- 1 名前:日本@名無史さん [2005/12/27(火) 06:52:57 ]
- つぐのすけだろ
日テレきもい
- 128 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/01/05(木) 17:41:24 ]
- >>116
現実とあまりにもかけ離れた理想を抱いてたって無駄ということだ。 それが陽明学を専攻とした薩摩藩とは大きな違いだよ。
- 129 名前:日本@名無史さん [2006/01/05(木) 19:03:06 ]
- 専攻って意味教えてくだされ〜
- 130 名前:日本@名無史さん [2006/01/05(木) 21:12:30 ]
- >>128
理想主義的なのは、どちらかと言えば朱子学のほうだと思いますが。 朱子学 水に入らず畳の上で、教科書を開いて泳ぐ練習をする。 陽明学 泳げもしないのに、いきなり滝つぼへ飛び込む。
- 131 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/01/05(木) 21:48:44 ]
- >>130
すまんが「たとえ陽明学を重視していたとしても」を>>128に付け加えておく。
- 132 名前:日本@名無史さん [2006/01/05(木) 21:53:57 ]
- >>131
どこに入るんだろう?
- 133 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2006/01/05(木) 22:17:03 ]
- たとえ陽明学を重視していたとしても
現実とあまりにもかけ離れた理想を抱いてたって無駄ということ これでいいいか
- 134 名前:日本@名無史さん [2006/01/05(木) 23:11:53 ]
- 了解
- 135 名前:日本@名無史さん [2006/01/09(月) 04:25:44 ]
- [ドラマ] DRAMA COMPLEX 河井継之助 「駆け抜けた蒼龍・激動の幕末、北国にいたもう一人の坂本竜馬」 2005.12.27.wmv
- 136 名前:日本@名無史さん [2006/01/09(月) 23:36:36 ]
- >> 10
もっと詳しく教えてください。
- 137 名前:日本@名無史さん [2006/01/12(木) 23:59:04 ]
- bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pmilitary&nid=9727
日本人と韓国人が、長岡城の落とし方について、論議しています。
- 138 名前:太朗 ◆rgd0U75T1. [2006/01/25(水) 00:20:32 ]
- 継之介の二の舞は御免だ。継之介は志半ばで倒れたがぼくは必ず事を成してみせる。 また、報告いたします。
- 139 名前:日本@名無史さん [2006/01/30(月) 09:50:02 ]
- 戊辰戦争の後半の北陸での戦いとか、会津での戦いとか
五稜郭での戦いとかは、避けられなかったものなのだろうか? これから生きていれば日本のためになるような、優秀な人材が たくさん死んだように思う
- 140 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/01/30(月) 12:30:57 ]
- 案外大物はみんな生き残ったよ
死んだのは憐れな兵隊達だ
- 141 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/01/30(月) 13:44:56 ]
- 優秀な人材ならそもそも負ける戦はしないんじゃね?
- 142 名前:日本@名無史さん [2006/03/19(日) 16:43:39 ]
-
- 143 名前:日本@名無史さん [2006/04/02(日) 00:12:09 ]
- うほ
- 144 名前:日本@名無史さん [2006/04/13(木) 19:01:58 ]
- ご教授お願いします。
academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1142239107
- 145 名前:日本@名無史さん [2006/04/13(木) 20:15:37 ]
- >>141
それも確かだが河井継之助 のような己の一分を通す為に戦う男(回りは迷惑だろうが)が そのカリスマ性で歴史を動かす事もあるし、いちがいには言えないんじゃない。
- 146 名前:日本@名無史さん [2006/04/26(水) 17:57:56 ]
- たとえ小千谷談判が平和に済んでいたとしても戦さは起こったろうよ
- 147 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/04/26(水) 18:34:55 ]
- 数年前、女遊びに耽ってたころ俺は”河合継一”と名乗っていた。
けーいちゃん などと呼ばれてた。ゴメン、本名じゃねーよ。
- 148 名前:日本@名無史さん [2006/04/26(水) 19:37:45 ]
- 河井も領内にうろつく佐川以下会津藩兵を血祭りに挙げて、
政府軍に敵対意思の無いことを証明してやればよかったのに。 まぁ中立体制なんてどっちみち無理だが。
- 149 名前:日本@名無史さん [2006/04/26(水) 21:21:28 ]
- そりゃチッと変でねぇかえ?それじゃ中立じゃなくなるでよ。
ただの恭順なら他藩と一緒だでぇ。
- 150 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/04/28(金) 00:30:39 ]
- いや、変じゃない。武装中立とは国内に侵入するものは基本的には敵とみなす考え方。
ま、現実問題としてはそこまで徹底できた国はないけどね。 詳しくは、あー光文社文庫中立国の戦い・・・だったかな? 中立国の戦史の概論が出てるから参考までに・・・・
- 151 名前:日本@名無史さん [2006/04/28(金) 01:08:47 ]
- 148の言ってるのは同盟の後のことだから、新政府軍に降伏するための血祭りageだ。
- 152 名前:日本@名無史さん [2006/04/28(金) 02:17:14 ]
- ガドリング砲の行方はどうなったのでしょうか?
調べるにも手がかり無さそうです。 実戦で役に立たなかったから廃棄されたのでしょうか? 官軍に鹵獲されたという話も聞きませんし。
- 153 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/04/28(金) 06:23:45 ]
- 溶かしてリサイクルしました^^
- 154 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/04/29(土) 05:49:32 ]
- 不明。本当にあったのかと思うくらい不明。
撤退するときに持ち運び出来ないものは敵軍に鹵獲されないように破壊するのが、 一応現代軍隊の習いなのだが・・・・ そもそも、近代的武装で名を売った長岡藩。降伏後の彼らの装備は一体どこへ? 何にせよ、西洋物であれば良いという安直さを感じてしまうんだよな。継サには。 陽明学のみ勉強して後は耳学問・・・・が本当かどうか知らないが、やはり しっかり学び、考える事もまた大切だと余桃の学の元信者は思うわけです。
- 155 名前:日本@名無史さん [2006/04/30(日) 16:16:42 ]
- 良いも悪いも、よく考えずに行動するのが陽明学でしょ。
- 156 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/04/30(日) 19:26:22 ]
- そうね、だからときとして反逆者になったりする。
大塩平八郎、河合継之助、西郷隆盛・・・・ 只、何も考えなかったわけではなく皆やむをえず立ち向かった印象がある。 ま、河合継之助の師匠格、山田方谷は官軍に恭順したわけですから、最後の 決断というのは学問の性格よりも個人の性格が決めるのかも。 あたりまえの話ですが・・・・
- 157 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/01(月) 11:55:58 ]
- 俺が正義ってことか!!
- 158 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/01(月) 13:51:30 ]
- 自分のプライドのみではなかった・・・と思う。
命より大切なものがある人とない人の差・・・書いてて嫌になった。 プライドと命という言葉の中には自分のだけではなく他人様のご先祖様から、 はるか未来の子孫まで入ります。
- 159 名前:日本@名無史さん [2006/05/02(火) 00:07:09 ]
- 岩村が援軍で加わったからややこしいことになった。
もし交渉の相手が黒田だったならと「もし・・」ばかり考えてしまう。
- 160 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/02(火) 09:23:39 ]
- そうね、一般的にも小千谷会談の相手しだいで変わったろうと言われてるね。
これはあくまで私見なので不快に思ったらスルーしてほしいのだが、長岡藩の 武装中立政策そのものが現実的ではないのが根本にあり政策責任者である河合 継之助がどこまで武装中立国を研究したのかと思う。ま、負け戦の責任者を 断罪するのは容易すぎるし、結論も出しやすいのだから慎重に慎重に・・・
- 161 名前:日本@名無史さん [2006/05/02(火) 14:48:54 ]
- 降伏して家中・領民が安泰に暮らせるならともかく、そう思わせない何かが官軍にあったのでは?
- 162 名前:日本@名無史さん [2006/05/02(火) 15:57:38 ]
- >>161
東北以外の諸藩は、徳川の分家まで含めて ことごとく新政府に恭順してるじゃん。 当時の地理感覚なら東北は東北で一種のムラ社会として 独自の連帯感を持ち易かったこと、 徳川体制の崩壊により新国家として独立して その権力の中枢を占める可能性を見い出したこと、 京から離れ過ぎてて朝廷の威光が影響しにくかったこと、 東北にとってはそれこそ外国同然の 西南の果ての僻地藩に従うのが気に入らなかったこと。 理由としてはこんなところじゃないかな。
- 163 名前:日本@名無史さん [2006/05/02(火) 16:29:13 ]
- 長岡含め奥羽越の国のやつらや降伏しないで徹底抗戦したやつ全員時勢の読めないクズ。
しまいにゃエゾ共和国つくるとか言って時代の流れに逆らい日本を危うくさせた糞ども!西洋列強に対する力をつけるためには国が二つに分裂されるのがいかにタブーか、その場の事しか考えず日本国の行く末を考えない輩 河井もその仲間である
- 164 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/02(火) 17:34:57 ]
- うーん、結局、161さんも162さんも同じ事、指摘してるよね。
何故長岡は戦争に踏み切ったのか>どうにも官軍は胡散臭く見えた・・・と。 後世からみる我々は確かに官軍が勝つことを知っている。それが時勢って奴 なんでしょう。だけど当時は行く末がどうにも解らない、混沌でした。官軍側 だって薩・長・土の3藩以外いつ裏切るか解らない状況。河合がそんな中で、 考えた事。それが武装中立。河合は多くを望み過ぎたのかもしれません。 ただ戊辰、西南と内戦を通してそれまでの藩意識から”日本”意識が生まれた 事も真実で、内戦もせずにすんなりと新政府が成立したとしたら現代の日本人 という概念は違ったものになっていたかもしれませんね。
- 165 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/02(火) 20:36:19 ]
- 河合>河井の間違い。
- 166 名前:日本@名無史さん [2006/05/02(火) 23:48:11 ]
- 会津勢は官軍来る前に近隣(越後・上野・下野等)に進入してる。
これに恐れを為したのは長岡(河井)。二次大戦のインチキ中立国スウェーデン並。 会津になびかず敗走兵に焼き討ちされた農民より肝の座って無い人物。
- 167 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/03(水) 13:06:48 ]
- 面白いものですね。戦略をどう見るかで人が受ける印象が全然違ってしまうんですね。
確かに戦史的視点でみると長岡は後手の印象をうけるのですが、これこそが 長岡が戦争を望んでいなかった証と理解できないでしょうか? これは私見なので不快に思ったらスルーして欲しいのですが、厳密な局外武装 中立政策は理論上は成立しても、小国がこれを完遂するのは現実には不可能だと 思います。そして河井こそが、その厳密な局外中立をやろうとした人だと思っています。 最大の失敗は官軍に要衝を奪われた事ではないのかもしれません。
- 168 名前:日本@名無史さん [2006/05/05(金) 00:40:44 ]
- 王政復古した以上、旧幕府側が恭順しても、「血祭り」の対象が「必要」だった。
しかし徳川本家は皇族と縁続きになってきたゆえ、殺すわけには行かない。 だから闘う気も無い会津、東北を血祭りにする必要があった。
- 169 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/05(金) 02:13:40 ]
- 薩・長・土の三藩の”凄み”は鳥羽、伏見の戦いにおいて勝てるかどうか解らない
のにもかかわらず戦端を開いたところにないだろうか? そして官軍と幕府軍の戦力差が官軍に傾いたのはいつだったのかを考えると、 会津を攻める他、官軍には道がなかった気がする。革命の完遂のためではなく 只ひたすら己の存亡のためではなかったか・・・・と。
- 170 名前:日本@名無史さん [2006/05/08(月) 23:51:00 ]
- 仲裁入ってまず会津さんを納得させる課程を見たかったものだよ。
峠エピソード2をフィクションで書いてくれ。
- 171 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/10(水) 10:51:41 ]
- 「どうした?刺せば気が済むのだろう?歳?・・・」筋肉質の肉体に篤い友情の持ち主なのだ_
そう歳三は感動していた。しかし、このまま謝るのも癪に触る。 「ああ、気が済むとも、思い知れ、俺を女扱いした奴ら!」癇癪玉が破裂したかのように めちゃくちゃに叫びながら勇に突進した。混乱した男と肝を据えた男との勝敗は 直ぐについた、懐剣を直ぐにたたき落として歳三の両手首を掴み、体を回転させて 布団の上に組み敷いた。「どうした?俺を刺すのでは無かったのか?」「俺は、女じゃねぇ!」 「そうだな、でもまだ子供だ・・・」組み敷かれて悔しさに涙を浮かべ始めた歳三を 愛しく感じてしまった勇は、そのまま歳三の唇を奪った。「うっ」歳三の驚きの声は勇の厚い舌の塊 に押し込められた。 110 :風と木の名無しさん :2006/04/18(火) 15:02:46 ID:RTEvpCm8 「少し何かする前に考えろ、歳・・・」舌を差し込んで歯をこじ開けて歳三の柔らかい細い舌を絡めた。 唾液をたっぷり流し込んで、愛しさを込めて接吻を繰り返した。 「う・・・」涙を浮かべながら、その唇の動き、勇の舌の咥内の動きに逆らえなかった。 「歳・・・お前は男だ、男の子なんだな?なら男同士にしか出来ない契りを結ぼうな?」 「こ・・・」「かっゃんで良い、これからは、義兄弟、男同士の付き合いだ」 優しく諭すと桜色の乳首にも遠慮無く吸い付いた。「アッアアー」体を捻ろうとするが両手首を しっかり押さえられていて、その愛撫から逃れる術は歳三には無かった。 「美味しいよ・・・甘い・・・」勇の額に汗が浮かび、それが歳三の首に落ちる。 「んっん」様々な場所に官能の刺激が走り、体がびくびくと震える。
- 172 名前:日本@名無史さん [2006/05/10(水) 21:47:00 ]
- ↑つまらん
- 173 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/10(水) 22:23:07 ]
- >>171ごめん、萌えてしまった…
- 174 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/10(水) 23:01:15 ]
- 171=173
- 175 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/11(木) 20:59:52 ]
- >>170
果たして長岡に官軍と会津の仲裁が出来たのか・・・考えてみた。 停戦交渉とは理論をもって利益を争うものと定義しました。(専門家の皆様ごめんなさい) 終結の大原則はお互いに戦争を止めたいと願っていると定義しました(同上) そう考えると官軍も、会津も戦争をなにがなんでも避けようとしたのでしょうか? むしろ会津には戦わない理由よりも戦わなければならない理由の方が多い気がするのです。 会津は京都守護職として治安、政、謀略の最前線において官軍と互角以上の戦いをおこない どの藩よりも官軍の実体を把握していました。会津の悲しさはそこにあるような気がします。 ラストサムライという言葉は彼らにこそふさわしいのかもしれません。 以上、私見です。
- 176 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/12(金) 23:22:04 ]
- 河井継之助と小林虎三郎は萌えますか?
- 177 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/13(土) 09:31:25 ]
- 河井継之助ってワッキーに似てない?
- 178 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/13(土) 22:12:28 ]
- もうすこし顎が張ってればね。
関係ないけど”るろうに剣心”で斉藤一がブレイクしたように河井も どこぞの漫画家が美男子に書いたら萌えの対象になるのかな?
- 179 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/14(日) 03:26:05 ]
- それはそうでしょう
実像より自分の妄想の方が大事な連中だから
- 180 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/14(日) 12:03:57 ]
- 會津は最初恭順で行くつもりだったし、冷や飯を食わされているとはいえ
重役に恭順派も居たように思います。 戊申の後半戦は誰が考えても最初から勝敗が見えていたと思いますから、 むしろ西軍こそ後顧の憂いを断ち切るために世良修三のような輩まで動員して 奥羽列藩を戦場に引きずり出す必要があったのではないかと。 河合継之助の場合最初の西軍との接触で好感触を得たようですが、ここで うまくいくとしても、条件から會津の説得を外させた上でのことではないでしょうか。 河合には外交戦で敗れた段階で藩國の末路が見えていたはずですが、 すべて見抜いた上で時間稼ぎのような選択肢をとらざるを得なかった事情の中に 己の軍事の才や新兵器の威力を試したいというような、陽明学の徒からみれば いささか浅ましい動機も含まれているような気がしてしかたありません。
- 181 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/14(日) 20:29:29 ]
- 河井なんかより新撰組の方が萌えれます
- 182 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/14(日) 22:13:53 ]
- >177
坂田利夫
- 183 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/15(月) 03:20:56 ]
- >>180
ひさびさの大型投稿有難うございます。なるほど仰る通りだと思います。 ところで長岡の外交について詳しい資料を探しているのですが何かお勧め なのがあればご教授願いませんか?
