[表示 : 全て 最新50 1-99 101- 201- 301- 401- 501- 601- 701- 801- 901- 1001- 2chのread.cgiへ]
Update time : 12/11 19:26 / Filesize : 362 KB / Number-of Response : 1002
[このスレッドの書き込みを削除する]
[+板 最近立ったスレ&熱いスレ一覧 : +板 最近立ったスレ/記者別一覧] [類似スレッド一覧]


↑キャッシュ検索、類似スレ動作を修正しました、ご迷惑をお掛けしました

【蒙古襲来】元寇議論考察スレ【モンゴル】



1 名前:名無し三等兵 [2009/03/21(土) 06:34:55 ID:Mw6fCZR/]
前スレが大分前に落ちたみたいなので立てました。
近代以前に対外戦争の経験が殆ど無い日本にとっては
間違いなく中世において最大の国難であった2度にわたる元寇。
幸いにも2度とも撃退することに成功し、属国化を免れましたが
その要因としては様々なものが挙げられます。
ここは元寇について主に元軍、鎌倉幕府軍双方の
装備、戦術、兵站などについて語るスレです。


関連スレ
【モンゴル】元寇4【高麗】
academy6.2ch.net/test/read.html/history/1220964839/l100
モンゴル帝国に支配されなかった地域
academy6.2ch.net/test/read.html/whis/1232680543/l100



238 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/04/30(木) 21:16:43 ID:???]
単純に征服後のことを考えて持ってきたのではないの?屯田兵的に軍を置くつもりだったのでは?

239 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/04/30(木) 21:42:01 ID:???]
むこうのスレが元寇ネタだらけに

gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1218900522/

814 :人間七七四年:2009/04/29(水) 18:30:23 ID:myzRItfJ
だからその殆どの根拠は?

816 :人間七七四年:2009/04/29(水) 20:15:08 ID:55o8MUyp
>>814
www2.ttcn.ne.jp/kazumatsu/sub203.htm

文永の役

高麗人 12700人
宋 人
女真人
漢 人
モンゴル人  30人

総数 25000人

弘安の役

高麗人 25000人
宋 人
女真人
遼 人
トルコ人
安南人
モンゴル人  150人

総数 50000人

240 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/04/30(木) 21:49:47 ID:???]
>>237
というか、一回目の役では矢すぐにつきているから、どうみても短期の偵察戦にしかみえないのに
非戦闘員&農具もってくる理由がわからんというか、軍監してたモンゴル上層部が無能な人物だったのかねぇ。
素人目にかんがえても戦準備に一貫性が感じられないんだが、誰があの戦の統括してたんだ?

あの戦なんというか、野村監督風にいえば、勝ちに不思議の価値かり、負けに不思議の負け無しを地でいっていると思う。

241 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/04/30(木) 21:52:48 ID:???]
>>239
よくその数字見るけど、なんの史料にのってるんだ?

242 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/04/30(木) 22:49:57 ID:???]
>>240
農具持参は二回目では?

>>241
元のサイトもどこからかの孫引きなんだろうけど、最低限どういう本に
載っていたのかは書いて欲しいね。


243 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 04:02:31 ID:???]
>>240
矢が足りなくなったのは壱岐対馬で無駄に十日も虐殺してたからだろう

都督使・金方慶「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。
        船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」
総司令官・忽敦「孫子の兵法に小敵の堅、大敵の擒とあるように、味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、
        大軍の前では結局虜にしかならない。撤退するしかない。」(高麗史・金方慶伝)
だれも偵察が終わったので帰るかなんて言ってない。
もっと戦いたいがもう限界だから帰ろうと言ってる。

文永の役が偵察ならばその偵察で何を得たのか?
なにせ、水城にも大宰府にもまったく攻撃することなく
上陸しても海が見える程度のきわっきわをうろうろしただけでは地理情報も内情もまったくわからない。
偵察の役を果たせてない。

そもそもモンゴルがやってたほかの地域への攻撃ならば三万なんて本気の攻撃でも多い方。



244 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 04:04:18 ID:???]
>>221
おいおい
一度目と二度目ってやつを早く出せよ

