- 106 名前:菜々しさん (ガラプー KKeb-o/O9) [2017/07/28(金) 03:48:47.96 ID:/QQIK0upK.net]
- >>105
まとめありがとう。 > n3 中庸を認めず断定する思考こそ0-100 [d1]。ベジタリアン0-100とは限らない。 > a3 規範に基づいた分析・判断こそ0-100[d2]。ベジタリアンは0-100である。 > #ここから好ましいのはd2そのものへの批判とベジタリアン=d2の論理への批判かなぁ まずd2について若干訂正があるのだが、「0-100」とは「対象への分析的な認識に基づいた規範的な判断・思考」といった方が適切かと思う 対象の分析が規範に基づいているわけでなく、「あくまで認識はただ分析的になされ、その認識した対象についての判断を規範に基づいて下す」というプロセスだから その上で以下 ベジタリアン=d2ということは>>104でベジタリアニズムが分析主義的な認識と規範に基づく判断の上にしか成り立たないと書いたが、これは自明かと思うけど説明が必要だろうか ベジタリアニズムって「○○は食べない」という形式の規範に従う主張だと思うのだが、反例はあり得るだろうか? 反例が無い、すなわちベジタリアニズムは規範に従う主張であると仮定すると、ベジタリアニズムでは規範の対象について「○○」と類別する認識をしているのだから、これはベジタリアニズムが分析的な認識をしているということになる だから反例が無いならば、ベジタリアン=d2には合意が得られると思う で、反例はあるのかも知れないけど取りあえず俺は思い付かないから話を先に進め、「0-100」の定義をd2とすることの妥当性について述べてみる ただしその前に注意すべき点が以下 「『0-100』か中庸か」ということについては、既に君が>>103で指摘した通り「(どんな中庸も)見方を変えれば0か100かの思想だと見なせる」ということもできる この場合、逆にいうと「どんな『0-100』も見方を変えれば中庸の思想だと見なせる」といえるわけだ だとすると結局は「『0-100』か中庸か」は見方次第ということになるのだが、それではベジタリアンがあるいは非ベジタリアンが「0-100」かどうかも「見方次第・主観次第」ということになってしまう これでは客観的な議論になりようがないので、このような「見方次第」に陥るような定義は避けなければならない 例えば「牛」「哺乳類」「動物」「生物」等々、幅の違う様々な尺度が交換可能な中でどの尺度を用いるかを論じるのは「0-100」かどうかを「見方次第」に陥らせてしまう、 従って、採用する尺度の尺の大きさの方面から「0-100」を定義することは避けなければならない このことを念頭に置くべき、という点だ さて、まずd1「 中庸を認めず断定する思考」についてだが、勿論「0-100」は言葉の上からそういう意味だ ただし、「ベジタリアニズムは『分析的な認識に基づく規範主義的な思考』(d2)であり、『分析的な認識に基づく規範主義的な思考』(d2)は『中庸を認めず断定する思考』(d1)に含まれる」ということをこちらはいっている これは、d1とd2は対立的でなく、包含関係にあるということだ で、実際にどのようにベジタリアニズムが中庸を許さない思考といえるのかを以下に述べる ベジタリアンは「対象を『○○である(○○の性質を持つ)』と分析的に認識し、『○○であるならば、食べない』と規範主義的に判断する思考」をする この時ベジタリアンは対象について「『○○である』かどうか」という認識をするわけだが、これは「Aか¬Aか」という形式だから中庸というものは存在しない ゆえにベジタリアンの思考は「中庸を許さない『0-100』の認識に基づいて、規範により中庸を許さず『0-100』で判断を下す思考」といえるだろう この場合、「0-100」かどうかは尺度の取り方によるのでなく「Aか¬Aか」という認識の有無から判断されるので「見方次第」に陥らずに済む 以上、d2を定義として採用する妥当性は簡単にいえば 君も認める通り、交換可能な様々な尺度の中でどの尺度を用いているかで「0-100」かどうかを論じるのは、結論を「見方次第」に陥らせてしまい議論を成立させない、 従って、採用する尺度の尺の大きさの方面から「0-100」を定義することは避けなければならない しかし、この「『Aか¬Aか』という構造をの有無」で「『0-100かどうか』」を定義する場合、その問題をクリアして「0-100」を定義できるので議論を成立させられる、というところにあるわけだ で、d2=ベジタリアン、かつ、d2が「0-100」の定義として妥当であるならば>>104の議論は受け入れられるんじゃないだろうか
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