だろうが居れば止めますw。 居る居ないという議論は無駄ですよ。そんな運まかせの戦術論は戦術論じゃありません。 戦術論で勝利を目指すなら「居る事を前提に」考えなければ、必勝の策とはなりますまい。
- 168 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/15(金) 14:00:23.34 ID:VXbf62bj0]
- まぁでも、薩長が居ればその分他の街道に展開してる兵力も薄くなるし、
薩長以外の藩が守っているなら突破できたかもしれない。 何より、幕府にはそれをやっても各街道で十分な兵力の厚みを維持できるという強みがある。 なーんて後世からの視点で言ってみても、あの幕府重臣連がそれを的確に指揮できたかは疑問だけどw
- 169 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/16(土) 02:48:42.91 ID:vF8CwBsKO]
- >>1-168
- 170 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/17(日) 19:46:52.53 ID:kXciYGsI0]
- 慶応四年の正月早々から戦争する事無いんだよ。
関東では騒乱状態なんだから、それを鎮圧してから薩長と本格的に戦争すればよい。 ストーンウォール号を手に入れて、五月開戦で十分。 それまでに長州藩部隊の増強は有り得るが、 薩摩藩は鳥羽伏見の戦い直前に4000人の部隊を上京させたが、それ以上の増強はかなり厳しい。 薩摩藩内部に討幕戦争に批判的な声がある。 島津一門や家老でさえ意見が一本化されていないにの薩摩藩部隊を無理やり4000人を上京させている。
- 171 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/17(日) 23:21:40.28 ID:Bd+/77C30]
- >>170
それは無理じゃねぇか? 開戦したがっていたのは旧幕軍主戦派で、慶喜自身も止めようがなかった訳だし
- 172 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/18(月) 12:29:50.89 ID:gpmh8ZHP0]
- 薩摩藩江戸藩邸焼き討ち事件の発生を聞いた時点で、慶喜は江戸に帰還すればよい。
ちょうど関東は、騒乱状態だし。 詳細の報告書を京都の新政府に報告して 小御所(議定)会議で薩摩藩のテロ支援活動を断罪してもらえばよい。 薩摩藩の議定や参与の責任問題になり、解任されるかもw
- 173 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/18(月) 16:41:43.53 ID:NlchFCB10]
- そこで慶喜東下の為に大阪城内を抑えきれるかがまた問題な訳で。
あの時点で脱出しても、それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。 まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし、余計な連中まで江戸表から上ってくるしな。 せめて幕閣の多数派がイケイケじゃなければ、何とかなったと思うんだが。
- 174 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/18(月) 19:29:52.60 ID:kiVa3bIa0]
- >それこそ残された連中が何やらかすか分かったもんじゃない。
慶喜が居ない時には、大戦争は起こせない。 慶喜は大阪の幕閣に宿題を出してやれば良い。 幕府軍はいきなり京を攻めるのではなく、 まずは畿内の勤王藩を攻撃して、朝廷シンパが畿内に広まらないように手を打つべき。 慶喜は、大阪幕閣に畿内勤王藩制圧作戦を行うように言う 近江、大和、丹波、摂津の小藩が以外と勤王藩に転向しているケースが多い。
- 175 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/19(火) 10:28:30.95 ID:YXdTTC970]
- >>174
通常ならその通りなんだが、当時は慶喜の身が異常な状況だからな。 慶喜無しで統制できるなら、そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう。 幕閣で頼りになるのは板倉ぐらいだが、その板倉ですらお手上げ状態だからなぁ。 あと、勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で。 それならいっそ京を直撃した方がいいと思われ。
- 176 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/19(火) 18:52:56.08 ID:St0Cmp+V0]
- >まだ在京の薩長なら余裕で蹴散らせると思ってるし
いや、全員がそう思っている訳でもない。 慶応三年十一月までは、京に居る討幕派の兵力は薩摩藩兵2000名ぐらいだったが、 十二月になると薩摩藩の援軍2000と長州藩兵1300が上洛し討幕派の兵力が 5000人を超えてしまう。 永井尚志なんかは、薩長の援軍上洛を聞いて、 これ以上の討幕派の兵力増強を阻止すべく慶喜に進言している位。 >余計な連中まで江戸表から上ってくるしな それは長州藩も同じ事、戊辰戦争で長州藩は最終的に2万人も動員している。 同じく薩摩藩は、数千人だそうだ。 >そもそも慶喜の欲しない鳥羽伏見が起きることは無かっただろう 幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。 討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。 >勤王藩攻撃して停戦の勅命が下った場合、従わなければ朝敵認定される訳で 理由付けの内容次第だろ。 無罪の藩にいきなり攻撃を仕掛けたら、朝廷三職会議で朝敵にされかねないが、 薩摩藩が関東で行っているテロ支援活動なら、むしろ薩摩藩の方がヤバイ立場に立たされる。 彦根藩や西大路藩、膳所藩などは、薩長の後方支援を行っているし、 園部藩、篠山藩などは天皇の逃亡の手助けをしているので、土佐、越前、尾張などの 徳川よりの議定(藩主)からは、非難されるだろう。 現実に畿内の藩がそれほど戦闘力を保持している訳でもない。 郡山藩の藩主も正室が薩長シンパの公卿一条家から嫁に来ているので、要注意だが、 実際に鳥羽伏見の戦いで、朝廷側に参戦して大阪城を攻撃した訳ではない。 大阪-奈良間の街道には、佐幕派の姫路藩兵数百名が陣取り、警戒していた為に 郡山藩は、何も軍事的には動けなかった。
