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河井継之助



1 名前:日本@名無史さん [2005/12/27(火) 06:52:57 ]
つぐのすけだろ

日テレきもい

301 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:52:27 ]
 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、
余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、
戊辰戦争当時を追懐して、
「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」
といわれ、
「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。
あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり)
ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。
我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・
そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。
分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。
我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。
−といってやったものだよ」
云々。
参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ

302 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:53:47 ]
 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、
余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、
戊辰戦争当時を追懐して、
「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」
といわれ、
「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。
あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり)
ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。
我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・
そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。
分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。
我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。
−といってやったものだよ」
云々。
参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ

303 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:56:08 ]
すまん、おなじやつ2度いれた。


304 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 22:36:54 ]
>>300
井上勲氏の「王政復古-慶応3年12月9日の政変」の273〜276ページに理由付けがあるよ。
あなたがこれに納得するかどうかはわかりません。
275〜276ページに結論が書いてあるから、そこだけ引用するね。
「天皇の決断と突然の公示とその想像を絶した内容と、発動のための軍事発動と、これらの複合は、たしかに人身を戦慄に陥れるだろう。
その何れもが予想と理解を超えたことだからである。天皇の決断とその内容が予想の内にあり、軍事発動の目的が理解できるならば、まだしも対応の方法がある。
だが、そうではない。いずれも予想と理解を超えている。
ここから戦慄が生じる。戦慄は畏怖に変化する。決断を下し軍事力を発動させた主体、つまり、天皇睦仁への畏怖へと変化する。政治君主としての天皇の権威は、
一挙に高揚するわけである。
そして、天皇への服従が始まる。服従を強いられたものは、戦慄に所由する畏怖である。
まずは、強いられた服従である。けれども、他から強いられてはじまった服従は、しばしば、自己の判断にはじまった服従よりも、その程度において強く、また強くなりうる。
何がしかの判断に基づいて、服従がはじまったとする。ここでは、その契機をなした判断の根拠の強弱は、そのまま服従の程度に比例する。その根拠が消滅した場合、
服従の関係が解除される可能性もなくはない。
 これに対して、強いられた理由なき服従は、次のような経過をたどって内面化するからである。
戦慄に発生する畏怖に強いられて、服従が始まった。当面は、理由なく服従すること自体が行為の確立である。だが、強いられた服従をそのまま放置することはできない。
強いられた者には、服従の行為を理由づけて、これを正当化しようとする心理がはたらく。外から強いられてはじまった服従は、内から正当化されていく。
この作業の結果が、天皇への忠誠である」
 服従するさいの理由付けが、民の為、お国の為、御家の為といっておけば、誰もが反対はしないからね。
更にいえば、これに箔をつけるための小道具が錦旗だったのでは・・・・・
参考文献 「王政復古-慶応3年12月9日の政変」 井上 勲 中公新書 平成3年

305 名前:日本@名無史さん [2007/02/10(土) 13:47:55 ]
議論も出尽した。潔くスレを閉じよう。


【完】

306 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/18(日) 20:27:28 ]
>300 天皇の命令だからといって服従しなければならにいのは
愚民化政策ではないか。

307 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 12:52:34 ]
スレ違いも増えてきた。
レスもない。
つまり議論は出尽した。
潔くスレを閉じよう。


【完】

308 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:25:12 ]
このスレの結論は、これだ↓

「せっかく買ったガトリング砲、使わねえと勿体無えもんな!」

309 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:30:38 ]
>>308
実際、継サ、そう思ってたと思うw



310 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/22(木) 21:22:47 ]
>>309
長岡牧野家出身で、慶応義塾を卒業後、社会主義の研究者になった城泉太郎の伝記には、ガトリング砲は横浜で購入された時点では、箱の中に部品が梱包されていて、
長岡にて、藤野某が英語で書かれている説明書とにらみ合いながら組み立てたとあるけどね。
>>308
スレの結論、
「痩せ我慢、負けるな継さ、ここにあり!」
で、いいんじゃねぇ?


311 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 09:20:10 ]
>>299
それは、エドワード・スネルから牧野忠訓宛の手紙の一説に書かれていることだね。
たしか「河井継之助伝」の669ページから672ページにかけて載っているやつだね。
あの当時、ルドルフ・リンダウやポンペ・ファン・メーテルフォールト、ヤング・ブラックなど横浜などに住んでいた日本通の外国人は総じて反薩長派だったんだよね。
アーネスト・メイスン・サトウの「一外交官の見た明治維新」でも、イギリス以外の外交官たちは、奥羽越列藩同盟が勝つことを願っていたけど、
会津松平家が降参したので、皆落胆したと書き記しているね。
ルドルフ・リンダウの「スイス領事の見た明治維新」を読むと、黒船がやってくるまでの日本人はつつしまやかで謙虚で、
謙譲の美徳にあふれていた青い鳥だったのに、イギリス人やアメリカ人と付き合いだすと、下品で、好戦的で金銭や土地に貪欲になるカラスのような人々になったと嘆いているね。
ルドルフ・リンダウやエドワード・スネルはそういうことを世界標準だといって、日本人に押し付けるイギリスが嫌いで、奥羽越列藩同盟を支援していたからね。
手紙の中でも、河井に投じた金銭は失ってもぜんぜん惜しくもなんともない。
むしろ、今回負けたからといっても、落胆することなく、海外貿易で金を稼いで、稼いだ金を教育に投資して、人材を作ればいいんだ、という提案までしている。
まぁ、小林虎三郎よりは前向きなことを考えていたよね。多分。

