- 48 名前:名無しでGO! mailto:sage [2012/05/05(土) 22:50:02.21 ID:0gXK/lVQ0]
- >>47
アメリカはカラー化が早くて、「風と共に去りぬ」1938年はオールカラーで、 広島長崎の原爆投下まで観測機からカラー撮影していて、当たり前の機材になっていたでしょう。 1949年なら、連合軍(実質アメリカ)占領下でカラーのスチール写真くらいは撮れたと思います。 技術屋だったうちの爺さんが安全教育も担当してたんで、家で点検してたハズの教育スライドを見たことがあります。 見あたらないから処分したんでしょうね。あの炎の下で106人焼死したわけで、スライドを見ての粟立つ肌の感覚は不気味でしたね。尼崎も106+1(+1)ですか! (「占領軍」→条約を結んでから「進駐軍」だったと思うんですが、それがサンフランシスコ平和条約なのか?ミズリー号上の降伏調印からか?変な疑問が湧いて)
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