- 184 名前:180 mailto:sage [2006/05/15(月) 20:19:38 ]
- 残念ながら史書は読んでいません。
どこまでが史実か疑わしい「峠」の斜め読みしかしていないのですが、 外交戦はクライマックスのひとつなので、詳しく丁寧に描かれています。 その「峠」に長岡旧藩士今泉鐸次郎の「河井継之助伝」というのが 土佐の軍監岩村高俊との考証に関する参考図書として紹介されていました。 岩村は後日河井の申し入れを相手にしなかったことについて弁解していますが、 これは西軍が北越戦争で苦戦し、多大な犠牲を払わざるを得なかったという 結果をふんでの弁解のような気がします。
- 185 名前:183 [2006/05/16(火) 21:45:23 ]
- >>184
ソース有難うございます。なかなか資料のない戦争なので大変ですよね。 ところで司馬作品のもう一つの河井の短編小説の方は読まれましたか? 180さんのもつ河井観に近い姿が書かれてますが未読ならお勧めします。 (余計なお世話とお感じになられましたら謝罪いたします。) 岩村についてですがこの人物も評価が難しいですよね。残された写真などを 見るとなかなか面白味のある人物に見えますし・・・ 何にせよ官軍側も無我夢中だったのだろうなと思ったりしています。
- 186 名前:180 mailto:sage [2006/05/17(水) 23:02:28 ]
- 「峠」を読んだだけの私におつきあいいただいて恐縮というか、申し訳ありません。
私が若い頃は就職の面接で龍馬を尊敬しているだとか司馬の書籍が愛読書だとか 答えろと言うセオリーのようなものが吹聴されていて、私はそういうのに対する 嫌悪感から司馬遼太郎の歴史小説を遠ざけてきました。 従って、「英雄児」の存在すら文庫版「峠」の解説で知り、読んでいません。 「英雄児」と比較すれば「峠」は河井が比較的好意的に描かれているということ ですが、傲慢不遜で己の才覚に酔っているなど、河井の人間性に関する叙述を 見ると作者がこの人物を武士道の精華とは思っていないような気がします(私は 司馬氏の作風を知らないので、このような描き方は人物を活き活きと描く テクニックで普通なのかも知れませんが)。 経世家としての実績や北越戦争での活躍(と挫折)はあくまで結果論です。 しかし、河井をこの学派の先輩である中江藤樹や熊沢蕃山と比較すると、もっとも 基本であるはずの修身という面で著しい不足感があって不自然な感じがします。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%9D%91%E9%AB%98%E4%BF%8A は北越戦争時代の比重が高い岩村紹介ですが、これを読む限り「峠」での紹介に ほぼ近いですね。
- 187 名前:日本@名無史さん [2006/05/22(月) 23:38:45 ]
- そうねぇ、その不自然さこそ
考えさせられるわけだが 俺は「きわどい夢をみていたのだよ」という表現が 「峠」の中で心に染みたよ。 小説に肩入れしすぎではあるかもしれないが 司馬作品はそういう風に胸を打つところがあるし それを味わえるところが好きだ。
- 188 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/23(火) 21:11:18 ]
- 安岡正篤が山田方谷を紹介するのに
「人を人とも思わなかったあの河井継之助がたった一人方谷にだけ頭を下げた」 などと書いているので、「峠」の河井継之助像に作者の特別なフィルタ等は かかっていない(敢えて曲げてはいない)ようです。 藤樹・蕃山の「愛敬」「謙」は河井の陽明学には全く無用のように思えるのが 尚不思議。
- 189 名前:日本@名無史さん [2006/05/29(月) 21:41:48 ]
- >>116>>122
「精神・道徳・言動は、おおむね自己の内に収斂せしめることを第一義とする。 外に発出するとしても、それはやむにやまれるものがあってそうすることである。 宇宙万物みな、そうである。」と陽明学にはある。 陽明学というと心で思ったことはなんでも行動に移すと思われがちだが、 本来は外へ向かう思想ではなく、己の心に向かう思想だと思う。
- 190 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/30(火) 03:16:00 ]
- 日テレ年末時代劇版「河井継之介」、DVD発売
www.amazon.co.jp/gp/aw/d.html/ref=ms_d_p_7_p1/250-2796111-3840230?a=B000FI8UCW&uid=NULLGWDOCOMO&edi=5wr361ari5cB048a0C9SGQb%2F2rRTVw%2FHgELpGjUCdVQ%3D
- 191 名前:日本@名無史さん [2006/05/31(水) 12:48:18 ]
- >>190
そんげ駄作いらね
- 192 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/05/31(水) 23:29:42 ]
- 河井の陽明学と言うのは、あくまで河井自身が政治家に必要な要素のみを凝縮した物のような気がする
どう見ても、鵜呑みにできるタイプじゃないですしね だから、真正の陽明学とは違う物になったんじゃないでしょうか・・・・・
- 193 名前:日本@名無史さん [2006/06/27(火) 23:21:12 ]
- そうだね
- 194 名前:日本@名無史さん [2006/07/03(月) 00:04:09 ]
- とびだせ
- 195 名前:日本@名無史さん [2006/07/11(火) 13:51:51 ]
- この人のお墓は何度建てても壊されたらしいね。
無理もないけど。
- 196 名前:日本@名無史さん [2006/07/13(木) 05:01:05 ]
- 尊敬はしている。だが尊敬が高ずる余り農作業まで手伝うとなれば、これはおべっかさ。
尊敬はあくまで純乎たるべきものであって、おべっかが混ざっては相ならぬ
- 197 名前:日本@名無史さん [2006/07/13(木) 18:37:26 ]
- 何度も墓を破壊したかと思えば、
村興しの材料に使ったりもする。 どっちかはっきりしろよ、東北人。
- 198 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/07/13(木) 19:49:44 ]
- 新潟は東北ではありません
- 199 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/07/16(日) 01:06:26 ]
- 阿賀北は東北 糸魚川は北陸 新井頚南は信越
- 200 名前:名無し募集中。。。 [2006/07/16(日) 04:39:29 ]
- 天皇の世紀はこの人の死で終わったそうだがホントは明治天皇崩御かせめて西南の役まで書きたかったのではなかろうか
- 201 名前:日本@名無史さん [2006/08/01(火) 17:56:33 ]
- 河井継之助が好きならば陽明学を学ぼう
- 202 名前:陽明学の対話 [2006/08/02(水) 01:45:01 ]
- 古来、英雄は自立した。しかし今の世は封建の世だ。人に使われぬ男は大したことはない…
…されば、佐久間象山はどうです? 佐久間は百年に一人、出るか出ないかの巨才だ。だが、おのれの才を頼む余り、つねに身を反らし、性格は驕慢で鼻持ちならぬ… 人はその才を恐れるが、その人物を蛇褐のようにきらう。これではせっかくの才が世に使われようもない。 な、河井。そう思うだろ?
- 203 名前:日本@名無史さん [2006/08/16(水) 16:56:32 ]
- 命日あげ
- 204 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/09/01(金) 16:18:07 ]
- 昔「知ってるつもり」って番組で、河井継之助が取り上げられてたと思うのだけど、見た人いますか?ゲストの武田鉄矢が泣いていた記憶があります。
- 205 名前:日本@名無史さん [2006/09/09(土) 08:53:42 ]
- >>204
6年ほど前に結婚できない男の阿部ちゃんが主演した奴かな?? 武田鉄矢が泣いてた記憶はあまりないけど、 現代のサラリーマンと河井をかぶせて放送した奴。
- 206 名前:日本@名無史さん [2006/10/01(日) 00:49:43 ]
- 男の中の男、継之助
- 207 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/10/04(水) 21:43:22 ]
- だとは思うが、あまり関わりたくはない
- 208 名前:日本@名無史さん [2006/10/09(月) 01:13:57 ]
- つぎさ〜
可愛い可愛いと今朝まで想い 今は愛想も 継之助
- 209 名前:日本@名無史さん [2006/10/09(月) 02:24:44 ]
- 良運さんって実在したの?
- 210 名前:日本@名無史さん [2006/10/09(月) 02:26:17 ]
- さあな。
でも長岡の歴史資料館にも名前出てた気がする
- 211 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/10/13(金) 23:33:23 ]
- アニメ出演記念
- 212 名前:日本@名無史さん [2006/10/16(月) 06:01:58 ]
- 「犬死にする覚悟はあるか」ってのは脚色?
- 213 名前:日本@名無史さん [2006/10/20(金) 22:42:14 ]
- 長岡まちめぐりミュージアム
www.e-machi.city.nagaoka.niigata.jp/
- 214 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 18:20:22 ]
- 継之助が明治維新のメンバーに入れたとしたら
大久保の独裁はなかったろうな
- 215 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 22:01:08 ]
- 揉めて即効辞めてそうだけどな
- 216 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 23:21:25 ]
- >>214
大久保の独裁の代わりに河井の独裁か。 まぁ教養が低くて客観的情報・大局観に欠けた民衆による民主政治はどっちみち無理だし。 しかし人脈スキルに幾多の政争経験からして、河井では大久保には太刀打ち出来ぬ。
- 217 名前:日本@名無史さん [2006/11/15(水) 23:42:01 ]
- 江藤とか小栗とともに善政を行ったいたかも
- 218 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/11/17(金) 21:16:27 ]
- ありえん、薩摩隼人に暗殺されんのがおち
幕府がわなら、水戸藩士に暗殺 キャラ強すぎ、行動力ありすぎ
- 219 名前:日本@名無史さん [2006/11/17(金) 21:59:38 ]
- 長岡藩って水戸藩と因縁深いですね。
最後の戦いも水戸藩内だったし
- 220 名前:日本@名無史さん [2006/11/18(土) 07:23:19 ]
- 戦争はしてはならんでや
- 221 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/11/18(土) 07:43:17 ]
- ガトリング家老は政治をもうやらんだろう。
渋沢と同じ経済界で食って、回顧録を書いて70で死にますた。 ってところ。
- 222 名前:日本@名無史さん [2006/11/20(月) 02:00:28 ]
- 「峠」は名作だな
- 223 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 09:40:18 ]
- >>222
長岡行って来い 感動するよ
- 224 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 10:03:45 ]
- >>223
行って来たぞ。長岡はいい町だ。酒もうまいし。 ついでにキチガイのような河井ファンもいなかったので よかったw
- 225 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 11:15:54 ]
- 歴史館の軍扇はガチ
- 226 名前:日本@名無史さん [2006/12/23(土) 00:31:40 ]
- 俺もいつか長岡逝きたいなぁ
- 227 名前:日本@名無史さん [2006/12/24(日) 13:33:27 ]
- 27日に長岡の河井継之助記念館行く奴いる?
- 228 名前:日本@名無史さん [2006/12/24(日) 13:55:48 ]
- 規模が気になるな。
- 229 名前:日本@名無史さん [2006/12/25(月) 15:19:36 ]
- 峠以外に河井主人公の名作ない?
- 230 名前:日本@名無史さん [2006/12/26(火) 17:46:56 ]
- 明日記念館開館っつーから行ってこようかなと思ったけど雨かぁ。
あさっての雪とどっちがマシかな・・・ 答えて長岡な人。
- 231 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 17:48:26 ]
- 過疎っているのでやってきましたよ。
長岡は明日から雪っぽいね。
- 232 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 18:32:32 ]
- 慈眼寺の会談の間は中越地震で壊滅的打撃を受けたけど有志によって復旧された
河合継之助が慈眼寺会談の後で飯を食べた料亭は今も存在する 当然、予約を入れて金さえ払えば食事をすることができる
- 233 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 18:34:55 ]
- 旧宅跡はどうなっているのかなあ?
平凡社、『塵壺』また出版してくれんかなあ。
- 234 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 19:37:16 ]
- 旧邸宅って河井継之助記念館のこと?
ほぼ当時の状態を現存して見学できるよ。
- 235 名前:日本@名無史さん [2006/12/29(金) 20:47:37 ]
- 31日まで無料。
【新潟】河井継之助記念館オープン 俳優、中村勘三郎さんも駆けつける 31日まで無料開放…長岡 news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1167275119/ 雪は降ってるけど 駅から近いのでそんなに大変じゃないでしょう
- 236 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 00:57:01 ]
- 河井継之助記念館が開館
長岡の生家跡遺品やパネルなど展示 幕末の長岡藩家老・河井継之助(1827〜68年)の生涯を遺品やパネルなどで紹介する「河井継之助記念館」が27日、長岡市長町の生家跡でオープンした。市制100周年を記念し、長岡市が生家跡にあった住宅を記念館に改修した。31日まで無料で公開される。 司馬遼太郎の小説「峠」の主人公として知られる河井。藩財政の建て直しや兵制の近代化に尽力をしたが、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍を指揮し、薩摩・長州藩率いる官軍に敗れた。 記念館には、河井唯一の著書とされる日記「塵壺(ちりつぼ)」の原本や当時身につけた蓑(みの)など32点を展示。親友の藩医・小山良運に送った河井の書簡も北越銀行から市に寄贈され、展示された。 開館式には、テレビドラマで河井役を演じた歌舞伎俳優中村勘三郎さんも駆けつけ、河井が国内で最初に使ったとされる「ガトリング砲」の原寸大模型を見て「テレビで使ったやつより立派」と感心しきり。 河井のひ孫にあたる東京都目黒区、会社員河井弘安さん(44)は「(河井は)長岡をよくしようと知恵を絞った。記念館が長岡の将来を考えるきっかけになればうれしい」と話した。 年内は午前10時〜午後4時。1月1〜4日は休館で、5日以降は午後5時まで。入館料大人200円、大高生150円、小中生100円。問い合わせは記念館(0258・30・1525)へ。 (2006年12月28日 読売新聞) ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/news001.htm >河井のひ孫にあたる東京都目黒区、会社員河井弘安さん この記事中の「ひ孫」という表現は合ってる? 河井家を継いだ森茂樹は、河井継之助の姪の子供だから河井家の血は流れているけど、 河井のひ孫ではないよな?
- 237 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 06:21:28 ]
- 15年くらい前に、奥只見の記念館に行ったけど、
それより大きいですか?