312 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 20:56:10 ]
「スイス人はイギリス人が嫌い」まで読んだ。

313 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/05(月) 00:11:41 ]
>>236
なるほど、ドラマの関係で読売系列がその後もフォローしている様ですね。
www.ntv.co.jp/d-complex/contents/20051227_a.html
          ,/レ‐-ァ_
       7::::::::::::::::ヾ
       n !::::::::::::::::::ミ
      ( j レr ' ⌒ ヽ     
       Y^ヽ、/ ̄ ̄ ̄/ 
       ‐┬〈     〈
ただ―放映当時の政界の事情と過去の歴史を照らし合わせてみると
www.aki7.com/cgi/up/file/Responsible_persons_has_been_released.htm
この話―“統一がらみ※¹※² ”の陰謀の一端である可能性も高そうですよ。
www.chojin.com/link1.htm ※¹
www.aki7.com/cgi/up/file/21.htm ※²

314 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/05(月) 00:13:04 ]
>>313 つづき
  、 _v-::ニ:‐-ェ__    
  ゝ::::::::::::::::::::::::::Z__ 
 _/::::ヽ::::::\::::ヽ::::::Z
 //::/┰\┰ヽ:::',::::ヽ
 /i::/. ゛゛  ゛゛ ヾ:::::ヾ  
  !ハヽ _-n‐_ノリ!W `
     /ニ)
おそらくこの『河井継之助 〜駆け抜けた蒼龍〜』はその当時、
核武装論者で時期総理候補だった安倍晋三官房長官を
フォローすべく企画・制作された『隠密』的時代劇だったのでしょう。

従って、このドラマには―

“ 国交を回復したお父上から継承した中国との太いパイプを持ち、
911以降、日米ネオコンの無謀と横暴に対しては常に批判的な
態度を崩さない田中真紀子さんの選挙区の1つ長岡周辺の人達に
「力なき平和主義者が辿った末路」という地域的な悲劇を想起させ、

同時に

『平和を愛する人』ほど『核兵器』の様な『強力な兵器』に盲目的に
縋り付きたくなるような潜在的なメッセージが暗に込められていた ”

と推測するのは、政界と関係が深く、資本的にはユダヤ系投資家の
思うがままのスポンサーやその取りまとめの広告代理店等の言いなり
になり易いマスコミ関係者を疑い過ぎでしょうか(笑)?

【ターゲットは平和主義者!?死の商人は時代劇さえ利用する!!】

315 名前:日本@名無史さん [2007/03/05(月) 09:38:42 ]
田中真紀子を引き合いに出すのは、選挙区住民の民度の低さをアピールするのとイコールだぞ。

316 名前:あゆぼん1世 mailto:(*^-^)ノ このスレをご覧の皆さま、おやすみなさい… [2007/03/06(火) 01:57:19 ]
>>315
(*^-^)ノああ、この物語の舞台が長岡※¹と聞いたので
(´-`).。oO(ひょっとして…)と思って調べてみたら
案の定、>>74 あたりから >>76>>256と「叩き」が
入ったので「シナリオ通り」!?( ̄ー ̄)と思ったまでです。
が、いささか大がかりに思われる“統一”側の『仕掛けと目論見
>>313-314)』も、今回はどうやら不発に終わった様ですね(笑)。

※¹
長岡近辺はこの作品の前年にあたる2004年の
『7.13水害』のあと、10月23日『新潟県中越地震』
を経験しています。
【HAARP※²】の存在とその恐るべき可能性を知っていて、
※² www.google.co.jp/search?hl=ja&q=HAARP
11月20日から公開された『ハウルの動く城』に隠された
暗号(暗示、あるいは呪いや魔法)に気付くことが出来た人
には怖い話だと思いますよ。
当時のネタ → www.aki7.com/cgi/up/file/0067.htm

317 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 03:27:08 ]
 あたまもる砦のかかり影ふけて 夏も身にしむ越の山風
 うちいたす筒のけふりのかきくもり たまはあられの心地のみして
                                           山県 狂介

