- 773 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2009/07/24(金) 21:28:26 ID:am61ZKyh0]
- >>770
禿げてます。ごめんなさい。 >>746 大体そういう話です。 基本的に、ほとんど西洋からの文脈で話しているけれど 少なくとも、今近代の西洋の諸言語でアートといい 日本語でほぼ同じものを指すと考えられている「芸術」なる言葉で 考えられていたような活動、とくにID:C2+8rho/0がプラトンから続くと描いているような 「芸術」なるものは連続しては存在していない、という話。 書かれているように、もちろん私たちが「今見ても凄いよね」と思うことはいくらでも出来るし 今現在、それらの作品に「美的作品」としての価値を見出すことが出来る、 しかしそれらに「芸術作品」という(有用性ではない)価値を見出す視点は、 歴史的には、ルネサンスからゆっくりと近代にかけ形成された視点であり、 特に、そうした「芸術作品」を生むような「天才」という概念は ロマン主義以降のものだ、という話。 もともとのボカロの話にせよ 受容者と作品制作者の間の関係の問題であるので 作られた当時の制作者と受容者の間の関係が問題なのであって 今の私たちが、それらの作品をどう見るかという話ではない、ということですね。 >>748 ダヴィンチについてUomo universale(何でも出来る人間)という表現で示されていたものは 「芸術」と言うよりも工学的・科学的な知識を含めた、総合的な才にめぐまれた、ということであって せまい意味での「芸術」の話ではないですよ。 つまり「芸術」と「技術」、「科学」が分化する以前の話です。 「芸術」の話が、いつの間にか、「文化」という、より一般的な話にすりかわっているようですけど。 >>756 職業としての画家が存在していたという話と 「雲の上」にいるような「芸術家」が存在していたのかどうかというのは別の話ですよ。 それと工房の話を出すのであれば 教育・修行機関でもあった工房が主催者の名のもとでブランドとして機能していたのであり ある特定の個人の作家が作品を作ったということに価値が見出される近代的な形の 制作活動とは異なったような形で形で、作品が作られ消費されていたことに言及しないと片手落ちでしょ。 私たちの時代に近い研究者たちは、そうした工房作品の中に色々な個人の手を見出すわけだけどね。 あと、ラファエロの話をするのならば 今ならば芸術表現として認められるようなシスティナの裸体画が、 宗教画という目的に対してふさわしくないとして(つまり、それは有用性の基準によって扱われている) 勝手に改変されたという話だけでも、 当時、それを発注した人たちにとって、それらの作品が、 私たちにとっての作品同様の「芸術」としては捉えられていなかったことの理解には十分でしょ。
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