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戊辰戦争・旧幕府軍勝利の可能性について



1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2010/09/28(火) 23:59:20 ID:gC95IlEA0]
これは意外とありえると思う

239 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/24(火) 11:21:17.60 ID:GlAm4yL50]
>238
慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

240 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/24(火) 11:54:49.51 ID:89AmCZCc0]
徹するとか意味分からん

241 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/24(火) 12:47:51.82 ID:D/PYZdWc0]
    ヽ`-'´/ `゙´ヽ , -−¬ ノ` / , j-、:i      , -'´`ッ
    彡、、 l j 三ニ≧r‐ュ、ヽノヽく´ ´ ヽ ヽ ,-‐一゙, / ´
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このままでは日本がダークサイドに落ちるのじゃ
シナの逆襲-Revenge of the China-中国 国防動員法 編
www.youtube.com/watch?v=pzap6aRXZzg

242 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/26(木) 00:13:52.54 ID:nSty2Jfa0]
幕府側の人材も馬鹿にならない、小栗や栗本などはたいした者。

ただ第二次長州征伐の失敗で幕府の弱体化が露見し南西諸藩が幕府から離れ始めた、と見ることも出来る。

その時期に幕府が崩壊しなかったのは、以前から孝明天皇の支持がある慶喜が、色々工作をして
朝廷の支持を幕府に繋ぎ止めていたから。慶喜の政治力はたいしたモノで薩摩は
慶喜相手では高等な政治工作では勝てないと見て、武力討幕に切り替えた。

それと、桂小五郎が言うように、慶喜により開始された最後の幕政改革である
“慶応の改革”が、予想よりも大規模な改革でこの改革が実行されると幕府(徳川宗家)が
更に強大化し、薩長は敵わなくなる、と言う判断もあり、なるべく早い段階での幕府への
武力行使を検討する事になる。

戊辰戦争の背景の一つには、幕府の“慶応の改革”の進展を阻止する目的があった。

243 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/26(木) 00:25:47.76 ID:gatiFOy30]
さあ、どうかねえ栗本や小栗が有能だったとは思えんな。

実際に外国奉行の栗本より部下の福澤諭吉の方が優れた見識を持っていたことが維新後にはっきりした。
つまり、幕府は人材登用方法を知らなかったのだよ。

内ゲバや足の引っ張り合いで勝手に自爆していくだけだった。
自業自得ですな。。

244 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/26(木) 16:49:42.21 ID:1oKUKBRI0]
>>242
玉石混交でも人材豊富なのは結構だが、軍の指揮を執れるだけの軍事的才能を持ったのが居なくね?
鳥羽伏見の陸軍奉行、陸軍奉行並、歩兵奉行は血筋も経歴も立派な人ばかりだが……なぁ。
大鳥は良かったと思うが、江戸開城の頃でも歩兵頭だから大隊長クラスなのが痛い。
海軍は榎本でいいと思うけど。

大鳥がわざわざ白河城支援の為に日光から貴重な歩兵隊の兵力を割いたのに、
その別働隊が絶好の位置に進出していながら大した働きもせずに撤退してるのを見ると
指揮官って大事だなと痛感する。

あと、幕府はその人材を浪費しすぎ。
川路聖謨とか岩瀬忠震とか勿体無さ過ぎる。

245 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/26(木) 18:54:41.63 ID:UGm/Mjmf0]
本来は歩兵隊と一緒に訓練した連中を指揮官にすべきだったよね。
食い詰め集団の歩兵隊も使える人員はいたんだから士分に取り立てて下級士官にするとか。
薩長の軍権は実質的に下級武士が握ってたのと、幕府軍が旗本指揮だったのが対照的。

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/26(木) 22:46:34.88 ID:gatiFOy30]
んー、大鳥圭介は旗本格になるのがあまりにも遅すぎた。
福澤諭吉が幕臣に取り立てられ、旗本格になったのが1864年。大鳥は更に1年遅れて幕臣になる。

とにかく幕府陸軍は人材に乏しい。沼間守一では何も出来なかっただろう。
海軍は木村芥舟、矢田堀鴻、肥田浜五郎、小野友五郎と中々いい人材が揃っているが皆協調性が無い。

247 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/26(木) 23:55:13.34 ID:PpevNtflO]
大村益次郎がいるかぎり幕軍に勝利はないのだろうか



248 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/27(金) 01:52:21.90 ID:VEmeQatj0]
大村益次郎は、「小栗の反撃計画をやられていたらコッチの首が無かった」と言っている、けど。

249 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/27(金) 02:08:49.25 ID:fGhI5ByY0]
榎本艦隊で東海道沿いを襲撃すればいい、と幕臣が胸を張ったものの、
新政府軍が中仙道を主力にしていると聞いて絶句し、以後は押し黙った、という話の方が有名

250 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/27(金) 02:19:57.42 ID:VEmeQatj0]
そんなの初耳。

それに官軍主力部隊が中仙道だと、なんでダメなのよ?
持久戦になれば、官軍だって信州のド田舎の山の中では補給がママなら無いじゃん、
2月中ぐらいは、甲府城は、幕府側なんだし。

251 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/05/27(金) 05:00:06.76 ID:ASXbW9f/0]
軍事的な側面に限っていうのなら、鳥羽伏見での敗戦以後も幕府側が徹底抗戦を行って
攻め上ってくる薩長軍を相手に戦うという選択肢はそれなりにあったような気がする。

優勢な艦隊勢を使用するのも有力な手だった。
また、指揮官の無能のせいで活躍は出来なかったし、素行の悪さ等から幕府上層部からは
鼻つまみ者扱いされていたけれども、薩長に対抗しうるポテンシャルを有していることは示した
幕府歩兵部隊を前面に押し出して存分に働かせるという手も有った。

ただ、その結果として内乱状態が長引いて、旧幕府・薩長勢の双方が人命と軍費を消耗して
弱体化することを良しとしなかった人間が双方の上層部に何人かいて、その人間達の意志が
全面的な衝突を回避することに繋がった、という理解で良いんだと思う。

スレタイに即して言えば、こんな感じかと。
「勝利の可能性はあったが、とてつもなく高い代償を払うことになり得る可能性もまた高かった。
負けてしまう可能性も勘案に入れれば、あまりにもリスクの高い賭なので踏み切るだけの自信がなかった」


252 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/27(金) 08:53:30.33 ID:g64L/5TX0]
>>248
それも伝聞だけどね。
関東の守りって意味では箱根の天険による計画はいいと思うが、
上方からの物流が途絶える=一揆祭りになってる関東単独で持久する
ってことだから、政略も考えると案外厳しいんではと思う。
あと軍指揮官の資質の問題もあり、慶喜はその辺も考えて降伏に踏み切ったのでは。

