- 66 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4.net]
- 佐竹義宣が石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に 従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に 付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。 三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と 仰せ下した。 義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。 そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。 関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。 この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた 「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!? ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。 さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、 一気に落とされるようなことはありません! しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」 しかし義宣は言った 「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは 違っていなかった。 私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。 今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは 私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。 お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、 天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを どうしようもなくなる。」 こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。 しかし群馬丹波守猛虎は 「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」 そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて 捕縛され斬られた。 (話園)
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