318 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 04:32:46 ]
 薩摩長州俎板に乗せて 大根切るようにチョキチョキと
                                    〜長岡牧野家家臣

319 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/18(日) 08:57:00 ]
男子死して、身肢衣服共に清潔ならざるは、一生の恥である
                                     〜時山 直八



320 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/21(水) 10:24:14 ]
 継之助の甥に根岸練次郎という人物がいる。戊辰戦争を回想した一文を記した文がある。
その冒頭はこう有る。
『慶応戊辰五月三日夜八時、叔父・河井継之助秋義、我家に来り、
書院に於いて余の父母と談話を交え居られたり。
余は当時十三歳の幼弱にして、世上人事は固より之を了得するの智能を具えざりしも、
父母の背後に侍して、叔父の父母に語られる事柄を聴きたり。
叔父継之助は、余が生まれて以来、嘗て我家に来訪せられたるを見たることなく、
此夜、叔父が始めて来たり、何事か要談せらるるを知り、私かに奇異の思いを懐き、
叔父の顔色を覗い、其の談話を傾聴せり。
本来、叔父は、当時厳粛の容貌を保ち、言語明晰、超凡の人たるは聞知し居たるが、
此時、叔父の言語動作は、一層慎重を加えたる事と思われたり。
正に然もあるべき、此日、小千谷に於いて、官軍の軍監・岩村精一郎に会見して、長岡藩主、
牧野駿河守侯を代表し、嘆願書を提出したるも、岩村精一郎は之を一蹴して受領せず、事茲に至っては、
如何共之に処するの途なく、巳むを得ずして一旦長岡に帰り、後図を策する考なりしと見えたり。
叔父は両親と以上の顛末を語り了りて其の宅に向うの際、
「我が心事、天知る地知ると」
明確に大声を発せられたるを聞きたること、
爾来七十有余年、余の脳裏に深く刻して消滅せるを覚えたることなし。(略) 』




321 名前:日本@名無史さん [2007/03/29(木) 10:28:24 ]
ttp://www1.ntv.co.jp/ijin/form/hero/index.html

もちろん継さに投票したべ?

322 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/01(日) 07:13:45 ]
>>321
票はいれた。
けど、私から見て、河井継之助という人は、上杉景勝における直江兼続ともうしますか、
劉玄徳における諸葛孔明というべき役割を果たした人でよろしいのでしょうか?

323 名前:日本@名無史さん [2007/04/13(金) 23:44:31 ]
もしも、三方替えが成立していたらどうなっていたのだろうか?
河井は川越で武装中立を行っていたのだろうか?
庄内藩も抵抗していたのだろうか?

324 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/15(日) 03:36:27 ]
そろそろ、この人物を司馬遼太郎の「峠」のイメージで評価するのはやめるべきだ。
自分にとってこの人物は、幕末の石原莞爾というイメージしかない。
当時、日本が欧米の植民地にならなくて済んだのは、明治維新という革命を
無血で行えたからだ。かの蒋介石はこの点は高く評価している。
だが、この人物は長岡を「満州国」にしようと企て、武力による反抗も已む得ない
という姿勢で明治政府と対峙し、諸藩を巻き添えにしようとした。
幸いなことに東北諸藩が同調せず内乱状態にならず済んだが、もし東北での
戦闘が長引けば、今日の日本はなかったかもしれない。
結果、今日のようにドラマのヒーローとして登場できるのも、日本が平和だからだ。


325 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/15(日) 17:44:48 ]
仮定の話は意味がない

326 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 12:28:53 ]
明治維新は無血だったのか?

大政奉還は無血だったけどな。

327 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 16:27:50 ]
結局河井継之助の購入したガトロング砲は新政府軍のアームストロング砲には敵わなかったのか?

328 名前:日本@名無史さん [2007/04/17(火) 20:29:45 ]

質問も、もう少し予習してからせねばいけません。

329 名前:日本@名無史さん [2007/04/25(水) 22:16:02 ]
峠以外にオススメの河井さんの本ある?
あと東洋文庫の塵壺が少し気になってるけど、
読んだことある人面白かった?