>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw

はやくはやく


245 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 09:51:57 ID:???]
>>240
つか俺が見たソースだと
文永は金包茎率いる高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万って内訳で
弘安はこれプラス旧南宋兵10万(詳しい内訳はわからない)の合わせて14万だったぞ?どれが正しいんだ?
あと、そのスレ見たら、文永にも南宋兵がいたと勘違いしてる人がいる。
文永の時点ではまだ宋は滅んでない。

>>244
もうこれ以上イジメてやんなよw
文永の使者殺したと勘違いしてるレベルの人なんだからw

246 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 14:34:57 ID:???]
>味方の疲弊した兵(原文:疲乏之兵)で頑強に戦っても、大軍の前では結局虜にしかならない

もともと日本は人口も兵力も莫大だけど>>202を見る限り
四国や中国からも博多に続々と馳せ参じてたんではなかろうか
阿波(徳島県)の御家人が対馬に居たってすごいな



247 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 14:53:35 ID:???]
しかしこうしてみると、古代から東アジアでジャイアンのごとく振舞ってきた中華が
突如あらわれた欧米にボコボコにやられたってのは痛快だよな
なんかこう、ザマーミロ! みたいな気分になる
もっともその後で中華よりひどいことになっちゃうわけだが
それでもやっぱりザーマーミロだ
こんなこと思うのは俺が小物なんだろうけどなw

248 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 15:05:17 ID:???]
>>247
なんで痛快なのかよくわからん。別に中華帝国は
日本を圧迫したり、攻めてきたりしてないだろ。
(日本が海で囲まれていたことと、高い国力を
有していたこともあるだろうが)
感謝しろとは言わんが、むしろ、中華帝国のおかげで
学んだり儲けたりした部分の方がでかいだろ。


249 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 16:05:31 ID:???]
というか大陸と距離を置いて付き合っていたから
日本はモンゴルの侵略を免れ、その後も中華にベッタリにならなかったから
19世紀に欧米が進出してきたときも、冷静に対応して近代化に成功したんだよな。

250 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 19:36:58 ID:???]
いろいろサイト回ってるが弘安はいいとして
文永のほうは兵力がまちまちだな
水夫が15000なんて意見もよく見る

251 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 22:09:19 ID:???]
そりゃ大掛かりな遠征となりゃ非戦闘員も大量に動員するが
兵力のうちの殆どが非戦闘員なんてことは流石にないだろう。
そうなると何しに来たの?って話だし。

252 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 22:14:16 ID:???]
文永の最初の段階で日本側はどれくらいだったの?

253 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/01(金) 23:45:58 ID:???]
>>245
> 高麗軍8000、元本国からの蒙漢人(華北の屯田兵中心、洪茶丘の高麗人部隊含む)25000
> その他船頭とかの非戦闘員7000、あわせて4万

それらの数字は『高麗史』忠烈王世代家、同書金方慶伝、『高麗史』完成の翌年に編纂された
『高麗史節要』の文永の役関連の記事(それぞれの記事の元宗十五年(1274年)十月条)に
基づくものなので別段問題ない。

「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』忠烈王世代家)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史』金方慶伝)
「以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘」(『高麗史節要』元宗十五年冬十月条)

・・・見て分かる通り、三箇所の記述は全部一字一句同じなのでうpして並べてもあまり意味無いけど・・

(一応『高麗史』の数十年後に編纂された『東国通鑑』にも出てくるけど、文永の役の件は
 『高麗史』金方慶伝の丸写しなのでスルーしても可だろう。ただ、日本では朝鮮半島史の史料として
 『東国通鑑』が十七世紀中頃から流布していて、江戸時代や明治初年まで日本での蒙古襲来関係の
 研究では専らこちらがメインで使われていた。『高麗史』が蒙古襲来関係の史料として使われる
 ようになったのは十九世紀も末くらいになってからなんだそうだ。大正時代に『東国通鑑』の
 原文+全文書き下し本なんかもも出版されてたりする。)

「元本国」と言っても忻都率いる鳳州屯田などからの軍は高麗領北辺からやって来たけど、これは元朝の
領域としては南東の辺域にあたり、当時「腹裏」と呼ばれた大都や上都開平府などの中心地域やムカリ国王家
などの譜代五投下、チンギスの兄弟たちの後裔である東方三王家の本拠地からも外れるため、「モンゴル高原
からやって来た」的なビジョンとは大分違いけど。

254 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 05:03:59 ID:???]
元寇後の大混乱が収束したのは約300年後の秀吉の天下統一後といえるのだろうか