- 238 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 19:27:03 ]
- 「峠」また読んだ。「竜馬がゆく」より名作かもな
- 239 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 01:17:49 ]
- もう一つの答えとして、西軍に降伏した場合のことを考えてみよう。
降伏した場合、それは直ちに西軍への従軍、会津征討の先鋒を勤める事になる。 長岡領内は、西軍と同盟軍(精強を歌われた庄内の酒井家などが中心)とが激突する戦場になる。 仮に西軍に降伏して勝利を収めたとしても、出羽久保田の佐竹家の例もある。 佐竹家は慶応四年の7月4日に戦況が互角の時期に西軍の誘いに乗る形で同盟を離脱して、西軍に 参加。津軽家を始め、8つの大名家が佐竹家を支持し、奥羽戦線での西軍の勝利に一役買っている。 明治元年の太政官日誌では、「戊辰兵火焼失届」と「出兵人員及び死傷者調」が佐竹家から出ている。 これによると、佐竹家では領地の75%を同盟軍(酒井家や伊達家・南部家)に占領され、民家の総数 17085戸の内4684戸が焼失した。(戊辰戦争で長岡牧野家が失った戸数は、3598戸) 敗走する西軍(援軍としてきた鍋島家や、島津家など)や進攻する同盟軍の手で田畑は荒れ果てた。
- 240 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 01:42:14 ]
- 金がなかったので、戦費として、イギリス商人のオールトから借金として
50万両を含む約160万両が借金として残った。この中には軍艦2隻(陽春・高雄)とエンフィールド銃3000挺と弾薬が含まれる。 兵士と軍夫あわせて8698人が戦場に投入され、戦死者329人、負傷者316人、合計645人。(戊辰戦争で長岡牧野家の犠牲者は、従軍者約1300人、戦死者309人、負傷者289人) 行き詰まる財政と荒廃した領内を立て直すため、太政官に50万両の下付を願い出たが、財政難を理由に下付されたのは20万両。また、太政官の戦後行政と欧化政策に反発する形で、 家臣団の中から大参事の初岡敬治が諸国の不満分子と一緒に太政官転覆運動に身を投じて、明治4年の「国事犯事件」で処罰された。(初岡自身は処刑された。) 太政官からは、「難治県」と呼ばれ、廃藩置県後に県令として赴任した島義勇に20年は遅れていると馬鹿にされるのである。
- 241 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 02:25:58 ]
- まあ、蛇足になるけど、酒井家側の資料(戊辰庄内戦争録)では、負け続ける佐竹家の戦死体は、領民たちの手によって、身包み剥がされて素っ裸で、雄物川に捨てられたとあります。
会津松平家にも、似たような話があると聞きます。また、出羽新庄の戸沢家の領民などは、西軍と同盟軍の戦いを弁当を持参して、負けた戸沢家家臣団に罵声を浴びせて見物していたと聞きます。 当時の民衆というのは、公平な裁判と公平な税制さえ行われていれば、支配者は天皇だろうが、将軍だろうが誰でもいいんじゃないの?
- 242 名前:日本@名無史さん [2007/01/05(金) 19:07:00 ]
- 河井継之助記念館大晦日に行ってきました。
規模は小さかったけど面白かった。 また行って、もっと細かく見てこようと思う・・・
- 243 名前:日本@名無史さん [2007/01/07(日) 00:11:08 ]
- 今日、白虎隊実況スレで記念館ができると聞いてきますた。
こりゃさすがに逝かないとな。
- 244 名前:日本@名無史さん [2007/01/07(日) 23:43:00 ]
- ×ガトリング家老
○カトリング餓狼 ×ガトリング砲 ○餓式機関砲
- 245 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 02:12:22 ]
- 峠>竜馬がゆく
だと思ってます。
- 246 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 08:18:20 ]
- 去年、大雪で困ってる人が居ると聞いた瞬間高速バスの手配して雪下ろしに行きましたが、
これが知行合一でしょうか河井執政
- 247 名前:OPS mailto:CEII [2007/01/08(月) 09:55:36 ]
- 竜馬がゆくより名作なんですか峠は?
- 248 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 16:27:19 ]
- >>247
好みもありましょうな。
- 249 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 17:04:16 ]
- >>229
司馬の短編で河井主人公のやつがあるね。 「英雄児」だったかな?名前は忘れた。 俺はこれを読んで「峠」を読みたくなったよ
- 250 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/08(月) 17:34:49 ]
- >>249
「英雄児」でOKです。 「峠」よりも短編の方が出来はよろしいかも知れません。 私は「馬上少年過ぐ」の長編がもし書かれていたら読みたかった。
- 251 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 17:43:46 ]
- >>250
「馬上少年過ぐ」は良い作品だよね。 司馬の好き嫌いは別にして、政宗への評価が見える。
- 252 名前:日本@名無史さん [2007/01/16(火) 11:52:36 ]
- 2007年もアゲアゲでいきましょう!
- 253 名前:日本@名無史さん [2007/01/17(水) 19:10:12 ]
- 新政府軍の書き込みなど、ガトリング家老自ら粉砕してくれるわ!
- 254 名前:山田方谷 [2007/01/18(木) 02:44:32 ]
- 河井、心せよ
- 255 名前:日本@名無史さん [2007/01/19(金) 20:19:06 ]
- 河井さんをあまり叩かないように。長岡市民+長岡DNA保有人+田中真紀子サンが決起します。
- 256 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 08:23:32 ]
- 田中真紀子のようなDQNの支持など迷惑千万! ガトリング家老自ら粉砕してくれるわ!
- 257 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 14:29:21 ]
- 真紀子ですが何か?
- 258 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 23:08:59 ]
- 長岡に本家ありますが何か?
- 259 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 10:37:22 ]
- なごーか
- 260 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 11:04:26 ]
- 福沢諭吉の「痩我慢の説」を政治的に見たければ、越後長岡の牧野家を見てください。
その結果がよくわかります。河井は福沢理論を忠実に再現した人物といえましょう。
- 261 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 21:06:44 ]
- そんな書き方すると長岡系だけでなく、別な意味で慶應閥も敵にまわすんじゃないの?
- 262 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/21(日) 22:15:44 ]
- >>261
私の意見は>>239、>>240、に書かれています。 河井が領内を焼け野原にしないためには、独立特行策が成功する以外にないと言うことです。 それ以外は、西軍、同盟のどちらについても焼け野原は避けられないであると言うこと。 (それは慶応4年8月1日付、梛野嘉兵衛宛ての手紙によく書かれている。) そうした河井の行為、思想を福沢が後から理論化したような気がするんだよね。 勝海舟に対するアンチテーゼとして・・・ ただ、この批評は昔(1980年代頃)からNHKテレビの「歴史への招待」などで評論家 がよく使っていたよ。 昔は故村上一郎。ちょっと前だと、松本健一、半藤一利両氏あたりが。 スタンスは、村上は好意的に、松本は中立的に、半藤はやや批判的に。 それでも、八幡和郎よりははるかにましだけど。
- 263 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 23:18:30 ]
- >>262
十分理解しました。
- 264 名前:日本@名無史さん [2007/01/22(月) 06:09:05 ]
- >>239によれば、久保田藩佐竹家二十万石では17085戸の内4684戸が焼失。
長岡藩牧野家七万四千石では3598戸の喪失か。喪失率では長岡の方がひどそうだな。 新政府による援助の受け安さというファクターをも加えると??
- 265 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 16:52:47 ]
- 長岡藩総攻撃の官軍指揮官は土佐藩出身だ。継之助が単身和睦を談判しにいって「朝敵!朝敵!」と馬鹿の1つ覚えを怒鳴りまくっただけそうだ。
高知県とはそんな県なんだろうな。
- 266 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:30:47 ]
- 長岡攻めの官軍軍監は岩村精一郎(土佐藩士)だ。こいつ、後に名前を変えて岩村高俊って名前で福岡県令(県知事)になってる。県令になるのに何万人殺したんだろうな!
河合継之助率いる長岡藩は、こいつらみたいに無駄な人殺しや略奪は一切してないぞ。 どっちが野蛮人だろうな。 錦の御旗って本質的に何の為にあるのか? ハッキリ言えることは、相手が恭順を示しても虐殺するためにある[道具]であることは歴史が証明している。
- 267 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:48:03 ]
- このスレの結論は、「東北人越後人は要領が悪すぎる」だな。
- 268 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/25(木) 20:53:46 ]
- 正直自分は岩村がやったことのほうが正しいと思うけどな。
中立なんて認められるわけ無いだろ。阿呆らしい。 河合は元々主戦論者。中立なんて許したら会津は攻められない。 岩村も無理矢理な要求押し付けたりして馬鹿だったけどな。 錦の御旗は正義を主張する為だよ。自分達が正しいってことを証明してくれる。 要は天皇を握った証だと思うけど。天皇が正義だからね、あの時代。 ついでに恭順って何処の藩のこと? 長岡なら恭順じゃないし会津は武備恭順な上に反政府組織援助してる攻め込まれてもしょうがない藩だぞ?
- 269 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:56:49 ]
- 確に、手のひら反しの大名人山内一豊一族が納めた糞高知のように人間がだらしなくなれませんでしたね。
- 270 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 21:20:46 ]
- >>268
浅いよな。 継之助は、岩井のとこまで頭下げに行ってんだよ。 主戦派なんて、何でおまえが断定できるのか謎だな。 主戦派の根拠なんて、財政立て直して内部留保した10万両を原資にして、フランス式兵制へ変更したってんだろうがね。 単純に他藩はやりたくてもそれを行う金がないからできなかっただけじゃないのかな。 火縄銃で戦に勝てるなんて全国の武士は誰も考えてないよな。 主戦派云々なら、慶喜だって後世の歴史評論家の意見分かれてるくらいなのにな。会津だって容保帰国後に朝廷へ恭順の意と謝罪を示してるよな。 しかもさ、越後の中でも中立を保った藩が実際あるが、おまえさんの断定論法と食い違っているから楽しいよ。何を言っても自由だが、越後史を変えないでね。
- 271 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 21:22:42 ]
- >>270だが、岩村を岩井と誤記載スマン
- 272 名前:日本@名無史さん [2007/01/26(金) 21:21:31 ]
- ./ ;ヽ
l _,,,,,,,,_,;;;;i <いいぞ ベイべー! l l''|~___;;、_y__ lミ;l 逃げる奴は俄か西軍だ!! ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げない奴はよく訓練された薩長兵だ!! ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ ,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ / ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー |;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / | ゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l | ヽ ヽ _|_ _ "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ /"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" / ヽ ー──''''''""(;;) `゙,j" | | | ↑ガトリング家老の雄姿
- 273 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 00:29:36 ]
- 河井継之助伝に小山正太郎氏の談話が掲載されている。
『故品川子爵(弥二郎)は、かつて当時の京都に関して自分にこういう話をなされたことがある。 「京都で皆が寄ってたかって相談の結果、各藩を説得して味方にするには、勅使を出したほうが良いと決まった。 しかし、単に勅使といっても、別に何か有難味がなくてはいかぬというので、それに錦の御旗が良かろうということになった。 ところが錦旗杯というものは何所にもない。さりとて無暗に作ったことが世間に聞こえては有難味がないという所から、 木戸の妾(幾松)が小才のあるのを幸いに、これに命じて西陣へ遣り、自分の帯にするという口実で錦を一巻買わせて来て、 夜こっそり旗に作らせ、翌朝禁裏の寶蔵から恭しく持ち出し、是が、錦旗節刀を賜うさ。 ところが我々を土下座させた大名共が、この木戸の妾の帯に土下座するという始末さ。ずいぶん滑稽だね。」 是が真面目の話で、当時の事情は全く斯くの如きものであった。』 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 昭和6年 目黒書店 731〜732ページ 錦の御旗に関しては、岩倉具視の謀臣、玉松操の説もあるので、なんともいえない。 しかし、当時の空気、雰囲気というものが伺えるものではないだろうか。
- 274 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 14:00:22 ]
- 俺は時代劇に出てくる官軍の馬鹿どもが鳴らす笛の音を聞くとむしずがやどる。
DNAに複写されてるのだろう。
- 275 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 14:30:10 ]
- 虫唾が走る、が正しいと思います。
- 276 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 16:31:52 ]
- 宿っちゃったんだが、走らせるか(汗笑)
- 277 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 21:06:55 ]
- >>273
錦の御旗は幾松じゃなくて大久保の妾のおゆうだったと思うが。 本当に河井伝にはそう書いてあるの?
- 278 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 22:15:16 ]
- >>277
>>273に書いてあるとおりです。 図書館で借りるなり、古本屋に行って取り寄せて読むなりして、確認してください。 私は河井伝を持っていて、そのまま、引用しただけです。 ここでいいたいのは、小山氏は長州毛利家の錦の御旗がそのように作られたと聞いたということ。 実際、薩摩島津家と長州毛利家それぞれ材料が渡されて、薩摩では大久保が、長州では品川が 玉松操のデザインに基づいて錦の御旗を作った。 けど、それが重要なんじゃないんだよね。 事実や本質がわかっていれば、錦の御旗は、妾の帯でしかないこと。 それは作った本人たちが自覚しているのだから。 判ってない奴が土下座をするということだ。
- 279 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 22:21:14 ]
- 今度、図書館で探してみるよ。
ただ普通の本には大久保の妾おゆうだって書いてあったから、疑問に思っただけ。 幾松は当時京都じゃなくて長州にいるから、成り立たないし。よくある当事者の記憶違いだろうね。
- 280 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 00:36:35 ]
- >>278
>けど、それが重要なんじゃないんだよね。 >事実や本質がわかっていれば、錦の御旗は、妾の帯でしかないこと。 本質は、「朝廷がこの軍を官軍として認め、これに逆らうものは賊軍となったこと」でしょう。 それを理解したかしないかが、河井の運命を分けました。
- 281 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 00:39:45 ]
- >>278
錦旗は朝廷の人間が手織でこしらえないといけないってことか?
- 282 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 17:41:00 ]
- 源平合戦にしろ、戦国時代にしろ、朝廷は強いものを後押しするだけで、形勢が逆転すれば以前の敵方に皇軍の旗印を下げ渡す。
薩長が皇軍となっても、幕軍があれほど不甲斐なくなければ、それが単に一時的な状態だったかもしれない。
- 283 名前:日本@名無史さん [2007/01/29(月) 23:55:52 ]
- 全く同意
薩摩と会津へ敕命が下り長州が敕敵になったこともあったが、あっと言う間に皆さんご存じの通りになった
- 284 名前:日本@名無史さん [2007/01/29(月) 23:56:56 ]
- 敕敵×→朝敵〇
- 285 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 18:12:41 ]
- 日本人として長岡藩を誇りに思う。
- 286 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 19:20:30 ]
- 要領は悪いけどな。
- 287 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 20:47:52 ]
- そこが萌える。
- 288 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 21:44:16 ]
- 健気なドジっ子だからな。
- 289 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 21:45:06 ]
- 立見尚文という戦の神様も味方した
- 290 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 22:01:36 ]
- 健気なドジっ子には主人公が味方になるのが定石だからな。
- 291 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 22:21:27 ]
- 無器用で頑固で空気読めずにドジ実直なところは、昔の爺ちゃん達みたいだよな。
おれは好きだな。
- 292 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 06:01:45 ]
- 「河井継之助伝」には以下のような記述があります。
慶応4年3月2日のことです。 『継之助は支封小諸藩の江戸在勤の重臣を招致し、小諸藩今後の方針に就いて説示する所ありしが、 席上継之助は一同に対し、 「偖て御一同、幸いに貴藩の改革も其の緒に就き、継之助の之より帰国の心組でござる。御別れに臨んで一言申し述べたい儀がござる。 今や世事紛々、情誼図り難し、願わくば御一同、須らく大義に寄りて事を處せられよ、大義親を滅するは是春秋の名分でござる、呉々もこの一言を御忘れあるな」 と述べ、とくに 「大義親を滅す」 という一語に力を入れたり。 是宗家長岡藩の向背は、未だ何れとも決し難きものあり、万一武門の面目として、敢然薩長徒に抗戦することもありとするも、 小諸藩は、大義によりて、王事に尽瘁すべしとの意を漏らせしものなるべし。 其の夜小諸藩の重臣、継之助の為に別宴を開く、酒間、継之助杯を挙げて、(牧野)隼之進に話して曰く、 「継之助は今より忠良の臣たらんか、英雄の人たらんか」 隼之進問うて曰く、 「今や道路既に塞がる、先生は何れの道より長岡に帰られるや」 継之助破顔微笑して曰く、 「天に翔りて帰るべきか、地を潜りて帰るべきか、帰路の如き、敢えて憂うるに足らず、意を安んじて可なり」 と。 継之助又私かに隼之進に対し、 「政変近きに来るべし、御分家三家のうち、一家だけは、残したきものなり」 と語りしという。 (牧野隼之進の男、成功氏の談)』 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 278〜279ページ
- 293 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 07:14:18 ]
- 河井が太政官に牧野忠訓名義で書いた建白書(慶応3年12月)にしても、当時の江戸の譜代、家門大名の空気をそのまま書いたという話があるから。
当時(慶応3年10月)から紀州徳川家を中心に大政奉還後、徳川家に対して大政再委任の運動が行われていた。 檄文は11月5日に紀州徳川家の江戸屋敷において読まれ、11月17日までに94の大名家が、 「忘恩の王臣たらんより、今より全義の陪臣となり、ますます砥節奮武の目的相立て候」 いう目的の下、徳川家に官位返上の嘆願書を提出したとある。 檄文の原文は復古記の巻3にあるといいますが、これは入手するのが難しいので、簡単に見たい方は、 参考文献 勝海舟全集巻14 陸軍歴史4 講談社 江藤淳 川崎宏 司馬遼太郎 松浦怜 共著 昭和50年 741〜742ページ に収められていますので参考にしてください。 その現代語訳は 参考文献 最後の江戸留守居役 ちくま新書 白石良夫著 平成7年 106〜108ページ にあります。 更にいえば、こうした譜代、家門大名とその家臣団の 「忘恩の王臣たらんより、今より全義の陪臣となり、ますます砥節奮武の目的相立て候」 と言う思想に対しての考察は井上勲の「王臣と陪臣-徳川支配の正統性についての断層」があります。 参考文献 江戸とは何か-徳川の政治と社会 至文堂 大口勇次郎編集 昭和60年 183〜209ページ にあります。 井上勲には更に踏み込んで、「王政復古-慶応三年十二月九日の政変」-中公新書がある。 私は、河井がこうした思想の側の代弁者であり続けたと、考えるけどね。 結局、王政復古の思想を上回る思想、政策を打ち出すことが出来ず、(河井の政治思想は、あえて言うなら安政年間に橋本左内 が提案した、徳川色の強い公議政体論だったのではないか?)王政復古のやり直しを求めるにとどまったのではないだろうか? 甥の根岸練次郎の回想文を読むと、そう思えてならない。 参考文献 塵壺-河井継之助日記 平凡社 安藤英雄交注 昭和49年 318〜321ページ
- 294 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 09:02:57 ]
- >>293
なるほど
- 295 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 11:01:20 ]
- そんな譜代大名たちも、いざ官軍が東征を開始したら、奥羽列藩同盟を別にしたら、
林忠崇みたいな例外を除いて、みんな朝廷に帰順したんだが・・・ あえて官位を返上して徳川宗家の家臣にとどまるような骨のある大名はいなかったな。
- 296 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 12:57:54 ]
- >>295
そのことも踏まえて、井上勲氏は考察を書いています。 井上勲氏の考察や著述を読んでください。
- 297 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 19:42:13 ]
- いやー奥が深いね!