330 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/04/27(金) 20:41:46 ]
>>329
塵壺は継之助の旅日記だから
峠みたく読んで面白いってのとは違うような気がする

でも、山田方谷との出会いも含めた中国・九州遊学の細かい道のりなんかも判るし
日記だけあって各地の継之助のちょっとした感想なんかも載ってて
ある程度の好きならばそれなりに興味を持って読めると思う。
継之助唯一の著書だし、手書きのメモとか絵もちょこちょこ載ってるしね。

ただ、もともと他人に読ませる気が無く書いてるから
多少読みやすく手は入ってるけど文章はかなり読み難いのでその覚悟は必要だと思う。

それに絶版になってるし、なかなか無いんじゃないかな
まぁ、最近は電子書籍なんてもんで出てるみたいだけどさ



331 名前:日本@名無史さん [2007/05/01(火) 02:15:49 ]
神保町で塵壺800円でみかけた。

日記って確かに通常人に読ませるために書いたもんじゃないよな…
峠の河井さんは好きだからまた神保町で見かけたら購入してみようかな。

332 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/21(木) 01:06:53 ]
>>329 童門冬ニであった。タイトル忘れた。友達に貸して戻ってこない。

333 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/26(火) 15:40:41 ]
もし展開がかわって
山県有朋が会談にたってたらどうなってたろうね

まぁ・・多分結局は破談になってたと思うが
黒田はともかく山県有朋じゃあなぁ・・・

仮に成功したとしても会津藩を説得できたろうか?

334 名前:日本@名無史さん [2007/06/27(水) 13:39:44 ]
無理だろうな。。
継サの描いた中立は結局絵に描いた餅
理想と現実は違うんだもん。

335 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/28(木) 04:37:35 ]
司馬の書く主人公の中じゃ
島倉伊之助並みに好きだわ継之助

336 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/28(木) 04:41:56 ]
>>334
だろうね、日本を統一した国!と目指してた官軍が
そんな独立国家を作るような案認めるはずがないし、認めてほしくもない

河井はそのへん理解してたのかね?
自分が描いた理想は根本的に間違ってることに

337 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/06/30(土) 05:02:24 ]
>>336
>>262がこのような意見をだしていたよん。
けど、割拠策自体は、慶応元年に薩摩島津家の大久保利通、長州毛利家の高杉晋作なども
一会桑政権に対する対抗策として、手紙の中で発案してました。
薩摩島津家は1867年に行われたパリの万国博覧会で、琉球薩摩国と名乗って参加したから。
 河井の割拠策はその三番煎じ的なものなのでは。


338 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/16(月) 10:16:18 ]
>>333
どうなんでしょ?
太政官も、会津松平家も互いに疑心暗鬼、憎悪に凝り固まっていたからね。
互いの陣営も、威勢のいい主戦論が幅を利かせて、引くに引けない状況を作っていたから。
無理なんじゃない。
徳富蘇峰ですら、何か落としどころが一つでもあればいいんじゃない?
と醒めていたから。

339 名前:日本@名無史さん [2007/07/24(火) 13:04:24 ]
本当は戊辰戦争のとき山県有朋、黒田清隆に面会を求めたのに
岩村高俊みたいな小物に相手にされて北越戦争に踏み切った。



340 名前:日本@名無史さん [2007/07/24(火) 13:07:33 ]
継之介が吉原細見に○とか×の印を付けてたって話は本当なんですか?
司馬が創作したデマですか

341 名前:日本@名無史さん [2007/07/25(水) 00:37:26 ]
独立国作ろうとしてたのか?
俺は山岡荘八の徳川慶喜六巻みてこの人知ったんだが、そこでは、三月一日、長岡へ引き上げるとき
「この際、会津、桑名の諸藩を扶けて王師に抵抗するというのは大義名分に反する。さりとて、薩・長に応じて徳川氏を討つは、君臣の義として忍び得ぬところであれば、もっかのところは局外中立を堅持する。
故に、わが長岡藩は、独立独行、まず封内を鎮撫して、時局の定まるのを待とうと思う。しかし、官軍が、もし、局外中立を容れず、無道の処置をするならば、わが藩も断然これを防がなければならぬ。
諸君よ、わが意向をくれぐれも疑わぬように願いたい」
と伝え、四月二十六日、本陣を城から一里離れた摂田屋に置き、要所要所に兵を配ってから、小千谷まで迫ってきていた官軍の陣営に、その局外中立を許されたい旨の嘆願書を捧げて、軍監の岩村精一郎を訪ねた。
そして、そこで嘆願書も見ずに突っぱねられ、説明しようとしても聞く耳もたなかったので、憤怒した、となってるんだが。

342 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 12:44:36 ]
>>341
継之助のようなエリートとチンピラ上がりの岩村が、
まともに議論出来るはずもないのにね。
松陰の親友だった白井も結構DQNだったようだし、
官軍も中堅クラスはろくな人材がいなかったんだな。


343 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 13:53:09 ]
>>342
河井側に都合良く解釈すればそうなるな。
ただ「新潟港を会津の貿易港とし、 官軍に対する各藩の支援を中立を名目に遮断させた上
官軍が会津へ進軍しようとしたら背後から官軍を討つ」
なんてこと河井が以前に宣言している上に
敗走した会津兵を領内に入れている地点で、中立なんぞ政府軍としては呑めるわけが無かろう。