255 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 10:02:42 ID:???]
>>254
それはない。

256 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 10:21:26 ID:???]
>>253
モンゴルやテュルク系の遊牧民は元々人口少ないし
そりゃまあ、あれだけ拡大すれば制服民中心の編成になるよなあ。



257 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 11:25:40 ID:???]
>>251
「用 兵 夫 孰 所 好 (兵を用いることなど好むところではない)」

非戦闘員が多いというのはこの言葉を裏付けているね。つまり友好的な訪問団に対して外交というものがわからない
日本人が狼藉を働いたというわけ。

258 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 11:42:28 ID:???]
日本史板でもそうだったけど煽り屋が張り付いているね

259 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 11:50:34 ID:???]
今も昔も日本人が外交オンチなのは世界の常識ですけどね。

260 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 11:53:40 ID:???]
手を組むだけ無駄な連中と手を組むところなんか特にねw

261 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 11:55:54 ID:???]
友好的な訪問団というのは矢をすぐに打ち尽した点からも説明し得る。

262 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 12:20:23 ID:???]
自分で調べるのが面倒だから煽って誰かに話させようってことかな

263 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 14:50:34 ID:???]
>>257
またお前かw
>>229でもうレスしないとか言ってなかった?w

264 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/02(土) 19:48:10 ID:???]
PC壊れたとか言うのが嘘というのがわかったところで…

はやく友好的な国書とやらを出してよ
>201 :名無し三等兵:2009/04/27(月) 18:01:42 ID:???
>>200
>それ3度目に送られてきた内容じゃねーかw



265 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 00:00:01 ID:???]
たまたま三、四万人で海岸散歩をしていただけなのに襲われるなんてひどすぎる話だな。

266 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 03:28:45 ID:???]
そもそも>>200は本当に三度目の国書?
あれが最初じゃないの?



267 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 06:53:49 ID:???]
>>265
一発だけなら誤射かもしれない

268 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 09:21:24 ID:???]
なあに、かえって免疫がつく

269 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 12:16:54 ID:???]
>>268
確かに文永の役は日本にとっては予防接種だったな


270 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 13:25:54 ID:???]
確かに最初から弘安並みの規模で攻めてきてたら結果は違ってただろうな。

271 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 13:52:03 ID:???]
といっても
これまた史実通りの弘安の役なら
江南軍はあとからくるので先発の東路軍の規模はさほど変わらなかったりする

272 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 13:57:44 ID:???]
でも防塁が存在しないわけだから橋頭堡は簡単に取れるんじゃない?
日本軍の数だってもっと少ないわけだし。

273 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 16:32:33 ID:???]
日本があっさり撃退

弘安の役は威力偵察ニダ

という捏造史になるだけな気が売る

274 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 16:43:29 ID:???]
坂東武士「よっしゃあ!一番乗り!蒙古の連中フルボッコにしてやんよwwwww」
九州武士「あのさあ、テンション上がってるとこ悪いんだけど」
坂東武士「ん?何?」
九州武士「遥々来てもらってなんだけど、もう帰っていいよ。」
坂東武士「は?w意味わかんないんですけどw」
九州武士「いや、だからあいつらもうとっく逃げ帰って、戦終わってんのよ。はい、お疲れさん」
坂東武士「(´;ω;`)」

275 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/03(日) 17:13:22 ID:???]
>>197見ると離島ですら各地から馳せ参じてるようだけど
実際はやる気のある奴は勝手に参加してたのかな
通説では逃げ回って参加しなかった連中がいたという話ばかり有名だが


276 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 14:50:13 ID:???]
そういえば弘安の役で元軍が向こうを出港したのって今の季節ぐらいでしょ
旧暦だからもう博多湾についてる?




277 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 16:28:08 ID:???]
>>264
つか今思ったんだけど、モンゴルと高麗の関係って
戦国時代の今川氏と家康幼少期の松平氏の関係に近かったんじゃない?

278 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 16:41:49 ID:???]
それがどうして>>264へのレスなのか

279 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 17:12:34 ID:???]
ごめん、>>214だったわ

280 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 17:16:37 ID:???]
>漢代の匈奴や唐代の突厥に対しては対等の関係、中華側が物資供給してるけど。

司馬遷が史記の「匈奴列伝」で
「高祖は一族の娘を送り、匈奴にに綿、絹、酒、米その他を贈り・・・」と
書いてあるのに・・・
人を試してるんですか?

