- 29 名前:Ψ [2009/11/11(水) 18:25:53 ID:v2Cyj2lk0]
- >>23
九州説でも矛盾しないと思うけどな。 魏志倭人伝の卑弥呼、台与に関する記述を読むと、明らかに天皇家の皇位継承を 巡る騒動だ。 つまり、畿内の男系が断絶したということだろ。 そこで誰を天皇にするかで倭国が騒乱状態になった。足利将軍家を巡る戦国時代や 南北朝時代とかと同じことだ。 それで、最終的に九州にいた卑弥呼を暫定女帝とすることで擁立で国中がまとまった。 ところが、連合政権に過ぎない纒向は、邪馬台国の勢力が主導権を握ることに 警戒心を抱き、なかなか受け入れてくれなかった。 この点は、継体天皇が即位しても大和に入れず、高槻に拠点を構えたのと同じこと。 つまり、ヤマト政権の本部は纒向だが、女帝卑弥呼は九州で実権を振るった。 山口組の本部は神戸だが、現在の組長は名古屋の弘道会だというようなものだ。 やがて、台与が即位し、その息子が即位し、男性天皇が復活すると、いよいよ、纒向 の連合政権の実権を完全制圧するべく、東征を開始したが、纒向は抵抗し、かなりの 苦戦を強いられた。それが、神武東征の原型だろう。 つまり、「ヤマト」の呼称はもともと九州の地名であって、邪馬台国東遷によって、 今の奈良地域が新たにヤマトと呼ばれるようになったわけ。
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