- 100 名前:菜々しさん (ガラプー KKeb-o/O9) [2017/07/27(木) 09:39:47.36 ID:A8II7dYpK.net]
- >>98
> まとめると > (1)なにが0、50、100になるのかはベジタリアン自身の感性の枠の中で決めている > (2)しかもその中で、0、50、100のどれを選ぶのかもベジタリアン自身が選択している > ってことじゃないのかなあと俺は思うんだ。 果たしてベジタリアンがそのように自身を認識してるだろうか 多くの場合、ベジタリアンというのは肉食の選択について0-100で判断してると思う いったい「肉を食べるかって?その時々次第だね、恣意的に食べたり食べなかったりするヨ」という態度はベジタリアンと言えるかね?そんなベジタリアンいる? 「あ、今は肉は食べたくないんだ、ベジタリアンだから」 「え?昨日焼き肉行ったじゃん」 「昨日は昨日、今は今というベジタリアンなんだよ」 0-100でないというのはこういうことだけど、こんなのある? 俺が言ってるのは、「個々のシチュエーションにおいてどうするかということが、あらかじめ0か100かで規定されるような思考をしている」っていう意味だよ 言い換えれば「是非をケースバイケースで総合的に判断するのでなく」、「是非を一義的に決めるようなドグマを採用している」という意味ね 「ベジタリアニズムはドグマティズムだ、ドグマティズムというのは0-100だ」といえば分かりやすいかな? 必ずしも全てのベジタリアンが同じドグマを持っているというわけでないのは当然として、基本的にどんなベジタリアニズムも何らかのドグマティズムである、と そしてそのドグマは当人の主観で採用されているだけだ、ということがあるね 当人の主観で採用されているだけのドグマに他者が接し、他者がそのドグマの性質を吟味するとき、それは当然他者自身の価値観において吟味するしかないわけだから 例えばベジタリアニズムの規範で動物と植物が区別されていることについて、それが自分の価値観の上で合理性をもって解釈できるかどうかという問題になる だから「なぜ植物はいいのか」という話になる > これをふまえると、 > (1)他人の感性の枠を無視して、自分の枠の中で0か100かを決めつけている > (2)他人の判断を無視して、"100の選択をしている"と決めつけた上で、自分の感性の枠で決めた"さらなる100"の選択を求める > という風に、ベジタリアンに論争をふっかける側の人間の論理構造を考察出来ると思うんだ。 上記を踏まえると、一般にベジタリアンはドグマを持つ、しかしあるベジタリアンのドグマは他者においてはその他者の感性の上でしか吟味され得ない だからベジタリアニズムに接した他者が自己の感性の上で例えば「肉を食べてはならないというが○○はどうか、××はどうか」と考えるのは何の不自然もなく、 まして「人は肉を食うべきでない」と主張するベジタリアンがあれば、それに接した他者にその理由を吟味するためのそのような問いが生じるのは極めて自然なことだろう > この2点からの結論は、単に時系列的な順序は当然ベジタリアン→外の人になるけど、論理的な因果はこの二者にはなくて、それぞれ独立してると思うんだよね。 > 君の結論の「端的にいって順序が逆」に対しては「この二者には順序がない」こういう反論になるけどどうかな? 上記のように「○○はどうか、××はどうか」というのはベジタリアンのドグマに対する問いなのだから、順序は当然問題になるよ ベジタリアンがいればそこにドグマがある そこにドグマが無ければそれらの問いは生じない ベジタリアンありきでそのドグマへの問いが生じている だから歴然と二者に順序はあるよね こちらも随分長くなってしまったけど理解してもらえただろうか
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