- 298 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 21:11:13 ]
- ますます「東北人越後人は要領が悪すぎる」という結論が強調されるスレの流れだな。
なにしろ、「譜代も外様も一緒くた」だからな。
- 299 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/04(日) 02:06:03 ]
- ただねぇ、要領がいいと言うのも考え物で、裏を返せば、あまりにも簡単に状況に従いすぎると言うことではなかろうか?
逆に言えば、原則に固執する頑固者-福沢理論でいうところの「痩我慢」-が少ないということでもあるわな。 勝てば官軍、バスに乗り遅れるな、と言う現象はどこにでも見られるが、日本ほどそれが目立つ国は少ない。 それは内政では更に見られることで、勝者が大をなすには、原則を守るがゆえに意地でも従わない、と言う人物がおらず、利益になるなら 従っておこうと言う状況判断がここ一番の場面で支配したことにもよる。 よく言えば柔軟性という美徳ではある。が、悪く言えば、利益のためなら自分たちで定めた規範・規則と言った類を平気で無視する、 と言われても反論できない部分ではある。 これは美徳とは表裏一体となる部分であり、美徳の裏の欠点を意識しなければならないのかな。
- 300 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 01:26:12 ]
- 戊辰戦争において要領がいいのは美徳以外の何物でもないだろう。
御家を戦に巻き込み、領土を焦土にし、領民を苦しめるのよりよっぽどいい。 到底そうは思えんがな。だから自分は日和見マンセーだ。 自分達にとっての利益を追求するというのは別に悪いことでも何でもない。
- 301 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:52:27 ]
- 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、 余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、 戊辰戦争当時を追懐して、 「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」 といわれ、 「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。 あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり) ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。 我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・ そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。 分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。 我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。 −といってやったものだよ」 云々。 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
- 302 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:53:47 ]
- 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、 余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、 戊辰戦争当時を追懐して、 「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」 といわれ、 「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。 あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり) ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。 我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・ そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。 分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。 我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。 −といってやったものだよ」 云々。 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
- 303 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:56:08 ]
- すまん、おなじやつ2度いれた。
- 304 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 22:36:54 ]
- >>300
井上勲氏の「王政復古-慶応3年12月9日の政変」の273〜276ページに理由付けがあるよ。 あなたがこれに納得するかどうかはわかりません。 275〜276ページに結論が書いてあるから、そこだけ引用するね。 「天皇の決断と突然の公示とその想像を絶した内容と、発動のための軍事発動と、これらの複合は、たしかに人身を戦慄に陥れるだろう。 その何れもが予想と理解を超えたことだからである。天皇の決断とその内容が予想の内にあり、軍事発動の目的が理解できるならば、まだしも対応の方法がある。 だが、そうではない。いずれも予想と理解を超えている。 ここから戦慄が生じる。戦慄は畏怖に変化する。決断を下し軍事力を発動させた主体、つまり、天皇睦仁への畏怖へと変化する。政治君主としての天皇の権威は、 一挙に高揚するわけである。 そして、天皇への服従が始まる。服従を強いられたものは、戦慄に所由する畏怖である。 まずは、強いられた服従である。けれども、他から強いられてはじまった服従は、しばしば、自己の判断にはじまった服従よりも、その程度において強く、また強くなりうる。 何がしかの判断に基づいて、服従がはじまったとする。ここでは、その契機をなした判断の根拠の強弱は、そのまま服従の程度に比例する。その根拠が消滅した場合、 服従の関係が解除される可能性もなくはない。 これに対して、強いられた理由なき服従は、次のような経過をたどって内面化するからである。 戦慄に発生する畏怖に強いられて、服従が始まった。当面は、理由なく服従すること自体が行為の確立である。だが、強いられた服従をそのまま放置することはできない。 強いられた者には、服従の行為を理由づけて、これを正当化しようとする心理がはたらく。外から強いられてはじまった服従は、内から正当化されていく。 この作業の結果が、天皇への忠誠である」 服従するさいの理由付けが、民の為、お国の為、御家の為といっておけば、誰もが反対はしないからね。 更にいえば、これに箔をつけるための小道具が錦旗だったのでは・・・・・ 参考文献 「王政復古-慶応3年12月9日の政変」 井上 勲 中公新書 平成3年
- 305 名前:日本@名無史さん [2007/02/10(土) 13:47:55 ]
- 議論も出尽した。潔くスレを閉じよう。
【完】
- 306 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/18(日) 20:27:28 ]
- >300 天皇の命令だからといって服従しなければならにいのは
愚民化政策ではないか。
- 307 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 12:52:34 ]
- スレ違いも増えてきた。
レスもない。 つまり議論は出尽した。 潔くスレを閉じよう。 【完】
- 308 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:25:12 ]
- このスレの結論は、これだ↓
「せっかく買ったガトリング砲、使わねえと勿体無えもんな!」
- 309 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:30:38 ]
- >>308
実際、継サ、そう思ってたと思うw
- 310 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/22(木) 21:22:47 ]
- >>309
長岡牧野家出身で、慶応義塾を卒業後、社会主義の研究者になった城泉太郎の伝記には、ガトリング砲は横浜で購入された時点では、箱の中に部品が梱包されていて、 長岡にて、藤野某が英語で書かれている説明書とにらみ合いながら組み立てたとあるけどね。 >>308 スレの結論、 「痩せ我慢、負けるな継さ、ここにあり!」 で、いいんじゃねぇ?
- 311 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 09:20:10 ]
- >>299
それは、エドワード・スネルから牧野忠訓宛の手紙の一説に書かれていることだね。 たしか「河井継之助伝」の669ページから672ページにかけて載っているやつだね。 あの当時、ルドルフ・リンダウやポンペ・ファン・メーテルフォールト、ヤング・ブラックなど横浜などに住んでいた日本通の外国人は総じて反薩長派だったんだよね。 アーネスト・メイスン・サトウの「一外交官の見た明治維新」でも、イギリス以外の外交官たちは、奥羽越列藩同盟が勝つことを願っていたけど、 会津松平家が降参したので、皆落胆したと書き記しているね。 ルドルフ・リンダウの「スイス領事の見た明治維新」を読むと、黒船がやってくるまでの日本人はつつしまやかで謙虚で、 謙譲の美徳にあふれていた青い鳥だったのに、イギリス人やアメリカ人と付き合いだすと、下品で、好戦的で金銭や土地に貪欲になるカラスのような人々になったと嘆いているね。 ルドルフ・リンダウやエドワード・スネルはそういうことを世界標準だといって、日本人に押し付けるイギリスが嫌いで、奥羽越列藩同盟を支援していたからね。 手紙の中でも、河井に投じた金銭は失ってもぜんぜん惜しくもなんともない。 むしろ、今回負けたからといっても、落胆することなく、海外貿易で金を稼いで、稼いだ金を教育に投資して、人材を作ればいいんだ、という提案までしている。 まぁ、小林虎三郎よりは前向きなことを考えていたよね。多分。
- 312 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 20:56:10 ]
- 「スイス人はイギリス人が嫌い」まで読んだ。
- 313 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/05(月) 00:11:41 ]
- >>236
なるほど、ドラマの関係で読売系列がその後もフォローしている様ですね。 www.ntv.co.jp/d-complex/contents/20051227_a.html ,/レ‐-ァ_ 7::::::::::::::::ヾ n !::::::::::::::::::ミ ( j レr ' ⌒ ヽ Y^ヽ、/ ̄ ̄ ̄/ ‐┬〈 〈 ただ―放映当時の政界の事情と過去の歴史を照らし合わせてみると www.aki7.com/cgi/up/file/Responsible_persons_has_been_released.htm この話―“統一がらみ※¹※² ”の陰謀の一端である可能性も高そうですよ。 www.chojin.com/link1.htm ※¹ www.aki7.com/cgi/up/file/21.htm ※²
- 314 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/05(月) 00:13:04 ]
- >>313 つづき
、 _v-::ニ:‐-ェ__ ゝ::::::::::::::::::::::::::Z__ _/::::ヽ::::::\::::ヽ::::::Z //::/┰\┰ヽ:::',::::ヽ /i::/. ゛゛ ゛゛ ヾ:::::ヾ !ハヽ _-n‐_ノリ!W ` /ニ) おそらくこの『河井継之助 〜駆け抜けた蒼龍〜』はその当時、 核武装論者で時期総理候補だった安倍晋三官房長官を フォローすべく企画・制作された『隠密』的時代劇だったのでしょう。 従って、このドラマには― “ 国交を回復したお父上から継承した中国との太いパイプを持ち、 911以降、日米ネオコンの無謀と横暴に対しては常に批判的な 態度を崩さない田中真紀子さんの選挙区の1つ長岡周辺の人達に 「力なき平和主義者が辿った末路」という地域的な悲劇を想起させ、 同時に 『平和を愛する人』ほど『核兵器』の様な『強力な兵器』に盲目的に 縋り付きたくなるような潜在的なメッセージが暗に込められていた ” と推測するのは、政界と関係が深く、資本的にはユダヤ系投資家の 思うがままのスポンサーやその取りまとめの広告代理店等の言いなり になり易いマスコミ関係者を疑い過ぎでしょうか(笑)? 【ターゲットは平和主義者!?死の商人は時代劇さえ利用する!!】
- 315 名前:日本@名無史さん [2007/03/05(月) 09:38:42 ]
- 田中真紀子を引き合いに出すのは、選挙区住民の民度の低さをアピールするのとイコールだぞ。
- 316 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/06(火) 01:57:19 ]
- >>315
(*^-^)ノああ、この物語の舞台が長岡※¹と聞いたので (´-`).。oO(ひょっとして…)と思って調べてみたら 案の定、>>74 あたりから >>76,>>256と「叩き」が 入ったので「シナリオ通り」!?( ̄ー ̄)と思ったまでです。 が、いささか大がかりに思われる“統一”側の『仕掛けと目論見 (>>313-314)』も、今回はどうやら不発に終わった様ですね(笑)。 ※¹ 長岡近辺はこの作品の前年にあたる2004年の 『7.13水害』のあと、10月23日『新潟県中越地震』 を経験しています。 【HAARP※²】の存在とその恐るべき可能性を知っていて、 ※² www.google.co.jp/search?hl=ja&q=HAARP 11月20日から公開された『ハウルの動く城』に隠された 暗号(暗示、あるいは呪いや魔法)に気付くことが出来た人 には怖い話だと思いますよ。 当時のネタ → www.aki7.com/cgi/up/file/0067.htm
- 317 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 03:27:08 ]
- あたまもる砦のかかり影ふけて 夏も身にしむ越の山風
うちいたす筒のけふりのかきくもり たまはあられの心地のみして 山県 狂介
- 318 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 04:32:46 ]
- 薩摩長州俎板に乗せて 大根切るようにチョキチョキと
〜長岡牧野家家臣
- 319 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 08:57:00 ]
- 男子死して、身肢衣服共に清潔ならざるは、一生の恥である
〜時山 直八
- 320 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/21(水) 10:24:14 ]
- 継之助の甥に根岸練次郎という人物がいる。戊辰戦争を回想した一文を記した文がある。
その冒頭はこう有る。 『慶応戊辰五月三日夜八時、叔父・河井継之助秋義、我家に来り、 書院に於いて余の父母と談話を交え居られたり。 余は当時十三歳の幼弱にして、世上人事は固より之を了得するの智能を具えざりしも、 父母の背後に侍して、叔父の父母に語られる事柄を聴きたり。 叔父継之助は、余が生まれて以来、嘗て我家に来訪せられたるを見たることなく、 此夜、叔父が始めて来たり、何事か要談せらるるを知り、私かに奇異の思いを懐き、 叔父の顔色を覗い、其の談話を傾聴せり。 本来、叔父は、当時厳粛の容貌を保ち、言語明晰、超凡の人たるは聞知し居たるが、 此時、叔父の言語動作は、一層慎重を加えたる事と思われたり。 正に然もあるべき、此日、小千谷に於いて、官軍の軍監・岩村精一郎に会見して、長岡藩主、 牧野駿河守侯を代表し、嘆願書を提出したるも、岩村精一郎は之を一蹴して受領せず、事茲に至っては、 如何共之に処するの途なく、巳むを得ずして一旦長岡に帰り、後図を策する考なりしと見えたり。 叔父は両親と以上の顛末を語り了りて其の宅に向うの際、 「我が心事、天知る地知ると」 明確に大声を発せられたるを聞きたること、 爾来七十有余年、余の脳裏に深く刻して消滅せるを覚えたることなし。(略) 』
- 321 名前:日本@名無史さん [2007/03/29(木) 10:28:24 ]
- ttp://www1.ntv.co.jp/ijin/form/hero/index.html
もちろん継さに投票したべ?
- 322 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/01(日) 07:13:45 ]
- >>321
票はいれた。 けど、私から見て、河井継之助という人は、上杉景勝における直江兼続ともうしますか、 劉玄徳における諸葛孔明というべき役割を果たした人でよろしいのでしょうか?
- 323 名前:日本@名無史さん [2007/04/13(金) 23:44:31 ]
- もしも、三方替えが成立していたらどうなっていたのだろうか?
河井は川越で武装中立を行っていたのだろうか? 庄内藩も抵抗していたのだろうか?
- 324 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/15(日) 03:36:27 ]
- そろそろ、この人物を司馬遼太郎の「峠」のイメージで評価するのはやめるべきだ。
自分にとってこの人物は、幕末の石原莞爾というイメージしかない。 当時、日本が欧米の植民地にならなくて済んだのは、明治維新という革命を 無血で行えたからだ。かの蒋介石はこの点は高く評価している。 だが、この人物は長岡を「満州国」にしようと企て、武力による反抗も已む得ない という姿勢で明治政府と対峙し、諸藩を巻き添えにしようとした。 幸いなことに東北諸藩が同調せず内乱状態にならず済んだが、もし東北での 戦闘が長引けば、今日の日本はなかったかもしれない。 結果、今日のようにドラマのヒーローとして登場できるのも、日本が平和だからだ。
- 325 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/15(日) 17:44:48 ]
- 仮定の話は意味がない
- 326 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 12:28:53 ]
- 明治維新は無血だったのか?