- 177 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/20(水) 00:01:18.79 ID:n8TUO/TC0]
- >>176
いやー、それはちょっと難しいんじゃないかな。 薩長側っつっても、彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ? 園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし、天皇遷御の密約を証明でもしないと 京で頑張ってる容堂公や春嶽公でもフォローできるか疑問。 あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。 軍事的には、王政復古で長州藩が大手を振って上洛出来るようになっていたことを考えれば、 敵の増強を待たずに鳥羽伏見の時点で開戦したことはそれほど悪い選択ではなかったと思われる。 ストーンウォールはあくまでも海上戦力だからね。 ただ、戦略的に指揮をとるのが史実通りの面子では話にならないが…… それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、春嶽公による政治的巻き返しに 期待した方がよい。
- 178 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/20(水) 00:16:26.02 ID:MENVtCDq0]
- >>176
>幕府強硬派の圧力もあったが、慶喜自身もそれなりに戦闘での勝利に色気が無かった訳ではない。 >討薩表を書いて、幕府軍の戦闘に掲げた事も慶喜は了承している。 了承してないしてないw その見解は、「幕府歩兵隊(中公新書)」の著者が書いた「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」で語られたものだ。 ところが、その著者は幕府歩兵隊ひいては主戦派贔屓で、自分に都合良い資料と見解を述べているだけなんだよ。 「慶喜公伝」やその著者が使っている史料を丹念に見ていくと、 慶喜が了承したのは”討薩表”を朝廷に提出する事”であって、戦争に関しては依然として”戦うな”なんだよねw。 幕府主戦派は、提出を許可された事を利用して軍を進發させた。 主戦派の考えでは、圧倒的な兵力を前に薩長側が恐れをなし戦わずして入京。 討薩表を朝廷に提出した上で、御所に兵を入れる。 ここまで来れば、薩長は戦わずして敗れ天皇を奪還できると考えていた。 慶喜が色気を見せたのはコレね。戦争にならずに天皇を取り戻せるんならそれに越した事は無い。 だから、慶喜は討薩表を出す事に許可を与えたが、戦争をする事は許可してないんだよ。
- 179 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/20(水) 00:22:58.11 ID:MENVtCDq0]
- ついでに言えば、だからこそ関所で進軍を止められ討薩表を提出出来なくなった幕府軍は、
大坂の慶喜に指示を仰いだ。圧倒的に兵力が少ない薩長から攻撃してくる訳がないと思っていたからこそ、 戦闘展開もせず行軍隊形のままで待機しちゃってたのさ。 そこを薩摩が砲撃して開戦になったんでボロ負けしたという経緯だからね。
- 180 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/20(水) 09:45:30.16 ID:DVVxuUCx0]
- >>176
すまんすまん、江戸表からの余計な連中ってのは、滝川とかの幕閣強硬派のことを指した積りだった。
- 181 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/20(水) 09:59:24.88 ID:vLW4seeq0]
- >「慶喜公伝」
「慶喜公伝」w それ明治政府への言い訳文章だからw それに進撃許可を与えて、戦闘許可は与えない。 なんてどんな言い訳よw 旗本銃兵と薩摩藩士が伏見で「通せ!通さない!」の押し問答している最中に、 伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw >園部藩にしても鳥羽伏見の前に表立って批難される動きはしてないし >あと篠山藩って、山陰道鎮撫軍が来る前に何かやってたっけ。 畿内の小藩は、直接的な軍事行動は出来ないですよ。 兵力も少ないし銃兵化もしてないし、精々公家と密談して 「朝廷側に付きます」って言っているぐらいなもの。 >彦根なんかはあくまで朝廷の勅に従って上洛してる訳で。後方支援は鳥羽伏見でしょ? 彦根藩・西大路藩・膳所藩は、大政奉還の頃からもう幕府から離れ始めています。 彦根藩家老の岡本黄石だけが慶喜に近く二条城や大阪城に居るだけです。 藩主も井伊一門もほとんどの家老も在国中で朝廷寄りになっていますよ。 後方支援の為に東寺に入ったのも鳥羽伏見の戦い以前からです。 >それ以上開戦を引き延ばすなら、軍事的な状況の好転よりも容堂公、 >春嶽公による政治的巻き返しに期待した方がよい。 土佐・越前・尾張の政治工作で時間を稼いでその間に関東の騒乱状態を鎮圧し ストーンウォール号や元込銃やクルップ砲を手に入れて置けば良いと思います。 引き伸ばせば、それだけ神戸港からの関税収入は手に入るし徳川サイドに有利です。 長州藩兵の更なる上洛があれば、その事を理由に幕府陸軍の西進を始めても良いわけです。 それに薩摩藩の関東でのテロ支援活動を土佐・越前・尾張の三候に頼んで朝廷で暴露してもらえば良い。 大久保一蔵は、参与を解任されるかもw で討幕反対派の薩摩藩家老関山糺が参与に任命されたら、薩摩藩の討幕姿勢は鈍りますね。
- 182 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/20(水) 18:52:54.98 ID:DVVxuUCx0]