それと、北陸道のこと、たまには思い出してあげてください……
加賀百万石が泣いてます

253 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/27(金) 16:36:18.77 ID:Hh8c0tZp0]
慶喜が、大阪城から逃げ出さずに頑張れば良いだけの事。

そうなれば官軍は大阪城対策に手一杯になり
江戸からの援軍の対策は打てません。

254 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/27(金) 19:59:22.45 ID:g64L/5TX0]
江戸からの援軍も来るだろうが、薩長の国元からも援軍が来るわけで……
あと上にも書いたが、篭城って篭もる軍兵の連帯が大事なのよね。
淀は裏切る藤堂も裏切るでは、慶喜がその点に疑問を抱くのも当然。

255 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/05/28(土) 08:36:15.64 ID:Vgd6/rjQ0]
大阪城に籠城するぞって判断を下すにも、「トロイの木馬」みたいなことをやられちゃかなわん
という事もあるしなぁ。

逃げた総大将を非難するのも無理からぬ事だけど、身内から裏切りを出してしまうような
現場統率力の無さや状況判断の甘さを、兵を率いていた指揮官クラスが認識してくれないとね。

256 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/28(土) 09:29:05.93 ID:anR/r+7P0]
鳥羽伏見の敗戦後の東帰抗戦は厳しいが、
鳥羽伏見前の東帰なら効果的だったと思う
と言うより、京でクーデタを潰す・大坂退去・東帰のいずれの選択肢でもよかった

257 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/28(土) 12:38:06.57 ID:UXjbmuDL0]
>>239
>慶喜が水戸学に徹してると言えるのか?

人に聞いている時点で駄目だ。君は水戸学が何なのか知らなすぎる。

>慶喜が徹するべきは将軍職なのだが。

ホントに知識が無い人だね。将軍職がどのようなものなのか、その意味役目使命を規定したのが水戸学。
もちろん、”江戸時代の将軍とは”という意味であって、戦国時代以前の将軍の役目とは違うよ。




258 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/28(土) 13:17:19.04 ID:hNVw8jAT0]
やはり、箱根の関に幕軍が待ち伏せして官軍を押し返す中で
幕軍の軍艦が駿河湾から官軍部隊に砲撃を加えていたら…
東海道の官軍は壊滅的打撃を受けていたんでは??

まぁ…でも箱根の関である事も無いわな。
由比で幕軍が待ち伏せして官軍を足止めさせた上で
駿河湾から軍艦が官軍へ砲撃する方が確実だろうな。
間違い無く官軍部隊は壊滅したと思う。

東照神君再来慶喜公が錦旗に弓引き、一天万乗の天子様に刃向かう
朝敵・国賊に成る覚悟が有ればの御話だけどな。

259 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/28(土) 14:54:20.60 ID:W2wppKs00]
>>258
>駿河湾

天候が良ければできるが…
悪天候と海流次第だな。静岡沖は遠州灘と伊豆半島の先端の海流が酷い。
黒潮の激流がときどき変な流れを生み出す場所でね。
江戸時代を通じて、海運といえば日本海の北前船だったのは、太平洋側の航路が危険だったからだ。
房総沖で難破事故を起こしている榎本艦隊の運用を見ると、果たして必ず迎撃できたかどうか?。
ちなみに航海術に天候予測の知識はあるはずだから、悪天候は運が悪いなどとは言えないのだ。

260 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/28(土) 20:08:55.33 ID:m8aN7dqIO]
>259
それは千代田形のことで、証明されていますよ。

261 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/29(日) 18:11:18.49 ID:bc187DSC0]
どのみち関東では一揆のアラーシで、抵抗するにもどうしようもない。
埼玉では「殿様殺し事件」があって、旗本が領民に殺害される所まで逝っている。
抵抗は、その土地の統治能力があってこそできるのであって、庄内藩のような
本間家のバックアップや領民の支持があればできる。
気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと
厳しい。

262 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/29(日) 19:33:51.33 ID:qzEdHh5P0]
>261
御用盗みたいなことをした連中に、おいそれと
従いますかね。

263 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/30(月) 17:36:40.09 ID:hCqyEMTC0]
>気分屋であきっぽい江戸っ子や、統治能力を喪失した北関東を考慮しないと厳しい。

そこで鳥羽伏見の戦いの前に幕府陸軍2万4千の北関東への治安出動(訓練を兼ねて)ですよ。
一部は、元込め式の最新式銃を装備しています。

264 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/30(月) 19:14:32.73 ID:YuI3DJ4P0]
その前に、まず陸軍奉行や歩兵奉行に相応しい人材を探した方が

265 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/30(月) 20:40:41.75 ID:PaBhimIQO]
>264
いませんよ

266 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/05/31(火) 09:47:40.17 ID:KN57YYce0]
鳥羽伏見で敗戦するまで、身分が低い有能な人材を抜擢する仕組みが存在していなかった。

海軍に関してはオランダから学んで一から組織・制度を作っていったから、
長崎海軍伝習所出身の人間が登用されたけど、陸軍に関しては門閥・家柄重視で
人材登用が行われていたからまともな軍隊運用など夢のまた夢という状態。

267 名前:48 mailto:sage [2011/05/31(火) 10:00:46.26 ID:9vy4Z5u50]
>266
その通りです。



268 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/31(火) 11:07:48.85 ID:GxekY3WN0]
幕府陸軍の体制だが

陸軍総裁
陸軍副総裁 (兼)若年寄
陸軍奉行   老中支配 五千石 諸大夫 芙蓉間 駿府城代の上席 海軍奉行の下席 若年寄並
陸軍奉行並 老中支配 三千石
騎兵奉行   老中支配 三千石 諸大夫 芙蓉間 歩兵奉行の上席
歩兵奉行   老中支配 三千石 勘定奉行の上席
歩兵頭    老中支配 二千石 中之間詰
歩兵頭並   老中支配 一千石 布衣
歩兵総目付 若年寄支配 七百石 
騎兵差図役頭取 陸軍奉行支配 四百石
歩兵差図役頭取 歩兵奉行支配 四百俵

こんな感じ?
歩兵頭の中之間っつーと、目付とかと同じ間か。
まぁ差図役とかに旗本を登用したのは、失業者対策として仕方ないね。

269 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/05/31(火) 11:14:10.93 ID:A+TEYuLMO]
これじゃかてない

270 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/31(火) 14:41:48.23 ID:s/LusuwY0]
しょうがない。
家格を否定すると最終的に徳川将軍家の否定に繋がってしまう。

271 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/31(火) 17:41:03.59 ID:NlY892lQ0]
明治になってから陸軍で活躍した戊辰戦争に従軍した幕府の人材で有名な人物って
だれだろう。大鳥や榎本は内政の方にいったし、立見尚文は桑名だし。

272 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/05/31(火) 18:45:37.63 ID:GxekY3WN0]
揖斐章とか?
結構いい経歴だったのに、早死にしちゃったな。

273 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/06/06(月) 11:50:33.03 ID:2ldXgchg0]
この時期の欧州にしても士官は貴族はじめそれなりの身分の出身。

また幕府陸軍にしても既存兵制と並存する形で作られたたので、指揮官クラスはそれなりに登用されている。
問題なのは、その登用が洋学知識偏重。
特に陸軍総裁の松平 乗謨は知識は一流かも知れなかったが将の器かは?