大政奉還は無血だったけどな。
- 327 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 16:27:50 ]
- 結局河井継之助の購入したガトロング砲は新政府軍のアームストロング砲には敵わなかったのか?
- 328 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 20:29:45 ]
- ↑
質問も、もう少し予習してからせねばいけません。
- 329 名前:日本@名無史さん [2007/04/25(水) 22:16:02 ]
- 峠以外にオススメの河井さんの本ある?
あと東洋文庫の塵壺が少し気になってるけど、 読んだことある人面白かった?
- 330 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/27(金) 20:41:46 ]
- >>329
塵壺は継之助の旅日記だから 峠みたく読んで面白いってのとは違うような気がする でも、山田方谷との出会いも含めた中国・九州遊学の細かい道のりなんかも判るし 日記だけあって各地の継之助のちょっとした感想なんかも載ってて ある程度の好きならばそれなりに興味を持って読めると思う。 継之助唯一の著書だし、手書きのメモとか絵もちょこちょこ載ってるしね。 ただ、もともと他人に読ませる気が無く書いてるから 多少読みやすく手は入ってるけど文章はかなり読み難いのでその覚悟は必要だと思う。 それに絶版になってるし、なかなか無いんじゃないかな まぁ、最近は電子書籍なんてもんで出てるみたいだけどさ
- 331 名前:日本@名無史さん [2007/05/01(火) 02:15:49 ]
- 神保町で塵壺800円でみかけた。
日記って確かに通常人に読ませるために書いたもんじゃないよな… 峠の河井さんは好きだからまた神保町で見かけたら購入してみようかな。
- 332 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/21(木) 01:06:53 ]
- >>329 童門冬ニであった。タイトル忘れた。友達に貸して戻ってこない。
- 333 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/26(火) 15:40:41 ]
- もし展開がかわって
山県有朋が会談にたってたらどうなってたろうね まぁ・・多分結局は破談になってたと思うが 黒田はともかく山県有朋じゃあなぁ・・・ 仮に成功したとしても会津藩を説得できたろうか?
- 334 名前:日本@名無史さん [2007/06/27(水) 13:39:44 ]
- 無理だろうな。。
継サの描いた中立は結局絵に描いた餅 理想と現実は違うんだもん。
- 335 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/28(木) 04:37:35 ]
- 司馬の書く主人公の中じゃ
島倉伊之助並みに好きだわ継之助
- 336 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/28(木) 04:41:56 ]
- >>334
だろうね、日本を統一した国!と目指してた官軍が そんな独立国家を作るような案認めるはずがないし、認めてほしくもない 河井はそのへん理解してたのかね? 自分が描いた理想は根本的に間違ってることに
- 337 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/30(土) 05:02:24 ]
- >>336
>>262がこのような意見をだしていたよん。 けど、割拠策自体は、慶応元年に薩摩島津家の大久保利通、長州毛利家の高杉晋作なども 一会桑政権に対する対抗策として、手紙の中で発案してました。 薩摩島津家は1867年に行われたパリの万国博覧会で、琉球薩摩国と名乗って参加したから。 河井の割拠策はその三番煎じ的なものなのでは。
- 338 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/16(月) 10:16:18 ]
- >>333
どうなんでしょ? 太政官も、会津松平家も互いに疑心暗鬼、憎悪に凝り固まっていたからね。 互いの陣営も、威勢のいい主戦論が幅を利かせて、引くに引けない状況を作っていたから。 無理なんじゃない。 徳富蘇峰ですら、何か落としどころが一つでもあればいいんじゃない? と醒めていたから。
- 339 名前:日本@名無史さん [2007/07/24(火) 13:04:24 ]
- 本当は戊辰戦争のとき山県有朋、黒田清隆に面会を求めたのに
岩村高俊みたいな小物に相手にされて北越戦争に踏み切った。
- 340 名前:日本@名無史さん [2007/07/24(火) 13:07:33 ]
- 継之介が吉原細見に○とか×の印を付けてたって話は本当なんですか?
司馬が創作したデマですか
- 341 名前:日本@名無史さん [2007/07/25(水) 00:37:26 ]
- 独立国作ろうとしてたのか?
俺は山岡荘八の徳川慶喜六巻みてこの人知ったんだが、そこでは、三月一日、長岡へ引き上げるとき 「この際、会津、桑名の諸藩を扶けて王師に抵抗するというのは大義名分に反する。さりとて、薩・長に応じて徳川氏を討つは、君臣の義として忍び得ぬところであれば、もっかのところは局外中立を堅持する。 故に、わが長岡藩は、独立独行、まず封内を鎮撫して、時局の定まるのを待とうと思う。しかし、官軍が、もし、局外中立を容れず、無道の処置をするならば、わが藩も断然これを防がなければならぬ。 諸君よ、わが意向をくれぐれも疑わぬように願いたい」 と伝え、四月二十六日、本陣を城から一里離れた摂田屋に置き、要所要所に兵を配ってから、小千谷まで迫ってきていた官軍の陣営に、その局外中立を許されたい旨の嘆願書を捧げて、軍監の岩村精一郎を訪ねた。 そして、そこで嘆願書も見ずに突っぱねられ、説明しようとしても聞く耳もたなかったので、憤怒した、となってるんだが。
- 342 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 12:44:36 ]
- >>341
継之助のようなエリートとチンピラ上がりの岩村が、 まともに議論出来るはずもないのにね。 松陰の親友だった白井も結構DQNだったようだし、 官軍も中堅クラスはろくな人材がいなかったんだな。
- 343 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 13:53:09 ]
- >>342
河井側に都合良く解釈すればそうなるな。 ただ「新潟港を会津の貿易港とし、 官軍に対する各藩の支援を中立を名目に遮断させた上 官軍が会津へ進軍しようとしたら背後から官軍を討つ」 なんてこと河井が以前に宣言している上に 敗走した会津兵を領内に入れている地点で、中立なんぞ政府軍としては呑めるわけが無かろう。 ともかく長岡を平穏に保ちたいなら、自領内に入ろうとする会津兵を殺す気概で無いと駄目よ
- 344 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 21:20:24 ]
- >>341
独立国なんて考え方は当時の日本人には無理だろ 薩長と奥羽同盟のどちらかが勝つかわからないから とりあえず中立を守ってようと考えてたんだろ
- 345 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/28(土) 13:13:32 ]
- >>343
河井のやっていることは、高杉晋作の二番煎じ。 慶応元年(1865)3月下旬、伊藤俊輔とともに長崎に赴き、英国長崎領事ガワーを尋ねた高杉は、 「赤間関(下関)も、我断然国体を愧じしめざるやう開港すべし。五大洲へ防長の腹を推出して大細工を仕出さねば、 大割拠は成就致さざるならむ」 と下関開港の壮図を述べた。 「大割拠」は一朝有事の日に備えて、藩内にたてこもり、その富強化を図る。 それには、こちらから下関を開港し世界中へ防長二州の腹を押し出して、大仕事をしなければならぬ、というものである。 それは結局、下関を開港して、藩の産物を輸出して、外国の優れた武器を輸入して、富強化をはかるということである。 これと同じことを河井はやった訳だ。 下関が新潟、防長二州が長岡と文字を変えただけで・・・・・ 河井の場合、長州の村田清風が始めたところから始めなければならないため時間がかかった訳だが。
- 346 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう mailto:sage [2007/07/29(日) 11:41:17 ]
- >>345
河井の割拠策は、塵壺の中に 「諸葛孔明の天下三分の計、興味これあり」 とあるように、三国志的な発想があったのでは・・・ 万延元年(1860)と元治元年(1864)にそれぞれ梛野嘉兵衛に宛てた書簡の中で、財力を蓄え 富国強兵策を実施し、一朝有事に備えなけばなりません。 と繰り返しているくらいだから。 さらに云えば、元治元年の書簡は、長州征伐は必ず失敗し、日本中麻のごとく乱れるであろうと、 予想していたからね。 同じ意見を慶応元年(1865)に大久保利通も石崎次郎太宛の書簡で書き記していた。 ただ、大久保や高杉と比較すると、>>345が主張するように調所広郷や村田清風が始めたところから始めなきゃいけない。 それを補うための手引きとして、山田方谷という人物が必要だった、というところでしょうか。
- 347 名前:日本@名無史さん [2007/08/07(火) 23:17:45 ]
- 八幡和郎は河井継之助をさんざんこき下ろしているが
当の河井継之助の先祖が八幡のお膝元である近江膳所藩の 出身であることが皮肉に感じる。
- 348 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 12:48:44 ]
- 八幡和郎って河井を批判してる官僚上がりの薩長ヲタだよね
如何にも岩村みたいな奴だな こんな奴が大津市長になったら大津市は終わりだな
- 349 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 13:30:51 ]
- 八幡を批判したければ、経済産業省なりどこなり中央官庁にキャリアで入って、
フランスのENAに留学して、むこうで副知事見習いやってからにしろや。
- 350 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 23:43:18 ]
- >>349
八幡おつかれ
- 351 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 23:45:05 ]
- キャリアだと八幡を批判する権利があるんだ・・・
馬鹿じゃネ
- 352 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 08:55:26 ]
- 八幡=士大夫
2chねらー=土民
- 353 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 11:50:38 ]
- 長岡では河井と稲垣メンバーとではどっちが人気あるの?
- 354 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 12:23:21 ]
- 山本五十六が一番人気
- 355 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/09(木) 13:03:15 ]
- >>354
いそろくは戦争反対論者だったから、ネットウヨには嫌われてるぽ。
- 356 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:20:59 ]
- 山本五十六より石原莞爾の方が好き
- 357 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:22:58 ]
- >>355
もともと河井自体戦争反対者ではなかったか?
- 358 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:27:32 ]
- 長岡藩
山本帯刀
- 359 名前:日本@名無史さん [2007/08/10(金) 22:05:03 ]
- 稲垣メンバーは勝手に恭順した卑怯者
- 360 名前:日本@名無史さん [2007/08/16(木) 01:15:36 ]
- 黙祷
- 361 名前:日本@名無史さん [2007/08/16(木) 06:04:32 ]
- 今日は命日でした。
- 362 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/16(木) 17:54:36 ]
- ご冥福をお祈りいたします
- 363 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/19(日) 08:36:53 ]
- >>361
河井先生の命日は旧暦の8月16日。 したがって、グレゴリオ暦に直すと、10月1日になるのでは?
- 364 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/09/29(土) 13:27:40 ]
- そういえば、ちょっと前に長岡の銀行の金庫から、河井継之助の書簡30通が出てきたという
記事を読んだ。 小山良運とのやり取りを記したものらしいけど、その後の話が出てこないんだけど、誰か聞いたことあります?
- 365 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/01(月) 20:46:05 ]
- では、今日が命日ですか。
「火を熾んにせよ」と命じて、 ちょうど今ごろ瞑目されたんでしょうな… 河井先生、 つ吉原の風俗店ガイドです
- 366 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/07(日) 11:37:52 ]
- 今日は旧暦で8月22日。会津若松城下において、会津松平家主催で、河井先生の葬儀が行われた日です。
翌日に若松城下に太政官の軍隊が城下に侵攻してくる日です。 結果論で語れば、明日敵が来るのに河井先生の葬儀をやる会津松平家というのは・・・・・ 律儀というか、のんきというか、間が抜けているというか・・・・・
- 367 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/11(木) 17:33:25 ]
- 会津出身の俺は律儀だと信じている
- 368 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/13(土) 11:24:13 ]
- 大河ドラマ、篤姫の後が直江兼続だそうで。
けど、直江と河井と何が違うの? お互いに主君の信任が厚く、民政が上手で、負けん気が強くて、次期権力者候補に勝負を挑んで、 負け戦の結果、領地を大幅に減らしたというのは共通しているけど。 しかも、2人とも歴史好き意外興味を持たない気味の風雲児。 はて、一方が大河の主人公というのは如何に?
- 369 名前:日本@名無史さん [2007/10/15(月) 11:05:16 ]
- ええやんけ
- 370 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/20(土) 16:40:33 ]
- おす。
>>260 なるほど、福沢諭吉は口だけだったけど、河井先生は本当に実行したわけですね。 痩せ我慢の説を。 ってことは、痩せ我慢の説のモデルは河井先生になるわけですか?
- 371 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/03(土) 14:04:08 ]
- 今日は旧暦で明治元年9月19日。
仙台あたりで、降伏か、蝦夷地行きかについて牧野家主従が額をあわせて話し合っている最中です。 フランスへの亡命話は資金難から消滅してしまったので、困っている最中でしょうか? それとも徳川脱走家臣団と共に、蝦夷地に行きたいけど、人数制限を食らってしまい、 行きたければ新選組に入れといわれ、悩んでいる最中でしょうか。
- 372 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/11(日) 08:53:56 ]
- 本日は旧暦で明治元年9月27日。
牧野家は太政官に降伏を申し出て、戊辰戦争が終わりました。 主従は焼け野原になった長岡を思い出して、復興の困難さに心を痛めていることでしょう。
- 373 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/18(日) 06:42:37 ]
- おす
- 374 名前:日本@名無史さん [2007/11/18(日) 22:29:09 ]
- 三島億二郎ってどっから養子にきたの?
県外? 詳しくわかる方教えてちょ
- 375 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/24(土) 14:02:55 ]
- >>374
川島億次郎 文政8年(1825)〜明治25年(1892) 文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。 幼少期は、桶党(継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎、実兄の伊丹政二郎ら)と呼ばれる俊英集団の中にいて将来を嘱望される。 弘化2年(1845)20歳で37石の川島家の養子となる。 嘉永3年(1850)頃江戸に出て佐久間象山に入門し、門下生となる。同門に吉田松陰、虎三郎らがいる。 嘉永6年(1853)黒船の来航では藩主兼老中を勤める牧野忠雅から調査を命ぜられている。後に継之助・虎三郎・団次郎らと共に藩政改革の建白書を提出する。 が、虎三郎と億次郎の建白書は幕府の政治批判が含まれていたため、佐久間塾での勉学を差し止められ、長岡への帰藩を余儀なくされる。 このころ門閥批判を行い職を辞めて長岡に帰ってきた継之助と奥州各地を遊歴している。 性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。 必ずしも継之助と性格や考え方が一致したわけではないが、実務に長け数字に強く、人望が有り、それゆえに継之助に信頼される。 慶応4年(1868)5月3日、慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億次郎に開戦の止むなきを伝えた。 継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億次郎が生死を共にすることを誓い、長く苦しい戦いに突入する。 戊辰戦争中、億次郎は軍事掛に就任し、時に前線指揮官、時に作戦参謀として、力を発揮した。 明治2年(1869)、3人の大参事のうちの1人に抜擢され(残りは小林虎三郎と牧野頼母)、戊辰戦争後の長岡の復興に力を注ぐ。 この頃名前を三島億次郎と改め、産業振興、教育環境の整備、病院や銀行の設立など長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。 さらには北海道の開拓と移民などに尽力した。 それは継之助を含め自ら選択した戦争という選択により、負けた挙句壊滅的な打撃をこうむり、藩士や領民の生活を崩壊させた事に対する贖罪ではなかっただろうか? 米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。億次郎は苦しい財政の中から、 3千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。 明治25年(1892)68歳の人生を閉じる。
- 376 名前:日本@名無史さん [2007/11/24(土) 19:40:18 ]
- 37石っていったら下級藩士だな。
養子ってことは川島家と血つながりはないんだね。 伊丹市左衛門って聞いたことないけどどこの人?