ともかく長岡を平穏に保ちたいなら、自領内に入ろうとする会津兵を殺す気概で無いと駄目よ

344 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/25(水) 21:20:24 ]
>>341
独立国なんて考え方は当時の日本人には無理だろ

薩長と奥羽同盟のどちらかが勝つかわからないから
とりあえず中立を守ってようと考えてたんだろ

345 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/07/28(土) 13:13:32 ]
>>343
 河井のやっていることは、高杉晋作の二番煎じ。
慶応元年(1865)3月下旬、伊藤俊輔とともに長崎に赴き、英国長崎領事ガワーを尋ねた高杉は、
「赤間関(下関)も、我断然国体を愧じしめざるやう開港すべし。五大洲へ防長の腹を推出して大細工を仕出さねば、
大割拠は成就致さざるならむ」
と下関開港の壮図を述べた。
 「大割拠」は一朝有事の日に備えて、藩内にたてこもり、その富強化を図る。
それには、こちらから下関を開港し世界中へ防長二州の腹を押し出して、大仕事をしなければならぬ、というものである。
それは結局、下関を開港して、藩の産物を輸出して、外国の優れた武器を輸入して、富強化をはかるということである。
 これと同じことを河井はやった訳だ。
 下関が新潟、防長二州が長岡と文字を変えただけで・・・・・
 河井の場合、長州の村田清風が始めたところから始めなければならないため時間がかかった訳だが。
 

346 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう mailto:sage [2007/07/29(日) 11:41:17 ]
>>345
河井の割拠策は、塵壺の中に
「諸葛孔明の天下三分の計、興味これあり」
とあるように、三国志的な発想があったのでは・・・
 万延元年(1860)と元治元年(1864)にそれぞれ梛野嘉兵衛に宛てた書簡の中で、財力を蓄え
富国強兵策を実施し、一朝有事に備えなけばなりません。
と繰り返しているくらいだから。
 さらに云えば、元治元年の書簡は、長州征伐は必ず失敗し、日本中麻のごとく乱れるであろうと、
予想していたからね。
 同じ意見を慶応元年(1865)に大久保利通も石崎次郎太宛の書簡で書き記していた。
 ただ、大久保や高杉と比較すると、>>345が主張するように調所広郷や村田清風が始めたところから始めなきゃいけない。
それを補うための手引きとして、山田方谷という人物が必要だった、というところでしょうか。


347 名前:日本@名無史さん [2007/08/07(火) 23:17:45 ]
八幡和郎は河井継之助をさんざんこき下ろしているが
当の河井継之助の先祖が八幡のお膝元である近江膳所藩の
出身であることが皮肉に感じる。

348 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 12:48:44 ]
八幡和郎って河井を批判してる官僚上がりの薩長ヲタだよね
如何にも岩村みたいな奴だな
こんな奴が大津市長になったら大津市は終わりだな

349 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 13:30:51 ]
八幡を批判したければ、経済産業省なりどこなり中央官庁にキャリアで入って、
フランスのENAに留学して、むこうで副知事見習いやってからにしろや。



350 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 23:43:18 ]
>>349
八幡おつかれ

351 名前:日本@名無史さん [2007/08/08(水) 23:45:05 ]
キャリアだと八幡を批判する権利があるんだ・・・

馬鹿じゃネ

352 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 08:55:26 ]
八幡=士大夫
2chねらー=土民

353 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 11:50:38 ]
長岡では河井と稲垣メンバーとではどっちが人気あるの?

354 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 12:23:21 ]
山本五十六が一番人気

355 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/09(木) 13:03:15 ]
>>354
いそろくは戦争反対論者だったから、ネットウヨには嫌われてるぽ。

356 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:20:59 ]
山本五十六より石原莞爾の方が好き

357 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:22:58 ]
>>355
もともと河井自体戦争反対者ではなかったか?

358 名前:日本@名無史さん [2007/08/09(木) 15:27:32 ]
長岡藩
山本帯刀


359 名前:日本@名無史さん [2007/08/10(金) 22:05:03 ]
稲垣メンバーは勝手に恭順した卑怯者



360 名前:日本@名無史さん [2007/08/16(木) 01:15:36 ]
黙祷

361 名前:日本@名無史さん [2007/08/16(木) 06:04:32 ]
今日は命日でした。

362 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/16(木) 17:54:36 ]
ご冥福をお祈りいたします

363 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/08/19(日) 08:36:53 ]
>>361
河井先生の命日は旧暦の8月16日。
したがって、グレゴリオ暦に直すと、10月1日になるのでは?

364 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/09/29(土) 13:27:40 ]
そういえば、ちょっと前に長岡の銀行の金庫から、河井継之助の書簡30通が出てきたという
記事を読んだ。
小山良運とのやり取りを記したものらしいけど、その後の話が出てこないんだけど、誰か聞いたことあります?