281 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 18:21:37 ID:???]
うわ〜中華がここまで頭下げまくってるの初めて見たw

282 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/04(月) 18:52:32 ID:???]
>>276
今ぐらいに攻撃を開始して
夏になっても上陸すらできないって…

283 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 16:57:08 ID:???]
当時の九州に日本海越えて十数万の軍勢を派遣・・
上陸成功したらしたで補給が大問題だったろうな

当時の輸送力とか考えるとやっぱ体のいい棄兵だったとしか思えないな

284 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 17:09:26 ID:???]
>>283
陸上を侵攻するよりは遥かに楽。
船の積載量は馬での輸送を遥かに上回る。

285 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 17:31:18 ID:???]
>>283
見苦しい

286 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 20:02:17 ID:???]
>>284
まさに棄兵に打ってつけというか



287 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 20:12:05 ID:???]
言い訳ばかりだなw

288 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 20:22:32 ID:???]
国書マダ〜?

289 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 21:51:28 ID:???]
>>283はどうでもいいが、海上侵攻が陸上侵攻よりも楽ってのは暴論過ぎないか?

290 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 21:54:58 ID:???]
朝鮮出兵も上陸はらくらく成功して長期戦。倭寇もちょくちょく沿岸を荒らし、中には南京まで行ったのもいる。
守る側は海岸線をすべてはカバーしようがないから攻撃側主導で展開できる。

291 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 22:19:35 ID:???]
地続きならわざわざ船団を用意して上陸する必要すらない。そのまま歩いて侵攻できる。
海岸線を全てカバー出来ないと言うが国境線を全てカバー出切るのか?

292 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 23:23:16 ID:???]
前近代での船舶での運送は、「ハイリスク・ハイリターン」の世界。
エジプトでのインド洋交易に携わっている商人達の話を聞く限りでは、積載量は陸上のラクダや馬
なんかでの隊商が運ぶ量に比べて圧倒し、隊商で運び切れないような大型の商品も運ぶ事が可能だった。
そのため無事送り先に届けばその収益は非常に高い。

その代わり、天候で安全性が大きく左右されるのが問題で、海上で遭難することを考えれば危険性は
船の方が圧倒している。経験豊富な隊商だったら通常の街道を間違える事はまず無いし、街道の治安の
問題はその地域の政治的軍事的な安定性が確保出来ているかどうかで違うが、野盗に襲われても交渉で
解決する場合も無くは無い。
ところが海上の場合、船が嵐に遭うの日常的だし、沿岸ならまだしも洋上で転覆すれば助かる見込みは殆ど無い。

ちなみに、高麗とクビライ政権が三別抄討伐をしていた頃の話だが、『高麗史』の元宗十四年三月己卯
(1273年4月15日)の条に、

「(元宗十四年三月)己卯、西海道戰艦二十七艘至伽耶召島遇大風敗没。南京判官任恂仁州副使李等
 録事裴淑及蒿工水手等一百十五人溺死。慶尚道戰艦二十七艘亦敗溺。」
(己卯、西海道の戦艦二十七艘伽耶の召島に至り、大風に遇い敗れ没す。南京判官任恂、仁州副使李シ]
 録事裴淑、及び蒿工水手等一百十五人溺死す。慶尚道の戦艦二十七艘亦た敗れ溺る。)

という記事がある。
数百人単位での艦船での行動は、戦闘とか何もしていなくとも風雨にさらされ船が転覆すればその
数百人単位で指揮官込みで部隊が丸ごと全滅する危険性もあり、トータルで見れば動員数が多ければ多い程、
海上侵攻が陸上での侵攻よりも楽とは言い難い。

無論、好天順風に恵まれれば大量輸送が出来るという利点は大いに発揮出来るだろうが、毎回そうとは
限らない。当時の船での海上輸送は飽くまでも「ハイリスク・ハイリターン」。
弘安の役は、出発からしてグズグズな感じだったが、完全に失敗したのは例の大風で船団が殆ど全滅状態に
なったことが直接の原因だったことを想起すれば十分だと思う。