- 377 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 07:27:06 ]
- >>376
伊丹家は確か、100〜120石前後の中堅どころ。小林家や河井家と同じ家柄。 ただし、伊丹家や小林家は三河以来の家柄に対して、河井家は近江国膳所の本多家から姫様の付人の家臣として編入した。 要するに、家柄は伊丹家や小林家の方が上ということ。 億次郎は次男なので、この時代の常として世に出るためにはどこかの家の養子にならなければ、 伊丹家の厄介者として過ごさなければならない。 そのため、家柄の低い川島家への養子でも受けなければならなかったのでしょう。
- 378 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 16:37:21 ]
- 小林家・伊丹家・河井家・川島家って今でも存続してるのかな。
- 379 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 17:57:15 ]
- 三河以来ってことは長岡藩に移封されるずっと前から牧野家に使えてたのか小林家とか伊丹家って。
- 380 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 22:22:40 ]
- そういうことでいいんでないの。
譜代大名の家臣には、三河以来の家臣に加えて、武田旧家臣団、北条旧家臣団などを加えているから。 そのほかに姫君のお輿入れの際に付き人として家臣が編入する場合があるから(河井家はこの例)。 あとは全国各地の浪人に募集をかけて採用したりとかね。 勝手な推測でいいなら、伊丹という性から想像して畿内の土豪なり豪族が勢力争いに敗れて、諸国を流浪してしたら、 何かのきっかけで牧野家に採用されて、そのまま越後までついて来たとかね。
- 381 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 22:39:06 ]
- >>375です。
入れ忘れましたが、諱は心億といいます。 そう、河井の後を引き継いで戦った山本帯刀も元は安田家400石の三男坊。 出来が良かったので、山本家に養子に入ったといわれています。。 逆に億次郎の青年期はあまりいい養子の口がなかったのかもしれません。
- 382 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 23:19:02 ]
- けどさ、会津と官軍の間で変な事したら、瞬殺されない。
天童藩の様に官軍の味方したけど、庄内藩に秒殺されて、官軍に見捨てられ領内焼け野原。 領民の間から官軍につくことを提言した吉田大八という中老の首を差し出せと声が上がり、庄内藩に降伏して、大八の首を差し出す。 久保田藩のように官軍に味方しても、官軍の都合で継之助が見殺しになる可能性もあるのだから、官軍についたも、そういうことが可能性としてあるわけだね。 継之助の決断を強いられた時期は、どっちが勝ってもおかしくない時期なので、おれはなんともいえない。 強いて言うなら、勝つために手段は選ぶな。手段選んで勝つほど余裕ないだろうおまいらって感じ。
- 383 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/30(金) 02:57:19 ]
- >武田旧家臣団
誰が来てるの?あんまきいたことないけど いまちょっと調べたら伊丹ってのは摂津の豪族が信長に滅ぼされてるね。 これが1574年、家康の転封が1590年だから、可能性あるね。 元城主の直系は黒田藩家老になっているらしいが。 傍流はたくさんあっただろうに全国に散らばってるだろう。
- 384 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/30(金) 22:47:55 ]
- >>383
家老職の山本家がそうなっている。 一応山本勘助の弟の末裔ということで話が始まっている。 仙台の伊達家にも真田信繁の末裔で真田喜平太というのが幕末に存在した。
- 385 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/03(月) 06:19:10 ]
- なにこの良スレw
- 386 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/07(金) 00:54:44 ]
- 河井さんの子孫っているんですか?
- 387 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/07(金) 04:59:45 ]
- >>382
河井の「武装中立」を否定したのが佐々木克さんだな。 「既に江戸で会津庄内長岡の盟約が持たれていた。 河井の中立は時間稼ぎの偽装中立。 長岡藩が睨みをきかせている限り越後諸藩は動きが取れないし、 なおかつ新政府としても迂闊に手を出せない」 確かに河井は藩侯が譜代佐幕だからそりゃ新政府寄りじゃないでしょうが、 既に小千谷会談の段階では会津軍が飛び地領に入って圧迫を加えていたし、 「旗幟を鮮明にしない限り手を出せない」のは会津藩だって同じ。 藩内では恭順論と同盟参加論が激突している状況では、 河井が迂闊に態度表明は出来ない。早くに態度表明したら藩が分裂する可能性もある。 自分は偽装中立で時間を稼いだと言うより、これを河井が最も恐れたんじゃないかと思う。 「藩論統一」を最優先として、官軍と大っぴらに接触する機会を待っていたように思えるがな。 単身、実情を訴えて仮に官軍への恭順が認められればそのまま官軍を領内に引き入れ、 会津を威圧する選択肢も必ずしも排除しなかったんではと。 まあ恐らく難しいと思ってだろうが、官軍に恭順が蹴られたら蹴られたで、 それはそれで藩論は纏めやすくなる。 藩論統一、それが恭順か抗戦か以前に重大関心事だったんでしょう。
- 388 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/08(土) 03:29:26 ]
- 山本や小林って新潟ではよく聞くけど、河井や伊丹ってあんまり聞かない苗字だよね。
- 389 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/15(土) 13:12:51 ]
- >>387
ただ、桑名松平家の抗戦派に越後柏崎に行くように勧めたのは、江戸徳川家の若年寄大久保一翁なんですね。 佐々木氏の著述では、河井が保障するような感じで越後に行く記述なのですが、桑名松平家の家臣で岡本武雄が記録を残していて、 其れによると、大久保一翁が長岡牧野家や荘内酒井家や会津松平家が近くにいる越後柏崎の方が安全を保障する出来る確率が高いので柏崎行きを決めたとある。 ただ、大久保一翁は新選組の甲府行きを容認した人物なので、対薩長抗戦派の桑名松平家の元当主が江戸にいると具合が悪いので厄介払いをした、ということでしょうか。
- 390 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/18(火) 05:55:46 ]
- >>388
三間氏や稲垣氏、安田氏が上野の豪族の流れを汲む一族で、全国各地から集まりますから。 かつて、歴史家の松浦怜氏が言っていましたが、譜代大名と領民というのは、 植民地とその統治者という関係になるそうです。 鉢植えの鉢のように転封する事が多いため、年貢や御用金を多く集め、次の転封に備えて貯金や借金の返済に終始するそうです。 欧米の教会と医者とキリスト教に比例して、寺社と医者と儒学なり武士道、心学などで、領民に範を示す事になるそうです。
- 391 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/22(土) 11:35:46 ]
- >>382
前当主の忠恭が老中を務めていた頃に手がけた仕事が、長州毛利家の攘夷戦争の尻拭いだからね。 京都所司代時代も、長州毛利家や土佐山内家の京都手入れで治安が悪化した頃にやって来て何もなすことなくだからね。 そのことを考えれば、長岡牧野家が簡単に太政官になびくとは考えにくいしね。 長岡市史によると、河井が横浜から海路帰ってくるまでの牧野家は混乱の一言。 恭順派は集団で押しかけて忠恭親子を吊るし上げ、降伏文書を書かせて太政官に提出させようとし、 抗戦派はその話を聞いて、三間市之進が使者を追いかけて、追いつき、使者から文書を巻き上げて破棄したとありますね。 帰ってきてその話を聞かされた河井が、恭順派を藩校にひとまとめに集めて軟禁し、兵隊の監視をつけたとありますね。
- 392 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/22(土) 11:36:49 ]
- すまん、>>387だった。
- 393 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/23(日) 21:01:44 ]
- このスレの最初のほうでとっくに議論されてるんですね。
いま2月〜閏4月頃までの年表を暇つぶしに書いてみたけど、 閏4月の奥羽諸藩の動向は、河井が恭順に傾くような要素は皆無ですね。 総督らがお尻引っぱたいて会庄攻撃に持ち込んだ4月ですら、 仙台・米沢・秋田らは全然やる気がないし。 閏4月19日には高田の政府軍が進発している一方、 会庄攻口の解兵が宣言され、 22日には白石盟約書が調印されてる。 じゃ何のために2ヶ月、藩境まで押し寄せてくるまで待ったのか。 自身、拘束の危険性に気づいていながら小千谷の談判って、 何のために行ったんでしょうかね…
- 394 名前:日本@名無史さん [2008/01/02(水) 00:03:51 ]
- 継サ、明けましておめでとうございます
- 395 名前:日本@名無史さん [2008/01/02(水) 01:43:59 ]
- 伊丹は後北條家臣から牧野家じゃないの?
- 396 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/02(水) 13:43:47 ]
- それでもどちらにしろ三河以来じゃね?
北条征伐直後に仕えたと考えればギリギリ
- 397 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/02(水) 15:32:35 ]
- 越後長岡藩って棒禄は蔵米制?
- 398 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 02:32:49 ]
- そういや長岡には旧上杉家臣で帰農した伊丹家もあるね
- 399 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 02:52:33 ]
- あれ?それは魚沼だっけ?よくわかんね
- 400 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 09:02:20 ]
- おつ。
400げっと。
- 401 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/08(火) 01:18:08 ]
- 河井記念館ってなんで福島?にもあるの?
- 402 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/09(水) 20:39:50 ]
- 福島県で亡くなったから。
- 403 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/16(水) 04:52:06 ]
-
長岡藩士の家紋とかってどこでわかるかなー 河井家はわかったけど川島家・小林家・伊丹家・山本家とかちょっと調べただけじゃわからなかった 誰かわかる人いる?
- 404 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/27(日) 09:17:54 ]
- 殿様は長州の足軽に土下座させられたそうな
- 405 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/31(木) 20:56:14 ]
- 牧野が?
- 406 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/02/02(土) 07:31:43 ]
- 3月5日の「そのとき歴史が動いた」で継之助が取り上げられます。
『自立への戦い・河井継之助〜もう一つの戊辰戦争〜』だったかな? www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html まぁ、戊辰戦争から140年が経ったのです。 5〜10年周期で取り上げられる、毀誉褒貶の激しいこの人。 さて今回はどんな読み方をされるのでしょう。
- 407 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/02/10(日) 09:00:44 ]
- >>406
北越銀行から河井継之助記念館に寄贈された38通の手紙のうち、何通かの撮影が許されたそうですね。 いつもと違う切り口を望みたいのですが・・・ 戊辰戦争の敗者を研究する大学教授って言うと、最近だと家近良樹氏ぐらいか。 けど、長岡藩や庄内藩は詳しくなさそうだし・・・・・
- 408 名前:日本@名無史さん [2008/02/11(月) 01:32:54 ]
- まずアカデミック研究者は出ないと思う。なぜなら
研究者でやってる人はいないから。列藩同盟ならいるがね。 長岡藩や河井となると・・・強いてあげれば一橋の 小山和也氏か。『歴史読本』でも一度書いてた。 でもとっくに離れてるようだし。 で、半藤一利、童門冬二、松本健一のいずれかかと。 番組の常連だし河井については時々書いているし。 いい加減アカデミックでも取り扱ってほしいな。
- 409 名前:日本@名無史さん [2008/02/12(火) 21:09:47 ]
- 河井継之助
たいしたことないだろ。
- 410 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/02/16(土) 10:32:56 ]
- うん、タイトルが変更になっていましたね。
今現在の予定では 「北越の蒼龍“明治”に屈せず〜河井継之助 地方自立への闘い〜」 www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html となっていました。 かつて、中里介山は作品「大菩薩峠」の中で、小栗忠順を幕末の石田三成と評したそうです。 この流れに沿っていくと、幕末の直江兼続、諸葛孔明というところかな。 (さしずめ山県有朋が司馬仲達といったところかな。)
- 411 名前:日本@名無史さん [2008/02/19(火) 13:25:57 ]
- >>403
伊丹家は、丸に鷹の羽違い。
- 412 名前:日本@名無史さん mailto:さげ [2008/02/23(土) 06:31:44 ]
- 何もしていないのに新潟県の有名人
良姦と並んで、何もしてないのに新潟県の有名人 新潟不思議だ
- 413 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/02/23(土) 08:06:12 ]
- >>412
戦国武将でも、真田信繁や山中幸盛のように、何もしないのに有名な人はいますよ。 まぁ、伊達政宗や黒田如水のように関が原の頃に火事場泥棒的に領土拡張しているわけでもなし、 いいんじゃないの。 大目に見るということで。
- 414 名前:日本@名無史さん [2008/02/28(木) 00:35:36 ]
- ゲストの答えは、勝田政治氏でした。
・・・なぜ?
- 415 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/02/28(木) 05:00:49 ]
- >>414
どうなんでしょうね。 国士舘大学というと、河井研究の第一人者といわれた故安藤英男氏が 1980年代に教授として在籍していたところですよね。 勝田氏も国士舘大学の教授ということで、その教え子なのか、関係者なのか・・・・・ それ以外でも、大久保利通などの研究で名前を聞いた事はありますが・・・・・
- 416 名前:日本@名無史さん [2008/02/28(木) 12:00:37 ]
- そうだな。勝田氏は主に民権運動とか維新政権とか
大久保とかで、直接河井や長岡藩には繋がらないよな。 それに氏は早大出身だから同僚の関係?といっても 可能性としては氏の非常勤時代だが。 そういえば安藤氏が国士舘の教授だったか。具体的に 何の教授かは知らないが。民間からの転身で 日本史の教授にはなれるようなもんじゃないとは思うが・・・ 安藤氏タイプの「研究者」は正直扱いが難しい。著書も 研究書と言うべきか研究書に近いものと言うべきか。 そこが私大と国公立大の違いかもしれないが。 ま、とりあえずゲストが小説家でなくて純粋な研究者で 良かった。
- 417 名前:日本@名無史さん [2008/02/28(木) 19:51:12 ]
- 桶党って史料的にはどうなん?
具体的にどんな史料に出てくるん?
- 418 名前:日本@名無史さん [2008/02/28(木) 23:15:33 ]
- 勝田氏は新潟出身なんですね。まさかとは思うが新潟繋がりでは…。
- 419 名前:日本@名無史さん [2008/02/29(金) 15:47:36 ]
- あ、本当だ。大学の教員紹介見たけど
出身地なんて書いてあったのを見逃していた。 ・・・それだ!! ってことは専門分野より出身地つながりを重視か?
- 420 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/03/01(土) 00:39:48 ]
- それもあるのだろうけど、勝田氏はかつて、新潟県史の編纂に携わっていた事がある。
ある意味、幕末の越後は専門分野であり、出身地新潟を語る上では、適任といえば、適任といえるのかも・・・・・
- 421 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/03/04(火) 23:27:12 ]
- いよいよ明日になりました。
どのような切り口になるのでしょうか? 楽しみです。
- 422 名前:日本@名無史さん [2008/03/05(水) 12:06:53 ]
- 『その時歴史が動いた』第317回
北越の蒼龍 ”明治”に屈せず 〜河井継之助 地方自立への闘い〜 放送日 平成20年3月5日(水)22:00〜22:43 総合 スタジオゲスト 勝田政治(かつたまさはる)さん(国士舘大学教授) ttp://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
- 423 名前:日本@名無史さん [2008/03/05(水) 14:49:10 ]
- 長岡共和国
- 424 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/03/05(水) 22:45:23 ]
- ええ話だったと思います。
随所随所に原文を織り込んで、それなりに分かりやすいと思います。 時間の制約があるので、内容は省略されても、仕方ないのかな。
- 425 名前:日本@名無史さん [2008/03/06(木) 03:12:15 ]
- 当時日本にあったガトリング砲三つのうち二つ持ってたの知らなかった。
残りのもう一つは官軍の甲鉄艦に搭載してたやつ?