365 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/01(月) 20:46:05 ]
では、今日が命日ですか。
「火を熾んにせよ」と命じて、
ちょうど今ごろ瞑目されたんでしょうな…
河井先生、

つ吉原の風俗店ガイドです

366 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/07(日) 11:37:52 ]
今日は旧暦で8月22日。会津若松城下において、会津松平家主催で、河井先生の葬儀が行われた日です。
翌日に若松城下に太政官の軍隊が城下に侵攻してくる日です。
結果論で語れば、明日敵が来るのに河井先生の葬儀をやる会津松平家というのは・・・・・
律儀というか、のんきというか、間が抜けているというか・・・・・

367 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/11(木) 17:33:25 ]
会津出身の俺は律儀だと信じている

368 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/13(土) 11:24:13 ]
 大河ドラマ、篤姫の後が直江兼続だそうで。
けど、直江と河井と何が違うの?
 お互いに主君の信任が厚く、民政が上手で、負けん気が強くて、次期権力者候補に勝負を挑んで、
負け戦の結果、領地を大幅に減らしたというのは共通しているけど。
 しかも、2人とも歴史好き意外興味を持たない気味の風雲児。
 はて、一方が大河の主人公というのは如何に?


369 名前:日本@名無史さん [2007/10/15(月) 11:05:16 ]
ええやんけ



370 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/10/20(土) 16:40:33 ]
おす。
>>260
なるほど、福沢諭吉は口だけだったけど、河井先生は本当に実行したわけですね。
痩せ我慢の説を。
ってことは、痩せ我慢の説のモデルは河井先生になるわけですか?


371 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/03(土) 14:04:08 ]
今日は旧暦で明治元年9月19日。
仙台あたりで、降伏か、蝦夷地行きかについて牧野家主従が額をあわせて話し合っている最中です。
フランスへの亡命話は資金難から消滅してしまったので、困っている最中でしょうか?
それとも徳川脱走家臣団と共に、蝦夷地に行きたいけど、人数制限を食らってしまい、
行きたければ新選組に入れといわれ、悩んでいる最中でしょうか。


372 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/11(日) 08:53:56 ]
本日は旧暦で明治元年9月27日。
牧野家は太政官に降伏を申し出て、戊辰戦争が終わりました。
主従は焼け野原になった長岡を思い出して、復興の困難さに心を痛めていることでしょう。


373 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/18(日) 06:42:37 ]
おす



374 名前:日本@名無史さん [2007/11/18(日) 22:29:09 ]
三島億二郎ってどっから養子にきたの?
県外?
詳しくわかる方教えてちょ

375 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/24(土) 14:02:55 ]
>>374
 川島億次郎 文政8年(1825)〜明治25年(1892)
 文政8年(1825)長岡藩士伊丹市左衛門の二男として生まれる。 継之助より2歳年上である。
幼少期は、桶党(継之助、小林虎三郎、鵜殿団次郎、実兄の伊丹政二郎ら)と呼ばれる俊英集団の中にいて将来を嘱望される。 
 弘化2年(1845)20歳で37石の川島家の養子となる。
 嘉永3年(1850)頃江戸に出て佐久間象山に入門し、門下生となる。同門に吉田松陰、虎三郎らがいる。
 嘉永6年(1853)黒船の来航では藩主兼老中を勤める牧野忠雅から調査を命ぜられている。後に継之助・虎三郎・団次郎らと共に藩政改革の建白書を提出する。
が、虎三郎と億次郎の建白書は幕府の政治批判が含まれていたため、佐久間塾での勉学を差し止められ、長岡への帰藩を余儀なくされる。
このころ門閥批判を行い職を辞めて長岡に帰ってきた継之助と奥州各地を遊歴している。
性格は温厚かつ沈着であり、華々しく表面にはでることはなかった。
必ずしも継之助と性格や考え方が一致したわけではないが、実務に長け数字に強く、人望が有り、それゆえに継之助に信頼される。
 慶応4年(1868)5月3日、慈眼寺の会談が決裂の後、継之助は億次郎に開戦の止むなきを伝えた。
継之助は自らの首と3万両で戦いを避けようとしたが、非戦派だった億次郎が生死を共にすることを誓い、長く苦しい戦いに突入する。
戊辰戦争中、億次郎は軍事掛に就任し、時に前線指揮官、時に作戦参謀として、力を発揮した。 
 明治2年(1869)、3人の大参事のうちの1人に抜擢され(残りは小林虎三郎と牧野頼母)、戊辰戦争後の長岡の復興に力を注ぐ。 
この頃名前を三島億次郎と改め、産業振興、教育環境の整備、病院や銀行の設立など長岡の基礎造りのために、懸命に捧げた人生である。
さらには北海道の開拓と移民などに尽力した。
それは継之助を含め自ら選択した戦争という選択により、負けた挙句壊滅的な打撃をこうむり、藩士や領民の生活を崩壊させた事に対する贖罪ではなかっただろうか?
 米百俵で学校が設立されたというが、百俵の代金では学校は建てらず、本や教材費でほとんどなくなる。億次郎は苦しい財政の中から、 3千両の大金を学校建設資金として最優先に割り当てた。
明治25年(1892)68歳の人生を閉じる。


376 名前:日本@名無史さん [2007/11/24(土) 19:40:18 ]
37石っていったら下級藩士だな。
養子ってことは川島家と血つながりはないんだね。
伊丹市左衛門って聞いたことないけどどこの人?

