- 318 名前:右や左の名無し様 mailto:sage [2015/09/18(金) 05:52:36.11 ID:/Ol4wObt.net]
- 彼の恋愛感について私が持っている印象をまとめさせていただきます。
定家が百人一首に選んだ歌の多くは、その出典である勅撰集では恋の部に分類されているものです。しかし彼はこれらが恋の歌ではない、と主張しています。 彼自身が、百人一首から古代、中世の貴族が文弱で恋愛ばかりにかまけていたと読み取って、脳内でこれを何とか正当化したいと考えたのでしょう。 恋愛の歌に無理やり恋愛とはかけ離れた政治的な意図や世界平和、民の幸せなどを結びつけて、昔の日本人はみんな恋愛など二の次で崇高な目的を目指して行動していた、と宣伝しようとしています。 これは彼の行動パターンに多く見られるもので、限られた知識で理解したものを一般的な(もしくは学者の)解釈と規定して (もちろん間違っていたり不十分だったりします)、それを攻撃して自分の主張を押し付けるというものです。 これではサンゴに傷をつけた新聞記者とかわりがありません。 世界的にも時代にかかわらず、詩歌や文学と恋愛は密接な関係にあります。恋愛を詠んだ詩歌が恋愛を詠んだものでないと無理やり否定するほうがずっとおかしなことです。 彼は考えてもいないかもしれませんが、政治関係の情報は貴族の日記が残っています。和歌やつくり物語と違い読んでおもしろいとは限らないので活字版を作って出版するだけの手間を掛けられないというのが実態でしょう。 もし彼が本当に国史研究を志すのであれば、女房文学の女子高生版を作ったりするのではなく、過去の政治家の日記の翻訳をするほうが説得力がある結果を得られるでしょう。 ところで日本の、特に短詩形の文学は、座の文学です。詩は作られるだけでなく作者が属する社会(古代では宮中が主でしたが、近代では庶民の座まであります)の中での
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