- 426 名前:日本@名無史さん [2008/03/06(木) 03:14:57 ]
- 勝田曰く、新潟では「つぎのすけ」で統一されてます。
- 427 名前:日本@名無史さん [2008/03/06(木) 03:27:06 ]
- >>425
熊本じゃね
- 428 名前:テレビは怖い [2008/03/06(木) 05:01:51 ]
- あくまで薩長は正義なんだね。さすがNHKのテレビ番組
徳川家に力がなくなったから長岡藩は江戸藩邸を引き払ったとか・・・ 当時は薩長の軍勢が江戸侵略の進軍を進めていたので、各藩は 江戸を引き払った、退去したと言うのが真実だろうに
- 429 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/03/09(日) 09:54:12 ]
- 違いますよ。NHKの解釈なんて、その時の都合でいくらでも変わりますから。
今年の大河が島津家がらみだから、下手に叩くと、大河を自己否定するから。 大河を批判しない程度に、地方の時代とマスコミが持ち上げているから、 それに合わせて番組を作っただけですよ。
- 430 名前:捏造 mailto:キチガイ [2008/03/21(金) 19:56:23 ]
- 山本勘助の生誕地を捏造した卑しい豊橋市。北越軍談に本国三州賀茂郡に帰り、豊田市寺部の鈴木日向守重辰が叔父で、剣術修行したとあるのを、
その後に、牛窪密談記という軍記を捏造して、この賀茂は豊橋市の八名郡賀茂郷のことだと言い出した。そして、NHK大河ドラマに怒って、NHKを襲撃して、ドラマを改ざんした。 恥ずかしくないのでしょうか?こんなことをして。
- 431 名前:日本@名無史さん [2008/03/21(金) 20:29:13 ]
- それは河井継之助関連ではありません。
しかし、愛知県周辺は、「武功夜話」(「墨俣一夜城」「伝説と「蜂須賀工人衆」の捏造)など、 嘘話を歴史に仕立てる自称歴史ファンが多い地域です。
- 432 名前:日本@名無史さん [2008/04/21(月) 21:34:05 ]
- 【ガトリング家老】河井継之助の大河なじらね?
live27.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1208781034/
- 433 名前:日本@名無史さん [2008/05/12(月) 21:48:47 ]
- >>432
大河になるの?
- 434 名前:日本@名無史さん [2008/05/12(月) 22:32:09 ]
- 関原
- 435 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/05/24(土) 09:23:20 ]
- ほす。
- 436 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/05/24(土) 18:17:07 ]
- ttp://www2.hokurikutei.or.jp/backnum/07apr/mikaku/
桜飯って見た目がみかんご飯みたいだな。
- 437 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/06/08(日) 05:53:26 ]
- 河井のこと調べてたら高田に着陣したときの黒田が鵜殿団次郎に向けて、戦争の回避を促す手紙を送ったって載ってた
経済誌の記事だから信憑性に欠ける部分もあるけど、小千谷会談にもし黒田が出席してたら中立路線は成功していたのかも分からんね
- 438 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/06/28(土) 13:45:57 ]
- 継サ の読みは
つぎさ?つぐさ?
- 439 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/06/29(日) 08:31:12 ]
- >>438
どちらでも可。
- 440 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/06/29(日) 14:40:47 ]
- 良運さんあたりはつぐサって言ってたのかな。
- 441 名前:日本レンタカー [2008/07/09(水) 13:03:10 ]
- 河井継之助についておしえてください(^−^)//
- 442 名前:日本@名無史さん [2008/08/16(土) 13:49:49 ]
- 今日は命日(現在の暦では10月1日だが)
黙祷
- 443 名前:私も河井です [2008/09/17(水) 00:46:57 ]
- 三河の河井家の子孫です。親からは河井継之助の血縁って教えられたけど、
Wikipediaでは、全く関係なく、おまけに気が狂ってお家断絶って書いてあったけど、 家の文献には1600年から続いている証拠がありました。真偽のほどは 誰か教えてください。
- 444 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/09/21(日) 17:06:18 ]
- >>368
遅レスだけど、 以前、八幡と同じような言いっぷりで兼続を扱き下ろしてた奴がいたのを覚えてる。 確か物書き。誰だったかな。「負け戦に引きずり込んだからダメ」なんだってさ。
- 445 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/09/21(日) 20:02:45 ]
- >>443
河井継之助の先祖は近江国膳所藩本多家の家臣です
- 446 名前:日本@名無史さん [2008/10/07(火) 15:54:33 ]
- 本多家って三河以来の家柄なんで河井家も三河以来家臣かもしれないですね
- 447 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/10/08(水) 23:43:06 ]
- >>444
田中芳樹氏です。 「中国武将列伝」のあとがきで述べています。
- 448 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/10/13(月) 05:27:14 ]
- 継サが火を盛んにせよと命じてからちょうど140年
もし継サが現代に生きてたら 反対する米下院を一喝して公的資金を即座に注入してたはず
- 449 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/12/07(日) 19:41:08 ]
- ほす。
- 450 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/12/08(月) 21:22:37 ]
- 河井さんと小栗さんと橋本さんには生き延びて欲しかった。
- 451 名前:日本@名無史さん [2008/12/17(水) 20:10:28 ]
- 河井さんのご子孫は活躍されているのでしょうね
- 452 名前:日本@名無史さん [2008/12/18(木) 08:17:18 ]
- 子供居ません…
- 453 名前:日本@名無史さん [2008/12/18(木) 12:43:04 ]
- こういう自負心も能力もある人物に全てをまかせたらダメになる見本だよ。
日本は協調性がないと。 どう考えてもやる気まんまんじゃん
- 454 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/02/13(金) 23:16:41 ]
- さて、NHKの「その時歴史が動いた」も今年の3月で終わるのです。
結局、継之助は一度取り上げられたわけです。 さて、4月からの新企画で継之助は日の目を見る事が出来るのでしょうか。 まぁ、個人的な見解では、4〜5年に一度の周期で企画される人なので、 多分ないと思いますが。 www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html
- 455 名前:日本@名無史さん [2009/02/23(月) 00:32:59 ]
-
- 456 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/03/04(水) 10:06:32 ]
- >>454
もっと取り上げるべきだったな・・・
- 457 名前:日本@名無史さん [2009/03/14(土) 01:42:00 ]
- >>454
え? その時ではやってなかったのか。。。 堂々日本史ではあったような気がするが。
- 458 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/03/15(日) 08:58:05 ]
- >>457
2008年3月5日に放送されましたよ。 堂々日本史では、一度放送されましたよ。 ゲストの解説が半藤一利氏。 番組は10年ぐらい前だったような気がする。
- 459 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/03/28(土) 07:10:25 ]
- さて、次にNHKで放送されるのは「歴史秘話ヒストリア」という番組です。
なんとなく、番組のタイトルとその構成上、継之助が取り上げられる確率は? というか、望みが薄い気がするのです。 www.nhk.or.jp/historia/
- 460 名前:日本@名無史さん [2009/05/05(火) 18:47:15 ]
- そうやね
- 461 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/07/11(土) 01:45:35 ]
- 長岡藩って総兵力1000人足らずだったんだって
それを抜けない官軍ってのもそうとう弱いね もっともやる気あるのは薩長だけだろうけど でも列藩のほう会津だけだから 似たようなものだな それにつけても会津の弱さよ ところで会津万歳の早乙女貢さん亡くなったんだってね、合掌。
- 462 名前:日本@名無史さん [2009/07/22(水) 14:47:33 ]
- ガトリングガン
- 463 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/09/14(月) 06:56:44 ]
- 峠はおもしろいよな
- 464 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/09/19(土) 16:43:02 ]
- 生き残ったら、榎本くらい出世したかな?
- 465 名前:日本@名無史さん [2009/09/29(火) 03:18:05 ]
- 案外、適当な官僚どまりかも。
福地や栗本みたいに新聞のほうにいったりとか。
- 466 名前:日本@名無史さん [2009/09/29(火) 03:36:21 ]
- かわいかわいと今朝まで思い
今は愛想も虎三郎
- 467 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/09/30(水) 04:48:17 ]
- いや横浜の生糸相場や松方デフレで投機やって帰りに大好きな吉原で遊ぶだろ
損しても遊ぶかも知れないけどw どう考えても参事→事業、地方銀行とかに行くタイプ
- 468 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/10/02(金) 22:42:42 ]
- 今回の文藝春秋の特集の中に「司馬遼太郎が愛した日本人」というのがあります。
www.bunshun.co.jp/ その中の悲運の侍という欄の中に継之助、小栗忠順、正岡子規の三人の名が有ります。 松本健一は運が巡れば、「英雄」、そうでなければ、「風雲児」という司馬の言葉を残している。 あのコラムの中では、語られていないけど、庄内酒井家だって、継之助と同じ見通しで大暴れして、 薩摩島津家とうまく折り合いをつけて、明治10年頃まで士族勢力を温存したからね。 そこから行けば、継之助は運が無かった、ともいえる。 >>467 案外、同じ越後出身の大倉喜八郎のように世間の誤解を受けても、財閥を作り、学校を作り人を残すか、 勝海舟や会津松平家出身の山川浩、米沢上杉家出身の宮嶋誠一郎のように、官職に就いてそのコネで、 旧家臣団を養っていく立場を引き受けていくか・・・・・
- 469 名前:日本@名無史さん [2009/11/07(土) 01:18:59 ]
- 八幡和郎ってキモい
- 470 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/11/07(土) 07:49:09 ]
- 八幡、河合酷評してたね
- 471 名前:470 mailto:sage [2009/11/07(土) 09:08:31 ]
- 河井の間違いだったスマン
- 472 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/11/08(日) 06:50:55 ]
- 「還暦以後」の後書きで松浦怜が30〜40代に書いた文章を60代になって読んでみると、
気持ちや文章に余裕が無く、せっかちに結果ばかりを求めていた。 とあります。 八幡の文章にもそれを感じるけど。八幡も60代まで生きていたら、わかるでしょ。 松浦氏は正確に文献を当たるけど、八幡は適当なうえに文献を提示しないし、 批評も的外れであることがかなり多い。 徳川日本が鎖国をしてけしからんというのであれば、同じ頃に小さい領土で貿易国家として存続しながら、 ヴェネチア共和国のように、環境破壊や伝染病から来る国力の疲弊、戦争の連続から来る大衆の厭戦気分、 外交努力に応じてくれない近隣諸国などで結果ナポレオン1世の頃に滅亡した国家を持ってきて、小さい 領土の国は鎖国をしても、国を開いて戦い続けても、疲れるだけですよ。 というようなことを述べれば、良かったのだけど。 明治維新を絶対視するけど、タイの王政復古やイタリアの祖国復興運動、オーストリア=ハンガリーの 同君二重帝国、プロイセンのドイツ統一戦争など、答えは幾重にもあるのに、明治維新という答えだけ を押し付けるのが余裕の無い証拠だね。 八幡が留学していたフランスにしたって、1950年代〜65年ごろにかけてアフリカの植民地で何をしていたか、 (特にアルジェリア)だよ。 日本国内でそこまで言うのなら、八幡の宗主国ともいうべき、フランスの植民地の歴史についてもぜひ論評 してもらいたい。 善政を行っていたのか、本国の国民と同じように植民地の住民にも選挙権を与えていたのか、政府が反対勢力 を虐殺していないかとか。
- 473 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/11/13(金) 21:41:24 ]
- >>472
まぁ、宗主国から分離独立したいということが、悪政の裏返しだね。 フランスにしても、ベトナムやアルジェリアで大失敗をしたからね。 八幡君はその大失敗をした国に留学をして、何を学んだのかな。 日本の出来損ないエリート崩れが、大失敗した国の行政院のエリート教育を受けて、 キャリア競争に敗れて、官職を辞し、反論の無さそうな、あるいは影響力の無い末裔のいる、 歴史上の人物を叩いていい気になっている訳だ。 歴史研究家の大久保利兼氏と比較すると、新雪と下水の汚泥位の差があるね。
- 474 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/11/27(金) 05:48:56 ]
- あいつのブログ、相変わらず上から目線だな。昔、拉致問題で読者から脅迫めいたメールだかブログだか来たから告訴したと、この2ちゃんでも祭りになったらしいな。
エリート気どりは良いが、関西人の役人のおちこぼれ特有の、東京コンプレックス丸出しの東京批判はやめてほしいよな。 江戸幕府嫌いで物議をかもしてるが、要は関東が感情的に嫌いなだけでしょ。 あれで地元の首長になろうとするんだから有権者を馬鹿にしてるぜ。橋下なんて下らねえ奴を推してるし。
- 475 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2009/12/23(水) 04:46:24 ]
- 12/16発売のSapio1/4号には日本史上最強の戦争指揮官は誰だ!という特集があります。
skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/sol_magcode?sha=1&zname=2300&keitai=0 個人的には継之助は好きですけど、最終的には敗軍の将なので入らないのは分かっています。 一応、柴五郎や立見尚文がベスト10に入っているのでいいのです。 まぁ、立見やその兄町田武須計は継之助を高く評価していましたが。 余計な事を言えば、北条義時や板垣退助が入っていないのは不思議かな?と、感じました。
- 476 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/01/01(金) 07:05:40 ]
- あけまして、おめでとうございます。
- 477 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/01/09(土) 18:05:02 ]
- さて、今年の大河は坂本竜馬。
継之助と直接関係はありませんが、海援隊に参加した人物に鵜殿団次郎の弟、 白峰駿馬がいます。 彼は果たして出番はあるのでしょうか。
- 478 名前:スネル兄弟 mailto:sage [2010/01/16(土) 04:00:17 ]
-
_______ ./_______\ ゞ;ゝゞヾ .|;;;;;;::::: | | ゝゞヾヽゝゞゝゞ∠⌒\ ∠⌒\ |#.| ヾゞ/;ヾ ゝ;ヾ _(*゚∀゚):: (*゚∀゚) | |ババババババ ゞゞ;ヾゝ# |;;| ̄_|つ∈[](((===@゙´゙,: //ゞゝ,,,,,,,,,,,|;;;;;;;|::: ̄|/`\ :::;;| |゙`゙ ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙
- 479 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/01/16(土) 04:44:04 ]
- シュネル兄弟の兄の方は、アメリカで
日本人(会津人)と結婚してたのか? 子供は日系一世だな
- 480 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/01/24(日) 09:02:55 ]
- 外国人のお友達紹介(笑)
ジェームス・ファブル・ブラント 1841年(天保11年)9月23日〜1923年(大正12年)8月7日 スイス人。貿易(横浜外国人商人、時計輸入)。 1841年(天保11年)9月23日、スイスのルロックルで生まれる。 1862年(文久2年)、日本との修好条約締結の為、時計組合総裁・元参議院議員A・アンベールを団長としたスイス特派使節団の一行16名の一員として来日した。 1864年(元治1年)、条約は日本スイス両国間で締結されたが彼はそのまま日本に留まり、横浜居留地52番で時計宝石商を開業した。 1866年(慶応2年)、横浜大火の際この店は焼失したが、彼は居留地175番に新規の営業所を開設し、スイス時計の輸入商として日本各地にスイス時計の販売促進を行った。 1874年(明治7年)、横浜に出来た町会所に時計台を設置し、また横浜の名所でもあった高島町岩亀楼の建築は彼の工夫によるもので、何れも幕末・明治初期の横浜名所として浮世絵などに描かれた。 1923年(大正12年)8月7日、避暑先の長野県軽井沢の別荘で心臓発作の為死去。享年82歳。遺体は横浜山手の外人墓地に埋葬された。 なお、彼は戊辰戦争の際には、薩摩島津家、長岡牧野家などに武器・弾薬等を供給したほどの商売上手であった。
- 481 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/02/13(土) 07:23:40 ]
- 昨日は平成8年(1996)2月12日に亡くなられた司馬遼太郎先生の命日です。
玄人好みの継之助を世に出してくれた、大功労者なのです。 それまであまり騒がれなかった継之助が注目されるようになったのです。 賛否両論有りましょうが、司馬先生に感謝しましょう。
- 482 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/02/19(金) 21:14:25 ]
- 最近、龍馬=幕末ブームなのでこのような本が出ています。
『オフサイド・ブックス55 幕末明治の「戦争」全部解説します!』 中村一郎著、成田毅著 彩流社 www.hanmoto.com/bd/ISBN978-4-7791-1063-4.html 著者はあまり聞かないけど、個人的には、いい本だなぁと思っています。
- 483 名前:日本@名無史さん [2010/02/20(土) 10:41:26 ]
- 『藤沢周平が書ききれなかった歴史』-『義民が駆ける』を読む‐
青木美智男著 柏書房 www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?cmd=d&isbn=978-4-7601-3248-5&backlist=1 庄内酒井家、長岡牧野家、川越松平家の三家を巻き込んだ天保11年(1840)の三方領地替え。 庄内農民の義挙といわれる、この騒動。本当のところはどこにあったのか。 実は、長岡牧野家が新潟港で行われている薩摩島津家の密貿易を見逃すばかりか、 その上前を撥ねていることを調べ上げた徳川幕府が長岡牧野家に対する懲罰として、 川越に転封しようというのが話の始まりであるという。 川越松平家は、財政難でどこか良い転封先はないかと、幕府に掛け合った結果、 当時の老中水野忠邦が個人的に折り合いの悪い庄内酒井家を長岡に転封させ、 川越に牧野家を、松平家を庄内に転封させようとした、というのである。 さらに付け加えると、新潟港と酒田港を直轄地にしたうえである。 19世紀中盤の東アジア情勢と絡めて説明しています。 三方領地替えが挫折した後、牧野家は新潟港を越後国内の別の土地と交換されます。 事実上の召し上げですね。 これでいったら、三方領地替えを挫折させたのは庄内農民ですが、 きっかけを提供したのは、長岡牧野家なのですね。
- 484 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/02/20(土) 11:25:23 ]
- この三方領地替え騒動時、継之助は少年期だよね。
どういう受け止め方をしたのだろうか。
- 485 名前:日本@名無史さん [2010/03/03(水) 00:51:52 ]
- 峠をドラマ化してほしい
- 486 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/03/03(水) 02:38:57 ]
- 主役は誰が良い?