- >>181
篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。 要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。 幕府陸軍の西進が良く分からんが、東下の際に連れてくってことかな。 薩摩の非を鳴らすのは、政治的には+になったかもしれない。 参与云々については、当時の薩摩藩の内部事情に詳しくないので何とも言えないが。 ただ、時間稼ぎっつっても、容堂公と春嶽公は本気で慶喜中心の諸侯会議を目指してる訳で、 京で結論が出た場合は旧幕府として何らかのリアクションを取る必要に迫られるってのはある。 とりあえず納地棚上げして召集しようやってとこまで話は進んでた訳で。
- 183 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/20(水) 21:58:33.30 ID:y3xv+wCh0]
- >>181
>慶喜公伝について もちろん明治維新後の自己弁護が入っている訳だが、それだけを見て言っている訳じゃないよw。 「鳥羽伏見の戦い(中公新書)」の参考文献を取り寄せて呼んでみなってw。 逆に聞くけど、「慶喜が先頭許可を与えたという明確な史料」も無いだろw。 >伏見奉行所では竹中重固が地図を広げて軍議を開いている。もう戦闘準備モードだよw そう。幕臣主戦派は戦いたくって仕方がない。ところが総大将の慶喜が先頭許可を出さない。 だから”主戦派と慶喜の妥協案として出てきたのが、大兵を京都へ送れば、薩長がビビって逃げ出すだろうから、戦争になる事もなく勝てますよ”という案なんだって。 主戦派と慶喜の玉虫色出兵策ね。慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。先頭許可は与えずにね。 そもそも、戦争許可を与えていたなら薩摩藩兵が守っている関所にのこのこ「通せ」なんて交渉する訳ないじゃん。 薩摩兵見つけた途端に攻撃開始でしょw。先頭命令が出ているなら。交渉なんてする必要ない。 攻撃して薩摩兵を蹴散らし、悠々と関所を突破して京都に行くでしょう普通w。 そうしなかったのは、戦うなと言う指示が出ていたからだよ。
- 184 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/20(水) 22:01:22.40 ID:y3xv+wCh0]
- 誤字修正
参考文献を取り寄せて呼んでみなって:× 参考文献を取り寄せて読んでみなって:○ 先頭:× 戦闘:○
- 185 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/21(木) 23:26:07.64 ID:+ql0wMem0]
- 慶喜の上京って軽武装上京じゃなかったかな?
それが、何故か途中で残らず行け!で15000人の大軍になっており、 これでは、慶喜は戦闘に入る事を半ば黙認している事と同じ。 と言うのが野口武彦氏の説明。 漏れもそう思う、慶喜は、あわよくばって思っている。 >慶喜もこれ以上主戦派を押し止める事が出来ず、 >結局兵を京都へ送る事に許可を与えたんだ。戦闘許可は与えずにね。 これは残念に思う。 薩摩藩のテロ活動で、武蔵と相模は、騒乱状態だし 江戸市内の治安も急に悪化しているので、そちら鎮圧を優先する! と言う事を慶喜は貫き通せなかったのは、誠に残念。 >要するに、幕府から離れてるってのを根拠に討伐するってのは、京の政局的に弱いんじゃないのってこと。 薩摩が、そう言って来たら、山内容堂あたりに 「じゃ〜11月からやっている関東での薩摩藩のテロ支援活動何とかしてよ、もう土一揆まで誘発してんだから!」 長州が文句言って来たら、松平春嶽あたりに 「お宅の軍隊が、山陰道を上がってくるけど、ナンなのよ?畿内で大戦争する気?」 と、それぞれ議定会議で言ってもらいましょう。 下手をすると、薩長の責任問題になり、議定や参与の解任に成りかねません。 慶喜の責任問題も、ウヤムヤに。 >篠山藩は山陰道鎮撫軍が来るまで藩内でゴタゴタしてなかったっけってだけです。 討幕派と佐幕派の内紛でゴタつく畿内小藩が多いです。 膳所藩も藩主が佐幕派だったので、藩内の討幕派と佐幕派の内紛は一応佐幕派が押さえ込んでいました。 それでも藩内で藩士同士の切り合いや、藩主による討幕派の大弾圧としての藩士の大量切腹がありました。 しかし大政奉還で藩主も討幕派弾圧を止めてしまい、同じ近江の彦根藩の動きに合わせて討幕派に合流と言う感じ。 郡山藩が討幕派に近づいた為に、同じ大和の柳生藩(歴代将軍の指南役)まで 討幕派になったのには、畿内諸藩で評判になりました。
- 186 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/22(金) 14:50:23.04 ID:GCTYYlnP0]
- >>185
ちょっと勘違いしている様に思うのだが、容堂公も春嶽公も無条件に旧幕府の味方って訳じゃないぞ? 王政復古を起こして旧幕府勢力を排除したのは薩芸尾越土だ。 ただ、来るべき諸侯会議において、その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で 慶喜と協力関係が結べた訳で、あの時点においては薩長と旧幕府、どちらかの勢力が圧倒的に 優勢になるのは困るんだよ。 徳川家の力を削ぎすぎれば史実みたくなるし、逆に薩長の力を削ぎすぎれば幕権派が益々勢いを得て、 諸侯会議なんて構想は根元から吹っ飛ぶから。 だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、徳川家に対する辞官納地問題は全力で排除した。 あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは 慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。 さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。
- 187 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/22(金) 22:47:38.82 ID:YzDk7lok0]