274 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/06/19(日) 17:56:53.26 ID:0paIjQuj0]
根拠がある訳ではないが、陸軍総裁クラスになると
後の陸軍大臣みたいな立場にならないかな。

>>268
案外身分高いのな。
歩兵奉行なんか、勘定奉行の上席か。
こうして考えると、大鳥なんか、歩兵頭とはいえ大抜擢?

275 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/06/19(日) 20:06:09.02 ID:Gl7PNG6x0]
>274
歩兵奉行が行政組織上の位置付けとして勘定奉行よりも格上だったとしても、
それがイコール幕府内での権力を振るえたかどうかとは別問題なんじゃないかなぁ。

勘定奉行は「勘定所」という実働部隊を下部において、行政組織としての財政やら法整備やらの
権限を一手に握っていたから、組織図上の位置よりもはるかにハバをきかせてたし。

幕府は本来的には「軍事組織」という建前があるから、武官系の方が組織図の上では優遇されてるけど、
江戸の中期以降は、実際には国政を担当する「行政組織」としての性格の方が強くなっちゃっていたから、
具足奉行やら鉄砲奉行やらの軍事系の職階よりも、勘定系や大目付・目付といった事務系職の方が、
実質的な権限を握っていたみたいだよ。

そもそも、幕末に編制された鉄砲を主とする歩兵隊は、刀槍をメインの武器として位置づけていた
江戸幕府の軍事組織の中では「足軽・雑兵」みたいなイメージで見られる場合が多くって、
そんなに大事にされてなかったし。

歩兵隊の重要さに本当に気がついたのは、第二次長州征伐以降のことだし、それだって本当に
理解していたのは慶喜とその側近だけで、会桑や幕府首脳は心の底からは理解していなかったから
鳥羽伏見で負けを喫しちゃったわけだしね。

276 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/06/20(月) 13:07:02.07 ID:v6HBPJD00]
幕府のもとで近代化していたら軍隊の階級呼称がどうなったか興味がある。
少尉、大佐などお公家さん風の名称は使われなかったと思う。

奉行とか与力、あるいは一等士官とかになったのだろうか?

277 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/06/25(土) 21:40:02.25 ID:crv5Y0zb0]
>>275
さも見てきたかのようなw



278 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/01(金) 10:59:57.95 ID:UtwUgNPc0]
皆さん幕府のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、
結局最後には幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。


小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。

“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると
徳川宗家(あえて幕府とは言わない)が強くなりすぎて討幕が
出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。

慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも言いや!
っていう割り切りがある。
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。

279 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/07/01(金) 11:10:15.64 ID:vpBHbPIX0]
>278

それはあまりにも慶喜や小栗といった、幕府内でも極めて少数だった「先の見える有能な政治家」の
考えに偏したモノの見方のように思える。

当時の幕閣や幕臣たちの大多数はそうした慶喜らの先を見据えた施策の意味を理解できず、
旧態依然とした政治・経済・軍事の仕組みを墨守しようとした集団だったという側面にも
目を向けておく必要があるんじゃなかろうか。

鳥羽伏見において刀や槍といった旧式の武器を手放そうとしなかったのが幕臣や会桑の藩士達だったし、
その認識を改めて銃砲を主体とした部隊を重視するようになったのも、それらの部隊を指揮する能力を持った
下級階層出身者を重用するようになったのも、「敗戦」という危機にさらされてはじめて起こった変化だった。

薩長主体の明治政府をことさら称揚するつもりはないし、慶応の幕政改革の重要性を否定するつもりもないけど、
末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して明治政府のような形態の強大な国家へと変貌を遂げられた可能性は
必ずしも高くないという見方も、一応は押さえておくべきだと思うよ。

280 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/01(金) 12:39:09.57 ID:GW5dhM8r0]
幕臣に新軍事教練やらせてみても、全く真面目に取り組まず戦力化できなかった。
しょうがないから軍役を人納、金納に変えて歩兵隊を組織したわけで。
本来なら部屋住みはこぞって参集してもおかしくないはずなのにね。

281 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/01(金) 12:48:15.04 ID:16GunPla0]
>>278
長井雅楽や吉田東洋もいるし、
小栗や栗本だけが優秀だったわけではない。


282 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/01(金) 12:50:35.53 ID:16GunPla0]
>>280
旗本の軍役を金納に変えた時点で幕府軍は崩壊してるね。
慶喜は戦争するつもりなかったからこれでいいというか仕方なかったんだけど。

283 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/01(金) 17:34:15.08 ID:B96/mUyC0]
しかも指揮官が>>268みたいなんだから、ぶっちゃけ旧来の家格による人事を刷新できたとは言い難いと思う。
少なくとも近代戦を理解してる奴が軍単位での指揮を執らないと、薩長には勝てない。
まぁ旗本改革を訴えた原市之進は同僚に暗殺された訳で、難しかったんだろうけど。

そもそも、慶応の改革っつっても外国の行政制度取り入れ、富国強兵っつー指針が一致してたってだけで、
明治政府がやったこととそんな具体的に一致してるか?
あのままの勢いで軍制改革が進めば、討幕派としては不味かっただろうが。

あと、徳川宗家の政治力だけが問題なら、薩摩藩邸焼き討ちに始まる強硬派江戸幕閣の暴発を
何としてでも抑えるべきだったな。
西郷の挑発にまんまと乗って鳥羽伏見だから。
まぁ小栗が死んだのは惜しかったけどね。

284 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/01(金) 17:41:12.25 ID:UkdmqPlSO]
鳥羽伏見の前日に幕末軍の兵も官軍の兵も一緒に風呂に入り雑談を交わす者もいた
って歴史の本に書いてあった
モチベーション高くない人はこんな感じだったのかな

285 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 09:16:58.32 ID:g346IEnd0]
>末期の幕府権力がスムーズに既得権を手放して……可能性は必ずしも高くないという見方も、