293 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/06(水) 23:54:20 ID:???]
>>290
もしかしたら、海流の関係もあるとか?
例えば日本→大陸は比較的簡単だが、大陸→日本は難しいとか。
まあ>>283の指示する棄民策とやらはナンセンス極まりないがね。
用済みになった住民や兵は、射的の的代わりにして皆殺しがデフォだったモンゴルが
南宋の時だけなんでそんな回りくどい真似すんのよ。

294 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 01:54:56 ID:???]
>>292
朝鮮西岸は半島にぶちあたって荒れまくり危険
対馬より東方は対馬海流の流れが速くて危険
北部九州と朝鮮南岸は順調に渡れば危険は回避できる

295 名前:名無し三等兵 [2009/05/07(木) 02:54:50 ID:t22W5yLo]
二回目は棄兵と考える方が自然。
旧南宋兵皆殺しにする方がコストも人員もかかるし、現地人の不満も募る。
それなら大遠征の大義名分で日本に捨ててきた方が効率的。
上手くいけば儲けもん。まあノーリスクハイリターンって事さね。
元が本腰入れてたのはベトナムだべ。

296 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 03:46:54 ID:???]
国書出せないの?



297 名前:名無し三等兵 [2009/05/07(木) 04:17:38 ID:t22W5yLo]
俺は例の国書の奴とは違う。ただ元側の目的について述べてるだけだ

298 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 05:04:16 ID:???]
まあどのみちベトナムも失敗してるけどね

299 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 05:05:53 ID:???]
>295
面白い妄想だが
まるで南宋人だけで攻めてきたような言い草だなw

300 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 15:52:45 ID:???]
元は常に侵略した先の人間を兵士に使う
反抗しなければよし使えない民なら普通に虐殺
そうしたなか
なぜ弘安の役だけ意味不明な珍回答連発してるのか

答え
日本の圧勝を認めたくないから

301 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 16:48:55 ID:???]
この際、元が本気だったかどうかなんてどうでもいい。





何故なら「結果的には」鎌倉幕府もまだまだ兵力動員する余裕ある状態で終わったわけだしw>>274

302 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 17:10:23 ID:???]
ようは人口も兵力も桁違いに多い日本を4万で落とすのは不可能ってことだな2回とも

303 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 17:52:50 ID:???]
一応弘安の役自体は大宰府の占領を目的にしてたのでいきなり日本を落とすというより
大宰府を落とすのに成功したら
そこを拠点にさらに次、さらに次と侵食していく予定


まあ兵力的には大宰府落とすんなら四万ぐらいでよかろうと予想したこと自体は
結構妥当。他国はそれぐらいで落ちてるんだから。

ただ武士が強すぎて計画がまったくうまくいかなかったw

304 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 17:59:35 ID:???]
>>301
確かに

本気じゃなかった論でいえば動員数的には日本の方が片手間だったともいえるわな
まあ現地の武士は当然本気、必死でやってたわけだが…

指の先ではじいたようなもんだな。本気のデコピンってやつだわ。

305 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 18:09:10 ID:???]
>>276
逆、グレゴリオ暦なら約一か月遅くなる


306 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 18:29:03 ID:???]
>>303
それって文永のことじゃね
弘安だと日本側も5万以上になり上回る

文永に関しては示威行為だと思うけどね



307 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 19:03:52 ID:???]
そういや、日本攻めた元軍はやたら寄せ集めだの何だの言われるが
他地域攻めた連中はどうだったんよ?元々モンゴルは人口そんなにいないんでしょ?

308 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 20:25:46 ID:???]
>>307
昔ここか日本史のスレで西征には全部族から抽出されたメンバーが参加したとあったな
当時は国士みたいな住人しかいなかったので完全にスルーされてた

309 名前:名無し三等兵 [2009/05/07(木) 21:05:34 ID:t22W5yLo]
バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍や
フラグ率いる西アジア遠征軍や南宋遠征軍に較べれば
日本遠征軍は戦力的に将、兵卒共に大きく劣ると言わざるを得ない。
フビライが本気だったとは思えない。やはり高麗が日本攻めろと五月蝿いから
形の上だけ攻めて、実質棄民だったと見るのが自然。
兵士の九割以上が属国の高麗と旧敵の南宋だから失敗しても痛くも痒くもない。

