- 683 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/23(土) 00:12:13 ID:???]
- >>682の続き。
この文のすぐあとに、 「良弼、將(まさ)に往かんとし、其の王と相見の儀を定めんことを乞う。廷議すらく。 其の國と上下の分未だ定まらず、禮數の言うべきものなしと。帝、之に從う。」 ((趙)良弼は、まさに往こうとし、その王と相見の儀を定めることを乞うた。廷議(朝廷で 論議すること)して、「その国と上下の分がまだ定まっていないし、礼数(身分相等の礼儀、 待遇)の言うべきものはない」と。帝(クビライ)はこれに従った。)と続く。 ○国書の解説 趙良弼派遣に前後する当時のクビライ宮廷と主に高麗での情勢を簡単に述べると、>>484-485でも 触れたが、この国書でも出て来る通り、前年の1269年に高麗では権臣・林衍が高麗国王元宗を廃位 する事件が起きていた。偶々クビライの宮廷から帰国途中の高麗国王の世継ぎ、世子・[言甚](たん、 後の忠烈王)が高麗国境でこのクーデターの噂を聞き付け、クビライのもとへ急使を飛ばして クビライに詰問の使者と自らに軍の助勢を請うて林衍一派の企てを挫いたが、この事件はその後 林衍一門の一派からやがて例の三別抄の反乱が続くことになる。 ・本文の内容 さて、趙良弼の持って来た国書には、林衍のクーデターによって信使の派遣が滞る状態があった ことを述べ、こちら側の事情によって日本からの返信も届き得なかったのだろうか、という推測を 述べる。
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