大政奉還(慶喜は単に政権返上)は言いだしっぺは、土佐藩だが、慶喜も納得している。
征夷大将軍職の辞表は67年の10月24日に朝廷に提出している。67年の時点では、
もう幕藩体制を維持する為に軍事行動を起す事は、下級幕臣はともかく幕閣クラスではないよ。

朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

慶喜も征夷大将軍職を維持するのではなく、むしろ朝廷新政府の摂政(関白)に就き
さらに諸侯会議(上院)議長を狙っていた。そして何れはその双方のポストを合併し
ナポレオン3世をモデルとした“大君”を目指す予定だった。
慶喜が目指したのは、フランス第二帝政をモデルにした“徳川版ボナパルト体制”
当然諸大名は全部潰すし、旗本領は徳川家が収公する。全武家、全藩は“大君慶喜”が廃止する。
>>282にあるように小栗が計画した六百万ドルの起債が薩摩の妨害工作で潰された、という事もあるが。

286 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 09:46:45.27 ID:g346IEnd0]
そもそも征韓論は、幕末の幕閣で老中の板倉勝静が唱え始めた。

征韓論をあおり、対外的緊張をワザと高めて、武家や諸藩の廃止を実行しようとしたのかもしれない。
また、征韓論自体軍事力の強化が必要となるので、小栗の立案した“慶応の改革”を
更にスケールアップしスピードアップ出来る訳だ。

小栗がヤケに武器と艦船の国産化に急いだのも、当面の薩長との対決も有るのだろうが、
より長い目で見れば“徳川宗家(大君慶喜)による征韓論”を念頭においていたのだろう。

“徳川版ボナパルト体制”による日清戦争を見てみたかったなw

287 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/02(土) 10:03:03.85 ID:YalCzs4z0]
日清以前に借銭の返済で潰れそうだがね



288 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/07/02(土) 10:15:15.91 ID:WKMSZNop0]
>285
>朝廷新政府に日本の統治機構を一元化する事は、幕府上層部では、了解済み。

いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

少なくとも、大政奉還の知らせを聞いた江戸城では天地がひっくり返ったかのような感覚で
この出来事を受け止めた人間の方が多数派だったらしいし、「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、
旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性の方が高かったんじゃないかな。

289 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/02(土) 12:54:56.16 ID:AtVuPzXu0]
>当然諸大名は全部潰すし

さらっとものすごい事言ってるなw
実際には長州ひとつ潰せなかったけど

290 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 14:05:17.06 ID:g346IEnd0]
>>289
慶応の改革の当面の目標は、薩長潰し。
最終目標は、征韓論。

悪い意味で菅直人とカダフィのあの頑張りを見習えばよい。
全然評価できないがww

291 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 14:12:40.44 ID:g346IEnd0]
>いや、慶喜を中心として京都に存在していた一会桑勢力と、江戸に存在していた幕府の主流とでは、
>現状認識や採用する戦略に相当な開きがあったと思うんだが。

慶喜が大政奉還後10月後半から11月中旬にかけて説得している。
江戸や大阪の強硬派幕臣や佐幕藩の対薩摩藩先制クーデター計画が
くすぶってはいるが、慶喜は、なんとかこれも押さえ込んだ。

>「徳川版ボナパルト体制」が出来る前に、旗本たちが叛旗を翻して収拾が付かなくなる可能性

それはない。
旗本は、領地収入が半減している上に更に幕府からの俸禄がなくなるとマジで収入無くなる。

292 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 14:21:24.21 ID:v2nlKBEA0]
菅直人なみに頑張ったといえば、敗北後に東北全土を巻き込んで更に敗北した、松平容保がいますが。
往生際が悪いのは良い結果を生みません。

293 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/02(土) 14:58:32.62 ID:tS27dykIO]
>>291
そもそも会桑自体が大政奉還大反対じゃん
んで強硬派を押さえ込めなかったが故の鳥羽伏見なのであって

294 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/02(土) 16:32:15.42 ID:g346IEnd0]
大垣藩立案の対薩摩藩先制クーデター計画を慶喜は押さえ込んだ。
この計画には会桑はもとより紀州藩、津藩、若狭藩、宮津藩など
畿内周辺の佐幕藩までも参加し後押しした大規模な計画だった。

また、別途若年寄の永井尚志が立案した薩長両藩の部隊集結を阻止する
計画も慶喜が抑えてしまった。67年12月7日には兵庫開港・大阪開市の
準備の為に大阪と西宮に出張するが、この様に永井が慶喜の側を離れた事が、
12月9日の薩長の王政復古のクーデターをやり易くした、とまで言われている。

12月6日には、薩長の王政復古のクーデターが慶喜の耳に入っていた。
それなのに慶喜は何も対策を打たず、何故か翌日に永井を大阪と西宮に
出張させてしまったのか、良く判らない。

永井が二条城に居たら、慶喜の躊躇を押し切ってでも、彼が幕府陸軍を
率いて京都御所の警備を更に厳重にさせる事も可能だっただろう。

295 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/03(日) 11:28:35.53 ID:8JREsp7+0]
慶喜は戦うつもりないんだもの。

296 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/03(日) 19:22:16.92 ID:nVbCsgAz0]
議論が分かれるね。
JFKはベトナム戦争をするつもりが無いvsイヤある!と言う議論に似ている感もあるが…

慶喜は、征夷大将軍職には復帰するつもりが無いだけで
徳川宗家の実権維持には汲々としている。

297 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/04(月) 07:20:24.67 ID:77yAuCgy0]
最近の王政復古のクーデターや鳥羽伏見の戦いについての資料発掘や再検討からは、
在江戸の幕府有司を含めた、軍事担当の幕臣たちが、逡巡する慶喜を巧みに開戦に追い込んだ。
と言う複雑な構図も見えてくる。

この時期の幕府は、朝廷新政府や薩長への方針が幕臣の間でも一致していないのが特徴であり、
勝海舟や大久保忠寛の天領・政権放棄路線から小栗や栗本らの幕権派(近代化)までいるが、
小栗は時期において大政奉還(天領放棄は?)をも認める発言もしてもいる。

しかし、江戸であれ大阪であれ、意見の異なる旗本を含めた幕臣達が、慶喜に薩摩藩との戦闘開始か、
さもなくば、徳川宗家の政治生命に致命的打撃を与える天領放棄を含めた政権返上か、どちらか
両極端な政策の二者択一を迫る進言を繰り返し、慶喜が戊辰戦争開始の道を進むしかない無い様な
方向に仕向けた事が改めて問題になる。