310 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 21:21:10 ID:???]
>>295,>298
陳朝のベトナムはクビライの時代には元朝側に服属していて、鎮南王トガンが現地で無茶な徴発を
行ったせいで離叛した。
陳朝のベトナムでの戦役は、最後に鎮南王トガンの軍が雲南へ撤退中に襲撃されてボロボロに
やられているけど、それ以前には陳朝の側も鎮南王の軍に何度もフルボッコにされているから
なかなか決着の付かない消耗戦だった訳で、2重3重に日本への文永・弘安の役と内容が違う。

あと、陳朝は鎮南王トガンの軍を雲南へ撃退はしたけど、元朝には陳朝側にかなり有利な条件で
再度元朝の服属政権として復帰することを誓約していて、元朝もこの要求をほぼ全面的に受け入れて
いるから、この点も日本の場合と違う。

ベトナムの場合、元朝としては離叛した陳朝を再び自らの側に引き留めることが目的だったので、
鎮南王トガンの軍が最後惨敗したとは言え、当初の目的は最終的に達成出来たから、その意味では
「成功した」と言えると思う。

311 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 21:39:14 ID:???]
>>189-191
思い出した
以前モンゴル関係の本を見てたら朝鮮や中央アジアで結構モンゴルの高名な連中とか
弓で死んでたんだよな。すっかり失念してた
劉復亨が重傷を負った件は、それらと比べるとむしろ見劣りする

312 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/07(木) 22:56:22 ID:???]
>>310
そりゃまあ、一旦服属させた地域で反乱起きりゃそっち優先で鎮圧するよなあ。

313 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 00:32:31 ID:???]
>>309
つまり元寇の元凶は高麗であり、朝鮮人を征伐するその後の行為はそれですべて正当化。いいかもw

314 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 01:49:46 ID:???]
>>309
ウルスにあやまれw







315 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 03:03:08 ID:???]
>>304
>本気のデコピン

言いえて妙

316 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 17:51:33 ID:???]
牟田口「モンゴル帝国の亡霊がインパール作戦の邪魔をした」



317 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 18:22:01 ID:???]
モンゴルはカラフトアイヌにすら勝てなかったって本当ですか?

318 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 19:43:57 ID:???]
和弓伝説が崩れていく

319 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 19:53:06 ID:???]
どっちかというと和弓は過小評価される傾向にあった気がするが。

320 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 20:39:15 ID:???]
academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1147423539/

668 :世界@名無史さん:2007/09/02(日) 03:17:35 0
上の方で元寇での日本勝利は暴風雨のお陰という相変わらずの書き込みがあるが、
ディスカバリチャンネルで元寇のことを取り上げたときに、日本の勝因は、やはり上陸
されても橋頭堡を築かせなかったこと、長大な弓を使ったので、射程ギリギリでは
日本の弓の方が威力があったこと(劉復享が小弐景資に射倒されたのは、日本軍
弓の射程外と思っていたらそうでなかった)、接近戦では刀剣の扱いに巧みな鎌倉
武士の方が強かったこと、そして急に船を揃える為に生粋の浅い内陸河川用の船
を多数徴用したので、台風にはひとたまりもなかったとかなり客観的に分析してる。
再現ビデオの日本軍の時代考証は滅茶苦茶だったが。
アメリカが無理に日本びいきにする必要もないわけで、勝てる要因があったから
勝てたというきわめて当たり前の分析だったよ。
別のアメリカの歴史番組をアメリカにいる時に見たときには、皮や布製の元軍、高麗軍
の鎧は、騎射や槍を構えての突撃には身動きが容易で向いていたが、鉄の鎧を貫通
する日本の弓矢と斬撃に向いていた日本刀に対しては有効な防御にはなってなかった
と言ってたな。実際中国の鎧を矢で打ち抜いたり日本刀でばっさり切り裂いて見せていた。

321 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 21:47:51 ID:???]
東南アジア戦線に数千の兵力しか投入しなかった元が、その数倍の兵力を
投入した日本戦が、単なる牽制攻撃ですぐに引き上げる予定な訳がないだろ。

322 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/08(金) 23:00:33 ID:???]
合計16万人以上も送って失敗
そして倭寇が荒らしまわるようになった

民衆はどう思ったのかな

323 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 00:18:54 ID:???]
>>322
民衆についてだが
前に図書館見てきたんだが
その後にもあった小規模な侵攻で日本中が大騒ぎしただの
元寇後は脅威が続いたとか書いてる本ばかりだった

324 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 02:13:13 ID:???]
小規模な侵攻は刀伊の件かな?