- >さすがに史実のような大軍での率兵上洛は、諸侯会議派も望んでないから。
じゃ慶喜が江戸に東帰して薩摩のテロ支援活動による関東の一揆や強盗を鎮圧するのは問題ないな。 >その中心となるべきは徳川家と慶喜しかあり得ないという点で ニ条摂政の後任に慶喜、と言う話しや、諸侯会議で新政府首班や元首(大君)に就任するのは、尾越土それぞれ認めている。 他にも新政府の議定にはもちろん、総裁(関白)の次の位としての新設の2のポスト副総裁(副関白)に慶喜が任官する という話しも尾越土が根回ししている。小御所会議では、尾越土が、慶喜に単なる議定ではなく副総裁(副関白)に任官 する様に(しかも天領400万石と陸海軍そのまま保持して)工作している現実。 これでは幕府はなくなっても、徳川宗家の政権が継続する事には変わりが無い。 しかも関東では、最後の幕政改革“慶応の改革”が続行中と言う時期にである。 >だから長州藩の兵が早速上ってきてもそんな気にしないし、 そうかな? 尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが 御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。 肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。 肥後藩・筑前藩・阿波藩の後ろに慶喜が居て、言わせているのか、までは知らんがw
- 188 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/22(金) 23:01:26.76 ID:YzDk7lok0]
- >あの時点で薩摩の起こした騒擾を利用するとしても、西郷を遠ざけるか辞官納地問題もしくは
>慶喜上洛の条件について多少有利な条件を引き出すぐらいだと思われる。 既に史実でも、小御所会議が進むにつれて、徳川宗家直轄領の返上問題は、ウヤムヤになっている。 西郷の責任問題が出て(御所の警備責任者を)解任されたり、慶喜の上洛条件が緩和されれば、願ったりかなったりだw 薩長ら武力討幕派と付和雷同組の広島藩や岡山藩の間を裂く事にもなるし。
- 189 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/24(日) 00:28:04.09 ID:/ZbVxqDS0]
- >尾越土は、直接言わなくても、王政復古のクーデターの3日後には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが
>御所からの軍隊引揚を要求し、薩長の上洛援軍について問題視し始めている。 >肥後藩・筑前藩・阿波藩は、新政府に参加していないが、それなりの大藩なので岩倉ら公家議定も無視できない状態。 これを見ると、慶喜が12月12日に二条城から軍隊(幕府軍5千人会津勢3千人桑名勢1500人)を率いて 大阪城に撤退する訳だが、幕府軍全てを大阪城に撤退させる必要は無かったかもしれない。 二条城に幕府軍2千人程度残した方が良かったかも知れない、大阪城には別に兵力が有るんだし。 肥後藩・筑前藩・阿波藩が御所から撤退を要求した同じ日に慶喜は大阪に撤退してしまうので、 この三藩の抗議で折角引き起こしかけた公家議定の動揺を生かしきれなかった。 12日に京から撤退してしまった為に、薩長は単に王政復古のクーデターで京都御所を占拠しただけでなく 京の市政まで掌握してしまう結果となる。14日に慶喜率いる幕府軍や佐幕派諸藩が京から居なくなった 事に気を強くした薩長は、三職会議で強引に京都町奉行の廃止を決定してしまう。 京を軍事的に支配してきた京都守護職と司所代は、王政復古と同時に廃止されたが、 実は守護職と司所代職の解任は慶喜が自主的に行ったものだ、なぜなら洛中での衝突を 避けたいと言う慶喜の意向があったからだ。 しかし、京都町奉行は一般の自治体行政事務も掌握している為に王政復古と言えでも 廃止できなかった。 しかし、慶喜が京から軍隊ごと撤退した為に薩長は京都御所の占拠だけではなく、京の市政まで掌握するべく 処置を取る。朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、 また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり伏見奉行所まで撤退している。 また、朝廷も洛中の混乱や治安の悪化を懸念しており、京都町奉行に代わり独自に新政府は 従来の京都町奉行所にかわって「京都市中取締役」を設置、膳所・篠山・亀山の3藩をこの職にあてた。このうち篠山・亀山両藩は佐幕派であり、その為に実際には独り膳所藩のみが洛中での治安活動に当る事になるが、 膳所藩は小藩で藩士の数も少なく、余り実効ある警察行為は出来なかったようだ。 この様に慶喜が、軍隊全部をつれて大阪城に撤退してしまった為に京都御所に 立て籠もっていた薩長は洛中全体を掌握してしまう状態になる。 二条城に少し手も兵力を残しておけば、この様な事態にならなかっただろう。
- 190 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/24(日) 06:10:34.51 ID:S6eVg3pW0]
- 後藤が慶喜に通報していることから考えて、
土佐藩首脳はクーデタに対してのリアクションを暗に要求してた可能性あるなあ
- 191 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/24(日) 22:45:35.84 ID:dPnDmVNn0]
- 司所代→× 所司代→○
>>190 当然あるだろう。 幕臣の永井尚志も薩長の援軍上洛阻止を慶喜に進言しているし、 強硬派の会津藩士佐川官兵衛や林権助は、薩摩藩先制攻撃論を慶喜に吹き込んでいる。 大垣藩もかなり詳細な対薩摩藩クーデターの上申書を老中に提出している。 だが慶喜は、調停工作に自信が有るのか、全然武力行使には乗って来ない。 畿内や京で武力行使をしないのなら、江戸に帰って一揆や薩摩支援の強盗を鎮圧するなり 慶応の改革を慶喜自身で陣頭指揮を執って進めるなり、色々やれば良いのに、と思う。 畿内に将軍が居ると朝廷の権威が大きくて慶喜の存在が小さく見える。 関東に帰れば、徳川宗家の本営であり朝廷とは別の権威となる。 慶応の改革がそれを更に軍事的経済的に補強する。