慶喜は、対薩摩藩の攻撃準備と新政府入りした土佐、越前、尾張を通じた多数派工作
の両方を実行しているが、このこと自体幕臣たちの意見の相違と徳川宗家の内部分裂を
表している様に思える。



298 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/04(月) 12:20:08.77 ID:S+0Bm4Ux0]
軍隊の近代化を進められなかったツケが慶喜に廻ってきたからな。
薩長に負けてしまうとはねえ。情けない。


299 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/05(火) 04:43:49.17 ID:iAaAUodg0]
まあ〜何にせよ以下のような馬鹿馬鹿しい事にならずに軍隊の近代化を進めた幕臣も偉いよな。
       ↓
1882年に李氏朝鮮では、新式軍隊(近代式軍隊)に対する旧式軍隊の差別待遇、
賃金未払いなどに対して、不満を募らせた旧式軍隊と衛正斥邪派・大院君の勢力が結託し、
閔妃暗殺、閔氏一族・開化派勢力の追放をもくろんだ壬午事変が発生する。
壬午事変によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は
清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。

300 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/05(火) 10:08:04.87 ID:rxMQkJq60]
しかしまぁ、一会桑vs江戸幕府がなきゃ、もうちょっと上手く政治工作出来たんじゃね?
って気もするがw
旗本の一部も原市之進暗殺とか地味に抵抗してたが、第二次長州征伐の敗北も
軍制改革進める一助になったんかな。

301 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/05(火) 12:05:45.02 ID:7jX59Mea0]
>>299
閔妃暗殺は日本が暗躍してるけどね。

302 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/09(土) 09:51:00.37 ID:qHEiB8Bc0]
>第二次長州征伐の敗北も軍制改革進める一助になったんかな。

当然そうだろ、最後の幕政改革「慶応の改革」は、長州征伐の問題点を
克服しようとする形で始まった。


また、一会桑体制が崩壊したのなら、畿内に近い桑名藩はともかく
兵力が大きくて東北の大藩である会津藩は、さっさと帰国させるべきだろ。
なのになぜグズグズ京に居続けたり、慶喜の大阪城撤退にくっ付いて来たりするのかね?

会津藩は大政奉還と同時に少なくても江戸に戻るべきじゃね?

だらだら会津藩を畿内に居座らせていた慶喜も問題。

303 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/09(土) 22:59:32.93 ID:oREi9d2h0]
そうは言っても軍事力が背景にないと、
相手はやる気満々なんだから、話し合いもできないでしょう。
やはり問題はその軍事力が全く当てにならなかったこと。


304 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/09(土) 23:03:19.30 ID:5TRo9k+J0]
改革が進んだことにしておかないと
勝利の可能性がみえてこないので

305 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/10(日) 00:05:29.39 ID:nTBmv7VW0]
江戸幕府がトーマス・グラバーを介してアームストロング砲35門もの多数を発注したが、
グラバーが引き渡しを拒絶したために幕府の手には届かなかった。

これらが大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

ただ言われているほど、アームストロング砲の威力や性能は、高くないらしい。


306 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/22(金) 05:47:24.16 ID:o+SzL6FK0]
>>304
最後の幕政改革の「慶応の改革」は、それなりに進捗していた。
桂小五郎もビビッて居るくらいだ。

直接的な戦闘能力の向上もさることながら、
幕府の兵器と軍艦の国産計画が、薩長には脅威に思えたのでは?
薩長は、小さな工房程度ならあるが、基本的に兵器の調達は輸入だ。

有る程度幕府が、兵器を自主開発出来る能力を持ってしまうと
武器の補給面で幕府軍には敵わなくなる、と薩長は思ったのでは?

この時期アジアで唯一炸裂弾を生産できたのは徳川幕府の兵器廠だった。

307 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/22(金) 14:31:53.79 ID:rx20EQSf0]
しかも朝廷に命じられて作ってるから薩長も批判するわけにいかんしな。



308 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/22(金) 15:29:05.60 ID:f9AUFa1N0]
>しかも朝廷に命じられて作ってるから

そうなの?
知らなかったw

例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

>アームストロング砲35門が大阪城や江戸城に配備されていたら、面白いことになっていたかもw

そうしたら安心して慶喜は、大阪城に篭城していたかもなw

しかし以外とアームストロング砲って扱いが難しかったり、故障が多かったりで
イギリスも正式な大砲としての採用年数は短かったはず。
幕府は、無理にアームストロング砲を採用せず、幕府海軍旗艦の開陽に搭載している
クルップ砲の大量発注でも良かったんじゃないかな?と思う。

メンテナンスや故障頻度を考えるとアームストロング砲よりもクルップ砲の方が
使い易いし結果的に幕府軍の戦力になった、とも思えるのだが。

309 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/22(金) 15:48:17.59 ID:+BQlpF8V0]
>>306
炸裂弾っつーと、江川英龍の遺産?
銃自体は輸入したほうが早いと思うが、大砲や軍艦の生産能力は脅威になるかもね。
ただ、幕府陸軍の拡充のが直截的な脅威だったんでないかと思うが。

310 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/23(土) 04:16:11.06 ID:t3+aP06B0]
>>309
まあ、そうだろう。
ただ長期戦になれば、輸入もままならないし、幕府が有利になったと思う。
現実には、武器のメンテナンスや修理は、幕府の施設でまかなえた様だ。

それとあきれ返るけど“慶応の改革”に反対していたのは、討幕諸藩だけではない。
なんとあの大奥が“慶応の改革”に大反対している。

311 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/24(日) 00:20:06.07 ID:NdxkBz6W0]
慶喜の親父の 徳川斉昭は大奥でかなり嫌われていたからな

312 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/25(月) 14:06:10.98 ID:mZxQCHLQ0]
大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?
全員失業ってことだと威張るくらいしか能がない気位が高いバカ女どもだから路頭に迷ったろうな。

313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/25(月) 17:29:10.27 ID:961s1Kyl0]
まぁ大奥は昔から保守派の温床だし
あそこを上手く操れたのって田沼意次ぐらいじゃね?

314 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:saeg [2011/07/25(月) 19:47:36.20 ID:XZKXhOHq0]
>312
>大奥のバカ女どもは明治維新でどうなったの?