325 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 04:51:23 ID:???]
「その後」だから刀伊じゃなくて応永の方か。

しかしまあ、同じように対馬攻めたのに
片や大虐殺が繰り広げられ、片や対馬の武士達に瞬殺されるとは
蒙古襲来の対馬攻めと応永の対馬攻めで
なんでここまで差がでたもんなのか?

326 名前:名無し三等兵 [2009/05/09(土) 06:52:15 ID:uCbV6VXC]
1日で引き上げたことから威力偵察説なんだろうが、むしろ1日で撤退したことのほうが異状。
撤退して大風に遭ったのではなく低気圧の中に飛び込んだ。
また往路の対馬、壱岐では滞在せざるをえなかったのだろう。

魏志倭人伝なぞ解きの旅さんの
通信使一行日本往還日記から渡海の状況が察せられる。
ttp://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/nituki.htm
>『往路』
初十日、この日朝陰るも晩に晴る。早朝船を発し、三百里を行き、
夕府中〔対馬厳原町〕に到る。乃ち島主平義智の居る所。……
八月十一日、この日晴れ。風勢好からず、因って留る。・・・
十二日、この日晴。・・・
十三日、この日陰る。仍(よ)って町中に留る。
十四日、この日陰り、洒(さい)雨あり。・・・
十五日、この日陰る。・・・
十六日、この日朝晴れ晩は雨ふる。・・・
十七日、この日陰雨。・・・
十八日、この日陰る。朝府中浦を離れ、開船して洋に出づ。
風濤甚(はなは)だ緊(きつ)く、已むを得ず、内浦に回り泊す。
……

『帰路』
(旧暦10月10日名護屋発11月23日釜山着、最後はかなり冒険したようだ。)
対馬に回りてより後、風に阻まれ留ること二十六日。……
盖(けだ・蓋?)し渡海には須(すべか)らく東南風を得べくも、
冬月はこの風を得難し。故に留滞してここに至る。嘆ずべし。



327 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 07:35:23 ID:???]
>至元十一年冬十月、入其国敗之。而官軍不整。又矢盡。惟虜掠四境而帰。

官軍整ならずは集団戦術を使うので元軍の損害を示すと読むのが通りがよいと思うんだけどどうだろう。
南太平洋海戦の航空隊やろ号作戦の一航戦搭乗員のような

328 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 09:21:32 ID:???]
>>326
自己スレ。いや別に杉山先生がいい加減な説吹いてるとかそういう意味じゃ全然ないですから
ただ、攻略目的だろうと威力偵察だろうが関係なく天気待ちせずに玄界灘に漕ぎ出したのは、
波乗りして遊ぶほど余裕があった可能性があると思うんです。

329 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 11:27:54 ID:???]
急がないと武士に殺されちゃう死ね

330 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 13:55:58 ID:???]
>>322
「民衆がどう思ったのか」についてはよくわからない。
基本的に史書は官僚が残した記録なので、司馬遷のような変人でもなければそういうものは言及しない。

渡海遠征なら、日本以外にもヴェトナムやジャワ等々にも行った。
しかし、これらの国はその後、元に対して恭順の意志を示し、朝貢の使節を送っている。
つまり、軍事遠征としては失敗だったかもしれないが、政治的には成功していると言える。
(少なくとも「中国」という枠組みの中では、軍事遠征の成功という言い訳が可能。)

一方の日本は、他の国と同じ様に「元に朝貢の使節を送ったのか?」と言えば、答えはNO。
日本が元に送ったものは、報復の軍事行動、即ち「倭寇」だった。
無論、これらは海賊であり、当時の鎌倉幕府やその後の南北朝、室町幕府、つまり日本の中央政府とは無関係なものであったというのが日本側の一般的見解。
なのだが、支那ではそうではないらしいw
明代の寧波の乱なんかが倭寇の典型的な倭寇の例として語られるように、朝廷や幕府とは別の「日本の意思」か何かが存在しているらしいw

何れにせよ、日本からの報復行動としての倭寇は、元に対してそれなりのダメージを与えた事は確か。
これに対して元側が防戦一方であり、根本的対策=倭寇の根拠地への討伐等が一切できなかった事は元朝への求心力の低下、その衰退、滅亡への一歩となった事は間違い無いだろう。

