- 1 名前:名無し三等兵 [2009/03/21(土) 06:34:55 ID:Mw6fCZR/]
- 前スレが大分前に落ちたみたいなので立てました。
近代以前に対外戦争の経験が殆ど無い日本にとっては 間違いなく中世において最大の国難であった2度にわたる元寇。 幸いにも2度とも撃退することに成功し、属国化を免れましたが その要因としては様々なものが挙げられます。 ここは元寇について主に元軍、鎌倉幕府軍双方の 装備、戦術、兵站などについて語るスレです。 関連スレ 【モンゴル】元寇4【高麗】 academy6.2ch.net/test/read.html/history/1220964839/l100 モンゴル帝国に支配されなかった地域 academy6.2ch.net/test/read.html/whis/1232680543/l100
- 612 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/19(火) 04:25:35 ID:???]
- >>582
今更突っ込みを入れるのもなんだけど、一応は触れておく必要がありそうなので・・ > バリアン氏族 は、「バアリン」(Ba'arin)ね。 1227年にチンギス・カンが逝去した時、モンゴル帝国に属す諸部族の軍は千戸隊単位で 諸部族の首長たちに分封されたが、129個の千戸隊からなる右翼軍、中軍、左翼軍に分けられた モンゴル帝国軍は、その大部分(101の千戸隊)がトルイのもとに相続された。 > 左翼軍 この時トルイが相続したモンゴル帝国諸軍うち、左翼軍に属すものの構成は以下の62の千戸隊。 (『集史』チンギス・カン紀の諸将表から) ============================== 「左翼」 ジャライル部族のムカリ国王の3つの千戸隊 ウリヤンカン部族のイェス・ブカ・タイシの千戸隊 ウルウト部族のケイテイ・ノヤン、ブジル・ノヤン兄弟の4つの千戸隊 イキレス部族のブトゥ附馬の3つの千戸隊 トトカリウト・タタル部族のイェケ・クトクト・ノヤンの千戸隊 コンギラト部族のアルチ附馬の5つの千戸隊 マングト部族のクイルダル・セチェンの千戸隊 バアリン部族のナヤア・ノヤンの3つの千戸隊 コンゴタン部族のストゥ・ノヤンの千戸隊 ジャライル部族のジャライルタイ・イェスルの千戸隊 バヤウト部族のオングル・ノヤンの千戸隊 ジャライル部族のウカル・カラジャ、カラチュ兄弟の千戸隊 ウリヤンカン部族のスベエテイ・バアトルの千戸隊 アルラト部族のドゴルク・チェレビの千戸隊 フイン・ウリヤンカン部族のウダジの千戸隊 チンギス・カンの異母弟ベルグテイの千戸隊 コンギラト部族のアシク附馬の4つの千戸隊
- 613 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/19(火) 04:30:54 ID:???]
- >>612の続き。
バアリン部族のウカル・カラジャ、クドス・カラジャ兄弟の千戸隊 スニト部族のオゲレ・チェレビの千戸隊 スニト部族のテムデル・ノヤンの千戸隊 ジャライル部族のタイスン(ムカリの兄弟)の2つの千戸隊 ジャジラト部族のクシャウル、ジュスク兄弟の3つの千戸隊 マングト部族のモンケ・カラジャのの千戸隊 (以上はもともとモンゴル高原中部から東部にいたテュルク・モンゴル系の諸部族) 契丹のウヤル元帥の10の千戸隊 女直のトガン元帥の10の千戸隊 ============================== 以上がトルイが相続した諸軍だが、チンギスの実弟たちの所領も興安嶺の西麓に分封されて いたらしいので、その千戸隊も大きく分ければモンゴル帝国の左翼軍を構成していた。 ちなみにこの諸弟たち、ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンのいわゆる東方三王家の 1227年時の千戸隊の数は以下のようになる。 テムゲ・オッチギン ケレングト・オロナル部族の2つの千戸隊 ベスト部族の1つの千戸隊 (その他ジャジラト部族などを含む) ジョチ・カサル (各地に散在している者を集めた混成の千戸隊) カチウン (ナイマン部族など潰散した諸部族や、ウリヤンカン部族の混成の3つの千戸隊) チンギス・カンの異母弟ベルグテイも左翼軍に配属されていたが、王族というよりも臣下の諸将の ひとりという扱いだったようで、「ベルグテイ・ノヤン」などと呼ばれていて彼のチンギス・カン家に おける位置付けは興味深い。
- 614 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/19(火) 04:39:37 ID:???]