基本的には全員失業。
ただ、大奥に上がった女性は基本的な行儀作法が仕込まれているから、
旧家の家政の取り仕切り(下働きの下女達の監督)などを期待されて
そこそこの就職口はあったかと思われ。

明治に入ってから士族階級が没落していってしまったから、
全体の就職口のパイはそれほど多くはなかったろうけど、
そのまま自活能力なしで苦界に身を沈めたというほど酷い状況では
なかったからしい。

むしろ、大奥という場所で(ある意味での)職業訓練ないし宮仕えをしていた女性達より、
旗本・重臣層の奥方連として安穏とした生活を送っていた女性達の方が維新後には酷い目を見てる。

315 名前:平山貴士 ◆e1fQiVDD2/Mv [2011/07/25(月) 21:14:28.38 ID:RYh62SyT0]
このスレに感謝。

316 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/27(水) 04:09:36.75 ID:V/QAxbtL0]
>>311
当然それも理由としてある。
慶喜は水戸系であり、大奥は南紀派だからどうしようもない部分が有る。

大奥としては15代将軍には亡き家茂の意向として三歳児wの田安亀之助を推していたし、
それがダメなら最後の紀州藩主の徳川茂承を推していた。また家茂と茂承は大変仲が良かった事も有る。
しかし和宮と幕閣と幕権派中堅官僚は、「今の時期には慶喜しか将軍職をこなせる人材は居ない」
と大奥に逆らう動きを見せ、結局将軍職の4ヶ月空位を経て慶喜が15代将軍に任官する。
この4ヶ月空位期間に岩倉が“宮将軍”の画策を行うなどの混乱もあったが、孝明天皇の強い意向もあり、
ついに慶喜は15代将軍に任官する。しかし慶喜が将軍に任官した直後に孝明天皇は崩御される。

ただ大奥の“慶応の改革”の反対は、水戸系将軍と紀州系大奥の対立だけでもないらしい。
慶喜が将軍職任官した慶応2年の末から幕府では急ピッチで幕府軍の近代化と産業インフラの整備を進めた。
その為に慶喜は大奥関連の予算をバッチリ削ってしまい、その事でも大奥からかなり恨まれている。
慶喜の正室である美賀子などは、大奥に行っても布団一枚も出してもらえなかった。

さらに驚く事に大奥が「慶応の改革」に反対した理由は、これにより幕府が西洋式の軍事色を
強める事そのものに嫌悪感を持っていた事だ。元々慶喜と仲の悪い天章院はもとより、
慶喜将軍任官を支持した和宮ですらこの意向を示し、二人とも慶喜が西洋式の軍服を着た
写真を見せられると大変嫌がった、と言われる。
また江戸城内でも慶喜治世下では、伝統的な武家の装いが廃止され始め、西洋式の衛兵が配置され
砲台や兵舎の設置も行われている。天章院も和宮もこの様な江戸城の西洋式の軍隊化に激しく反対していた。

慶応2年(1866年)の慶喜の大奥改革に対しては、天章院は、今まで仲の悪かった
和宮と協力して徹底的に反対しているが、これは大奥改革が“慶応の改革”の
費用捻出の為と疑っていた為であろう。

317 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/27(水) 12:50:53.14 ID:duoZPn+KO]
>>312
彼女達は明治新政府により朝鮮半島に送り込まれほぼ全員が朝鮮人によってレイプされました。【氷河清話より】



318 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/27(水) 19:11:20.38 ID:XRPDRXUp0]
とりあえず徳川家は、何が何でもアームストロング砲35門を調達して
そのうち15門を大阪城に、20門を江戸城に配備すべし。

ついでにクルップ砲も幕府艦隊旗艦の開陽搭載用以外に30門確保しておけばさらにOK!

319 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/28(木) 17:42:13.09 ID:RBRRt+sP0]
>>316
幕府は、慶応の改革以前から、改革に着手しようとしていたが、
幕府内の守旧派によって退けられた。
それを決定的にしたのが井伊の大老就任。
井伊が強権振るえたのは守旧派が味方だったから。
(彼は朝廷無視して開国したが、幕政についてはガチガチの守旧派)
守旧派には旗本なども含まれる。もちろん軍の近代化には反対。

水戸対紀州ってよく言われるけど、事実としては改革対守旧。
それが「今の時期には(改革派の)慶喜しか」の意味なんだけど、
維新後は慶喜を改革派とみなすのはご法度だったから、
水戸対紀州ってことにされて、今もその影響下のまま。
本来慶喜が改革派じゃなければ、朝廷がわざわざ
幕府に慶喜を将軍後見人にしろなんて言うわけないのだが。

尊攘を代表するナショナリスト的価値観が、
幕府寄りの立場の人間の改革に対する正当な評価を阻んでる。
土佐藩の内部抗争についても、同じような誤解がある。


320 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/28(木) 20:17:33.43 ID:yL0B9/u00]
>>308
> >しかも朝廷に命じられて作ってるから
>
> 例の孝明天皇の攘夷命令の事かいな?

その時、副使として付いて行った攘夷急進派の姉小路が
大阪で勝と龍馬に篭絡されて開国派になるでしょ。
当時、姉小路は国事参政になったばかりで、朝議を決定できる立場にあった。
その姉小路が大阪で開国派に篭絡されたわずか二週間後に、
朝廷から「摂海防備三か条の沙汰」が幕府に命じられて、
製鉄所や軍艦を建造することになった。

勝曰く「我が微衷天朝に貫徹し、興国の基漸く立たんとす」

小攘夷派が維新の中心から退けられる決定的な出来事です。
この後は、薩摩が神戸開港を口実に慶喜を攻撃したくらいで、
この後は都は開国一直線です。
(田舎のほうではなんやら事件やらこれやら戦争などありましたが)

321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/28(木) 21:01:30.56 ID:hiGac+H00]
阿部正弘の評価を阻む点では佐幕シンパも同様

322 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/28(木) 21:02:36.71 ID:Mf7rSP380]
新撰組も尊攘派だからナショナリストのはずだし、
慶喜警護の為に京にいる水戸藩も連中(本国寺党)も尊攘派。
原市ノ進を斬った旗本も尊攘派、佐幕派や幕府方にも尊攘派は結構居たんだけどねw
なぜか全部親仏派や開国派になっている。

また、幕府の改革派は、幕権派と言われ、いわゆる近代化グループ。
郡県制の施行や諸藩の廃止、政権の一元化や重火器や艦船の小銃の国産化
造船業や製鉄業、兵器産業の立ち上げ、鉄道・電信・道路等のインフラ整備
などの実現を志向する幕府内の勢力。

323 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/28(木) 21:05:05.97 ID:Mf7rSP380]
>>322のつづき)
ただ面白いのは、幕権派の面々は、どちらかと言うと家茂人脈の人ばかり、
小栗や栗本、勝にしてもそうで、家茂治世下で出世した人ばかり。
それに家茂治世下では、幕府の近代化はそれほど進まず、むしろ慶喜での
「慶応の改革」でようやく本領を発揮できた。