377 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 07:27:06 ]
>>376
 伊丹家は確か、100〜120石前後の中堅どころ。小林家や河井家と同じ家柄。
 ただし、伊丹家や小林家は三河以来の家柄に対して、河井家は近江国膳所の本多家から姫様の付人の家臣として編入した。
要するに、家柄は伊丹家や小林家の方が上ということ。
 億次郎は次男なので、この時代の常として世に出るためにはどこかの家の養子にならなければ、
伊丹家の厄介者として過ごさなければならない。
そのため、家柄の低い川島家への養子でも受けなければならなかったのでしょう。


378 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 16:37:21 ]
小林家・伊丹家・河井家・川島家って今でも存続してるのかな。

379 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/25(日) 17:57:15 ]
三河以来ってことは長岡藩に移封されるずっと前から牧野家に使えてたのか小林家とか伊丹家って。



380 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 22:22:40 ]
そういうことでいいんでないの。
譜代大名の家臣には、三河以来の家臣に加えて、武田旧家臣団、北条旧家臣団などを加えているから。
そのほかに姫君のお輿入れの際に付き人として家臣が編入する場合があるから(河井家はこの例)。
あとは全国各地の浪人に募集をかけて採用したりとかね。
勝手な推測でいいなら、伊丹という性から想像して畿内の土豪なり豪族が勢力争いに敗れて、諸国を流浪してしたら、
何かのきっかけで牧野家に採用されて、そのまま越後までついて来たとかね。


381 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 22:39:06 ]
>>375です。
入れ忘れましたが、諱は心億といいます。
そう、河井の後を引き継いで戦った山本帯刀も元は安田家400石の三男坊。
出来が良かったので、山本家に養子に入ったといわれています。。
逆に億次郎の青年期はあまりいい養子の口がなかったのかもしれません。




382 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/28(水) 23:19:02 ]
けどさ、会津と官軍の間で変な事したら、瞬殺されない。
天童藩の様に官軍の味方したけど、庄内藩に秒殺されて、官軍に見捨てられ領内焼け野原。
領民の間から官軍につくことを提言した吉田大八という中老の首を差し出せと声が上がり、庄内藩に降伏して、大八の首を差し出す。
久保田藩のように官軍に味方しても、官軍の都合で継之助が見殺しになる可能性もあるのだから、官軍についたも、そういうことが可能性としてあるわけだね。
継之助の決断を強いられた時期は、どっちが勝ってもおかしくない時期なので、おれはなんともいえない。
強いて言うなら、勝つために手段は選ぶな。手段選んで勝つほど余裕ないだろうおまいらって感じ。

383 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/30(金) 02:57:19 ]
>武田旧家臣団
誰が来てるの?あんまきいたことないけど

いまちょっと調べたら伊丹ってのは摂津の豪族が信長に滅ぼされてるね。
これが1574年、家康の転封が1590年だから、可能性あるね。
元城主の直系は黒田藩家老になっているらしいが。
傍流はたくさんあっただろうに全国に散らばってるだろう。

384 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/11/30(金) 22:47:55 ]
>>383
家老職の山本家がそうなっている。
一応山本勘助の弟の末裔ということで話が始まっている。
仙台の伊達家にも真田信繁の末裔で真田喜平太というのが幕末に存在した。
                                 

385 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/03(月) 06:19:10 ]
なにこの良スレw

386 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/07(金) 00:54:44 ]
河井さんの子孫っているんですか?

387 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/07(金) 04:59:45 ]
>>382
河井の「武装中立」を否定したのが佐々木克さんだな。
「既に江戸で会津庄内長岡の盟約が持たれていた。
 河井の中立は時間稼ぎの偽装中立。
 長岡藩が睨みをきかせている限り越後諸藩は動きが取れないし、
 なおかつ新政府としても迂闊に手を出せない」

確かに河井は藩侯が譜代佐幕だからそりゃ新政府寄りじゃないでしょうが、
既に小千谷会談の段階では会津軍が飛び地領に入って圧迫を加えていたし、
「旗幟を鮮明にしない限り手を出せない」のは会津藩だって同じ。
藩内では恭順論と同盟参加論が激突している状況では、
河井が迂闊に態度表明は出来ない。早くに態度表明したら藩が分裂する可能性もある。