- 192 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/24(日) 23:50:34.26 ID:dPnDmVNn0]
- >朝廷による京都町奉行の廃止命令だ。これにより京都町奉行は、洛中の警邏も出来なくなり、
>また京都町奉行職員も洛中にいる法的根拠も無くなり、伏見奉行所まで撤退している。 京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり、 江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制だった。 東西それぞれの奉行所には同心20名、与力50名が配置され、京全体で町代17名が、 京都奉行所の行政事務に携わっていた。さらに町代の下には1〜2人の下町代が 配置されているし、江戸時代後期には同心・与力の人員が水増しされているので 平時でも東西それぞれの奉行所には100人以上の職員が所属していた事になる。 それが急遽、朝廷による京都奉行所廃止命令の為に活動を停止した。 身分が町人であった、町代と下町代が朝廷が新設した「京都市中取締役」の下部組織として 取り込まれたが、れっきとした徳川家の御家人である京都奉行所の同心・与力は、京都奉行所 廃止命令で急遽洛中から脱出し慌てて伏見奉行所に入った。 京都守護職の指揮下にあった京都見廻組と新撰組は、京都奉行所とは強い横の連絡があり、 事実上見廻組と新撰組、京都奉行所の三組織が連絡を取りつつ幕末の洛中の治安を維持していた。 その為に朝廷による京都奉行所廃止命令で、見廻組と新撰組も一緒に洛中から脱出し、 同じく伏見奉行所に集結した。 そして洛中から脱出した見廻組と新撰組、それに京都奉行所の同心・与力の三者は、 伏見奉行所の同心・与力も合流し“遊撃隊”を結成、隊長には京都奉行が任命され 伏見奉行所を根拠地に薩長軍の偵察を行っていた。事実上幕府軍の先方部隊との 位置づけである。 しかし洋風軍服を着込んだ幕府陸軍兵士とは異なり、見廻組みも新撰組も腕に自信のある 剣客集団だから遊撃隊は銃兵化は全くしておらず袴・羽織の和装に腰には刀を差している 日本古来の侍の姿のままである。
- 193 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/24(日) 23:53:45.54 ID:dPnDmVNn0]
- 京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけの出先行政機関であり←×
京都町奉行は、江戸や大阪の奉行所に位置づけに次ぐ出先行政機関であり←○
- 194 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/25(月) 14:00:20.73 ID:pySTpeT40]
- >>187
>肥後藩・筑前藩・阿波藩 それは御所の兵についてで、上洛軍は問題にされていたかな。 どちらにせよその動きも、辞官納地問題の駆け引きに利用されて、薩摩の政治的譲歩と共に終了でしょ? 軍についてはそのまま。俺の言ったこととは矛盾してないように思えるが。 そのレスで君も追認してるように、公議政体派にとっては第一に徳川家が日本の柱石として健在でなければ困る訳で。 >>188 まー、容堂公と春嶽公がどの程度やるつもりだったのかは分からんけどね。
- 195 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/25(月) 14:09:15.10 ID:vabcaEUN0]
- >>190
容堂公は端っから、小御所に慶喜公を呼べっつってるしね。 公議政体派っつっても、軍事衝突が避けられない所まで来たら旧幕府を支持する方に舵を切ったと思う。 鳥羽伏見の時もそんな動きをしてるようだし。 >>191 京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。 勅許が下りたら即上洛できるしな。 むしろ、旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。 相手も正規軍でなく、一揆や薩摩の集めた浪人なんだし。 最近、有能有能と評判の小栗とかも江戸に居るんだし。
- 196 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/25(月) 22:41:22.78 ID:kYtdH/Gy0]
- >>195
それで薩摩藩邸を焼き討ちしました。
- 197 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/27(水) 04:44:26.91 ID:EfjheTvJ0]
- >京から至近に慶喜が鎮座して、周囲に睨みを利かしてるってのは政治的に大きいぞ。
それは大政奉還や王政復古の以前の話し。 早くて大政奉還、遅くても王政復古時に慶喜は江戸に帰るべき。 >勅許が下りたら即上洛できるしな。 王政復古後に慶喜が呼び出されてノコノコ軽装備で朝廷に顔出したら、 薩長に身柄拘束されかねない。 >旧幕閣の殆どが江戸で雁首揃えてたんだから、そっちはそっちで何とか出来なかったんだろうか。 江戸の治安の悪化の原因を検討した結果、江戸の薩摩藩が問題だ。 と言う事になったのだろう。 慶応の改革は、慶喜が京に居ながら、江戸の老中や奉行たちと連絡を取り合い進めている。 しかし慶喜が江戸で陣頭指揮を執れば、もっと早く出来るし、もっと効果を期待できる。 小栗なんか旗本領を加増して大名にしてしまい、老中に任命すれば良かったのにw 武蔵や相模の一揆は、慶喜が陣頭指揮をとり鎮圧する事で、 関東が徳川宗家の本拠地である事を朝廷にアピールする事が出来る。 また関東駐留の徳川陸軍は一揆鎮圧で戦闘経験が積める。
- 198 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/29(金) 04:44:51.67 ID:ipDbsouiO]
- 豚骨ラーメンおいしかですよ。紅ショウガがうまか!!
おいは具は焼き豚と海苔とキクラゲが好きよ。 薬味はネギと紅ショウガね。 マジうまかさ。スープのたまらんもん。あんにおいがよかね! ああ〜また食いたくなってきた〜。 明日も食うけん!!