331 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 14:34:00 ID:???]
>>325
いやたぶん甑島の件だと思うな
それだけで1冊あり日本中が上を下に大騒ぎになったというのを
多数の資料を示して解説してたわ
、残りの本も多くが第3次侵攻の噂だとか異国船発見で
国内が驚天動地の大騒ぎになった事態を取り上げてるんだわ

332 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 15:12:12 ID:???]
>>326
魏志倭人伝のそれは風待ち
当時の船は順風じゃないと対馬海流超えられないからひたすら待ってる

高麗の船がどんなもんかわからないけど、南宋の船に似た
ジャンク船なら逆風でなければ航海できる

333 名前:332 mailto:sage [2009/05/09(土) 15:22:49 ID:???]
ん?これ朝鮮通信使の日記なのか すまん

334 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 21:46:08 ID:???]
外国からの初めての大規模な侵略だから、
元軍の強さ、残虐さは誇張されて伝わっていてもおかしくないな
八幡なんたらってのも宗教書だし

335 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 22:44:14 ID:???]
元はハイドゥ軍との戦いではどういう編成だったんですか?
期間が長すぎるから一口にどうとは言えないかも知れませんが
詳しい方お願いします。

336 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/09(土) 23:04:22 ID:???]
>>334
『八幡愚童訓』は名前のとおり八幡大菩薩の神徳を称揚する宗教書なんだけど、
文永・弘安の役について部分の元ネタは、文永の役の主戦場のひとつだった博多の
箱崎八幡宮の社官が残した両戦役の実見記らしい『八幡ノ蒙古記』をベースに
使っているらしい。(江戸時代の漢学者、橘守部などの談)

『八幡愚童訓』は八幡大菩薩の神徳称揚を目的として岩清水八幡宮の社僧あたりが
十三世紀末から十四世紀の初頭頃に編纂したものらしいが、神功皇后の三韓征伐や
唐天竺のエピソード等、本地垂迹説の観点から八幡大菩薩にまつわる雑多な内容を
網羅的に叙述していて、寺社縁起系の文学として非常に完成度の高い書物。
その1エピソードとして文永・弘安の役についての話が載せられている。

勿論、宗教文書だし、「八幡大菩薩の神徳称揚が目的」という内容だけに全部が全部
実際にあったことそのままが書かれている訳ではないだろうけど、例えば有名な
「てつはう」が使用されたことは博多湾の海底発掘調査にも合致しているし、文永・
弘安の役当時の水城について詳述がされているが、これも戦後の水城の発掘調査とも
良く合っている。

ただ、室町時代から江戸時代にかけて写本や流布本が多く出回ったが、時代を経るごとに
内容が大雑把になったり部分部分で改編や脱漏などが多く、諸本同士で内容が食い違う
箇所も見られる。(江戸時代には絵入り本まで出た)
文永・弘安の両役の戦況全体を記述しているため、(水城の記述とかも含めて)非常に貴重な
資料なんだけど、如何せん資料としての性格が性格ゆえ非常に扱いが厄介な代物でもある。

(ちなみに「蒙古の連中は牛馬を食する輩だから捕殺した武者を食べるに違いない」みたいなことを
 書いているが、無論、華北や高麗でのモンゴル軍の戦役からしてそんな展開は実際にはないw)



337 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/10(日) 04:35:02 ID:???]
そういや従来は蒙古襲来絵詞は竹崎さんが
武勲を誇示する為に描かせたって言われてたが
あれホントは安達さんや少弐さんを鎮魂する為に描かせたんだよね。
だから彼ら2人がイケメンに描かれてるw

338 名前:名無し三等兵 mailto:sage [2009/05/10(日) 16:48:20 ID:???]
棄民説の意味がマジでわからん。
フビライの治世を通してカイドゥと戦ったり周辺諸国に出兵していて
別に兵士が余っているわけでもないのに、なんで日本相手にだけ
無駄金を大量に費やして棄民を送り込む必要があるんだ?






[ 続きを読む ] / [ 携帯版 ]

前100 次100 最新50 [ このスレをブックマーク! 携帯に送る ] 2chのread.cgiへ
[+板 最近立ったスレ&熱いスレ一覧 : +板 最近立ったスレ/記者別一覧](;´∀`)<362KB

read.cgi ver5.27 [feat.BBS2 +1.6] / e.0.2 (02/09/03) / eucaly.net products.
担当:undef