- >>613の続き。
>>582はどこからの情報に依っているかは分からないが、いくつか訂正を要する点がある。 > 契丹人16% バリアン氏族16% 女真人16% の部分だが、左翼の諸軍でバアリン部族(「バリアン」は明らかに誤記)の軍が、契丹の 10の千戸隊や女直の10の千戸隊に匹敵する規模だったかというと、左翼にあった バアリン部族の軍は、ナヤア・ノヤンの3つの千戸隊とウカル・カラジャ、クドス・ カラジャ兄弟の千戸隊のあわせて4つの千戸隊だけで、数があわない。 ところが他にバアリン部族の軍は、マングル・トルカンの千戸隊と、コルチ・ノヤンの 10の千戸隊が別にあり、多分、「バリアン氏族16%」はそのことに由来するのだろう。 ただし、このマングル・トルカンとコルチ・ノヤン旗下のそれぞれの千戸隊は、この チンギス・カンの諸軍のうち、"右翼軍"に属していたため、左翼軍には属さない。 (これらもトルイが相続した) また、オングト部族長アラクシ・テギト・クリ旗下の4つの千戸隊、およびオイラト部族長 クドカ・ベキ旗下の4つの千戸隊も双方ともに"右翼軍"に属していたため、左翼軍には属さない。 (これらもトルイが相続した) なので、>>582のように、1227年当時、契丹や女直の軍勢に匹敵する規模のバアリン部族の軍勢が、 左翼軍に居たような書き方は実際には誤りであるし、同様にオングト部族の軍やオイラト部族の軍が 左翼軍に配属されていたような書き方も明らかに誤っている。 (特にオイラト王家はチンギスの進めた政略結婚によってジョチ家やチャガタイ家、オゴデイ家、 トルイ家など、モンゴル高原の中部から西部に所領があったチンギスの諸子の王家と姻族関係を 強固にしていて、クビライとアリクブケの皇位継承戦争にも帝国中央部の一大勢力として関わっていく)
- 615 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/19(火) 04:44:13 ID:???]
- >>614の続き。
あと、この頃のモンゴル帝国軍は、チンギスの幕下に臣従したり姻族となった部族連合の諸勢力と、 チンギスの軍に敗北して解体・分配された諸部族などが、おのおの序列化されていたりするので、 単純に「異民族混成」という言葉ですませて良いという訳でもない しかもこれら兵力込みで記録している将軍たちのリストは、『集史』のようなペルシア語文献に 主に記されているが、これらの資料において 基本的にこの頃にモンゴル帝国の戦力として数えて いるのは「騎馬兵力」であって、歩兵については別途言及しないと記録には出てこないという特徴もある。 ちなみに上記の左翼軍の諸将リストで、最初のムカリ国王は良いとして、四番目のイキレス部族の ブトゥ附馬はチンギスの長女コアジン・ベキの娘婿であり、五番目のトトカリウト・タタル部族の イェケ・クトクトはチンギスの第三皇后イェスルンと第五皇后イェスゲンの実の兄弟。六番目に 出て来るコンギラト部族のアルチ附馬はチンギスの第一皇后ボルテの実弟と、モンゴル帝国の 特にチンギスの一門と姻戚関係を結び、中枢を担う所縁の人々が固めている。また、八番目の バアリン部族のナヤア・ノヤンはムカリ国王と並んでトルイ家旗下の諸軍を統括する左翼軍第二位の 地位にあった譜代家臣きっての将軍で、後のクビライの時代に南宋遠征で活躍するバヤン丞相の 大伯父にあたる人物だったりする。 契丹や女直の軍勢はおのおの10の千戸隊をもつ実数的に大きな勢力だったが、序列的には最外部分に 位置していたようである。(この種の序列は、日本の大名における譜代と外様の関係になぞらえて 説明される場合が多い。モンゴル帝国に投降・臣従した契丹や女直系の軍は、金朝との境域地域に 配属されていたので、位置関係もリストに影響されている可能性もあるとは思うが)
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