- 199 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/04/30(土) 23:45:36.54 ID:AoBVyD8f0]
- 変革を願って政治運動に参加したのは食い詰め浪人か貧乏旗本の次男三男坊だからな。
まさか世の中ひっくり返ると思わないから与党もまじめに対応しないだろ。 つ ま り 旧 幕 府 軍 は 勝 て な い
- 200 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/02(月) 02:36:27.63 ID:OutBiSDD0]
- >>199
そういう連中を集めたのが、京都の見廻組や新撰組なんだがw また、最後の幕政改革の「慶応の改革」で旗本の部隊指揮権と領地収入の半分が幕府に奪われた。 幕府陸軍は、必ずしも旧来の身分制度に捕らわれない人材が登用され始めている。 従来の旗本八万騎から西洋式の銃兵に変わろうとしている時期に、旧来の身分のどうのこうのは無関係。
- 201 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/02(月) 17:33:14.04 ID:/i1CUq730]
- 素直に考えりゃよかったと思うんだよな。
関東が騒乱状態だから江戸に帰って幕府改革を進めるでもよし。 京でのクーデタ対処を優先して薩摩に対抗するでもよし。 関東を固めれば、一時は政局を放棄しても幕府はクリンチに持ち込めただろうし、 京で対抗すればどこかで折り合いがついた。鳥羽伏見の初日が全てだった。
- 202 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/02(月) 21:32:19.02 ID:MbmC5FMW0]
- 関東に帰っても幕府なんて機関はもう存在しない
あるのは関東徳川領
- 203 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/03(火) 09:54:50.96 ID:8YYRHH2l0]
- >>200
よく反乱起こさなかったなと思うんだが、旗本。 旗本改革訴えた原市之進は殺されたのに。
- 204 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/03(火) 22:25:53.27 ID:Lfrck5b50]
- 徳川にはまだ!手付かずの旗本八万期がいる!
- 205 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/07(土) 20:52:20.98 ID:flFqra6r0]
- いや実際には旗本八万旗もいないし。五千旗ぐらいだし。
- 206 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/10(火) 20:54:30.87 ID:gZ1L/7lO0]
- 幕府歩兵が貴重な実戦経験を積めるし、関東・奥羽諸藩の動向は固まる
皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている それと、薩摩藩邸焼き討ちで幕閣と慶喜の意思疎通が齟齬することは少なくともない
- 207 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/13(金) 11:32:26.43 ID:aSMR7L8I0]
- >皮肉にも鳥羽伏見の後から幕府歩兵は実戦に慣れ始めている
だから慶喜は、大阪城に立て籠もって戦争を続けるべきだったんだよ。 カダフィを見習えってんだ。
- 208 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/13(金) 11:55:25.40 ID:gLDsW6lV0]
- カダフィは援軍を呼ぶ当てがあったが、ケーキちゃんの場合、主力として関東から上ってくるのは
幕府歩兵隊の居残り組みとその他有象無象だぜ?
- 209 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sgae [2011/05/13(金) 17:33:37.32 ID:QI/9rWe3O]
- 大佐の敵は民兵と脱走兵ぐらいだけど
慶喜の場合は主力が有利な状態で 少ない敵に粉砕されたからねえ
- 210 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/13(金) 18:43:30.28 ID:d0zVdwPE0]
- というか慶喜って旧幕府軍の勝利を強く望んでたの?
幕府軍が薩長に勝利するってことは幕藩体制が続くってことでしょ。 抜き打ちで辞官納地を要求されたのは腹が立つけど、江戸の幕府首脳に対する不信感も強そう。
- 211 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/13(金) 20:51:07.41 ID:n5YGRpEa0]
- 鳥羽伏見の戦いや大阪城の戦いで慶喜が勝ったら、
ニ条摂政の後任として慶喜が、徳川宗家の領土や軍隊を持ったまま摂政になるだけ、 慶喜バージョンの明治維新が進むだけ、つまり慶応の改革が、より大規模に遂行される。 幕藩体制維持は、慶喜の望む所ではない。 あと関東には徳川陸軍24,000人が居たんですけど、史実では使いませんでした。 もしガッツがある慶喜が大阪城で篭城していたら、関東の徳川陸軍24,000が小栗指揮の下で西進するでしょう。 他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。
- 212 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/13(金) 21:05:39.93 ID:hsrf8kxG0]
- >>211
>他にも奥羽越列藩同盟や関東甲信列藩同盟の部隊も徳川陸軍に続いて西進すると思います。 それは妄想。徳川慶喜が絶対権を確立するには、他の同盟の成立は許さない。 ゆえに公儀政権も名ばかりの徳川慶喜に隷属した組織になるし、 そこでの軍事活動も、幕府ないし徳川慶喜の次の政権の枠に隷属した、下働きとしての活動になる。
- 213 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/13(金) 21:10:32.89 ID:7YXIt4Of0]
- 大坂籠城は、何度も指摘されてるけど、津藩、淀藩が寝返り、
紀州藩の動向にも疑念が飛び交ってるような状況では無理だったと思うよ。 幕府艦隊が摂海を遮断して薩長軍の上京を阻止し、 なおかつ幕府歩兵や諸藩が速やかに大坂へ進発すれば別だけれども、 大坂に籠居していると知って駆け付けてくる藩はそれほど多くないでしょ やはり京での決起か、もしくは江戸帰還。
- 214 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/14(土) 08:02:21.92 ID:5tLldOpC0]
- 籠城ってのは「籠もっているだけ」だから、負けはしないが勝ちもしない。
- 215 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/16(月) 15:27:55.78 ID:mqmd3urF0]
- 籠っているだけ、って事はない。
西郷は。鳥羽伏見の戦いの後半には、長州藩や広島藩や土佐藩と大阪城攻略の打ち合わせ をしている。土佐藩は、その時に裏切って、幕府軍と合流するつもりだった。
- 216 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/16(月) 22:09:56.23 ID:sCNnJMmh0]
- 土佐藩って幕府軍に合流するつもりだったんか?