- 487 名前:日本@名無史さん [2010/03/03(水) 02:59:50 ]
- >483川越の大和守が大御所にねだったのが発端じゃないの?
>486中村雅俊か原田大二郎がよい。肖像画に似ている。
- 488 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/03/04(木) 03:12:47 ]
- >>486
織田さんで
- 489 名前:日本@名無史さん [2010/03/13(土) 11:54:31 ]
- 2009年12月の出来事です。
新潟 5分の1「ガトリング砲」が完成 長岡の製造業者有志、継之助記念館に寄贈 戊辰戦争時に長岡藩家老、河井継之助が撃ったとされる手動機関銃「ガトリング砲」の5分の1サイズの模型を、 長岡市の製造業者有志が作った。 「長岡の歴史を広く伝えたい」との思いで、27日に同市のホテルで開かれる河井継之助記念館の開館3周年記念講演会で、同館に寄贈する。 ガトリング砲は、1862年に米国で発明され、継之助が日本で最初に使ったといわれている。 模型を作ったのは、同市南陽2の精密産業機械メーカー「旭精機」など同市の製造業3社。 同社は、同館に展示されている原寸大模型の製作に協力しており、その際に使った図面を活用して、縮小版を作った。 模型は鉄製で長さ約40センチ、幅約20センチ、高さ約30センチ。1カ月掛けて製作した。 6本の銃身を回転させるハンドルや、銃身の角度を調節するダイヤルなど、実物と同様に動かせるよう精密に作った。 同社の中村康夫専務(55)は「小さいと組み立て作業が細かく、逆に作るのが大変だった」というが「出来はかなりいい」と自信をみせる。 模型は5台製作しており、寄贈する1台以外は希望があれば15万円で販売する。 中村専務は「ガトリング砲は長岡のシンボルだと思う。継之助や幕末に興味のある人に広めたい」と話した。
- 490 名前:日本@名無史さん [2010/03/15(月) 15:32:58 ]
- >>489
これ何処のニュース? 全国ニュース?
- 491 名前:日本@名無史さん [2010/03/20(土) 07:28:40 ]
- 3月18日付けの産経新聞、文化・学術のコラムに継之助が掲載されています。
東京大学教授、山内昌之氏の連載記事で表題は『幕末から見た現在(いま)』 54回目の連載で取り上げられることになりました。 過去には、維新三傑、徳川慶喜、から山川兄弟、立見尚文まで多彩な人物が掲載。 興味のある方はどうぞ。 sankei.jp.msn.com/culture/academic/100318/acd1003180738001-n1.htm
- 492 名前:日本@名無史さん [2010/03/20(土) 07:40:22 ]
- >>490
2009年12月18日付け新潟日報の記事です。 興味のある方はどうぞ。 74.125.153.132/search?q=cache:5K2X3dqJaJ8J:www.niigata-nippo.co.jp/news/pref/7203. html+2009%E5%B9%B412%E6%9C%88+%E9%95%B7%E5%B2%A1+%E6%B2%B3%E4%BA%95%E7%B6%99%E4%B9%8B%E5% 8A%A9+%E3%82%AC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%A0%B2&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
- 493 名前:日本@名無史さん [2010/03/28(日) 21:14:25 ]
- ほほー
- 494 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/04/05(月) 02:49:47 ]
- >>492
へー、新潟日報か ありがと
- 495 名前:日本@名無史さん [2010/04/10(土) 15:09:44 ]
- 【元気のでる歴史人物講座】(46)山田方谷 経済と人心の再建は両輪
sankei.jp.msn.com/culture/academic/091118/acd0911180738002-n1.htm 興味のある方はどうぞ。
- 496 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/04/11(日) 01:52:43 ]
- 新吉原稲本楼のお職花魁 小稲大夫
- 497 名前:日本@名無史さん [2010/04/12(月) 06:17:42 ]
- 戦闘指揮官の河井が、ガトリング砲なんか使うなよな。
そんな威力のある砲なら、敵も狙撃するだろ。 防御板が付いてないなら欠陥商品じゃないのか、しかし西部劇なんかでも 付いてなかった気がする。
- 498 名前:日本@名無史さん [2010/04/13(火) 06:56:01 ]
- 会津の佐川官兵衛と何回か接触してるが、それぞれの人物評は残ってないの
だろうか? 英雄同士のエピを期待したいのだが、両者ともよい印象を持たなかったのかな。
- 499 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/04/16(金) 17:36:59 ]
- 河井と佐川なら間違いなく対立してるでしょ。
まあ、佐川は軍議では対立しても、それ以外では評価してたかも知れないが
- 500 名前:日本@名無史さん [2010/04/18(日) 04:41:04 ]
- 長岡藩程度の戦力で、あの局面での中立は無理だろう、官軍側の交渉相手が
岩村よりましな一線級であっても交渉が成立できたと思えない。 ただ河井が負傷せずに、戦闘が長岡藩有利な状況で和解して官軍に参加、列藩 同盟への交渉役などで影響力を発揮し、新政府でのいいポスト獲得ならあり えたかもな。
- 501 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/04/19(月) 13:41:31 ]
- 無理と思うのは後世の発想が多分にあって、当事者は事態を自分に都合よく解釈しがち
米沢藩の宮島への広沢真臣の忠告が示すように、 事前情勢的には新政府側が折れる可能性に望みを託しても不思議ではない
- 502 名前:日本@名無史さん [2010/04/19(月) 14:42:58 ]
- >>500-501
勉強になりました。
- 503 名前:日本@名無史さん [2010/04/24(土) 14:35:33 ]
- 河井に「もし戦国に生まれていれば、素手で百万石くらいとれるかもしれない」
と言わしめたのが安田鉚蔵、ところが安田は強硬な恭順派で河井に蟄居させられる。 自分は河井にシビレルが、長岡の人たちにとっては安田ら恭順派の方がよかった だろな。
- 504 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/04/24(土) 17:23:13 ]
- 稲垣さんたちの体制ならそれで良かったかも知れないけど、山本家も含めたら、
藩政改革を行った牧野忠恭の下では抗戦派が実務の中枢だったんじゃない?
- 505 名前:日本@名無史さん [2010/04/24(土) 19:01:55 ]
- 河井と勝海舟に共通点を感じるが、表舞台に出るのが遅かったから、勝に比べて
使える手駒が少なくてちょっと気の毒。
- 506 名前:日本@名無史さん [2010/04/25(日) 11:29:10 ]
- 直参の勝は島津斉彬とも親しかったから、西郷も初対面から一目おいていた。
河井とは背景がかなり違う、むしろ己を誇り過ぎるきらいのあった佐久間象山 の方が近いとおもう。 ガトリング砲を自分で操作したのは、郷土の英雄の謙信の司令長官なのに 前線で戦う姿を重ねて藩士たちに印象づけたかったのかも、官軍との交渉も 腹心をやって成立しなければ腹を切らせて、それを政治利用するくらいの事 をやれよ。 みんな自分でやりすぎる。 戦後の長岡の人は、河井を戦争犯罪人としその遺族を居ずらくして石もて追い 恭順派の安田らには逆に不忠の腰抜け武士と罵っているな。
- 507 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/05/02(日) 17:31:58 ]
- >>498
佐川官兵衛は長岡で一緒に戦ったでしょ 河井が居る本陣隣の農家に泊まってた記録もある 皆それぞれ分宿なのでこれは相当に良い扱い >>506 長岡市内じゃそうかもな焼け野原になって維新後に県都も奪われた訳だから ただ長岡は長岡藩の領地より天領地の方が広かったので領民は 徳川に江戸時代通じてずっと豊かに暮せた恩もあったので 意地を通した河井はそれなりに尊敬されたろう
- 508 名前:日本@名無史さん [2010/05/03(月) 20:28:47 ]
- 安田鉚蔵もサムライなら河井に蟄居させられてても、開戦したら戦闘指揮官と
して参戦すべきだろう、関ヶ原の大谷刑部みたいな死に方の方選べよな。 官軍に投降なんて腰抜けめ。
- 509 名前:日本@名無史さん [2010/05/08(土) 14:01:51 ]
- 遅れましたが、5月1日の産経新聞、学術・文化コラム「名作まち歩き」にて、
司馬遼太郎の「峠」が取り上げられました。 sankei.jp.msn.com/culture/books/100501/bks1005011800007-n1.htm 興味のある方はどうぞ。 >>508 庄内酒井家の名将と謳われた、「鬼玄蕃」こと酒井了恒。 彼の父親は慶応3年に起きた「丁卯の大獄」の際、主犯として蟄居・謹慎させられ、 家禄も1500石から700石に減知。 それでも、父の政敵であった松平親懐、菅実秀とは敵対せず、彼らの下で戦っている。 安田が頑固者なのか、酒井が変わり者なのか?
- 510 名前:日本@名無史さん [2010/05/10(月) 09:29:32 ]
- 関ヶ原の大谷刑部もいいが、西南の役の貴島清もカッコいい。
死に方が武士らしい、それにつけても安田の腰抜けめ、河井の人物眼もあてに ならんわい。
- 511 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/05/14(金) 13:11:27 ]
- 河井は戦友である会津、米沢は警戒してたが、庄内は信用してたらしいね。
- 512 名前:日本@名無史さん [2010/05/15(土) 10:19:34 ]
- 越後長岡・米百俵塾 入門編を開塾します
人材育成の重要性を説く「米百俵の精神」を、長岡の歴史や文化を通じて学びます。 今回の入門編では、『ノモンハンの夏』、『昭和史』、『幕末史』等で有名な作家の半藤一利氏、 河井継之助記念館館長 稲川明雄氏、長岡郷土史研究会の今井雄介氏が講師・ガイドを務め、 「米百俵の精神」と長岡の歴史について、わかりやすく解説します。 初めての方にも配慮した内容となっておりますので、 「米百俵」や長岡の歴史に興味をお持ちの方はぜひご参加ください。 実施日 平成22年6月15日(火)、16日(水) 対 象 18歳以上で、原則として2日間参加できる方 受講料 10,000円(宿泊料、15日夕食、16日朝食、16日昼食、講師料、教材費含む) ※宿泊、食事が不要の場合は1,500円となります。 ※上記金額には現地までの往復交通費は含まれていません。 受付期間 4月26(月)〜5月25日(火) 申込方法 所定の申込書に必要事項を記入のうえ、 郵送、FAXまたはメールでお申し込みください。電話での受付も可能です。 お問い合わせ 申込先 〒940-8501 新潟県長岡市幸町2−1−1 越後長岡・米百俵塾実行委員会 事務局(地域振興戦略部) 電話:0258-39-2260 FAX:0258-39-2254 E-Mail:gnagaoka@city.nagaoka.lg.jp 長岡市ホームページはこちら www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/kome100-jyuku.html >>511 単純に庄内酒井家が強いということと、領地が海に面しているということ。 会津松平家・米沢上杉家とも、領地が内陸部で海に面していない。 庄内酒井家は酒田港という東日本随一の港を有しており、 そこから船で海外亡命という選択肢を実行する事も可能。 実際、牧野家家臣団は仙台でスネル兄弟に海外亡命の可能性を打診したが、 お金が足りないとの理由で、亡命を断念した話が残っている。
- 513 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/05/15(土) 11:14:59 ]
- 大村が長岡に来れば、3日で河合を倒せるでしょ。
- 514 名前:日本@名無史さん [2010/05/15(土) 13:36:19 ]
- >>513
薩摩版大村益次郎とも言うべき、中原猶介の記事です。 歴史作家桐野作人さんのブログに詳細が記されています。 dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-84.html 薩摩軍団の軍制改革を実務面で引っ張ってきた人です。 伊地知正治と共に、薩摩の双璧というべき存在です。 伊地知と比べると扱いが地味なのは、戊辰戦争で戦傷死されているからです。
- 515 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/05/20(木) 11:28:19 ]
- 大村が長岡に来ても、
酒の肴の豆腐を隠しておけば発狂するから3日で江戸に帰っちゃうよ。
- 516 名前:日本@名無史さん [2010/05/22(土) 13:35:20 ]
- われこそは、継之助信者という方はいかかですか?
書道吟の夕べ 〜河井継之助を偲ぶ 漢詩の心を感じて〜 開催のお知らせ 詩吟の流れに合わせ、 詩の内容を書き表していく書道吟。 視覚と聴覚の両方で詩の世界を味わうことができます。 今回は、越後長岡藩幕末の三傑、河井継之助、小林虎三郎、三島億二郎にまつわる漢詩を吟じます。 詳しい詳細は、こちらへ。 tsuginosuke.net/tomo_event.html#senbei 河井継之助記念館ガイドボランティアの会について 河井継之助記念館ガイドボランティアの会は、来館者と記念館の架け橋となるよう願って設立されたものです。 主に、土・日・祝日を中心にガイド活動をしています。 来館してくださる方へ「おもてなしの心」で対応していますので、ぜひご利用ください。 また、会員も随時募集中です!「河井継之助や長岡の歴史について興味がある」 「歴史はよく分からないけれど、生涯学習のつもりで勉強したい」という方は、 ぜひご入会ください。年会費は1,000円です。 詳しい詳細は、こちらへ www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/miru/siryou/gv.html
- 517 名前:日本@名無史さん [2010/05/22(土) 18:44:41 ]
- >>513
大村って、山縣が援軍の要請をしても無視していて、 木戸や岩倉や西郷や大久保が越後に大軍の派遣を決定すると嫌な顔をしたとあるね。 大村的には、仙台や米沢を倒してから、会津を倒せば、世の中丸く収まると考えていたから、 越後は眼中になかったのでは。 むしろ、久保田を離反させて戦力を分断して、共食いによって、 越後や会津に戦力が来ないようにしていたのでは。
- 518 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2010/05/23(日) 11:20:24 ]
- >>498
ちなみに、会津軍は略奪放火等の乱暴が多く、 佐川官兵衛がその指揮官であったことから、 河井継之助が彼によい印象を持っていたとは思えない。
- 519 名前:日本@名無史さん [2010/06/16(水) 22:56:36 ]
- 「鉄と麦と赤レンガ〜河井継之助と外山脩造 志のリレー」
維新の動乱期にあって最も激しい戦いが繰り広げられたとされる北越戦争。 官軍に立ち向かった長岡藩・軍事総督 河井継之助が最期に伝えた「志」とは? ラストサムライの遺言を実直に、そして見事に成就させたのが弟子の外山脩造だった・・・。 外山脩造(1842〜1916 長岡市出身) 北越戦争で一敗地にまみれるも、師と仰ぐ河井継之助の言葉をよりどころとして立志。 逆境をバネとして大蔵省、日銀大阪支店長等を経て、アサヒビール、阪神電鉄、商業興信所(日本初の信用調査会社)等の創業に関わる。関西財界の礎を築いたといわれるほど功績は大きく、経世済民、常に庶民の立場に身を置き利己を排した志の人。 越後・維新の物語 uxtv.jp/info/echigo/ 河井継之助と外山修造の特別番組やるらしいぞ!
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