- 104 名前:日本@名無史さん mailto:age [2014/09/09(火) 18:31:34.80 .net]
- 「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)〜
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳 430年★「倭国王」…履中 438年「珍」…反正 443年/451年「済」…允恭 460年/462年「倭国/興」…安康 477年/478年「武」@…雄略 502年※「武」A…武烈 ★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相 430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、 その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、 台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、 名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。 もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、 記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。 ※倭王「武」は2人いた。 502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、 雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。 ∴@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈) 「倭の七王」となる。
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