んー谷干城や板垣退助とは違う反主流派でも存在していたの? 熊本藩みたいに。
- 217 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/17(火) 13:54:23.08 ID:6/dl/gR/0]
- 土佐藩が幕府に味方する積りだったのは鳥羽伏見の時だろ
幕府軍が京に乱入出来てれば実現した その後はわざわざ遠ざけてた主戦派の板垣やらが軍を率いて復帰してるから難しい
- 218 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/17(火) 19:38:41.73 ID:D3SbpXLn0]
- >>211
長州征伐でその五倍率いても大敗じゃないかw
- 219 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/18(水) 09:49:32.91 ID:zxjFmrvI0]
- 薩長は、鳥羽伏見の戦いに勝ったとはいえ、それなりに被害も受けており
また、5千人と言う寡兵でもあるので、西郷は、それぞれ洛中に千数百人程度 の軍勢を集結させている土佐藩や広島藩に大阪城攻略の応援を頼んでいる。 土佐藩の裏切り計画は、始めは官軍による大阪城包囲に加わってから、 城内の幕府軍と連絡を取り合流する腹積もり。 既に鳥羽伏見の戦いの最中にも連絡を取り合っているが。 山内容堂と後藤は、大阪城の戦いは、長期化が予想され、特に 官軍サイドの補給が続かない事を見越しており、西郷も幕府軍が 大阪城に籠もられたら大変だ、と言う認識を持っている。 慶喜が大阪城から逃げ出した事で、全てがオールアウト!
- 220 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/18(水) 10:16:31.45 ID:kUTNGoDw0]
- 一分銀コレクターなんだが、幕末はエラーや偽鋳が結構多いんだよね
お前らが思っている以上の混乱だった気がする、何事も理屈通りにはいかないよ
- 221 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/18(水) 11:46:21.98 ID:svfLhjBY0]
- >218
第2次長州征伐時に稼動した幕府歩兵大隊は4個にすぎない、幕府側諸藩兵も殆ど洋式化されていない。 鳥羽伏見参戦の幕府歩兵大隊は伝習大隊含め11個、幕府側諸藩の洋式化もいくらかは進んでいる。 また武器弾薬の輸送は海路を取らざるを得ず、また輸入も当然海からで制海権は確実に幕府が抑えているので補給が困難。 さらに薩長の戦費にしても大阪商人が拠出しているので、大阪押さえていれば戦費拠出もままなならない。 平時では商人自治にに任せていたが、戦争となれば薩長に金出す商人の首切ることも可能。
- 222 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/18(水) 22:31:34.65 ID:fHcBUXsE0]
- 鳥羽伏見の戦いの後の大阪城の戦いで幕府側の強みは、天王寺に幕府軍の
物資が集積してあるので、それを大阪城に入れるのにはそれほど時間が かからない事と大阪城の砲兵隊は、まったく無傷で残っている事。 また、>>221の言うとおり幕府海軍が大阪湾の制海権を握っている事。 この3つがある。 大阪城の砲兵隊は、鳥羽伏見には出陣していない。 また弱兵の指摘が有るが、大阪城には、3000人の予備兵力(旗本出身)が居る。 これらの兵力は、鳥羽伏見の戦いには全く参加していない。 これらを新規に戦闘に投入できる大阪城の幕府方は、軍事的にはかなり有利な立場。
- 223 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/19(木) 07:18:31.54 ID:7ZmDtseWO]
- 紀州藩、美濃大垣藩、庄内藩などは長州より先に軍備の洋式化、近代化をしてる
- 224 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/19(木) 20:21:03.57 ID:zWFW4uNP0]
- >>221
長州はそれ以上に進んでいる。 長州藩は戊辰戦争末期には二万ほどミニエー銃輸入しており、 諸隊の数も200を越えている。隊ひとつで100人ほどだから、 二万という大軍だ。洋式化されて訓練された軍がな。 また幕府が制海権を抑えていたというのも間違いである、 抑えているなら、薩長の軍がそもそも自由に上陸できるわけがない、 長州征伐でもオンボロの長州海軍に制海権を握られており、 幕府海軍はなにも出来なかった、大島からは追い出され、馬関海峡を自由に航行していたのは長州である。 ましてや薩摩の海軍までいるのに、幕府がかなうはずもなし。 また長州藩は100万両ほど貯金を隠しもっており、当座の資金に困る事はない。 また大阪をどうやって幕府が抑えるというのか。 商人の首などきれば、幕府からさらに人が逃げるだけである。
- 225 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/19(木) 21:32:29.18 ID:t2BGXqdo0]
- >224
大きな間違いをしている。 ミニエー銃2万丁というのは戊辰戦争終了時点であり、江戸をおあさえて以降に江戸、横浜の商人からも徴収して戦費にしている。 また動員兵力=派遣可能兵力ではない、戊辰戦争ピークでも長州が派遣した戦力は7千程度。 話を戻すが鳥羽伏見時点での在京戦力は千名余にすぎない。 鳥羽伏見時点の話をしているのに時系列がむちゃくちゃ。 海軍にしても第2次長州征伐時の幕府軍艦は富士山、朝暘の2艦のみ 鳥羽伏見時点で大阪沖にいた幕府軍艦は2800tの日本唯一のフリゲイト開陽はじめ富士山、回天、蟠竜の4隻がいて兵庫港にいた薩艦2隻は開戦と同時に尻尾をまいて逃げた。
- 226 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/19(木) 22:16:07.38 ID:gXQmTIly0]
- 6日に尻尾を巻いて逃げたのは開陽ら榎本艦隊でしたが。
- 227 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/19(木) 22:48:38.99 ID:4xAmdsNv0]
- 両サイドの兵の数だけ見るなら、
「戊辰戦争、薩長軍勝利の可能性について」の方がしっくり来るのだが、 その可能性が現実となってしまい、後の歴史が作られているのだから仕方ない。 まさかの慶喜トンズラ!は誰もが予測できない可能性だと思う。