慶喜が将軍に任官してトップダウンで近代化政策を実行出来た事と、第二次長州征伐の失敗の
ショックでさすがの江戸の幕府有司も近代化を進める必要性を感じた事が背景にある。

それと繰り返すが、アームストロング砲35門の調達は、是非とも実現させるべきだった。
アームストロング砲35門と甲鉄艦が、手元に揃うまで慶喜は開戦すべきではなかった。

江戸での薩摩藩邸焼き討ちが起きたら、大阪市内の薩摩藩邸(2〜3箇所ある)を
攻撃してお茶濁しておけばよいのに。伏見奉行所を増強するとか、畿内の勤王藩
(彦根・西大路・郡山・園部・十津川郷士)にプレッシャーをかけるとか。

324 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/28(木) 21:30:39.46 ID:yL0B9/u00]
家茂は本人はともかく、
バックが守旧派(昔で言う所の南紀派)だから、
改革を進められるわけない。
彼らが家茂を押した理由は、(紀州直系の人はともかく)
慶喜?一橋家なんて支流の御三卿の養子、しかも改革派なんてとんでもない
って理由だけだからね。

守旧派には大人物がいないから、
人物中心の歴史読み物では忘れられがちだけど、
あちこちで無視できない力を発揮している。
まあ長州に負けて発言力低下したけどもw

325 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/28(木) 22:19:09.71 ID:xwIqE9Ro0]
旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。
大体石高から言ったら、本来薩長などに負けるはずないのに負けまくり。
旗本は従軍嫌がるし、福沢が篭城で幕府に暴言吐いてもスルー。
彰義隊も江戸で薩摩武士を大勢で闇討ちしたりしたが、逆に死を覚悟した薩摩武士に斬り立てられ逃げ回ったり。

326 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/07/29(金) 09:33:48.97 ID:+fj4aCbG0]
上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

327 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/31(日) 01:44:26.72 ID:KagjRR7A0]
>旗本のほとんどが使い物にならない、状態でいくら近代化してもね。

中には近代化した行政府でも使えそうなのが居る、榎本は幕臣ながら明治政府で閣僚に。
大鳥圭介は、日清戦争開戦時の清と朝鮮の大使で陸奥外相の命で日清戦争の開戦の準備をしている。

あとは徳川宗家の大久保利通とも言える小栗や外務大臣も出来そうな栗本鋤雲、他に山口直毅、向山一履
甲鉄艦をアメリカで見つけ出して交渉し調達した小野友三郎、京不在が王政復古クーデターをやり易くした
とまで言われた若年寄の永井尚志などは旗本だが、徳川新政府の官僚でも使えるだろう。

譜代大名では、慶喜治世下での筆頭老中で征韓論の言いだしっぺの板倉勝静や自分の居城を西洋式の要塞と
したり、大政奉還直後に全国の大名の禄高の半分を削って全国統一軍を創設しその総司令官に前将軍の慶喜
を構想した老中兼陸軍総裁の松平乗謨なども閣僚として使えよう。

>上知令の時も旗本や譜代の抵抗があったな

そういう意味ではフランスからの600万ドル借款計画がアボンして良かった。
薩摩藩のプロパガンダで600万ドルの起債が失敗したらしいが、そのおかげで旗本領300万石
の内半分の150万石を事実上徳川宗家が収公出来た。

平時だったら旗本の大反対運動で上手く行かなかっただろう。
幕末の最後の幕政改革だったからこそ、旗本領地収入半分収公計画が上手く行った。



328 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/31(日) 02:32:38.23 ID:KagjRR7A0]
それとこの時期は、徳川家による征韓論がかなり検討されている。

南紀派で井伊大老の側近で老中の間部詮勝は、開国と条約の締結を求める勅許の奏請にあたり、
「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現する事が
出来ると朝廷を説得したとされる。

守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。案外南紀派は南紀派で征韓論を考えていたのかもしれない。

文久3年(1863年)5月、対馬藩士の大島 友之允は、老中・板倉勝静の顧問であった山田方谷と会見する。
この時、征韓論だけに留まらず、中国大陸進出を唱えていた山田方谷に
「貴藩困乏斯の如し、何ぞ朝鮮違約の罪を鳴らして、之を征服する策に出でざるか」
と説かれ、これに感化された大島は征韓論を唱えることとなった。

そして元治元年(1864年)には、朝鮮進出の建白書を提出している。

この大島の感化を受けたのが友人である桂小五郎(木戸孝允)であり、後に桂が新政府の高官となるに至って、
大島の論は政局に重大な影響を与えることとなる。

329 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/07/31(日) 02:40:14.74 ID:KagjRR7A0]
日米修好通商条約の交渉に臨んだ幕閣の岩瀬忠震は、現代で言えば侵略主義的な考え方を持っていた。
岩瀬は、勝海舟と仲がよく、彼の思想は勝海舟にも受け継がれている。

勝は文久3年(1863)4月27日、桂小五郎と上記の対馬藩士大島友之允に対して次のように述べている。
「当今亜細亜洲中、欧羅巴(ヨーロッパ)人に抵抗する者なし、これ皆規模狭小、
彼が遠大の策に及ばざるが故なり。今我が邦より船艦を出だし、弘く亜細亜各国の主に説き、
横縦連合、共に海軍を盛大し、有無を通じ、学術を研究せずんば、彼が蹂躙を遁(の)がるべからず。
先最初、隣国朝鮮よりこれを説き、後支那に及ばんとす」(海舟日記)

これは後の「征韓論」に繋がる考え方です。
そして幕閣として初めて公式に征韓論を唱えたのは老中板倉勝静(かつきよ)で、
文久3年5月に対馬藩の朝鮮進出の請願書を受理しました。意外な感じがしますが、
当時の武家政権である幕政の担当者としては特に過激な考えと言う訳ではない。

そして翌月に、勝に対して対馬差遣を命じています。
その辞令には「朝鮮国の事情探索」とあったそうですが、実際には征韓準備のために派遣されたのです。
ところがその後、板倉と勝は失脚してしまい、幕府による征韓は沙汰止みとなります。

330 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/08/01(月) 07:37:52.43 ID:oMDEonQV0]
実は攘夷には「大攘夷」と「小攘夷」の二つがあって、このどちらを採るかを巡って紛糾したのが幕末という時代。

「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、
無謀な攘夷を否定する考えだった。現行の通商条約を容認し、その利益によって
十分な武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張したのだ。
公武合体派と呼ばれた人たちは、これを主張している。
 
一方で「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、
しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約攘夷を主張するものだった。
長州藩などが、これに属していた。