自分は偽装中立で時間を稼いだと言うより、これを河井が最も恐れたんじゃないかと思う。
「藩論統一」を最優先として、官軍と大っぴらに接触する機会を待っていたように思えるがな。
単身、実情を訴えて仮に官軍への恭順が認められればそのまま官軍を領内に引き入れ、
会津を威圧する選択肢も必ずしも排除しなかったんではと。
まあ恐らく難しいと思ってだろうが、官軍に恭順が蹴られたら蹴られたで、
それはそれで藩論は纏めやすくなる。

藩論統一、それが恭順か抗戦か以前に重大関心事だったんでしょう。

388 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/08(土) 03:29:26 ]
山本や小林って新潟ではよく聞くけど、河井や伊丹ってあんまり聞かない苗字だよね。

389 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/15(土) 13:12:51 ]
>>387
ただ、桑名松平家の抗戦派に越後柏崎に行くように勧めたのは、江戸徳川家の若年寄大久保一翁なんですね。
佐々木氏の著述では、河井が保障するような感じで越後に行く記述なのですが、桑名松平家の家臣で岡本武雄が記録を残していて、
其れによると、大久保一翁が長岡牧野家や荘内酒井家や会津松平家が近くにいる越後柏崎の方が安全を保障する出来る確率が高いので柏崎行きを決めたとある。
ただ、大久保一翁は新選組の甲府行きを容認した人物なので、対薩長抗戦派の桑名松平家の元当主が江戸にいると具合が悪いので厄介払いをした、ということでしょうか。





390 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/18(火) 05:55:46 ]
>>388
三間氏や稲垣氏、安田氏が上野の豪族の流れを汲む一族で、全国各地から集まりますから。
かつて、歴史家の松浦怜氏が言っていましたが、譜代大名と領民というのは、
植民地とその統治者という関係になるそうです。
鉢植えの鉢のように転封する事が多いため、年貢や御用金を多く集め、次の転封に備えて貯金や借金の返済に終始するそうです。
欧米の教会と医者とキリスト教に比例して、寺社と医者と儒学なり武士道、心学などで、領民に範を示す事になるそうです。


391 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/22(土) 11:35:46 ]
>>382
前当主の忠恭が老中を務めていた頃に手がけた仕事が、長州毛利家の攘夷戦争の尻拭いだからね。
京都所司代時代も、長州毛利家や土佐山内家の京都手入れで治安が悪化した頃にやって来て何もなすことなくだからね。
そのことを考えれば、長岡牧野家が簡単に太政官になびくとは考えにくいしね。
長岡市史によると、河井が横浜から海路帰ってくるまでの牧野家は混乱の一言。
恭順派は集団で押しかけて忠恭親子を吊るし上げ、降伏文書を書かせて太政官に提出させようとし、
抗戦派はその話を聞いて、三間市之進が使者を追いかけて、追いつき、使者から文書を巻き上げて破棄したとありますね。
帰ってきてその話を聞かされた河井が、恭順派を藩校にひとまとめに集めて軟禁し、兵隊の監視をつけたとありますね。


392 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/22(土) 11:36:49 ]
すまん、>>387だった。


393 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/12/23(日) 21:01:44 ]
このスレの最初のほうでとっくに議論されてるんですね。

いま2月〜閏4月頃までの年表を暇つぶしに書いてみたけど、
閏4月の奥羽諸藩の動向は、河井が恭順に傾くような要素は皆無ですね。
総督らがお尻引っぱたいて会庄攻撃に持ち込んだ4月ですら、
仙台・米沢・秋田らは全然やる気がないし。
閏4月19日には高田の政府軍が進発している一方、
会庄攻口の解兵が宣言され、
22日には白石盟約書が調印されてる。

じゃ何のために2ヶ月、藩境まで押し寄せてくるまで待ったのか。
自身、拘束の危険性に気づいていながら小千谷の談判って、
何のために行ったんでしょうかね…

394 名前:日本@名無史さん [2008/01/02(水) 00:03:51 ]
継サ、明けましておめでとうございます

395 名前:日本@名無史さん [2008/01/02(水) 01:43:59 ]
伊丹は後北條家臣から牧野家じゃないの?

396 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/02(水) 13:43:47 ]
それでもどちらにしろ三河以来じゃね?
北条征伐直後に仕えたと考えればギリギリ

397 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/02(水) 15:32:35 ]
越後長岡藩って棒禄は蔵米制?

398 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 02:32:49 ]
そういや長岡には旧上杉家臣で帰農した伊丹家もあるね

399 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 02:52:33 ]
あれ?それは魚沼だっけ?よくわかんね



400 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2008/01/05(土) 09:02:20 ]
おつ。
400げっと。







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