- 139 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/04/08(金) 17:42:56.27 ID:2A4HNqtU0]
- 佐幕派クーデターを起こすなら、長州藩兵力と薩摩藩の増援部隊がまだ上洛する以前の
1867年11月までだろう、12月になると討幕派の兵力が増加して佐幕派クーデターの成功 の可能性が薄くなる。 慶喜が11月までに決断が付かないのなら翌年の68年の5月まで戦争を始めない方が良い。 ストーンウォール号は4月まで幕府の手に入らないし、元込め式の銃をもっと導入しなければ ならないし、アームストロング砲が手に入らなければ、代わりにクルップ砲を何十門と導入 しなければならない。色々やることがある。 >>136が言うように関東では薩摩藩のテロ活動もあり、騒乱状態なので、幕府陸軍は官軍と戦う前に これらを鎮圧する必要がある。 >家近良樹などは京での暴発を抑えて下坂したのは有利な結果をもたらしたと主張する。 大久保利通が、同じ事を西郷に言っているから、そうなんだろう。 井上勲なんかは、慶喜は早ければ大政奉還と同時に、遅くても王政復古のクーデターの時までに 関東に帰り、江戸城で旗本と譜代を糾合して“関東甲信列藩同盟”の様な朝廷とは別の権威 を打ち立てる“東帰割拠”論が徳川再生の道と言っている(奥羽越列藩同盟からの支援も期待)。 松浦玲も、慶喜は鳥羽伏見の戦いに負けたからと言って大阪城を逃げ出したのが最大の負け要因、 としているし野口武彦なんかも同じで慶喜の桁外れなチキンぶりに呆れている。 特に野口武彦は、大阪城篭城戦では、大阪城の広大さと堅固な堀や壁、大阪城砲台の火力、城内の予備兵力、 膨大な物資、大阪湾での幕府海軍の優性、薩長軍の寡兵と補給の弱さ、などを考慮して幕府軍の優勢を分析 しており、大阪城の戦いが始まれば、土佐藩の裏切り(実際、鳥羽伏見の戦いの時に慶喜と連絡していた) を考慮して官軍の敗退の可能性が大きかったと分析している。 実際に土佐藩が、幕府軍に寝返ると越前・尾張も怪しくなる。
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