- 228 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/20(金) 07:40:02.93 ID:WIVEuOru0]
- 兵の数だけ見なくても、緒戦で薩長軍が負けてたら薩摩藩指導者は失脚でしょ
いくら玉を抱えてても 本当に西郷大久保以下が見通しがあって決戦に踏み切ったのか疑問なんだよな
- 229 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/20(金) 11:44:24.50 ID:eFnCd0pF0]
- 大きなターニングポイントは鳥羽伏見の初日。
市街地の伏見はともかく鳥羽方面は兵の質量からしても幕府側が戦闘態勢で望めば負けるべくも無い。 朝廷内でも倒幕主戦論の薩長は浮いている存在でほとんどの大名、公家は日和見であって第一日目で幕府が敗退しなければ、幕府側に多くはなびく。
- 230 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/20(金) 13:19:38.32 ID:y98VZVP1O]
- 大阪城にどっしり構えられたら薩長は手がでない
その上で京方面を包囲するような布陣で圧力をかければ薩長主導の勢力は自然と崩壊しそうだ
- 231 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/20(金) 13:24:50.36 ID:y98VZVP1O]
- 錦旗というが勝って玉を挽回すれば長州がそうだったように朝敵の汚名は返上できる
慶喜は自分こそ尊皇という自負があったはず すると何考えて逃亡したのかよくわからない
- 232 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/20(金) 20:33:30.88 ID:YeEk6rfV0]
- なんで幕府が負けたかはっきりとは言えないけど、薩摩藩は相当自信があったんだろうね。
少なくとも幕府勢力をなめていた節はあると思うよ。 安政の大獄初期に島津斉彬が政局物申すために精鋭部隊を率いて上京しようとしたり(これは未遂だが)、 文久年間に島津久光が兄のやり方を継ぎ、藩兵を率いて江戸に威嚇上京を行って幕政改革を成功させたり・・・ 鎖国が解かれたとはいえ、幕府しか貿易の権利がないところを、江戸のお膝元の横浜で堂々と諸外国と貿易をしたり・・・ (幕府は薩摩の威勢に遠慮して、知らないふりを決め込む) 王政復古のクーデターも薩摩藩のそれまでの武力を背景としたやり方と同じなだけに、 まあ「今回も上手くいくだろう」思っていたような気がするんだけど、要求が限度を超えてたため鳥羽伏見の戦いになっちゃった。。 >>231 俺もわからん。慶喜が逃亡した理由は別にあったんじゃないかと思うのだが・・・ 緒戦で負けて錦旗が出たから逃亡した・・・では、あまりに慶喜の行動が自由すぎるw 仮にも2ヶ月前まで将軍。そんな個人的理由でいいのか!?って普通は思う。
- 233 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/20(金) 20:52:35.03 ID:YeEk6rfV0]
- やっぱり慶喜はそれまで将軍として薩摩藩の重役らと接してきて、
どう考えても幕府側に対抗できる人材がいない・・・というのを身に染みて感じていたからだと思うのだが。。。 で、大阪籠城をあきらめたとしか思えない。 というと、佐幕派が猛追撃してきそうだなw司馬に毒されすぎか?
- 234 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/21(土) 07:54:17.28 ID:4q4+71QY0]
- 人材が足りないのは事実だが現場指揮官の優劣なんて分からないしな
薩摩藩の在京指導者に関しては、おそらく藩論と離れて暴走したあげく巻き返しにあって、 最後に踏み切った冒険だった。鳥羽伏見の緒戦で負けたら切り捨てられて失脚
- 235 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/22(日) 18:59:21.56 ID:dk02o+QYP]
- >>233
peachy.xii.jp/korea/korea2.html 100回音読して出直して来い。
- 236 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/23(月) 09:04:36.58 ID:vG+JBwdY0]
- >>231-232
負けるはずの無い鳥羽伏見で負けたからじゃないの? 幕府歩兵隊8800の内、江戸に居残り組みが1800ぐらい、 奥詰銃隊他、3分の1は使い物にならないと言われてた旗本隊が大坂城詰め。 つまり幕府歩兵隊で最良の部隊が最大限動員されてる。 これで負けちゃ駄目だろ…… しかも篭城は難しいしな。 関東からの援軍が新政府軍を突破できなければ、城内に不安が発生する。 古来、城が落ちた原因で一番多いのは内応裏切りだから。 大軍とはいえ、士気が落ちてるごたまぜ部隊で篭城するぐらいなら、少数精鋭で篭城した方がいい。
- 237 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/23(月) 17:40:47.60 ID:m6Khtl3q0]
- 慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない。
その場の場当たり対応に終始している、頭が良いから議論や場当たり処理はこなしてしまう。 将軍というよりも後見職が似合っている。
- 238 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/23(月) 21:47:06.65 ID:DOGt95wU0]
- >>237
>慶喜についは根本理念が将軍就任以前から見えない お前さぁ、水戸学の知識無いだろw知識がなきゃ見えるはずもない罠w
- 239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/24(火) 11:21:17.60 ID:GlAm4yL50]
- >238
慶喜が水戸学に徹してると言えるのか? 慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。
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