通商条約を独断で結んだのは井伊直弼ですが、その彼も攘夷論者で、「大攘夷」の考えだった。
井伊直弼は売国奴のイメージを与えられていますが、実際には最後まで通商条約の締結には慎重だった。
全権委任した岩瀬忠震(ただなり)らに、窮したときには調印しても良いと言う言質を与えた為に実行された。

直弼としては、やむを得ず時限的に海禁政策を放棄し、武備を整えた後は破約するつもりでした。
井伊大老の真意として、後の攘夷のための“海軍力強化”政策を打ち出しています。
これは「大攘夷」に当たります。

守旧派といわれる南紀派も“海軍力強化”などの大攘夷政策を立案しており、近代化政策を全く行わなかった訳でもない。

また幕末の最後の幕政改革「慶応の改革」もこの大攘夷の原則に則って始まった近代化政策であり、
当面の敵である薩長を圧倒する事を目先の目的としていたのだろうが、最終的には“大攘夷”と“征韓論”の実行
を目論んでいた「富国強兵」計画だった。

しかし徳川宗家にそんな事をされては、薩長の出番は無くなってしまうので、
彼らは幕府の兵器や艦船の国産化計画に反感を持つジャーディン・マセソン商会や
その代理店のグラバー商会から支援を受けて、王政復古の名の下に討幕挙兵に討って
出てきたのが実情。

331 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 09:31:48.04 ID:BQ2YyKBt0]
>>327
上の人の言っている「旗本」はそんな大物のことじゃないんじゃないの?
歩兵が駄目だと指揮官がまともでもどうしようもないしね。

>>328
> 守旧派と言われる南紀派も征韓論的な事を言っている。

南紀派の「守旧」は徳川宗家万歳、血統万歳ってことであって、
対外的政策のことじゃない。
むしろ朝廷に断らずに開国した。
もちろん開明とも違うが。

幕末を「〜派」で語ると弊害が多い。

332 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 09:38:25.66 ID:BQ2YyKBt0]
>>330
小攘夷には2つあって、
一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。

もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
幕府牽制のために言っている。

ちなみに攘夷に反対している人間はいません。
黒船外交は武力威圧的なものだから当たり前なんだけど。

黒船来航直後の公家に前者が多かったのが幕末の混乱の原因。
まあ倒幕で近代化が進んでよかったけども、
死なんでいい偉い人がたくさん死んだよ。松陰とか象山とか。


333 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 10:25:21.87 ID:oF/RrDoz0]
小攘夷には、奉勅攘夷派もいるぞ。
尊皇=攘夷でなければ、少なくとも水戸藩の内訌や長州藩が藩を挙げて
攘夷に邁進することはなかった。

>>330
井伊直弼のやらかしたヘマは、朝廷軽視と安政の大獄だろう。
前者は戊午の密勅を誘発して返す返さないで水戸の天狗を敵に回すし、
後者は前者による反感に拍車を掛け、更に幕府の西洋に明るい人材群を浪費した。
川路聖謨はボロボロになるし、岩瀬忠震なんか憤死だろう。

334 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 10:54:32.25 ID:WavHP4bf0]
孝明天皇は薩摩に内勅を与えて、
急進即今尊攘派を京都から排除するようにお願いしていたくらいだから、
奉勅攘夷派と言っても、ほとんど即今攘夷馬鹿みたいなもんだ。

まあ三条とかが勝手に勅を出してるの知らんから仕方ないけども、
長州藩は大昔の御製を取り上げて、攘夷に反論変えたり、頓珍漢が極まってる。
大久保なんかは気づいていたみたいだけども。

当時、孝明天皇は攘夷派よりも松平容保の方に尊皇を感じていたようだし。
bakumatu.727.net/kotonoha/kotoba-1-gyosei.htm


335 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 11:33:55.16 ID:wyJzx06Y0]
久留米出身で長州尊攘派の中心人物になっていた真木和泉は逆に
ロシアはシベリアを占領しながら来ている為危険だが、
ペリーは通商を求めているだけで戦争するつもりはない、
なのに幕府のやり方は表面では和親を求めるが裏では軍備を整えて
数年後にペリーを討とうというもので『真心』がないと批判している。

336 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 13:07:41.77 ID:tLIloRF20]
攘夷と言っても、
条約を対等の立場で結び、開国を進めたいと思ってる奴から、
横浜での寄港給水すら受け付けない奴まで、いろいろいるからな。


337 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/01(月) 16:49:17.20 ID:kN9xAbas0]
その寄港給水も、最初は遭難されては気の毒だといういわば人道的な非常措置だったのが、
何度も何度も同じように来られるのでこりゃたまらんと原則に立ち帰って打払令に至ったわけで。
こっちの顔色もお構いなしに遠慮もなく既得権益だとばかりに当然の要求として来る。
その時点で侵略的なものを嗅ぎとったとしても責められるものでもない。




338 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2011/08/02(火) 00:27:44.95 ID:8NMeasyp0]
嗅ぎとったw

339 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/08/02(火) 03:30:45.58 ID:0fClwfP50]
チョソ臭を嗅ぎ取って、今ウジテレビは大変な事になっているからねw
日本人は、そういうのには敏感だよ。

>>332
>小攘夷には2つあって、
>一つは国粋馬鹿で、即今攘夷は玉砕するだけってのがわかってない奴ら。
    ↑
 長州藩と水戸藩

>もう一つは倒幕あるいは弱幕の方便で、攘夷って言ってるだけの奴ら。
>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて、
>幕府牽制のために言っている。
        ↑
       薩摩藩

>征夷大将軍が攘夷出来ませんって答えられないのわかっていて

正確には…“今すぐには、出来ません”
13〜4年して海軍力を整えたら、攘夷しましょう。ついでに征韓もしましょう。
って感じ。

>ちなみに攘夷に反対している人間はいません。

留学以後の長州五傑は、どうかな?
あの留学は、完全にジャーディン・マセソン商会がお膳立てしたモノ。
一種の欧米帝国主義の洗脳工作の部分がある。

特に井上馨は、留学中に西洋文明に見せられてしまい、完全な欧化主義者になっている。

井上は、幕府の便宜的な親フランス派官僚よりも酷い欧化主義者で、
明治維新後に井上馨は、今までのヨーロッパを視察して、現地では日本人が
「見た目」によって半未開の人種として実は「珍獣扱い」されているという
事実から明治政府の政策として“人種交配計画”を実行しようとしていた。
積極的に白人との結婚や性交渉を奨励し日本で混血児を増やして見た目から
白人に近づこうとしたのだ。
こういう見かけだけの「欧化」に突っ走る元長州藩士の元勲がいたという事は、
それほど長州藩のナショナリズムは激しくなかったと言える。






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